HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 84 2002/04/07 日曜日 08:57 更新 


 

T o k y o 古 田 会 N e w s

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.84 Mar.2002

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博

 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会

 

 

 


 目 次

 1.閑中月記 第十七回 −佐原レジメ−     古田武彦

 2.一の町遺跡と熊野神社 −出雲と神武−    藤沢 徹

 3.古代史の旅『神武の来た道』に参加して         山浦 純  

 4.歩と里の概念      福永晋三

 5.思いがけない出会い

  −八郷町西町古墳出土の円筒埴輪に刻まれた「X」印−  飯岡由紀雄

 6.和名抄にみる駅家・余戸・神戸・刑部名の郷の分布    十川昌久

 7.松ぼっくりがあったトサ その二           福永晋三

 

教室便り

*「改新の詔を読む会」 福永晋三

*「神功紀を読む会」  福永晋三

 

* 友好団体の会報から

 

案内とお知らせ

* 古田先生定期講演会と年次総会

          「上野三碑」を訪ねる旅

          対馬・壱岐の神々を訪ねる旅

お詫びと訂正

会長コーナー      藤沢 徹

事務局便り       高木 博

編集後記       飯岡由紀雄

広告 賛助会員の紹介

 

別紙五畿七道分布表   十川昌久

 

 

1. 閑中月記 第十七回

佐原レジメ    古田武彦

一  

二月二十一日、鴬が鳴いた。まだ寒の中、お水取り(三月十二日)はずっと先なのに、もう冬は終わったらしい。

その日、京都の花の家で上岡龍太郎さんと対談した。ここは嵐山に近い天竜寺、豪商角倉了以の邸宅だが、今は公立学校共済の宿舎になっている。午前十一時から六時間半の楽しい一刻だった。

上岡さんがある学者にわたしの学説についての評価をたずねると、いわく、「あれはエンターティメントですよ。」と。
 なるほど。今、日本列島各地で「聖徳太子展」が行われている。けれども、かつてわたしは法華義疏の顕微鏡撮影を行い、その第一巻冒頭部に、鋭い刃物での「切り取り」があることを発見し、その写真とともに報告した(1)。「所蔵者の名」のあるべき位置だ。

 以来、十四年、どの学者も、一切これを不問に付してきている。もちろん、右の「聖徳太子展」でも、一言もこれに触れない。従って、同所における、聖徳太子関係の諸書籍販売にも、一切その気(け)はない。(古田著『古代は沈黙せず』駸々堂、『聖徳太子論争』『法隆寺論争』〈共著〉新泉社、等。)

 故、坂本太郎さんのすぐれた学者的良心のおかげでなしえた、本邦唯一の科学調査とその詳細な報告論文も、一個の「エンターティメント」と「歪称」するとは。坂本さんの後を継ぐ♀w者たちも、堕ちたものである。

    二

 考古学者の佐原真氏は、批判というより「中傷」に近い文章を公表された。昨年(二〇〇一、一〜五月)である。

 はじめ、一月の特別シンポジウム「前期旧石器問題を考える」のレジメ冒頭に掲載されている、佐原氏の「学問の客観性」という一文を見て、わたしはわが目を疑った。なぜなら、論旨あまりにも粗慢、しかも外国の名誉ある考古学者、メガーズ・エバンズ博士(スミソニアン博物館)に対し、「『捏造』に接近」というきめつけ≠以て文を結んでいる。とても「批判」とは呼べず、「中傷」に類するものであった。第一、「前期旧石器」をテーマとし、例の藤村新一氏による不幸なる「捏造」事件を主題とするこの特別シンポジウムで、なぜ、あのメガーズ・エバンズ説を血祭≠ノあげる必要があるのか。わたしには、皆目不審だった。

 しかし、わたしは考えた。「来月(二月)下旬に上野で行われるという、氏単独の講演会では、もっと詳説されるだろう。」と。今まで接していた氏の論稿が(わたしの立説とは見解を異にしていても)、それとして筋の通った論述をしめしていたことを知っていたからである。が、その期待は裏切られた。聴講者からお聞きすると、右のレジメと同趣旨の反復にすぎなかった。

 それでもわたしは、さらに待った。右の特別シンポジウムを主催された春成秀爾研究室(国立歴史民俗博物館)にお聞きすると、その時の詳報が学生社から出版されるとのことだったからである。五月末、公刊された『検証、日本の前期旧石器』がこれだった。

 一読して再び失望した。レジメが再録された他、格別の「付加」も、「詳説」も、一切存在しなかったからである(2)

