T o k y o 古 田 会 N e w s

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.89 Jan.2003

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15 高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会        会員外配布一部 \400.-(実費)


目 次

     新年のご挨拶     藤沢 徹

     閑中月記 第二十二回

  ウラジオストック   古田武彦

     古田先生多元の会定期講演会

要約                高柴 昭

漢風謚号懿徳について

   佐野郁夫

     騎馬民族説と九州王朝説

            室伏志畔

「熟田津論争」について

経緯要約      福永晋三

熟田津論争に寄せて 平松幸一

1:25000地形図の読み方

(その一)       高見大地

?倭の興亡 その二  福永晋三

昔話と考古学     斎藤里喜代

教室便り

 *改新の詔を読む会  平松幸一

 *神功紀を読む会   福永晋三

案内とお知らせ

 *旅行「天津司の舞」

 *「新・古代学」原稿募集

友好団体の会報から

事務局便り      高木 博

編集後記       飯岡 由紀雄


新年のご挨拶

 古田武彦と古代史を研究する会

        会長  藤沢 徹

 明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととお慶び申し上げます。

 昨年は当会の財政再建のためご協力いただきたいへん有難うございました。お蔭様で危機を脱却することができました。

 昨年、当会は創立二十周年を迎え、「新・古代学第六集」の編集を一昨年の第五集に引き続き担当し新泉社から出版することができました。関係各位のご尽力に感謝いたします。

古田武彦先生の歴史学の方法論を踏襲し更なる発展を願い、当会は勉強を続け成果を世に問うてきました。

 ご承知のように、隔月の東京古田会ニュース発行、講演会の開催、内外の古代遺跡探訪、毎月二回の勉強会、ホームページの拡充などです。

 会では固定観念にとらわれず自由で活発な議論が盛んになり、会員同士の立論、反論、再反論が繰り返されました。

 しかし、まだまだ多くの会員の皆様はいい意見や知識をお持ちです。これがもっとニュースや議論に反映されてくれればよかったのにと思います。

 嬉しいお知らせがあります。当会が責任編集した「まぼろしの祝詞誕生」が新泉社から再刊されることとなりました。是非ご期待ください。

 今年は第三回の当会責任編集で会員の論文を募集し単行本として発行する企画を立てています。

 古田先生の築いた「真理の探求」の方法論に則って、多元的に広く異なった観点から議論を起こしたいと思います。但し、あくまで論理的で実証的にです。

 財政問題もこれあり、著者に費用を分担してもらう代りに割り引き購入できる、いわば共同自費出版形式を考えています。改めてご案内いたしますので、研究をまとめておいてください。

 二月には当会が企画して、スミソニアン協会に古田先生とメガース博士を訪ねる予定です。この際ペルーのバルデビア出土の「縄文土器」を収蔵庫で手にとって見られる許可をもらいました。こんな機会は二度とないでしょう。魏志倭人伝の裸国黒歯国は本当にあったのでしょうか。

 今年も色々な企画、勉強会、講演会などで盛沢山です。皆様どうか自分の会ということで参加してください。またお知り合いの人を会員に推薦してくださるようお願いします。

 最後に、財務担当として、今年度の年会費の納入をお願いいたします。昨年はお蔭様で財政危機は脱したものの、依然苦しい状態です。何とか会費を値上げしないで行きたいと念じていますが、ご厚意をいただければ幸いです。

 来年度会費を前払いされている方からも寄付は喜んでお受けいたします。

閑中月記 第二十二回 

―ウラジオストック  古田武彦

    一

偶然と必然の神は姉妹である。いわゆる異卵性双生児のように表裏している。

 わたしが、こんなとてつもない¢z念にとりつかれたのは、昨年来の研究経験からだった。

 ことは十九年前(一九八四年)にさかのぼる。御存知、「国引き神話」。出雲風土記だ。

一に、志羅紀の三崎。韓国の慶州近辺である。

二に、北門の佐伎の国。北朝鮮のムスタン岬。

三に、北門の良波の国。ロシアのウラジオストックである。

四に、高志の都都の三崎。能登半島だ。

 従来は、二を大社町鷺浦、三を八束郡島根村農波(原文改定)のように考えてきた(いずれも、岩波)。しかし、出雲の一部を「引き寄せ」て、大出雲が出来上がるはずはない。蛸の足喰いだ。

 わたしはこれを「否」とした。対岸の沿海州にこれを求めたのである。縄文における「出雲〜ウラジオストック」間の交流。その焦点は、もちろん黒曜石だ。

    二

一九八七年七月、黒曜石、鏃を求めてわたしはウラジオストックに渡り、その翌年五月、その答を得た(十日。早稲田大学実験室講演。ノヴォシビスクのワシリエフスキー氏)。

 それはズバリ、氏の持参された七十数個の黒曜石の鏃(ウラジオストック周辺、約100キロの五十数個の遺跡出土)の約五十パーセントが当の出雲の隠岐島の黒曜石だった。(四十パーセントが津軽海峡圏。函館の北の赤井川産。十パーセントは不明。)

