目次へ

【熟田津論争について】

古田史学会報の熟田津論簡約

編集部    (福永晋三)

昨年、十二月の古田史学会報に、二篇の「熟田津」論が載った。簡約して紹介し、少々意見を添える。

 一は、「万葉八番歌」(力石巌)であるが、次の一節と一葉の図とで大体がご理解いただけよう。

 「多元史観の中では、鞍手町新北(福永説)、諸富町新北(下山説)の二択問題となっているのである。

 福永説は歴史的事件、事跡との関連が実によく対応している。氏の説は、奇想にみえるが豊かな知的発想と論拠に支えられているため、反論は容易でない。私は、「熟田津」は鞍

手郡新北ではないと考える。二択問題の中では下山説を採る。

諸富町新北が古くからの良港であったことは下山論考に尽きているので省略し、ここでは地理的観点から鞍手郡新北がなぜ不適当であるかを述べる。」とあり、弥生時代から鞍手町新北は陸地化していたとの主張が展開されている。

 二は、「熟田津論争によせて福永・平松論稿を検証する」(古賀達也)である。

まず、「『万葉集』史料批判の方法において、古田武彦氏は歌本文は一次史料であり、左注などは『万葉集』編纂者による二次史料であり、

 それらを区別して一次史料を基本史料とするという方法論を提起された。(中略)この新しい学問の方法により古田学派内で万葉集研究は飛躍的に発展した。」とあり、「八番歌の活発な論争がなされている」とある。(意見1)

 

「『福永氏が古遠賀湾の存在や鞍手町新北まで潮の干満が影響するという事を主張したいのであれば、弥生時代の古遠賀湾の存在を示す徴証や、弥生・古墳時代の遺跡分布などを現地調査し、併せて遠賀川及び西川における潮の遡航(ママ)についても、事実を確認した上で論証を進められるように期待する。』(「『にぎたつ』考その2)」『多元』三八

これら下山氏の指摘は要を得て的確である。対して、福永氏は新稿において、(中略)下山氏の指摘に対して正面から答えられていないのみならず、下山氏による批判があることさえも記されていない。しかも、大日本地名辞書の文に関しては誤読もされている。(中略)蘆屋浦から新北まで潮が遡るとは書かれていない。(中略)旧稿での誤読を下山氏が既に指摘されてきたにもかかわらず(注6)、福永氏は新稿においても訂正も反論もせずにそのまま採用された。こうした対応は真摯な学問論争とは言い難く、理解に苦しむものである。」と書かれている。(意見2)

さらに平松論稿については、

 「この平松論稿には他にも多くの論理的誤りがある。二点だけ指摘しておこう。一つは、自説に都合の良い場所(鞍手町新北)を港にしたいためとはいえ、その付近の海岸線だけを一〇〜一五メートル上昇させるのは不可能である。もし鞍手郡・遠賀郡の海岸線が上昇すれば、同時に日本中(正確には世界中)の海岸線が上昇し、全国の等高線一〇〜一五メートル以下に多数存在する弥生時代・古墳時代の遺跡は軒並み水没する。こんなことは小学生でもわかる理屈だ。現に遠賀川流域に弥生や古墳の遺跡が多数存在しているが、福永説・平松説が正しければ、これらも水没するのである。(中略)

意見

1 この新しい方法こそ、福永晋三の「『万葉集』の軌跡─『万葉集』成立の新視点」(新・古代学第4集)に始まったものであり、八番歌の新比定も福永伸子・晋三に始まったものであることは動かし難い。事実誤認である。

2 下山論稿こそ、福永が多元の会例会での発表当初に「これから現地に入って調査を続け、然るべきときに文章で発表したい」との断りを出したが、それを無視した、海賊版「新北」説と言わざるを得ない。始末の悪いことには、下山氏が、諸富町出身の人から「新北」の地があることを聞き、ちょうど古田氏が「白村江戦時の有明海軍港説」を発表されたのに合わせて、恣意的に書かれた、甲論なき乙駁でしかないのである。このために、福永は調査未了の段階で、論稿を書かざるを得なかった。因みに、古田史学会報には、多元の下山論稿は転載されたが、東京古田会の福永論稿は未だに転載されていない。出発点からして不公平だ。多元においても福永の文章は政治的に排除されている。論争には端からなっていないのである。今回、古田史学会報に、福永の論稿が部分とはいえ、引用のあったことは善しとしたい。しかし、多元の会の海賊版に応答する気は元よりない。(新北に潮が遡った件については別項で論述する。)

