目次へ

?倭の興亡 その二 

―倭国の成立と新北神話

立川市    福永晋三

 はじめに

 斎藤里喜代さんから、魏志倭人伝に、橘の記事はあるとのご指摘を頂いた。調味料・食用にしていない橘と書くべきであった。訂正してお詫び申し上げる。このことから、橘に関して興味深い事実が見つかったので次号に再論したい。

 今回は、予定を変えて、鞍手町新北の伝承を紹介させていただく。

 

香月文書と新北神話(鞍手神話)

 熟田にぎた津を通説の伊予の海から切り離し、鞍手町新北津説を多元の会例会で提出して早数年、今もなお現地調査を継続している。同説は、私ども夫婦の万葉学の一部であって、全てではない。万葉集四五〇〇首を総覧しながらの一部分の一仮説でしかない。拙速を恐れて文章での発表を延ばしたことが、悪意に満ちた非難を呼んでしまったようだ。巧遅を目指すのは至難の状況である。

 さて、標題は、『鞍手町史』の「第三章 大和時代 第五節 日本神話と鞍手神話」の一七八ページに出ている小見出しである。神功紀を読む会で話したことに、最新の現地調査を加えてご報告しよう。

鞍手の地には神話時代から古墳時代にかけて、記紀や旧事本紀と関連して重要な神や人物が登場する。宗像三女神、饒速日にぎはやひ命、倭建やまとたける命、そして、神功皇后、鞍橋くらじ君等である。

宗像三女神は、現在の宗像大社(辺津宮)と二島(中津宮・奥津宮)の地に鎮座するが、最初は鞍手の六ヶ岳に天降ったとの伝承が、六嶽神社や筑前風土記逸文(埼門山、六ヶ岳の一峰)に残されている。

饒速日命は、旧事本紀の天神本紀に見る限り、記紀の天孫降臨説話の本来の主人公と考えられる。ニニギノ命の兄、天火明命に間違いなかろう。天孫降臨の主舞台は鞍手の地と思われる。ニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と天神本紀にあり、天照大神とはどうやら彼のことのようである。その名も天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていない。この宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

この正月に、三十年ぶりに初詣したところ、長屋宮司のご母堂(私の中学の先生)から意外な新情報が寄せられた。

「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありましたよ。」

驚いて、車を飛ばした。飯塚市伊川の近く、蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。(このときには分らなかったが、直近にもう一つの天照神社があるそうだ。)この宮の宮司が、飯塚市伊岐須の高宮八幡宮の宮司ということで、少し引き返してお聞きした。祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。

「この並び方からすると、天照大神はニギハヤヒでしょうか。」

「可能性はありますね。」

 青柳宮司の奥方はあっさりと答えられた。このときに、三柱目の手力男命との関連で終に、天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。

 さらには、古事記の「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。瓊々杵命は天孫降臨の別働隊であって、確かに、竺紫の日向の高千穂の串振岳に天降ったのだろうが、この詔は饒速日命が笠置山に天降ったときのものと考えざるを得ない。記紀は天孫降臨の主人公の詔を別働隊の弟の瓊々杵命のものに接木したようだ。それは、後の神武東征の本質と深く関わるようである。ヒントを一つだけ提供しておこう。笠木山は立岩式石包丁の分布の中心に位置している。偶然とは思われない。またの機会に詳述する。

この饒速日命が降臨時に鞍手町新北とその周辺(古遠賀湾)に率いて来たのが、天の物部二十五部衆であり、そのうちの贄田物部がここ新北(和名抄に云う新分)に住まいした。そこは剣岳の西麓でもある。

 「剣岳は蓋し物部氏の兵仗を祭る所にして、以て往時其の族党の住まいしと徴すべきものとす」(吉田東伍『大日本地名辞典』より)とあり、

 (「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図より)

鞍手町史もこれを採っている。

いよいよ新北神話のハイライトの部分に突入する。鞍手町史によると、

 「新北神話は宗像三女神の六ヶ岳降臨とも結びつくが、主体は日本武尊伝説である。

亀甲の熱田神社の古宮や新延の剣神社及び鎧塚伝説等は、すべて日本武尊に関連づけられている。このことは中山の八剣神社、木月及び古門の剣神社伝説も同様である。その意味では新北神話は即ち鞍手神話ともいえる。(中略)