 わたしの立場、わたしの論理による、この縄文神話の仮説はやはり正しかった。正確に立証されたのであった。

    三

 今回の研究世界はここからはじまった。今度の問題は、出雲弁だ。「ズーズー弁」と呼ばれる特異の「発声法」は、津軽を含む東北地方と茨城県近辺、そして遠く離れて、あの出雲で行われている。有名な、松本清張の『砂の器』の舞台となった。

 「では、なぜ。ウラジオストック出土の黒曜石の鏃の九十パーセント≠ェ『ズーズー弁地帯の出土』なのか。」

 これが問いの核心だ。不可避の「スフインクスの問い」だったのである。さまざまの思考実験の末、わたしはようやく辿り着いた。

 「ウラジオストックにいた靺鞨族、彼等は『ズーズー弁』だった。ズーズー靺鞨≠セ。彼等は二手に別れた。一方は、ストレートに海を渡り、やがて『出雲人』となった。他方は大きく迂回し、ベーリング海峡からカリフォルニア方面へと南下し、熱帯に渡り、やがて大きくターンしてアラスカ南西海岸よりカムチャッカ海流に拠り、筏に乗って津軽の下北半島に到着した。これが津軽人、やがて東北地方とその周辺人となった。この潮流を『親潮』(先祖の来た潮流)と呼ぶ。

 前者は、出雲の「国引き神話」の語るところ、後者は『東日流(つがる)外(そと)三郡誌』の語るところ、「津保化族」の伝来伝承である。

 これが、わたしの新たな仮説、思考実験の到着点だった。「思考の筏」はここに漂着したのである。

次に待っているのは、もちろん、その検証だ。その研究時間帯が昨年来から今年にかけて徐々にその幕があげられたのであった。

   四

 必然の航路は、偶然の案内人によって導かれた。

昨年の六月、わたしの住む向日市の隣町、長岡京市の講演で知り合った大学院生、その人はロシア語に強く、ウラジオストックが研究対象の方だった。その三ヶ月あと、「発見」した、わたしの「ズーズー弁探究」にとって、無二の導き手となった。

次に、その七月、京大の図書館で偶然お会いした、ロシアの留学生、その九月に留学が終わり、今はウラジオストックの極東大学へ帰られた。美しい日本語の使い手だった。

さらにその十月、京都駅近くの京都キャンパスで行われた「北東アジアの労働事情」のシンポジュウム。藤本和貴夫さんのお世話で加えていただき、多くのロシアの学者と知り合った。その過半はウラジオストックの方だった。この時期にこの会合のあること、わたしにとっては、直前まで知らなかった。全くの偶然だ。

そしてこの十二月六日。千葉大学の荻原教授の研究室にうかがったとき、机上におかれていた新装の書物。それはウラジオストックの現地語の辞書だった。それをもたらしたのは、前日(五日)、この荻原研究室に訪れたロシアの学者。この辞書の著者だった。彼がはじめて持参し、彼から贈呈されたものだったのである。

そしてその日、わたしは一枚の地図を持って、京都からの新幹線に乗っていた。この前日、京都のナウカ(ロシア語の書店)から連絡があった。一ヶ月近く前に注文していた「沿海州の地図」がやっと到着したと言う。わたしは予定を変更し、河原町に出かけて行き、その地図を手にした。

その地図を荻原さんにお見せして、一つの質問を発した。そのとき、わたしの研究生活は明白に一つの転機を迎えた。新たな展開を、広大な展開世界を眼前に見はるかすこととなったのである。

それらはすべて、あまりにも偶然だった。その累積だった。だが、そのすべては一つの必然の世界へと、わたしを次々に、確かに導いたように思われる。

やはり、偶然と必然はその誕生地を同じくする、同じ母胎からの異型の双生児なのであろうか。

前回から連続≠フ予定の「論語批判―陋巷街」の問題は次回以降にゆずることとしたい。

二〇〇三年一月七日

大善寺玉垂宮の鬼夜の早朝に記す。

【補1】

 *前回の「後輩」(2の一段、9行目)は「同輩」の誤植。

【補2】

 *年時、日時の件、平田英子さんの、当時の正確な記録による。感謝する。

【古田先生多元の会定期講演会】

Dec08 於:文京区民会館

出雲弁の淵源と天皇家の復活

―論語批判―

(まとめ:川崎市 高柴 昭)

(前半は、「狗奴国」についてでした。本会ニュース87号をご覧ください。編集部)