 


目次へ

福永・平松論考を検証するー京都市 古賀達也」(古田史学会報 No. 53 学問の方法と倫理 九 )について

―熟田津論争に寄せて─

厚木市    平松幸一

平松試論は、福永説や文中で取上げられた下山説以前(1999年9月、東京古田会ニュース69号)に発表したものであり、かつ、他人の説とは関係なく、独立の論拠に基づいて展開したものである。

古賀氏は「平松氏は福永説という仮説の上に仮説を積上げた」と云うが、これは事実誤認であることを先ず明らかにしておきたい。

氏が、平松稿の多くの論理的誤りの一例として指摘された、一文をお示しする。

「もし鞍手郡・遠賀郡の海岸線が上昇すれば、同時に日本中(正確には世界中)の海岸線が上昇し、全国の等高線10〜15メートル以下に多数存在する弥生時代・古墳時代の遺跡は軒並み水没する。こんなことは小学生でも判る理屈だ」と。

一見科学的に見えて、実は非科学的な、現実の世界では起り得ないことを云われる。部分的な現象はそのまま全体に当てはめられない。

遠賀の「新北」が良港であり得たと云うことは、地図を眺めるだけで大体判る。あとは適切な縮尺の地形図と地質図で確かめれば十分である。

この辺りはいわゆるリアス式海岸地形で、大体標高10メートル前後以下の低地は遠賀川や、その支流の運んできた土砂、いわゆる沖積土で覆われている。

弥生時代・古墳時代の遺跡は大部分10〜15メートル以上の洪積層に位置しているので、軒並水没するようなことは起らない。

遠賀仮想湾岸の地名に関し、氏は、「それら地名が有文字時代につけられたのか無文字時代につけられたのか、平松氏はどうやって区別されたのであろうか」というが、私は何も「区別」などしていない。地名は端的にそこに住んだ人たちの生活や活動場所の性格・状況を示すものである。元々曖昧な区分でしかないものを取立てて問題にされる氏の真意が解らない。

ところで、自ら理解不可能と云う私の小論をあえて「検証」しようと企てられた古賀氏の意図の方が不思議に思える。

何故か氏は、遠賀・新北説を何が何でも消してしまいたいらしい。

察するところ、「敵は本能寺にあり」で、福永氏の仮説や、脈絡もなく突如として引合いに出された、豊前王朝説を論難することが主目的のようだ。

主敵とされた福永仮説や、豊前王朝説がそれぞれに古田武彦氏の「史観」を継承した上で、更なる成長、発展を期待させる有望な論説であり、ご本人や関係者が地道に、本当の意味での検証を積重ねておられることは、知る人ぞ知るである。

冒頭のいかめしい表題は、検証という錦の御旗を借りて、これらの有力な異説を排除したい、と云う暗黙の意思表示ではなかろうか。

いずれにせよ、この論文は、「古賀氏の学問の方法と倫理」、を自ら表現されたものである。しかも、氏の「検証」は、もともと間違った前提から出発しているから、どう論理を展開しても説得力のある正当な帰結に至るわけがないと私は考える。


目次へ

 

1:25000地形図の読み方(その1)

「新北」論争へのコメント 

                    高見 大地

 古田史学会報No.53に掲載された古賀達也氏の「熟田津論争によせて」1)や力石巌氏の「万葉八番歌」2)で指摘されている「新北」に関するいくつかの問題点の根底が1:25000地形図の標高解釈の誤りあるいは勘違いに起因しているので、二、三コメントしたい。