香月文書によると畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。

小狭田彦の孫小磐削こいわけ御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部臣の称を頂いたほどである。御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々』とある。」

「御剣王の御子天磐代武部種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川かながわ彦王を新北の神主となし、御子津々賀御王を舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主となし、御子玉御木王を穂波の郡司となし、御子山戸部王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部王を高羽(田川)の主とし、御弟八田大戸部王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」

右の香月文書の中に、日本武尊の孫「賀那川彦王」が「新北の神主」となったという、記紀には見えない現地伝承のあることは重要この上ない。なぜなら、「新北村剣大明神縁起」が熱田神社に伝わり、この宮の宮司こそ「金川」氏であるからだ。ちょうど、筑後の風浪宮の宮司が「安曇」氏であるのと同様だ。熱田神社の祭神は、美夜受比売。尾張の熱田神宮と同じだ。

そうすると、「熱田」もやはり「熟田」「贄田」「新北」と同じく「にぎた」と呼ばれた可能性が高いのである。ニギハヤヒはもう述べた。

日本武尊と美夜受比売とは、ここ鞍手町新北の地においてこそ、より自然な夫婦神でいらっしゃるのだ。

この間に、鞍手町史は「宗像神話」「宇佐神話」「岡(遠賀)神話」「熊鰐と岡水軍」の項目を設けてある。これらについては、私が、少しずつ語ってきたところである。

神功皇后に関しては木月の剣神社々記及び古門、神崎御通過説等がある。」(なお、先述の香月氏は、神功紀に出て来る葛城襲津彦の末裔でもある。)

以上の分析と現地調査を総合した結果から、万葉集八番歌の「にぎたづ」は鞍手町新北の地が最適と確信するに至ったのである。

のみならず、天孫降臨から古墳時代までの王権に関わる歴史を有するこの地に、言わば倭国(委奴国)の成立した地とその周辺に、倭建命と神功皇后との間に位置するべき「魏志倭人伝の卑弥呼」の都(邪馬壱国)を求め始めたのも、私にとっては「論理の赴くところに随った」までのことである。これらが、私をして「九州王朝多元論」や「倭国豊国説」へと傾倒させたのである。倭にチクシの訓は当たらない。

鞍手には、その語源に関わって、鞍橋君くらじのきみがいた。欽明天皇紀に、十五年(五五四)に百済の聖明王が新羅と戦って戦死した。この時、援軍に来ていた筑紫国造の鞍橋君が、敵軍に囲まれた皇太子の餘昌を、その強弓で敵の騎馬兵を射落とし、助け出した。餘昌は後に即位して威徳王となった。

とある。この鞍橋君を祭ったとされる鞍橋神社祠が鞍手町長谷(新北の南)の飯盛山頂上にある。都合三度も登って、参詣した。先の新北の神官、金川家の家譜には闇路公くらじぎみの文字が見えている。また、現在の鞍橋神社祠は修復され、鞘堂に覆われているが、側の修復記念の碑には、熱田神社宮司の金川明敏氏の名が刻まれている。また、直方市下新入の剣神社々記には、「往古は倉師くらじ大明神と御神号を称した」とあるそうだ。鞍手の地に鞍橋君は眠っている。

四世紀後半の神功皇后の三韓征伐と同じように、六世紀半ばの鞍橋君もまた、ここ新北より直接、朝鮮半島に船で渡ったようである。

最後に、少し前後するが、「磐井の乱と新分(新北)物部の参戦」という項を紹介する。

「香月文書によると小狭田彦の四代の孫、天の賀那川王は新北及び室木の神官に任ぜられたが、三世の孫大満子おおみつこは香月家の本家をつぎ、香月ノ君となった。その養嗣子倭男人やまとのおひとは継体天皇の二十五年(五三一)十一月『物部麁鹿火を助けて磐井を誅せらる時に云々』とあり、またこの時磐井の子の北磐津きたのいわつが赦しを乞うたので、倭男人はこれをあわれんで奴僕としたとある。これによると、当時鞍手の壮丁、すなわち新北物部が倭男人の輩下として参戦したということになる。」