すると最後の「奴国」は舞鶴近辺ではないかと思われます。籠神社がある舞鶴近辺ではないでしょうか。そうだとすれば、倭人伝にある倭国の範囲が分ってきます。東の端が「奴国」で舞鶴近辺。倭人伝の時代は天孫降臨より後です。天孫降臨に先だって出雲の国譲りがありました。天孫降臨は従来BC一〇〇年頃と推定しておりましたが、最近の研究では従来の考古学年代が一〇〇年程遡るということですので、BC二〇〇年頃ということになります。で、倭人伝が書かれたのが三世紀、となれば三十国の中に出雲が入っていないはずが無いのです。新しい眼で改めて見てみると、ありました。三十国の中に「躬臣国」という名前があります、躬(みずから)臣下になった国、という意味にしか読めません。「躬臣国」は従来、読み方に困っていました。倭人伝の表記は、三十年前は中国側の表記と思っておりましたが、私が間違っておりました。

倭人側が表記したものを中国側が表記したと理解すれば、侵略者としての権力者側の表記であるとすんなり解けます。それまでは(出雲が)主人で、私達は家来でしたと語っているようなものです。

 それでは後半の話に入ります。

「ずーずー弁」が東北地方だけではなく出雲にもあることは有名ですが、そのルーツはハッキリしておりません。言語学会では朝鮮半島に原点が有り、北九州を経て出雲に伝わり北陸を経て東北に伝わったという説が有力なようですが、原点の朝鮮半島にも、出雲以外の途中経過地にも残らず、東北に大規模に残っていると言うのはすんなり理解しにくいと思います。「ずーずー弁」のルーツに関しては、申し訳ないが、現在の研究レベルはその程度だということのようです。

出雲の国引き神話によれば、引いた先は、(一)志羅紀の三埼、(二)北門(キタド)の佐紀の国、(三)北門の良波の国、(四)高志の都都の三埼の四ヶ所です。最初と最後の志羅紀(新羅)と高志(能登半島)は良く分かりますが、あとの二つは岩波では大社町鷺浦、八束郡の島根村農波に擬せられています。これを隠岐の島前、島後に代えたとしても出雲の領域内にあり、引いて国が増えたことにはならず理解し難いと思いました。

出雲の領域外の北で大きな戸口(門)にあたる場所があるところ即ち大きな湾があるところ、ということからウラジオストックではないかと考えました。そこで、そのことを実証したいと考えていた時、政治経済のシンポジウムが開かれることを聞きつけ、その一員としてウラジオストックに渡り、博物館の収蔵物を見せてもらおうと試みました。もし北門がウラジオストックであったとすれば、出雲との縄文時代の交流の痕跡が見つかるのではないか、国引き神話に使われている道具は杭と綱だけですからこの神話が作られたのは縄文時代、ひょっとすれば、特徴がある隠岐の島の黒曜石があるのではないかと考えた訳です。

 博物館はあいにく長期休館中でした。何とか収蔵物を見ることが出来ないかと、シンポジウム参加のロシアの学者の方が手を尽くして親身になって交渉して下さいましたが駄目でした。最後に言われた「モスクワは遠いです」という言葉が忘れられません。ところが、それから八ヶ月後に思わぬ知らせがありました。二人の学者がウラジオストックから100キロの範囲で出土した沢山の黒曜石を抱えてやって来られたのです。分析の結果、50%が隠岐の島の黒曜石で40%が北海道の赤井川、残り10%が不明ということが分りました。出雲とウラジオストックで縄文時代に交流があったと言う、私の仮説が実証された瞬間でした。

 「ずーずー弁」について、一方は出雲、一方は東北(津軽圏)、という分布が見られますが、出雲については極めて狭い範囲の分布に限られています。隣の石見にも、鳥取にもありません。これが単なる偶然なのか、と考える時に参考になる例がありました。

全国どこにでも見られるという意味で日本の縄文時代を代表する出土物に「?状耳飾」があります。その?状耳飾が最近中国江南の河姆渡遺跡から出土し、しかも放射能年代が非常に古いことから「?状耳飾」の原産地は河姆渡という説が出て、有力とされています。

その考え方は?状耳飾は河姆渡から九州に渡り日本全国北海道まで広がったというものです。しかし単純にそうと決めるのは早計だと思います。というのは、中国では全ての出土物に対して放射性年代を測定することを義務付ける法律まであるのに対し、日本では放射能年代測定は任意と言う扱いで、やる場合の費用は自分持ちというレベルですから、殆ど測定を行なっていないというのが現状です。従って放射能年代測定の値は参考にはなってもそれで決まりというわけにはいかない。又、仮に、河姆渡が原産とすると、背後の広い内陸部には伝播せず、海を渡った遠くにだけ伝播すると言うのは理解し難いと思います。

私は、日本原産で中国にも広がったのではないかと考えました。その後、河姆渡から遠くはなれた遼東半島や山東半島、韓国西海岸からも発見されるようになりました。河姆渡を原点とするには、陸続きの周辺には広がらずに、離れたところに広がった理由の説明なしでは説得力に乏しいように思います。