 通常我々普通の地形図の利用者は、たとえ最初のうちは地形図がある約束事に基づいて描かれていると理解していたとしても、使っているうちに地形図の表記をひじょうに精確であると思い込んでしまう傾向がある。1:25000地形図では、実測の25mが図上の1mmにあたる。ところが、たとえば、実幅が13.0mの道路は外側が1.2mmの二条線で描く約束になっているが、1.2mmといえば、25000倍すれば30m以上に当たり、実際より2.3倍強に拡大されてしまっている。道路幅が実際より広くなった分、道路脇の建物の位置もそれだけ位置がずれてしまう。ことほど左様に、地図というものはある約束にしたがって描かれているもので、利用者の描くイメージとかなり異なっていることが多々ある。地図作成の専門家にとってはごく当たり前のことでも、利用者にとっては必ずしも当たり前のこととは言えない。かくいう筆者も勘違いをした口である。痛い目にあった平凡な利用者の方が却って専門家より利用者の気持ちがよく理解できるのではないかと、ここで筆をとった次第である。

 ここでは、具体例として「弥生時代の新北の陸化」と「寛永時代の新北への西川の潮の遡行」の問題について取上げながら、1:25000の読み方について二回に分けて解説する。

1.1:25000地形図の等高線

地形図内の三角点は緯度経度の原点とし、水準点は水準原点として精確に決められる。たとえば、標高の基準になる基準点の精度は、一等水準測量では2kmの往復観測の水準差が3.5mm以内というひじょうに高いものである。これらの基準点をもとにさらに低位の基準点を決め、またさらに低位の点を決めというようにして次々と低位の点を決定して、それから作図しているので、すべての地図上の座標値が基準点のように精密なわけではない。たとえば、等高線の標高の絶対精度は等高線の間隔の1/3を目標としている。したがって、1:25000の等高線の間隔は10mなので、その目標精度は約3mであって、中にはこの精度より悪いものもありうる。

さて、国土地理院の地形図の等高線は計曲線、主曲線および補助曲線から構成されている。1:25000地形図の主曲線の間隔は10mで、0m50m100mと5本目ごとに太くしてある曲線を計曲線と呼んでいる。主曲線間隔10mの1/2 (5m)1/4 (2.5m)間隔の曲線を補助曲線といい、ひじょうに緩やかな傾斜地や細かい起伏の土地で、主曲線ではその特徴を表現できないときに使われるもので、常に描かれるわけではないことに注意してほしい。また、同じ高さの等高線は交差したり、らせん状になったりすることはなく、必ず閉曲線になっている。

今、丘陵に囲まれた平坦な水田地帯があって、その標高を5m以下と仮定する。さらに、5mの等高線が丘陵のふもとに沿って描かれていたとする。もちろん、内部にはちょっとした小高いところもあり、そこにも5mの閉じた等高線もありうる。さて、この中に堤防あるいは自動車道路などを建造すると、盛り土のため、これらの堤防や道路部分の標高は5mを越える。そのため、以後作成される地形図では、元の5mの等高線はこの人工構造物を境に二つの閉曲線に分けられることになる。ところが、実際の地形図では、10mの等高線の間隔があまり広くなく、地形がごく単調な場合は、補助の5mの等高線は省かれ、基本の10m間隔の主曲線だけが描かれる。なお、詳しい地形図の読み方、表現の約束などに関しては日本地図センターの地形図の手引き3)を参照されたい。

 

2.新北に海が来ていたか

新北に海が来ていたかどうかは、新北の現在の水田面が当時海であったかという問題に引き直される。まず、この水田面の近年の標高がいくらであるか、次に、この土地にどのような変化が起こったかという推定をおこない、それに基づき、ここが海であった可能性があったかどうか考えてみたい。資料としては、比較的簡単に入手できる大正以来の1:25000の地形図を使う。そのほか明治33年測量の1:50000地形図、教科書的な地殻変動や海面水位の変化などの若干の知識を加え、これだけの資料でどの程度までいえるか考えてみたい。

2.1 これまでの経緯

西川流域および木月から遠賀川へ向かって東にのびる水田面は第四紀沖積層によって形成されており、山崎光夫氏4)によると、現在の標高10mよりやや低位に縄文時代前期の海岸線があり、現在の遠賀川下流域には海が湾入していて樹枝状をなし、洪積世の低丘陵は島として点在していた。さらに同氏4)によると、その後隆起時代に入り現在に至ったとのことである。これに対して鞍手町教育委員会の新延貝塚発掘報告書5)の「新延貝塚の位置と環境」では、縄文時代の早期から晩期の貝塚を含む遺跡の分布図に、現在の1:25000