この記事が、磐井の乱の実体は「物部麁鹿火の乱」とする私の仮説の元となった。そして宮地嶽神社こそが物部新天子の宮との想定に至らしめたのである。

鞍手町新北には以上のように濃密な古代の伝承が伝わっている。

鞍手の古蹟

鞍手町史から「贄田物部と古墳群」の項を紹介する。

「弥生時代後半から古墳時代にかけて本町地区を支配した物部の首長は果して誰であろうか。

吉田東伍は剣岳の物部部族だけをあげているが、本町には大首長の墳墓と思われる大古墳群がいくつもある。

新延の剣神社境内の鎧塚古墳はすでに県文化財の指定をうけた貴重なものであるが、側に祭る剣神社は鎧塚の祭祀に起因して創建したものであろうといわれている。

同じく県指定の新延の大塚古墳もその規模の大きさや出土品の豪華さから、大首長の墳墓ということができよう。

ましてや八尋の銀冠塚古墳は銀の冠を用いた首長が眠っていた。彼の用いた銀冠が聖徳太子の定めた冠位十二階に先行する古冠とすると、時代的にも古く、一そう貴重なものと考えられる。」

例の竹原古墳も鞍手郡若宮町にあることを考え合わせると、鞍手には古い遺蹟が伝承と共に濃密に分布しているのである。

なお、『太宰管内志』を著した伊藤常足は鞍手町古門神社の神主であり、『続筑前風土記』を著した貝原益軒は飯塚市八木山に幼少のときを過ごしたことを付記し、これらの地も何度か訪れたことを併せ記す。

新北が津であった時

平松氏の題をお借りする。以下は福永の現地調査に基くものである。

その前に古賀達也氏らの誤謬を一点だけ糺しておきたい。

○続風土記云、寛永五年、遠賀川

は蘆屋浦より、潮さし入り、垣生中間に至るに二里半とぞ、本川の西に鞍手郡新北村より来る川あり、西川と名つく、是も汐満つれば蘆屋より泝る。

右の文から、福永は「一六二八年

の時点で、潮が新北村にさかのぼるのである。」とした。

これに対し、古賀氏は「続風土記

の文には遠賀川は垣生中間まで潮が遡るとあるが、西川については新北村から流れて来ていると記されているのであって、蘆屋浦から、新北まで潮が遡るとは書かれていない。これを福永氏は新北村まで潮が遡っていると誤読されているのである。」と論難された。

私に百歩譲って誤りがあるとするなら、それは「泝」字に振り仮名を付けなかったこと、および一文の口語訳を付けなかったことぐらいだろうか。

漢和辞典に「泝」は「遡」「溯」と同字であり、音は、訓はさかのぼるとある。決して誤読ではない。

寛永五年、遠賀川は蘆屋浦から、潮がさし入り、垣生中間に至るが(距離は)二里半とか(いうことである)。本川(遠賀川)の西に鞍手郡新北村から流れて来る川があり、西川と名付ける。この川もまた汐(潮)が満ちると蘆屋から泝(溯・遡)さかのぼる。

西川については、新北ニ蘆屋の地名のみ書かれていて、途中の地名がないので、新北にさかのぼる以外には読みようがないと思われるが如何。

折角の史料を的確に伝えきれなかった独善を深くお詫びする。これからは分かり易く書くことに努力したい。蛇足ながら、科学的な諸氏も、もう少し漢字や古文の学習にも励んでいただきたい。ノーベル賞受賞の田中耕一氏も「日本語は大切」と述懐されていた。いやしくも古代史の研究をする者には不可欠の素養と思われる。ご忠告する。

新北の現地調査(途中経過)

さて、弥生時代の鞍手町新北に海が入り込んでいたかについて、これまで調査したことと最新の聞き取りとを紹介する。有名な古文献はあらかた紹介したから省かせていただく。

また、等高線問題は、他の方々が触れられるので、そちらに譲る。

次は私が早くに入手した「古遠賀湾図」である。勿論推定図の域を出ないが、論難者の図も推定図に過ぎないから対等に資料として扱ってよいだろう。

左は、水巻町歴史資料館の方にコピーしていただいた、『水巻昔ばなし』(柴田貞志著)の図である。発行者は出版当時(昭和六一年)の水巻町長である。推定図と断ってあるが、次の文が書かれている。