 同じようなことを、「ずーずー弁」でも考えたわけです。初めは私も出雲からウラジオストックへ伝わったと考えました。しかし、ウラジオストックまで行くような行動力がある人達が、自分の周りの出雲周辺にはさっぱり「ずーずー弁」を広げていないのはどうにも理解しにくい。そこで、これはひょっとしたら逆ではないか、と考えるようになりました。原点はウラジオストックで、そこから出雲や三内丸山へも来たと考える方が筋が通りやすいのではないかと考えた訳です。

それを裏付けることが東日流外三郡誌に書いてあります。

東日流外三郡誌によりますと、沿海州方面から最初にやって来たのが阿曽部族ですが、古い時代は沿海州と日本は地続きであったと考えられますので、最初から居たと考えれば分かり易いと思います。次に来たのが津保化族ですが、何代にも渡って大陸を東に進んで来てベーリング海峡を渡り、南下して岬に至り、反転して北上しアラスカ南部辺りから筏を組んで下北半島に着いた、その場所を「オソリ」というと書いてあります。反転した岬が南米大陸南端のホーン岬なのかカルフォルニア辺りなのかは分かりません。又、オソリは恐山付近だと思われます。

この話しを確かめるため、以前に海洋学者を訪ねたことがあります。東日流外三郡誌のことは伏せて、アラスカ辺りから筏に乗ると日本のどの辺りに着きますか、との質問に対し、時期にもよりますが、6、7、8月頃であれば下北半島に着く可能性が高い、との返事でした。内心驚きながら、次にどのくらいの日数が掛るかを尋ねました。しばらく計算をしておられましたが、2ヶ月は掛りますね、あるいは3ヶ月近く掛るかも知れません、と言うお答えでした。私はこの答えを聞いて東日流外三郡誌はリアルだと思いました。三郡誌には85日と書いてあるのです。同時に海流が親潮と呼ばれている意味も分かりました。「祖先が来た潮」、と言う意味だったのです。

三内丸山を中心に津軽地方に落ち着いた人達が、祖先の地である沿海州方面と何の行き来もなかったとは考え難いと思います。先ほどの黒曜石の話しで、50%は出雲ですが後の40%は津軽です。このことは津軽地方の人達とウラジオストックの人達の間に交流があったことを示して居ります。

国引き神話をよく見れば、引いた先が国となっているのは二番目と三番目の北門の国です。そこで、本来は北門の国から引いたのが原型ではないかと考えました。残りの志羅紀や高志の地名は現在に残っています。と考えると、「キタド」もひょっとすると地名なのではないかと考えました。征服者が地名を変えることが行われますが、中心地名は変えても大字小字までは変えていないのが普通です。もしそうだとすれば、ウラジオストック周辺の古い地名の中に「キタド」が現在に残っていないか、又、何か手がかりになる地名が残っていないか探して見たいと思うようになりました。この仮説を確認するためにしばらくウラジオストックで研究をしてみたいと考えております。お陰様で、最近ロシアの研究者の人達とのつながりが出来たり、ウラジオストック地方の古い言語辞典(ロシア語以前の現地語)が最近完成したことが分ったり、手がかりが出来つつあります。

沿海州の地図も手に入りまして、それを見ておりましたら、ウラジオストックの北にハンカ湖がありますが、ハンカというのは現地語だということです。その周辺に語尾が「カ」で終る地名がやたら多いことに気がつきました。「カ」は日本の神様の「カ」です。高木神、高須、等、語幹が「カ」である言葉があります。日本海の両岸の「カ」が何らかの関係があるのではないかというのが日本側から見た仮説ですが、それを向こう側で検証してみるため時間を確保してウラジオストックに行きたいと考えている昨今であります。

 (論語批判も前号を参照してください。編集部)

漢風謚号懿徳について

千葉市  佐野郁夫

()はじめに

淡海三船(おうみのみふね)は桓武天皇の命で神武以来の天皇の謚号を撰した。おうみのみふね(722-785)奈良時代の学者、弘文天皇の後裔で幼時出家し、三〇歳のとき勅により還俗した。その後朝廷を非難した罪で捕らえられたが、まもなく許され、地方の国司を勤めた。そして大学頭や刑部大輔に至っている。聡明で諸書に通じ、文名は当時鳴り響いていた。鑑真和上の劇的な目本渡航をしるした『唐大和上東征伝』の著者としてしられるが、「懐風藻」の選者とも言われている。

淡海三船は第四代の天皇になぜ懿徳の謚号を撰したのであろうか、推論を述べる。神武を二世紀とすれば懿徳は三世紀と考えられ、淡海三船の八世紀を遡ること五世紀で伝承は残されていたと考えるべきである。

() 懿について

懿は白川静氏の字統によれば、字の初形は「亜+欠」に作り、亜()の形と欠(けん)とにしたがう。

亜は壷の形…壷中の酒を飲む形である。「説文」10下に「専久にして美なり」とし字は「壹に従ひ、恣の省声に従ふ」とするが、形も音も合わず、「段注」にこれは後人の改竄するところとし、字は心と欠と壹に従うて、壹の声をとるものとする。そして心と欠とは、そ志を持する意であるというが、初形の欠は欠乏の意ではなく、口を開いて飲む形である。