   三

氏のレジメの中に、わたしの名前が出ている。それはメガーズ・エバンズ説への「賛同者」としてであり、主たる批判(及び「中傷」)の対象は、無論両氏である。そこでわたしはこのレジメの全文訳をメガーズ氏へ送った。藤沢徹氏(別学部ながら、メガーズ氏と同窓=Bペンシルバニア大学)による正確な翻訳である。(エバンズ氏は、一九八一年逝去。)

これに対するメガーズ氏のお答えは峻厳であった。このような文言に対しては「言葉なし」“no word”の一言以外にない、と。氏の裂帛の息づかいが深くこめられていた。

代って今、わたしが佐原氏の批判(乃至「中傷」)に対して的確に答えたいと思う。

   四

氏はわたしの訳著『倭人も太平洋を渡った』(創世記、一九七七。のち八幡書店)をあげられた。この本の中に、メガーズ・エバンズ氏による一文が収録されている。

「縄文とバルディビアとの関係─わたしたちの『日本─エクアドル』古代交流説に対する、マラーの評価について〈古田武彦の求めに応じて〉」

右の表題にも表現されているように、これは「訳著」者たるわたしの要請に応じて送られてきた好個の論文であった。その詳細は同論文中に明白であるが、今はその一点のみあげてみよう。

「他にも、切実な要因がある。それは、エクアドル(や新世界の他の場所)には先祖(文化的先行物)が欠如している。これとまさに対照的に、日本では、まことに長い、発達の連続≠ェ存在する。だのにエクアドルにはない、というこの事実だ。」(三二三ページ)

右の趣意を改めて箇条書きしてみよう。

(その一)エクアドルと日本列島との間に、同時期(縄文中期を中心とする)において、共通の複合したデザイン≠竍製作手法≠ェある。

(その二)日本の場合、右の時期以前に、数千年の「縄文の伝統」があった。しかし、エクアドルにはそれが欠如している。

(その三)従って「日本→エクアドル」間の伝播と理解せざるをえない。

以上だ。これはメガーズ・エバンズ説における「論証の骨格」であるから、さらに両氏の解説に耳を傾けてみよう。

「エクアドル海岸のもっとも早い℃條の壷は、すでに十分に発達し切った≠烽フだ。

日本の縄文時代には、単純な飾りをもった円錐形の容器から、さまざまの多様な装飾をもった、おびただしいはちや広いびんに至るまで、その長い前進過程が見られる。それがバルディビアの遺跡には欠けているのだ。」(三二二ページ)

両氏の立つ論理性は明白だ。だから、両氏の立説を非とする論者は、右の一点に対する批判が不可避である。しかし、佐原氏のレジメにはその一点が全く欠如している。それゆえ到底、学問的批判とは呼びえないのである。

念のために言えば、かりにエクアドルのバルディビア周辺の遺跡から、両氏調査のバルディビア遺跡出土土器より、さらに古い若干の土器群が発見されたとしても、それを以て右の両氏の立説への反論とすることは全く不可能である。(実は、それらより古い土器群の出土≠アそ、わたしの立論のキイ・ポイントをなしている(3)。)

なぜなら、両氏の指摘するところは、「縄文中期前後」に至る、それ以前の長大なる縄文文明(土器)発達史の存在、それ自身にあるからだ。今問題の、日本列島における「縄文中期前後」の土器群は、そのように長大な、数千年にわたる「文明発達史」なしには成立しえない。これが両氏の根本をなす歴史認識だ。だから、近年になって若干の「先行土器群」がエクアドル等から発掘されたとしても、それを以て「両氏の立説をくつがえす」に足ると思う論者があれば、まさに蟷螂の斧を以て人間の巨大鉄斧と見まがう@゙の浅識ではあるまいか。

ローマは一日にして成らず。この著名の金言こそ、両氏の歴史認識の根底をなし、佐原氏の学的素養において深く欠如したところだ。遺憾ながら、わたしにはそのように見える。

   五

次に、佐原氏の両氏説に対する論難点を列挙してこれを点検してみよう。

その一は、両氏の著述(4)における縄文土器の掲示(写真)が、日本列島各地(関東地方早期の田戸下層式・近畿地方前期の北白川下層式等)の土器片に及び、これらをエクアドルの土器片と比較している点に対する論難だ。なぜなら、肝心の類似対象たる「九州の出水式」(鹿児島県)の土器とは「無関係」だから、というのである。