 「河口図1は弥生時代の遺跡分布と遠賀川河口の沖積土の堆

積状態から検討した、約二千年前の推定図である。なお、これより前の縄文時代においては、入海の西は岡垣町の矢矧川付近まで達し、また南は直方の天神橋付近までの広大な入り海で、これは縄文時代の貝塚によって推測される。(中略)

なお遠賀川河口のボーリング調査によれば、沖積土の土質は軟弱で砂まじりの粘土に、浅海棲貝類の残骸の混じった堆積土である。その深さは遠賀町木守で二十〜三十メートル、遠賀川駅前で約三十六メートル、水巻町役場で約十七メートル、遠賀保健所付近で約五メートルである。また沖積層は木屋瀬、植木付近においても二、三十メートルに達しているので、以前はこの付近まで入り海であったことが判明する。

また河口図2は十世紀ころ(平安時代中期)、河口図3は慶長年間の筑前国地図によって推測した十五世紀ころ(室町時代中期)の推定図である。」

図1の解説の「植木」が「新北」とほぼ平行に位置している。私は新北のボーリング調査の確証が得られていないことと、図が水巻町で切れていることとから、結論を急ぎたくなかった。水巻町歴史資料館の方々が弥生時代の遠賀川流域を調査されているので、私としてはその調査報告を待っていればよいのだが、外野がうるさいから、途中経過を出している次第である。

鞍手町歴史資料館からも次の鞍手町地質図のコピーを頂いた。

見づらいだろうが、西川沿い(図の左側)に、新延、古江、新北、長谷、八尋と沖積層となっている。

水巻町の資料と併せても、弥生時代から平安時代まで、地質学上からも新北が入り海であった可能性は依然として残されていよう。

次の航空写真は、鞍手町教育委員会発行のパンフレットのものである。

南北が逆であるが、上その右側(西麓)が新北で、奥が六ヶ岳、中央右端が新延であり、左半分手前の山が剣岳である。

九州自動車道のその奥が長谷である。

この現代の写真から見ても、新延、新北、長谷は、現代に築かれた道路を除けば、今もなお、同じ標高(およそ二〜三b程度)の水

田が続いているのである。

長谷観音の証明

新北の南に、亀甲山長谷寺がある。この正月に初めて伸子とお参りした。現世ご利益がたちどころに現れた。駐車場傍の店で遅い昼食を取りながら、店の二人の老婦人に長谷観音の縁起を尋ねたら、平安時代にすぐ前の海のところまで観音が船で運ばれて来て、この丘に安置されたとのお答えだったのである。なお、詳細をお聞きしたら、ご住職さんが詳しいからそちらに聞かれたほうがよい、と促された。寺に入って、長谷観音縁起を見た。

「元正天皇の養老五年(西暦七二一年)僧行基が、木曽山中の楠の霊木で一木三体の像を彫り、一体を大和長谷寺、一体を鎌倉長谷寺、又の一体が本尊である。仏師は、稽主勲、稽文会。

開山万貨上人は、大和長谷寺の僧なりし縁あって、当筑紫国に下って光孝天皇の仁和元年(西暦八八五年)この地に安置し、法灯現在に至る。」と記されていた。

ご住職、十九世晃譽祐昭こうよゆうしょう氏にお会いし、国指定十一面観音菩薩立像の縁起を詳しく教えて頂いた。

やはり、仏像(二〇〇キログラム)は平安時代に直下の入り江まで船で運ばれて来たこと、

つい、七、八十年前まで新延、新北は塩田で、当時の長谷寺の次男さんは、開墾に招かれたが断ったとのこと。

長谷は唯一清水の湧くところで、昔から今に至るまで良い米の取れるところであること、

現在も六`先まで、近海魚の鯔ぼらが上ってくること、等々、ご親切に説明いただいた。ガラス越しに三が日だけ公開されていた観音像を拝ませていただいた。数々のご親切には感謝の言葉も見つからない。