亜は壺の蓋を外した形。壷中の醜醸(うんじょう)したものを用いる意である。

懿とは神に供薦したところの壷中の酒を飲んで、神とともに酔い、神人相楽しむことをいう。こうして神意を承る状態に在ることを「懿」といい、それよりして懿美の意となる。

{詩・大雅、蒸民(じょうみん)}「民の彜()を秉()る。是の懿徳を好む」とは意で、徳の根源は、祭祀を通じて神徳を体することにあった。

金文では{班毀(はんき)}に「烏呼(ああ)、不不+不(ひひ)なる()が皇公、京宗(宗室)の懿釐(いり・よき釐(たまもの))をさずけられたもう」。また{也毀(やき)}に「懿父は廼(すなは)ち是を子(いつく)しまん」のように、父霊を懿父とよんでいる。祖孝の徳を称しては、{単伯鐘(ぜんはくしょう)}に「余(われ)小子、肇()ぎて朕()が皇祖考の懿徳に帥井(そくけい・帥型、手本とする)せん」という。もと神霊によって与えられた徳を懿徳と称した。いまの字形は壹と恣に従うが、甚だしく字の初形を失っており、これによって字の初義を説くことはできない、とある。

()徳について

徳は字統によれば彳(てき)と省と心に従う。徳の初形は省と極めて近く、省から展開している宇とみられる。近出の「徳方鼎」の徳は心に従わず、彳と省の初形とに従う。

省は目の上に呪飾をつけて、省道すなわち除道を行うことを意味する宇で、徳とはその省道によって示された呪的な威力をいう。目は呪力のあるものとされ、それに呪飾を加え

て厭勝(えんしょう・まじない)とすることが、古くから行なわれており、わが国でも「神武紀」に久米の命が「鯨()ける利目(とめ)」をしていたことをしるしている。

省・徳の字が目の上に加えているものは、その呪飾である。そのような威力が一時的なものでなく、その人に固有の、内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは徳

となる金文に敬徳・正徳・元徳・秉(へい)徳・明徳・懿徳・首徳・政徳・経徳など、其の語彙は甚だ多く、徳の観念の発展が著しい。その字形はもと彳と省に従うもので、「大孟鼎」におよんではじめて心をくわえた字形があらわれる。もと省道の呪力を意味するものが、次第に人の内面的な徳として自覚されてくる過程が、字形の展開の上にもあらわれているのである、とある。

私はこの徳方鼎を上海博物館・青銅館で平成九年五月二十七日に見ることが出来た。その銘記に大きな感銘を受け、漢詩五言絶句を詠んだ。

上海博物館・周成王萬福方鼎思。

方鼎往事を尋づぬ 成王萬福に臨む 呪飾 天荒服す 徳方心に従わず。

方鼎に往事を尋ねると、周の成王(二代西暦前千百年頃)には、武王の征が蒿京からはじまるがその後もことごとく何時でも福になっている。呪飾を目の上に加えた徳の古い宇や省の字のように外に示される呪力で天荒の地にいる東夷を服属させた。この徳方鼎の銘記、徳の字には心がない。

その方鼎の内側の銘文

唯三月王、成周に在り。武王征す。福、塙より咸(ことごとく)、王、徳に貝二十朋を賜す。用(もつ)て宝器を作る。尚宝そんきは宝器とした。

このように省は目に呪飾を加えて省遺巡察を行い、彳は諸地を巡行する意であるが、白川静著の字統の省にト辞に王の巡省をトして「王省するに、往来災い亡きか」という。

佐野さん自筆の萬福方鼎の絵と詩

金文に「?省・いつせい」の語があり、?は矛を台上に樹()てて示威巡察を行う意。古くは眉飾などを施し、或いは鯨目(げいもく)を加えたものであろう、とある。

?鐘の三巴・銘文

しかしこれに類似したことが時代がさがって春秋後期の晋でも行われていたようである。

上海博物館に展示してある?鐘の三巴・銘文である。余は単(楕円形の盾の形。その上に二本の羽飾りをつけている。古くは狩猟と軍事に相関するもので、ともに盾を用いて身を防ぎながら行動する。)蝨【虫無し、代りに女】の上のつくりは迅【しんにゅう無し、中にロレーヌ十字架】(けき・人が手に物を持つさま)と女子が脆(ひざまず)いて坐する形。武は戈と止に従う。止は歩の略形。戈を執って前進することを歩武という。余は軍事に多くの巫女を従え歩武・戦勝し兵器を得て余鐘を作為す、と。 呪職のみ子に呪力省道と王の巡察が前六世紀に行われていた。