形図の5mの等高線を参照させている(図1)。

力石氏は、氏の資料(2)の図を使い、標高は水際と考えられる線から遠くなれば遠くなるほど標高が高くなるという仮定に基づいて、陸化の考察を行っておられる。第1図は、力石氏の資料(2)2)の図とは氏の加筆のほか、遺跡番号や5mライン未満の領域が網目になっているなどの違いがあるが本質的に同じ図である。ここで氏が推定水際と見なしている線は、現在の5mの等高線であることをはっきりさせておきたい。天神橋貝塚(No.4)から日の出橋遺跡(No.7)付近にかけてほぼ直線状のラインは人工構造物によるラインで自然界には絶対にありえない。これらは実際、遠賀川の両岸の堤防と犬鳴川の堤防であり、近世になって作られたものである。

さて、問題の新北は図1No.1の新延貝塚の南約1.5km付近にあり、5mの等高線内の低地は水田になっており、この水田は上記の大水田地帯から新延のやや北から新北に盲腸のように入りこんでいる。この新延貝塚は縄文前期から縄文後期の土器が出土されている。つまり、貝塚は海の傍らにあったと考えられ、したがって、その傍らの低地である現在の水田は海であったと見なせる。

2.2 1:25000地形図から見た遠賀川・西川付近の水田地帯の現状

さて、遠賀川・西川を含む水田地帯内にある5mの等高線で囲まれた低地のうち下流の遠賀郡については、昭和47年以前発行の地形図ではほとんどが水田であったが、昭和47年以降では元の集落を核として、少しでも小高い土地は団地や住宅地として転換されている。道路についても幹線道路の新設および整備を行っただけでなく、農道も大幅に整備拡張されている。上流の鞍手郡も近年、農道を広げて舗装整備し、湿地帯については新たに木月池・浮州池という人工の貯水池を作って水はけをよくし、ほぼ全面的に水田に変換している。また、遠賀郡と同様、水田地帯のなかでも比較的地盤のしっかりした小高い場所は団地などの住宅地になっている。

2.3 現在の水田面の標高・等高線からの推定

新北付近は第1章で述べたような事情で、5mの等高線が省略されてしまった例である。昭和47年発行以降の1:25000地形図(図2a参照)を見ると、大水田地帯からの続いてきた5mの等高線は、新延本村から新延舟山まで自動車道路の北側に沿って描かれている(図2b参照)。このため、新しい地形図からは、新北までつづく細長い水田の標高は残念ながら10m未満としかいえない。これに対して、大正14年発行から昭和28年発行までの1:25000の地形図では、大水田地帯から続く5mの等高線(図2c参照)は新延本村から舟山への歩道を越えて入り込み新北に達している。これらの古い地形図では、新北にいたる水田のほとんどは5m未満となっている。なお、昭和28年発行以前の地形図で示されていたこの付近の5m以上10m未満の領域は現在大部分が住宅地などになっている。

*基準点からの推定

 1:25000地形図からの標高の推定は等高線だけが頼りというわけではない。三角点・水準点・標高点などを使うと、さらに標高の推定範囲を狭めることができる。まず、水田地帯内のこれらの基準点は、その基準点としての性質上、見晴らしがよく、

水田内でも比較的しっかりした地盤をもつ小高い場所、たとえば道路上に設置される。すなわち、これらの標高は実際の水田面より高い位置にある。地盤のゆるい湿地などには決して設置されないことに注意してほしい。基準点の位置は、新旧の地形図に渡って常に同じ場所に設定されているとは限らず、新たに追加されたり、削除されたりする。新旧の地形図について、これらの基準点の標高を調べると3m2mが多いが、1.5mという値も二、三あることが分かった。なお、堤防上の三角点については、堤防の比高をさし引いた値を基底面の標高とした。標高1.5mの鹿児島本線の南側で遠賀川、西川にはさまれた水田も大正時代の地図でも普通の水田で湿地ではなかった。これらのことから、この地域のごく普通の水田面は一応安全をとって見積もると2m前後あるいはそれ以下ではないかと考えられる。