 今回も、新北が弥生期に海であったことの確信はいよいよ強まった。

 さらに嬉しいことは、かなり早くから、万葉集の「隠口こもりくの泊瀬(長谷)」の候補地にこの地を挙げていたのだが、今回、新北の入り江のその奥に、長谷観音に導かれたかのように天啓を得たことだ。「山に囲まれ、隠れている」鞍橋君の祭られているお山はそのまま「隠口の泊瀬の山」にふさわしい。楽しみな課題である。

雪降れば百済恋しや観世音

寺に伝わる謎の句である。

おわりに

 現地の大勢の人の助けを受け、また、東京古田会の面々の助けも受け、私どもの万葉集解読は着実に前進を遂げている。為にする誹謗中傷には決して屈しない覚悟である。


目次へ

昔話と考古学

 小金井市 斉藤里喜代

古田武彦先生の『「姥捨て伝説」はなかった』を読んだ。結構ユーモラスな場面が多く、読みながら声を出して笑ってしまった。

「捨てられるのはじいさんからでは?」で思い出すのは『グリム童話』である。題は忘れたが、たしか、おじいさんが役立たずになったので、出ていってもらうことにし、息子に毛布を一枚渡すように言いつけた。ところがおじいさんが戻ってきて文句を言った。「あんたがたの息子はけちで、毛布を半分しかくれない」

驚いた両親が息子に正すと息子は「後の半分はお父さんかお母さんが役立たずになったときのために取っておく」と答えた。両親はびっくりして、明日は我が身と、じじ捨てをやめた、という筋だった。

同じグリム童話の「お菓子の家」は子捨ての話である。子捨てはスパルタが有名であるが、あれは弱い子どもを捨てるので、間引きの一種であろう。

話は突然日本の考古学の話になるが、縄文時代の鳥浜貝塚からは麻が縄や編み物として出土している。カラムシだのアカソだのというイラクサ科の植物の繊維も編み物として衣服に使われているそうだ。

白崎昭一郎氏によれば、「おそらくイラクサ科の植物繊維は木槌で叩いて柔らかくした後で編んだのだろう。発掘した人は毛糸のような感触の編み物といっている。セーターのようなものだろう」という。(注1(2)

イラクサのセーターといえばアンデルセン童話の「白鳥の王子」だ。十二人の白鳥にされた兄王子を人間に戻すために、妹の王女がイラクサで十二枚のセーターを編む話だ。

編みおわるまで声を発しないこと、と言われ夜に墓地へイラクサを取りに行って魔女に間違えられたり、イラクサを柔らかくするために素足で踏んで足が血だらけになったりと苦労する。火あぶりの刑になる寸前にセーターが編みあがりハッピーエンド。

織物は編み物より新しい。織物はごろごろしたアンギンや編み物より薄く目のつんだ布ができる。細い絹糸を固く編んで水や風も漏らさぬほど緻密に織られている。中国では?と言い、日本では?(かとりぎぬ)という。日本読みの「かとりぎぬ」は「かたおりの絹」の詰まったものであろう。

?は『釈名』に「水も漏らさぬほど綴密に織られている」と記しているのが単なる形容でないことは、布目順郎が実際に楽浪王?墓出土の?に水を垂らしてみて確認した。(2)

「羽衣伝説」や「鶴の恩返し」に出てくる羽衣や鶴の羽で織った布は、かとり絹ではないだろうか。天女の羽衣は私が思うに船の帆であろう。

青い空と青い海、地平線はさだかでなくなる。船は宙を浮かんでいるようにみえる。

今でも南太平洋のアウトリガーの船は宙に浮いているように見えるのである。『古事記』『日本書紀』でも天「空」と海とを同じく「あま」と訓ませている。

天女は遠くの島から帆のある船で来た。天女の羽衣を隠した男の国にはかとり絹を作る技術がなかった。船だけは有ったので、羽衣がみつかった時、かとり絹であれば多少虫が食って古くなっても船の帆として使える。天女は故郷に帰った。

『旧唐書』日本伝には唐に持っていった幅広の布のことが書かれている。船の帆としては丈夫で目が詰んでよく風をはらみ幅広の布がより良い。絹は琴の弦になるくらい丈夫である。そしてこんな最上級の船の帆を大量に使うところは古代では軍隊以外に考えられない。軍さの神フツヌシを祭る香取神宮の香取はかとり絹のかとりではなかろうか。常陸の国には蚕養(こかい)神社が複数ある。