また二世紀であろうか倭国開闢時代の名残りであろう、鉾立峠の名が福岡・大分県境と大分・熊本県境に実在する。

三国志時代の倭

三世紀・魏志の倭人は皆鯨面文身と記述している。すなわち三世紀の倭国では鯨面文身が当たり前であった。古事記・神武天皇、大久米命の黥()ける利目。

古事記・中巻・神武天皇の文中に大久米命が天皇の命を伊須気余理比売に詔る時に其の大久米の命の黥()ける利目(とめ)を見て、奇(あや)しと思ひて、歌いたまひしく、

天地 ちどりましとと など黥ける利目。

ここに大久米の命、答へ歌ひて日ひしく、

媛女に 直ちに逢はむと 吾が黥ける利目。

と二世紀の神武で親衛隊長的な大久米命が黥ける利目をしている事実が古事記に記載されていることは、神武の侵略部隊は黥面だつたと考えられる。当然大和の人達には呪飾の黥面に恐慌したであろう。

()淡海三船の懿徳

淡海三船の時代は八世紀である。日本で漢語はかなり広く使われてきた時代であり、諸書に通じた淡海は懿徳を神霊によって与えられた徳の懿でなく邪馬壹国の壹に次ぐ意味を

表す懿徳を当てている。神武・綏靖・安寧・懿徳と懿徳の時代に邪馬壹国が分国として認めた意味を含めこの時代、三世紀の半ば頃であろうか。

弥生兄弟天子を維持した倭国・邪馬壹国は国の拡大に従い、朝廷組織に改め、一天子制にした。

銅鐸王国の一部に取り付いた神武の一団は、四代目の懿徳の時代に至り勢力を増大してきた。倭国が強大化し邪馬壹国に改称後、邪馬壹国は大和の一角に取り付き銅鐸王国の東端に居を構えた神武集団の子孫を邪馬壹国の分国的王者と認め、大日本彦と名づけた。この事実を淡海三船は邪馬壹国に次ぐ懿と、未だ呪飾の意味が強い徳を当てて、懿徳天皇

とした。

()おわりに

崇神の時代まで、懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化と花開き、崇神の時、銅鐸国家を侵食し、近畿分王朝が確立するが、孝は老の省文と子に従う。

礼の初め{礼記、祭統}に「孝なるもの畜(きう)なり、道に順ひて倫に逆らはず、これを畜(やしな)ふといふ。」とその声義を説き、畜養の意があるとする。

銅鐸王国に逆らはず、体制・政治仕組みを替えていたようである。

しかし、銅鐸王国の滅亡はうちなる体制の近畿より、叛乱がおきた。

崇神の叛乱である。

桜井市付近の銅鐸国家が滅び、順次その周辺部におよび、近江がかなりがんばっていたが、六世紀には滅んだようである。

七世紀、邪馬壹国は新羅・唐の戦乱と九州地区の大地震により衰亡していくが、戦争協カを出来る限り逃れていた近畿分王朝は、邪馬壹国に変わりうる実力を蓄えて行く。

以上

平成一四年七月二七日

騎馬民族説と九州王朝説

大阪市  室伏志畔

 昨冬、今上天皇が、桓武天皇が「百済王らは朕の外戚である」と述べた『続日本紀』の記事を踏まえて、「韓国とのゆかり発言」を行った。それは桓武天皇の母・高野新笠の出である和乙継が百済の武寧王の血を引くことに由来するが、これについて韓国では従来より「踏み込んだ発言」として注目し、またアメリカの週刊誌「News Week」はそれについて特集を組むほどであったが、日本のマスコミはこれを冷たく扱った。

 私は百済王系の血が、桓武の母からこのときたまたま皇室に入ったのではなく、それはもっと古い深い淵源をもっていたから光仁天皇とも結ばれたのだと理解してきた。その縁戚関係は応神天皇の代ぐらいから強調されるに至った。天智称制開始が六六〇年の百済滅亡の翌年にセットされ、本邦で百済を引き継ぐとする『日本書紀』の成立によって、天智を新皇祖に戴くことが国是となった。というのはそれまで日本の王権は天孫降臨に始まるそれ以前の伽耶王系を戴いてきたからで、この応神天皇以後の転換はその後の日本王権論の内部葛藤の主なる要因となるものであった。

 今上天皇の「韓国とのゆかり」発言への言及があったとき、これら両王家が騎馬民族である以上、そこからした発言がどう展開するか私は期待したが、管見の範囲ではまったく見ることができず、大いに失望を覚えたことを覚えている。

 その騎馬民族征服王朝説の主唱者・江上波夫の訃報を聞くことになった。それは昨夏のマルクス主義者・石堂清倫の訃報と共に、大きな知の喪失なのである。九六歳及び九七歳と共に日露戦争後の20世紀を見尽くして来たこれら知性にとって、21世紀の始まりがどんなに写っていただろうと思うと、私は内心忸怩たるものがないではない。というのは、今日の知性はこれら先人の苦心惨憺の末に築かれた知の財産を受け継ぐことを知らないかに見えるからである。