けれどもこれは、いわゆる「第一読者」の問題に関する、佐原氏の錯認だ。氏の通例の論文・著書の場合、想定されている読者≠ヘ日本人、それも考古学に関心ある学者もしくは知識層であろう。彼等を「対象」とする場合、鹿児島県と関東・近畿とは別地域、別出土領域であること、周知である。

しかし、両氏著の場合、主たる対象は日本人ではない。アメリカの知識層を、主たる「第一読者」としている。その人々にとって「日本列島の全体像と出土分布図」は決して周知≠ナはない。従って両氏が、その全体的出土分布を列挙し、その中の「九州の出水式」(鹿児島県)等を特定していること、その用意はきわめて周到なのである。何の他奇もない。

その上、もう一つの注意すべき点がある。この狭い日本列島中において、その一局部の関東や近畿や九州の各縄文土器が相互に全く「無関係」に成立し、発達した、などと言いうるであろうか。考えられない。

先述の「数千年にわたる縄文伝統」の中において、右の各領域の各土器間に交渉≠竍伝播≠フない方が不思議なのである。

日本列島全体は、アメリカの一州たるカリフォルニアの広さに類同している。この明白な一事を、佐原氏は看過されたようである。

   六

その二は、部分と全体の関係である。佐原氏は言われる。「破片ではよく似ている縄紋土器とヴァルディヴィア土器も、完全な形でくらべると、一方は深く、他方は浅いという根本的な差をもっている」と。

この問題は次のようだ。

@          土器片のデザインの複合的類似≠ェあったとしても、

A          土器全体の形体が異なっている≠ゥら

B          両者(エクアドルの出土土器と縄文式土器)の間に、関係はない。

右の立場である。しかし、ここに

は「伝播の論理」に関する根本の錯認がある。すなわち「AとB」の間の伝播に関し、(1)AとBと「全同」(全面の一致)(2)AとBと「非、全同」(=部分類似)という、二つのケースの存在すること、自明である。一般に(1)のケースは少なく、(2)のケースが通例である。

 たとえば、鹿児島県広田(種子島)の貝製装身具(弥生期)は中国の古代銅器や(れい)書(「山」)の伝播物として知られているが、材質・形状とも、全く両者(中国と広田)異質である。また近畿周辺の後期銅鐸は、中国や韓国の馬鐸や木鐸・金鐸類とは形状や大きさを異にしているが、これも伝播関係を疑う人はいない。(これらを日本側の「中国とは無関係の独自

文明」とは見なさない。)

 以上、もし佐原氏が「土器形状の差異」を以て両者(エクアドルと日本)の「全同」を否定されるならば、よい。わたしも、賛成の側に立つ。しかしながら、そこから「飛躍」し、両者の「無関係」を説き、両者間の「伝播(部分伝播)の否定論」へと一気に奔り去られるならば、失礼ながら、わたしはその「論理の粗慢」と「論証の荒廃」を厳しく指摘せざるをえない。学問に非ざる、思いこみによる「飛躍」の立論以外の何物でもないからである。

    七

 その三は、土偶の有無問題である。わたしが三十余年前、はじめて両氏にお便りしたとき、直ちに御返便があり、その中の中心課題はこの土偶(バルディビア遺跡出土)が日本列島から出土していないか、否か。それを問うてこられたのである。

 わたしは御返事した。「出土していません。」と。しかし「日本人に似た(Japanese like)顔です。」と(5)

この最初の応酬は、今考えるときわめて示唆的≠セった。

(甲)「A(エクアドル)」と「B(日本)」は「全同」ではない。

(乙)しかし、「A」は日本人に似た=i或は日本人好み=jの顔をしている。

この二点だ。ことに一九八〇(昭和五十五)年以降、ブラジルの寄生虫学者アラウージョ・フェレイラの相継ぐ共同研究は証明した。三六一〇〜三六〇年前(炭素14)のミイラ内の糞石から、アジア(なかんずく日本列島)のベンチュウ卵・コウチュウ卵が発見された。

両氏は温度の問題から「ベーリング海峡通過」は不可能。代ってメガーズ・エバンズ説による海上ルート(暖流)を可能なルートとして肯定している。

さらに一九九四年、田島和雄氏(愛知ガンセンター)によるHTLV(ウイルス)及び遺伝子の研究が発表されはじめ、次々と「南米のインディオ〜日本列島住民(太平洋岸)」の同一人種性が報告されてきた。氏は現在のところ、通説(ベーリング海峡通過)によって解説しておられるようであるが、氏の方法の場合、寄生虫問題とは異なり「伝播ルート」とは直接の関係がない。