イソップ童話の「ジャックと豆の木」では牛一頭と五色の豆五六粒を交換する話が出てくるが、古代において牛一頭と豆を五六袋を交換していた下地があったのではないだろうか。

(2002.11.17)

(1)『ふくいの古代』白崎昭一郎十二ページ

(2)『絹の東伝』布目順郎 小学館 十九ページ 二百二ページ


目次へ

【教室便り】

改新の詔を読む会

厚木市    平松幸一

始めて教室便りを書きます。この会に顔を出すようになってから、もうというか、まだというか4年と少々です。その間に天武紀8年8月から、持統紀元年4月迄進みました。大系本436頁から488頁、平均一回1頁のペースです。

4年前の参加者数は5〜6人から7〜8人程度でしたが、最近は10人を超えることも珍しくなくなりました。

持統称制元年現在、前年に崩じた天武天皇の殯宮での発哀、誄礼が続いています。殯宮の場所は示されていません。誄礼者には倭国ゆかりの氏族が多いようです。

また、高句麗や、新羅からの移住者を常陸、下毛野、武蔵に送込んだりしています。

移住者の移動経路は筑紫の海までは自力で、あとは倭国の水先案内人が付いて関門海峡、豊後水道経由、黒潮に乗って関東へと云うのが多分一番楽でしょう。次回の話題にしたいと思います。

紀本文を読む方はこのようにスローペースで進んでいますが、自由発表、脱線は相変らずハイペースで活発です。それぞれ好き勝手なことが言えるのがこの会の楽しいところです。

 前回、前々回は佐野郁夫さんの美しい淡彩画と漢詩付の中国探訪旅行の話、天野貴子さんの科学的な論文批判、それに平松の古い和銅日本紀存在説の蒸返し等がありました。

次回予定は二月二十三日(日)

堀留町区民会館の予定です。

神功皇后紀を読む会

立川市    福永晋三

 十二月の「古田史学会報」lワ三に、「熟田津論争によせて─福永・平松論稿を検証する─」(古賀達也)が掲載されました。誤謬と悪意に満ちた非難でした。増し刷りして、会の参加者に配り、ちょうど、神功紀の和珥わに津(福永説では新北にぎた津に同じ)の段を読んでいたので、鞍手町新北に伝わる現地伝承を公開し、会の参加者に一考を促しました。その反応が、今号に幾編か載ることと思います。

 私も、「?倭の興亡その二」で、邪馬壱国への行程を詳述する予定でしたが、変更して、鞍手町新北に伝わる古伝承を会員の皆様にも紹介します。それはそのまま、倭国の成立に関わり、同時に先の非難に応えることにもなろうかと思います。

 教室では、今号に予定した、魏志倭人伝の女王国への行程記事についての再検討も試みました。

 まず、女王国は帯方郡から東南の方向にあり、これが行程の大前提となっていることを確認しました。倭人伝には、女王国に至るまでは、東南、南、東の方向しか出てこないのです。大前提から外れていません。

 次に、韓国水行説を支持しました。狗邪韓国から対海国、対海国から一大国、一大国から末蘆国まで、それぞれ「海を渡る一千余里」であります。海は古代のハイウエーという茂在寅男さんの説から言っても、一千余里が水行一日の距離ではなかろうかと考えました。そうすると、帯方郡から狗邪韓国までの七千余里が水行だとしますと、水行七日が出てきまして、倭人伝に書かれた「水行十日」という「総日程記事」と一致することになります。魏使の報告はやはり正確だったと思われるのです。

 韓伝では、方四千里とあり、半周すれば八千里のはずですが、狗邪韓国までは七千余里となっていて、釜山(金海)より、もう少し西のところに魏使は停泊し出発したようです。そうすると、対海国まで一千余里(七二キロメートル強)の記事も正確のようです。現在の釜山から対馬までは五〇`弱ですが、対馬から壱岐までが七五`ですから、壱岐から末蘆国までの一千余里も正確であれば、呼子(二九`)に上陸したのではなく、大前提の「東南」に近い側に針路を取れば、博多湾岸から遠賀川河口の間に上陸したことになります。