 《騎馬民族征服王朝説の意義とグラフト国家》

 戦後の昭和二十三年の五月のお茶の水の喫茶店で、石田英一郎の司会で岡正雄、八幡一郎、江上波夫が集まり行われたシンポジウム「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」が、いわゆる騎馬民族征服王朝説のはしりとなった。そこでの説を江上波夫は、後年こうまとめている。

《大陸北方騎馬民族の一派が南朝鮮の韓人の地を飛石とした、倭人の本拠たる日本列島に渡来し、彼らが北方騎馬民族文化をそこに招来したという推測が可能のように思われる。またその騎馬民族の中心勢力を成したものが天皇氏で、その日本渡来が西暦四世紀の前半ごろにあることもほぼ想像に難くない。そうして四世紀末乃至五世紀初には既に天皇氏の大和朝廷が強大な王権を以って近畿に確立していたのであるから、天皇氏を中心に大伴、物部、久米諸氏の連合に成る大陸北方騎馬民族の日本渡来から近畿進出までの期間は、大体一世紀足らずと考察して大過ないのではなかろうか。》(『江上波夫の日本古代史』より)

 その後の知見も加え、今少しこの江上波夫説を解説すれば、わが皇室は高句麗や百済を建国した、満州の北部の黒龍江省の松花江流域に建国した北方騎馬民族の扶余族で、その辰王の子孫が、古代の朝鮮半島南部の三韓を支配し、三国時代になって伽耶を根拠地として倭国に進出したのはその本系にあたること。その南朝鮮から北九州への進出は、『日本書紀』の崇神天皇によって果たされ、応神天皇に至り畿内への進出が果たされたとするものである。

 この説について日本には去勢馬の慣習がないこと、また四世紀後半から五世紀初頭にかけての九州から近畿への移動を裏付ける考古学的裏付けはないとされてきた。私はこれら賛否激しかった論議を振り返りながら、次のように手を加えることによって、江上波夫の騎馬民族征服王朝説の提起を引き継ぎたいと思っている。

@倭国国家は南方系倭人によって成立した国家の支配機構を、天孫降臨による征服事件以降、北方系騎馬民族支配層を戴く国家に変質したグラフト(接ぎ木)国家であり、その風習は従来の南方系と変わることはなかった。

A本邦における九州から近畿への中心権力移動は、六六三年の白村江の敗戦により倭国が唐の管理下に置かれたことに始まる。その唐の占領下の九州を天智が見限り、近畿の近江大津に本拠を移し、この近江朝を天武が壬申の乱によって潰し、大和入りしての飛鳥浄御原宮を営んだに、大和朝廷はたかだか始まったにすぎない。

B『日本書紀』の述べる神武東征に始まる大和朝廷とは、筑前の日向から豊前への東征であり、天智・天武以前はそこに始まる豊前王朝史を大和王朝史に取り込み剽窃したものである。

 この視点を導入するとき騎馬民族が怒涛のごとく九州から近畿へ押し寄せるといったイメージは払拭されることは明らかで、去勢馬論議を必要としないのみならず、九州から近畿への四、五世紀の移動の考古学遺物などあるはずもないのである。

 こう改変する必要はあるとしても、江上波夫の騎馬民族征服王朝説の登場は、やはりそれまで一国王朝論からの画期の転換であったと思う。その背景について江上波夫は、戦後の唯物史観からする日本史記述と津田史学を踏まえた文献批判的方法による日本史記述に飽きたらなかったとして、こう述べているのは注目される。

 《それは相変わらず、封鎖された日本だけで歴史を解決しようとしているではないか。アジア大陸、朝鮮半島との古代からの関係をまったく無視し、視野を日本に限って歴史を復原しようとする史観は、その限りでは自ら克服しようとしている皇国史観と少しも異なるものではないと私は思った。》

 江上波夫が季刊「東アジアの古代文化」の会長を長く務めた背景に、この想いがあったのである。それを推していうなら本邦の古代史は東アジア民族移動史の一齣でしかないと私はしてきた。江上波夫がそれを東アジアの民族移動史と孤立して日本古代史はあったのかと言う疑問を投げかけたのに対し、私はそれを記紀の指示表出を幻想表出の中に解体する中で、日本古代史の中に色濃く残る東アジアの南船北馬の構造を明らかにしてきた。それについては今度発刊された『日本古代史の南船北馬』(同時代社)に詳しい。

 七〇年代の河母渡遺跡から良渚遺跡、三星堆遺跡と長江を遡行するように進展した長江文明の発見は、これまでの黄河中心に述べられてきた中原史観が、南船文明を取り込んだ北馬文明でしかなかったことを明らかにした。このことを踏まえて、日本の神代の国譲り事件や天孫降臨事件は、本邦に稲作をもたらした南船文明を、朝鮮経由の北馬文明による征服を語るものであったことに気づくのである。