*他の地形図記号読取りによる推定

 いろいろな地形図の記号情報を取り込むと推測範囲をさらに向上させることができる。

遠賀川には、下大隈辺りに人手が入ったことを明白に示す大きな中洲がある。遠賀川がこの中洲で二つに分岐し、実際の流れは遠賀川の堤防で向きを北に変えられ再び合流する。しかし、東側の分流の方向をそのまま辿るように、高さ3mの堤防が上底井野、中底井野を経、現在浮州池と呼ばれる新たな大きな人工池の脇を通り、下底井野、花園と西川まで続いている。この堤防の南側一帯は、現在の地形図では低地は木月池、浮州池の人造池以外はすべて水田になっているが、昭和1030年はかなりの部分が湿地であった。大正年間は多少ましで、水田部分もかなりある。

1:25000地形図「中間」の上端の花園付近は、大正時代の地形図では水田内の三角点の標高値が3.6mとなっているが、このあたりの西川には堤防がない。ところが少し上流の虫生津から堤防が築かれ、さらに上流の新北まで続く。現在の1:25000地形図で堤防の比高を見ると、虫生津辺りで2.0m、新延で2.8mと上流ほどの堤防が高い。水深差は花園付近で1.3m、上流の木月付近で2mと上流ほど深くなっている。昭和13年から昭和28年までに発行された地形図では、虫生津の付近では堤防の内側まで湿地となっているが、その湿地は標高1.5mから2mの水田までは広がっていない。つまり、標高1.5mの水田は湿地と比べると十分高いことを意味している。新延辺りの水位が精確にはどのくらいかはこれらの情報からは分からないが、水深差、堤防の高さの差が標高差を表すとすると、虫生津辺りの普通の水田より、1m弱標高が低いと考えてもよいのではないか。このことから、新延の標高は、虫生津付近の普通の水田を2mとすると1.3m前後、1.5mとすると0.7mとなり、0m地帯の可能性もあるのではないか。

2.4 新北付近の当時の海面

*新北の水深と八尋

平松氏の「浦」や「津」の付く名前をもつ集落が現在標高10mライン付近に沿って存在しているという観察6)は興味深い。過去、この辺りまで海が着ていたことはまず妥当な推測だと思われる(後述)が、この観察および「八尋」という地名から当時の海面水位が1015m位だったろうというのは解釈の間違いであると考える。「八尋」を水深と関連づけておられるが、歌の「潮もかなひぬ」というイメージに合わないのではないか。これは深さでなく、「八尋のワニ」という言い方もあることから、何かのサイズではないか。もしかしたら、これは軍船の長さではないか。ここで八尋の軍船が建造されたとか、その舟のこぎ手がいるかとか、そのような軍船にかかわりを持つ人が住んでいたのではないか。ただし、これについては、責任はもてない。

*海面の上昇

 一方、古賀氏1)の「もし鞍手郡・遠賀郡の海岸線が上昇すれば、同時に日本中(世界中)の海岸線が上昇し、全国の等高線10〜15m以下に多数存在する弥生時代・古墳時代の遺跡は軒並みに水没する」はちょっと困る。海岸線に沿った海面の高さは「地殻変動」と「海面水位の変化」の両方の効果を考慮しなければならない7,8)

すなわち、

1、              地球規模の水循環もしくは局地的な地殻変動を反映した長期的変化

2、              局地的な気候変動を反映したカオス的変動

であるが、どちらも地域差があり、地球上の海面全体が一様に上昇したり、下降したりするわけではない。

海津正倫氏によると、日本列島における海水準については大局的にはつぎのような変化があった82万年前には当時の海水準が現海面下100mあるいはそれ以下と考えられているが、その後変動を繰返しながら上昇し、65006000年前には完新世で最高水準に達し、現在より23m高かったという報告が多い。以後、微変動を繰返しながら現在の水準に達したが、この間、約4500年前の縄文中期および約30002000年前の縄文晩期から弥生時代にかけての時期に若干の海水準の低下がいくつかの地域で報告され、「縄文中期の小海退」、「弥生の小海退」などと呼ばれることがある。小池氏らの有明海北岸地域の研究によると9)、縄文海進極相期の海岸線は現在の標高およそ3mから5mの間にあり、弥生時代はおよそ2.5m付近にある。