 そこは、どうやら神湊こうのみなと付近のようです。次号に詳述します。

次回は、二月十五日(土)、

杉並公会堂第二集会場です。

【旅行の案内】

山梨県甲府市小津に伝わる9神による舞「天津司の舞」の謎に満ちた伝承と土偶、土器の収蔵の質が高く銚子塚古墳にて有名な山梨県立考古博物館を見学する小旅行を計画いたしました。(天津司の舞は四月の第一日曜日のみ)。

企画:古田武彦と古代史を研究する会

主催:株式会社トラベルロード

参加費用:六千円(昼食費込み)

申込:事務局orトラベルロード(高木)迄

電話 :042―599―2051

FAX:042―599―2054

【「新・古代学」の原稿募集】

来年度発行予定の「新・古代学」第七集の原稿を以下の要領で募集しています。

*締切り:原則として2003年4月末日

            歴史・考古学関係の論文・随想・報告など、原則として二万字以内。手書き原稿は二部お送りください。(校正等に必要なため)

*パソコン、ワープロの原稿はフロッピー・デイスクを添付しソフトの形式・作製機種を明示してください。特殊な資料、貴重な原版はお手元にとどめられ、コピーのみお送りください。印刷段階に改めて送付いただきます。

            採否は編集部に御一任願います。

            送付の際は他の原稿と区別するために、表に「新・古代学原稿」と表示してください。

            原稿送付先

東京古田会事務局・高木 博

郵便番号167―0051 東京都杉並区荻窪1の4の15までお願いします。

【友好団体の会報から】

多元No.53

新年のごあいさつ       高田かつ子

倭人伝の全貌(三)─邪馬国と東?人─

古田武彦

古田武彦氏講演要旨

出雲弁の淵源と天皇家の復活─論語批判─

(要約・安藤哲朗)