 しかし戦後史学は、文献批判と考古学がタイアップした文献実証史学で、その大和中心の土器編年は記紀史観に合わせたものでしかない。これは記紀史観が信じられている内は安泰だが、それが揺るぎ出すと共に鳴動するほかないので、「新しい歴史教科書を作る会」は諸外国文献を破棄して記紀のみを取る知の鎖国主義の中でしか生き延びるほかないとしていることによって明らかである。しかしその編年法はC14による科学的測定法ほど、信頼がおけるものではない。これを用いた年代測定において、九州における遺跡年代の多くはは一〇〇年から二〇〇年ほど時代を溯るとされる。それは大和からすべては始まると皇国史観を引き継いできた戦後史学の崩壊と別でない。

 《九州王朝説と一国王権論》

 ところで、大和朝廷に先在する倭国を発見した九州王朝説の古田武彦もまた騎馬民族征服王朝説を排斥したので知られる。古田武彦によれば好太王碑文に、百済、新羅は高句麗の「属民」とあっても、倭についての記述がない以上、それは騎馬民族ではないとする。しかし江上説は倭王権論であって倭人論ではないのだ。なぜなら江上波夫にとって倭人は長江下流域を中心とする東アジアの南方系種族であるのは自明の前提であった。この論点の齟齬を古田武彦は見なかった。倭人の上に君臨する征服王としての倭王権が君臨する倭国論について、古田武彦は独自な王権論を立てることはなかった。それは記紀記述のままに、倭王権の淵源を天国領域で留まらす一国王権論の枠組みに留めたことに重なる。

 これを踏まえて言うなら、古田王権論は江上波夫の騎馬民族説を斥けたとはいえ、邇邇芸命による天孫降臨による筑紫支配の確立を説く征服王朝論であることは確かなのだ。古田武彦は倭人論をもって騎馬民族征服王朝説を斥けたが、征服王朝論から江上説と繋ぐ道もあったことに気づくのである。しかし古田武彦の中にあったのは、民俗学の両雄・柳田国男や折口信夫が騎馬民族王朝説に対し示した伝統的感情からする反発とどれほど遠かったかを私は怪しむ。

《柳田国男 (騎馬民族征服王朝説は)いったいありうることでしょうか。あなたのご意見はどうです。つまり「倭国は大王=天皇族に」横取りされたということを国民に教える形になりますが。

 折口信夫 われわれは、そういう考え方を信じていないという立場をはっきり示していったらいいのではないでしょうか。》

 通説はこれを笑うことができず、これを踏襲してきたのである。そして古田武彦もまた倭国征服王朝説を取りながら騎馬民族征服王朝説を斥けた。柳田国男や折口信夫ほどあからさまでないとしても、本邦の独自性を強調する想いは古田武彦には熱いのだ。しかし、私はそれを不満として倭国をグラフト国家とした。それは倭人の風習に干渉せず、その支配機構をそのまま簒奪して征服者が王位に居座る接ぎ木国家と言う意味である。それは各地に君臨した騎馬民族国家を理解するキー・ワードなのだ。高句麗や百済や新羅の騎馬民族征服王朝とはちがい、後の伽耶について『三国志』は韓伝の辰韓の条にこう記している。

《弁韓と辰韓とで合わせて二十四国、大きな国は四、五千家からなり、小さな国は六、七百家からなって、あわせて四、五万戸がある。そのうち十二国は辰王に属している。辰王の王位は、かつて馬韓の者が即くことになって以来、代々ずっとそのまま来た、辰王の位は〔馬韓にかぎられていて、辰韓のものが〕自ら王位に即くことができない》(今鷹真・小南一郎訳より)

 弁辰の辰王は、かつて馬韓の者が即いて以来、それに限られ辰韓の者が自ら即くことができないとある。倭の王位もまた天孫降臨以来、天孫系に限られ、倭族からは即くことができなかったという意味では、それは馬韓の者を王に戴く辰韓(後の伽耶)に重なるものである。私が倭国を「もうひとつの伽耶」と呼ぶ理由である。ところでその伽耶から近年、騎馬民族特有の「槨あって棺無し」の多くの王墓が発見され、もはや伽耶王が騎馬民族王であることは動かない。それに呼応するように北九州各地からの伽耶系考古学的遺物の発見があり、私は天孫降臨事件を対馬海流上の島々である天国である一大国(壱岐)からの伽耶王の流れである高皇産霊命系の邇邇芸命による筑紫の日向への侵攻事件としてきた。

 自説をもって世界のすべてを説明したい誘惑から、我々の学説はまだ免れていないため、同時代の異なった豊かな知見と自説を刷り合わす謙虚さを忘れ、いたずらに対立する愚を犯しがちであることを思うとき、私は新たな視点の開拓と先人の業績をよりリアルなものへ改変する思考の中に、古代史の真実を求めて行きたいと思っている。そのとき騎馬民族征服王朝説と九州王朝説は、対立するのではなく共にもっと学ばれて然るべきであると思う次第である。

(H14.12.07)


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