 地震のような急激な変動を含めた第四紀の北九州地方の地殻変動は、日本列島内でも少ない方で、ここ200万年間にこの地方は平均すると1000年あたり0.3m以下の割合で隆起している10)。これに対し、近年は1970年代までの70年間の水準測量によると、1000年間で2mの割合で沈降しているようである10)。したがって、新延貝塚、新北含む遠賀川河口域の水田地帯は、断層の報告もなく、同一の沖積層上にあるので、全体としてあまり変化していなかったと考えてもよいのではないか。

まとめると、この地域については、過去の海面水位の変化は主に気候変動によるものであり、縄文晩期から弥生期の海面水位はほぼ有明海北岸と同程度の2.5m前後と現段階では考えてもよいのではないか。これは標高3.5mと報告されている新延貝塚よりやや低位なので、それほど悪い推定ではないであろう。その結果、新延、新北およびそれに連なる遠賀川および西川を含む大水田地帯は浅い海となる。しかし、弥生時代の実際の海面水位がどこにあったかは、実測調査を待たなければならない。

*土砂の堆積効果

 平松氏の上げておられる「浦」や「津」のついている地名の現在の標高が10m15mであるとの観察から当時の海面が標高1015m付近にあったというのは前にも述べたように解釈の間違いと考える。これらの地名の傍らに低地がある場合もあるが、低地がない場合は集中豪雨などによる周辺の山地からの土砂の流入により、これらの地名のついた土地の谷間(弥生期の湾)が次第に埋め立てられたものと解釈する方が妥当と考える。

等高線は10mおき、あるいは低いところなら5mの等高線もあるが、ある地点の土砂流入による埋め立てを新旧の地形図から観察するのは、山崩れでもないと通常は分からない。つまり少なくとも5m近い変化がないと土砂堆積の効果が見えない。しかし、「中間」の地形図内には大正から平成にかけての土砂の堆積を観察するのにひじょうに都合の良い場所があることがわかった。新延と古門の間に緩やかな扇状地があり、その中心を名の分からない川が永谷方面から西川に流れ込んでいる。この扇状地は全体が水田地帯となっていて、この水田地帯を南北に5mの等高線が横切っている。ここでは、ある点の標高変化の代わりに、この等高線の位置の移動から、比較的少量の土砂堆積の様子を観察することができる。大正14年から昭和28年発行の地形図と昭和47年以降発行の地形図では場所によって異なるが、200mから500m前進(下方に移動)していることが分かった。つまり、すなわち、この地域では、数十年間の地形図だけから、上流からの土砂で水田が少しずつ埋め立てられ、標高がゆっくり高くなっていることが観察できる程度の大きさの堆積が下流の平坦地で起こっていると云える。大きな気象変動の影響で堆積量は時期により多い少ないの変化はあるであろうが、この地域の山岳部の侵食作用は比較的速く、下流の平坦部への堆積は大きい。

さて、水深の根拠として挙げられた「八尋」について考えて見よう。大正14年発行の地形図では、この地域以西の山側が軍事機密となっているため、地形図の必要名部分が隠されてしまっているが、少なくとも八尋への入り口の水田は5m未満であり、古江の水田も5m未満になっている。ところが昭和27年発行の地形図では5m以上となっている。つまりここでも土砂の堆積がおこっていることは確かである。