特集 中国の旅 中国山東省史跡巡り

                             清水 淹・村本寿子

小松良子・佐野郁夫

「皇帝」について(二)   斎藤里喜代

秋留台の遺跡を歩く     鴨下武之

謡曲の中の九州王朝(八)  新庄智恵子

うばすて伝説とヤマンバ   深津栄美

全国二例目の弓を担ぐ人物埴輪

                                                     長井敬二

古田史学会報No.53

万葉八番歌                                 力石 巌

エジプト年暦と兄ウカシ弟ウカシ

                    冨川 ケイ子

浦島太郎の二倍年暦           森  茂夫

「蚕の社」のご案内           山内 玲子

山柿の門                水野 孝夫

新」・古典批判「二倍年暦の世界」B

                    古賀 達也

仏滅と仏教公伝について         藤崎 英昭

学問の方法と論理 九 

熟田津論争によせて−福永・平松論稿を検証する

                             古賀 達也

九州古代史の会News No.106

報告 鴻艫館発掘の最新成果

十月例会報告 「豊日別宮」の古文書

                    編集部

白村江以後の倭国(9)         小松 洋二

裴清の見た邪靡堆国2          生野 真好

磐井の乱から考えるN          兼川 晋

【事務局便り】      高木 博

昨年中のご厚情に深く御礼申し上げるとともに、本年も変わらぬご厚誼のほどお願いいたします。

重ねてのお願いですが、会員各位殿には古田史論にご興味のある方の御紹介を引き続きお願いいたします。

新春早々に実施いたしました、「鬼夜を見に行く旅」ですが、各会の皆様と会員各位のご協力にて成功裡に出来ましたことをご報告いたします。

昨年後半 会報「tokyo古田会ニュース」誌上を始め各会会報誌上にさかんに「新北」論文が掲載されております。

当会としてはまさに希望したことなので大歓迎です。共に虚構の日本古代史を解明していく努力をしていきましょう。

古田先生の希望による国引き神話の最近の重大なテーマ「北門」の仮説地としてのウラジオストクの研究旅行の計画あり。

【編集後記】          飯岡 由紀雄

 新年おめでとうございます。

*計画変更になり時間のできた正月。読書三昧に浸ろうと文庫本を4冊ほど手にして(最近は文庫も文庫と言えなくなりました。)、現在2冊目に挑戦中。

 中国古代についての認識を新たにしようと思って読んだ1冊目。

中公文庫の『中国文明の歴史@中国文明の成立』。

夏、殷、周が地域を異にしてほぼ同時期に並存していた(夏、殷はほぼ活動地域が重なる)という記述に、確かに認識は一新されました。

それにしても、この時代の銅製品の造形は縄文土器のそれを連想してしまうのは、わたし一人ではないだろうと思います。

それと並行して、再読した講談社学術文庫の『古代中国』の記述の中に銅器・宜侯ソクキの銘文の解説に関連して周王が土地の豪族を臣下の列に加える封建に際して下賜した土地を始めとして様々な物の中に、丹塗りの弓一張、丹塗りの矢百があったという。

「丹塗りの矢」に冊封・封建の儀式に通じる意味があったということは

知りませんでした。

ここで思い起すのは丹塗りの矢になった美和の大物主が三島溝咋の女(むすめ)勢夜陀多良ヒメと婚姻する話である。神武がその臣下の大久米命を遣って大和の一角を押さえた自分にふさわしい正妃として迎えたのが、神の娘であるホト(後に改めヒメ)タタライススキ(又はイスケヨリ)ヒメ。(今号佐野さんの記事に該当記事あり。)

 問題は「丹塗りの矢」を持っていたと思われる大物主はどうやってそれを手に入れたのでしょうか。

中国のそれを真似て作ったのであればすぐにばれてしまいますので、素直に考えれば、やはり、中国の天子のもとに朝貢して、貰って来たと言えそうです。

あの後漢の王充の『論衡』の記事

「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸(チョウソウ)を貢す」

を思い出します。この朝貢した倭人(達)は大物主(達)だった可能性が出てきました。そして中国・周から冊封を受けていた可能性も。今後の展開が楽しみです。

*会員の鈴木浩さんから「X」印について言及している本の一部のコピー、事務局長の高木さん経由で送って頂きました。『古代は生きている』彩流社、近江雅和・榎本出雲共著。どこかで見たことがあると思ったら、以前読んだことがあるらしく

右の写真は筑豊宮田町・磯光の天照宮で手に入れた丹塗りの破魔矢。矢の枝の部分(通常は白木)が赤く塗られている。持っているのは福永君。カラーでないのが残念です。こんなところにもちゃんと伝えられているのは驚きです。

家の書棚にありました。現在、再読中なのですが、それによれば、「X」印は物部氏の家紋らしいとのこと。これも、楽しみです。

左の写真は栃木県宇都宮近くの塚山古墳から出土した「X」印と鹿3匹が描かれた円筒埴輪。2月8日から3月30日まで県立博物館で催される県内出土の「形と文様の土器展」に出展予定。茨城・栃木両県のこの辺りは「X」印文化圏!、窯元マークってこんなに大きく必要?でしょうか。

*福永論稿の『魏志倭人伝』の魏

使の倭国に至る旅程の見直しも圧巻。古田先生の韓国内階段式陸行に対して疑問を呈しての、新たな論の立ち上げです。疑問を感じたら原点に立ち戻って、一から考える真摯な態度には敬服。江戸時代の日本分国図から博多湾岸が松浦潟と呼ばれていた可能性があることから始まった倭人伝の里程の見直し。私は既にこの問題は古田先生で終わったものと思っていましたので、東?国、狗奴国はもちろん、邪馬壱国を始めとする倭人連合国の比定も含めて、今後の展開が楽しみになりました。

*福永新北説を強力に援護する高見さんの論稿が登場。楽しみです。

脱線につぐ脱線の教室参加者諸氏の鋭いツッコミは、確実にその成果を上げているようです。

          新旧を含めた様々なテーマを

色々な会員がそれぞれの見地からそれなりの論を展開してゆく古田会ニュースは今年も健在です。今年もご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。

昨年9月の吉備旅行

用木山遺跡(弥生中期―西暦0年頃)の住居の団地?群。吉備に立ち寄った神武一行は吉備街道を見下ろす、この階段状の住居を確実に眺め、そして滞在した。


目次へ