要するに、すでに右のような自然科学的諸成果が逐次出現し、学術論文として世界の学界に流布しているのであるから、今やあの「日本人に似た」顔の問題も、単なる一個人(たとえば、わたし)の直観≠フみのテーマではなくなってきているのではあるまいか。

すなわち、今やメガーズ・エバンズ(エストラダ)説はすでに世界において孤立してはいないのである。このような学的状況下で、佐原氏が両氏説を「中傷」するにいそぎすぎる@摎R、それがわたしには不可解である。

わたしは提案したい。佐原氏は国立歴史民俗博物館長としての在任中メガーズ博士をお招きし、率直に「異見」を闘わすべきでなかったかと。博士のお人柄からも、もし氏が十二分に学問的なる「礼」をもって招聘されるならば、欣然としてそれに応ぜられるであろう。もちろんすでに御高齢であるけれども、今はまだ十分に御健在である。あの昨年の「九・一一」後、一ヶ月の頃のわたしへの御連絡(藤沢氏を通じて。インターネット)では、まさにそうであった。お互い残された時間はすでに少ない。佐原氏のあのような「無礼」のままでは、わたしたち日本国(国税の)納税者として、心外である。「国費の用い方」にふさわしくない。日本人として恥かしいのである。そのように率直にここに申させていただきたい。かつてわたしたちはメガーズさんをお招きした。一九九五年の秋である。それは『海の古代史』(原書房)の一冊として結実した。貴重な成果を得たのである。しかし佐原氏はこれについても、全く言及も引用もされていない。失礼ながら、不勉強である。館長の繁務を解かれたあと、往年の研究者としての面目を復活される日に期待したい。

本稿を書き始めたとき、それは二月半ばだった。今は三月中旬に入り、ようやく終筆に至った。若干の雑務と共に新たな研究課題の思わざる急展開による、うれしい「中断」だった。昨年の一月からの、念願のテーマに今回挑戦した。なお論じたい諸点があるけれど、次回への楽しみとしよう。竹林の道を歩きゆくとき、いよいよ鶯たちの声しきり。花の寺の桜も、近い。

 

<注>

(1)古田『古代は沈黙せず』(1988駸々堂)(撮影は中村卓造助教授〈当時〉)

(2)今回のレジメは、二十四年前(1977)における、佐原氏のエッセイ(「エクアドルには渡らなかった縄文土器」『東アジアの古代文化』1950)と同主旨の復元≠ナある。ために、右の二十四年の間における種々の参照文献を看過されている。たとえば、1980年以降の数々のアラウージョ・フェレイラ論文(寄生虫)、1983年の西藤清秀論文(関西大学、今回の壷形の異同を論ずる。)と右に対するわたしの反論(注〈2〉の著書、所収。1985)、1991の影井昇論文(「太平洋を渡ったモンゴロイド‐コウチュウ感染から見る人の移動」『アニマ』平凡社、No.229)、そしてわたしの『古代史を疑う』、(1985)『海の古代史』(1996)、『失われた日本』(1998)、「学問の未来」(昭和薬科大学、1996)、『古代史の未来』(明石書店、1998)、そして『「邪馬台国」はなかった』増補版の補章、二十年の応答(朝日文庫、1992)等である。「未見」という遺漏は、誰人にもありうることであるけれど、他を、ことに他国(アメリカ合衆国)の代表的な博物館(スミソニアン)の誇る学者(メガーズ・エバンズ氏)に対して、日本を代表する博物館(国立歴史民俗博物館)の館長たる佐原氏が、中傷的言辞≠公表する場合、もう少し慎重な「検索」と「調査」を望むこと、果たして過ぎたる要望であろうか。二十四年前のエッセイの「語り口」と「主意」を漫然と「再録」するとは、あまりにも不用意。そのようにみなすのは、わたしのみではあるまい。

(3)この点、年来のわたしの主張点であり、講演会等でもくりかえし論述してきた。これらの点、たとえば、『古代史を疑う』(1985駸々堂)〈その九〉参照。

(4)『エクアドル沿岸部の早期形成時代』(メガーズ・エバンズ・エストラダ著。スミソニアン人類学コントリビューションVol.1)

(5)エクアドルのバルディビア遺跡出土の線刻石と日本の上黒岩(愛媛県)出土の線刻石(女神石)との関係(類似性と年代の不一致)について、興味深い問題が存在するのであるけれども、別述する。

   二〇〇二年三月十二日 記了

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