 同様の事態が他の場所でも起こっているはずで、特に上流の山が迫っている谷への土砂の流入量は新延や新北などの平地よりかなり多いはずである。したがって、かつて「津」や「浦」のついた低地の標高が1500年以上の年月で10mを少し越える標高になったものと推測される。新北の南にある八尋と長谷は、その標高が現在それぞれ10m未満、10m以上であるが、これらの土地は上流から急に広がった平坦地で、しかも新北の流出口が狭いという構造となっている。そのため、上流からの土砂は直接新北に吐き出されずに、一端、これらの平坦地で堆積される。そのためにこれらの地の標高が少し高くなってしまったのである。特に長谷は3389m六ケ岳の直下であるので、西川の上流にさらに室木という平坦地を持っている八尋より土砂の堆積は早いと考えられる。新北の水田の標高が新延よりわずかに高く、昭和1030年代の湿地の広がった時期にも湿地にならなかったことも同様に説明できる。すなわち、新北には西川が八尋方面から、長谷川が長谷方面から流れ込んでいるが、新北のところで谷が急に広がっている。ここで土砂が少なからず沈殿したため、川の流れ込みのない新延より長い年月の間にわずかに高くなったのである。しかし、新北の堆積量は上流に「室木」「八尋」「長谷」という土砂のいわば「沈殿池」の役割を果たす平坦地があったために10002000年という長年月、西川、長谷川というかなり大きな二つの川の下流にあったにもかかわらず、小さな川しかない新延とあまりかわらない標高を現在まで保っていたものと考える。これらの考察の確認には、ボーリング調査により、新延の貝塚と同程度の標高に弥生期の遺物があるか調べる必要がある。

多少余談になるが、新北はもちろん長谷、八尋をはじめとしてこの地域にある無数の谷奥の池の標高も説明できるのではないかと考えられる。昔、海だった谷奥に人々が堰を作って海水をぬき、ため池を作った。この池の水の流入側に何らかの細工を施し、水は池に流れ込んでも土砂は池ではなく、池の両側から下流に流れるようにしておくと、池の周囲の標高はだんだん高くなるが、池はそのまま残る。このように標高10mを越えるところにも昔の湾跡がのこっているのではないだろうか。

2.5 標高のまとめ

 新旧の1:25000地形図を基に新北の水田面の標高を推定した。等高線による推定によると、現在の地形図からは10m未満、昭和30年以前の地形図からは5m未満となった。さらに三角点などの基準点や堤防、湿地、小池などの分布を加味して推定すると、新延よりは多少高いが1m前後とかなりの低地であることが分かった。このような標高推定から、新北も新延貝塚と同時期に海に面していたと推定できる。標高値自体は1:25000地形図ではいずれにしろおおよその値である。より精密な現在の標高値については、この地域に近年大規模な住宅開発が行われているので地方自治体の1:2500の都市計画図などを参照するのがよいと思う。

しかし、縄文期も含むが、弥生期の遺跡などの研究には、現在の標高だけから考察は十分でない。単に現在の標高から当時の海水準を考慮するだけではなく、上流あるいは周囲の丘陵・山岳からの土砂の流入による堆積効果も同時に考慮する必要性についても同時に論じた。海が来ていたかどうかの確認には新延と同じ程度の標高に当時の遺物があるかボーリングして調べる必要がある。

弥生期のこの地域の海面水位の精確な値は実測調査の結果を待たなければならないが、現段階では一応、標高が23m付近にあったと見なして考察を進めて良いと考えている。

参考文献

1)       力石巌「万葉八番歌」古田史学会報 No.53

2)       古賀達也「熟田津論争によせて」No.53

3)       (財)日本地図センター「地形図の手引き」III.地形図の図式 1.6 平成5年改訂第1

4)       山崎光夫「沖積世(新石器時代)以降における洞海湾並びに遠賀川流域の地盤の昇降」九州大学教養武研究報告 2、(1956

5)       鞍手町教育委員会「新延貝塚の位置と環境」新延貝塚発掘報告書

6)       平松幸一「新北が津であった時」新古代学 第5集 pp.146-157、新泉社 (2001)

7)       テッド・ブライアント「温室効果による海面上昇は本当に起こっているか?」最新地球環境論 pp.30-36  (1990) 学習研究社

8)       大田陽子「最終間氷期の海岸線に関する諸問題」、変化する日本の海岸、第5章、古今書院 (1996)

9)       海津正倫「沖積低地の発達と海岸環境の変遷」変化する日本の海岸、第1章、古今書院 (1996)

10)   小池一之「人は海岸をどう変えるか」、変化する日本の海岸、第9章、古今書院 (1996)

11)   杉村・中村・井田編「図説地球科学」12.変動の規模と速さ pp.108-117、岩波書店、第5刷 (1991


目次へ