HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 84 2002/03/19 火曜日 12:04 更新 


. 一の町遺跡と熊野神社−出雲と神武−

      文京区  藤沢 徹

久米

 「忍坂の大室屋に人に来入り居り人多に入り居りともみつみつし久米の子らが石椎もち撃ちてし止まむ みつみつし久米の子等が頭椎石椎もち今撃たば良らし」

 「みつみつし久米の子等がにはそねがそね芽繋ぎて撃ちてし止まむ」

 「みつみつし久米の子等がに植えし口ひひく吾は忘れじ撃ちてし止まむ」

      (古事記・岩波大系本)

 

 神武が河内の海で敗戦し兄五瀬命を失い、熊野の山経由で奈良盆地に侵入しようとした時、久米出身の部下の士気高揚に歌った歌である。

 昭和18年3月10日陸軍記念日、東京有楽町の朝日新聞社屋の前に、「撃ちてし止まむ」「皇軍萬歳」のスローガンが掲げられ、日劇に百畳敷もある宮本三郎の「銃剣をかまえて突撃する兵士」の絵の写真が掲げられたことを覚えている人も多いでしょう。

 久米の地と神武の発進地は福岡県の糸島半島の志摩と論証したのは古田武彦先生の「神武歌謡は生きかえった」(古田武彦と古代史を研究する会編十周年記念論文集新泉社刊)

だった。

 地理的に久米は今よりずっと広かったようである。貝原益軒の筑前国続風土記によると「の辺をすべて久米の郷と云う。此村を安富の庄という」とある。太宰管内志によると、芥屋はとありと訓めとある。

 古田先生のいう縄文のケの神様信仰の地かも知れない。(例、気多・気比神社、お化け、、つぼけ、豊大神など)

 丹後の籠神社の宮司だった故海部穀定氏はケの神について、『「ケ」と訓む漢字に食、饌、膳、筍、器、甕、気、家、木、毛等々。気は「ケ」と「キ」に相通ずる。大気、元気、水気、生気、息など気の大神。』といっている。色気、食気、産気なども入るのか。

 志摩郡は韓良、久米、登志、明敷、鶏永、川辺の郷から成り、約1500年前の志摩は海岸線が現在よりずっと奥地に入り込み、加布里湾と今津湾を結ぶ糸島水道があって今の糸島平野は大半が海中にあり、人々は海に近い丘陵地に住んでいたと考えられている。すなわち志摩はであった。地名もこれに由来している。

        (志摩町史より)

 日本書紀によると推古十一年春二月新羅征伐のためこの地に来た聖徳太子の子の来目皇子がここで病没しここで仮葬されてから周防に移されたという。久米は来目皇子の名に因んだというが、実は逆で久米の地に因んで来目皇子と称したのではないか。

 久米の地には神聖な信仰の対象が数々ある。まず、筑紫富士・小富士といわれる秀麗な可也山(365メートル)がある。

 奇岩の洞穴がある芥屋大門の近くの立石山には巨石があり、その南には苔牟須姫神社(桜谷神社)がある。

与土姫神社・桜井神社のご神体として二見ヶ浦の夫婦岩が鎮座まします。の松原を見下ろす山(244メートル)は狼煙を上げて太宰府に敵襲を知らせる戦略要衝だった。

 今山(夷魔山)は旧石器時代の形蛤刃石斧の大量生産地で、福岡県内出土の石斧の80パーセントは今山の硬質玄武岩製という。

 ちなみに、飯塚市の立岩遺跡も笠置山の輝緑凝灰岩の石器製作所で石包丁、石剣を作った。

 久米の隣の泊村大塚には彦火々出見尊の御陵伝承がある。

 さてこの久米の地に昨年大発見があった。

一の町遺跡

 2001年11月22日付朝日新聞(東京版朝刊)は弥生時代中期の大規模集落跡を写真入りで大きく伝えた。福岡県志摩町教育委員会は11月21日同町小金丸一の町遺跡で弥生時代中期後半(約二千年前の同時代最大級の大型建物3棟を含む大規模な集落跡が見つかったと発表した。


 玄界灘に面する大陸との対外交渉の最前線にあたり「魏志倭人伝」などに記述がある「斯馬国」の拠点との見方が出ている。

 遺跡は当時の海岸線近くに位置し、弥生中期前半から後期前半にわたる掘っ立て柱建物跡十数棟や直線に並ぶ列、貯蔵穴などが見つかった。

 集落中央では約50平方メートルのほぼ正方形の大型建物2棟と、長方形の1棟がまとまって出土。このうち1棟は合計22本の柱穴がいずれも1メートル以上でその中に30センチ程度の柱の痕跡が残っていた』

熊野神社発見

 筆者は早速2002年正月、現地を訪れてみた。小金丸の消防署で聞いて農道を入った。

 現地は可也山の北麓にあり、溜池堤防の工事中に見つかったそうである。すっかり埋め戻されて写真のような集落跡はない。

 一の町と言われるからには斯馬国の一番の町だったに違いない。時代が弥生中期後半となると、前末中初といわれる天孫降臨時代からあまり時間が経っていない。いわば日向三代の頃か。神武東行出発の頃と考えてもおかしくない。

 小金丸とは可也山志摩城主原田家家臣小金丸民部大輔良種に因んだ地名で天正時代と新しい。ここは可也山と、桜井(丘陵地)の間に入江が入り込んだ土地で、近くには大塚、親山という郷名がある。しかし「一の町」とは穏やかでない

 この遺跡のすぐ傍にある丘の急な階段の上には熊野神社が鎮座ましましていた。神威厳かな由緒ある神社と見た。

 貝原益軒著「筑前国続風土記」の志摩郡小金丸村の項を開いてみた。以下引用である。

『可也山の北の麓にあり。村俗傳ふるは、民宅の後に、熊野権現異國より渡り玉ふ時、御腰掛て休ませ給ひたりとて、横三尺、縦四尺許なる石あり。底には深く入たりといへり。此石をはたうとひて人にふませす。

又此時旗を立給ひし所とて、此村の内小山のふもとに旗山と云所あり。又熊野権現の御船の先乗して、瀬ふみせし神とて、瀬知と名つけたる小き叢詞あり。よってひそかに思ふに、役行者私記に、熊野権現は、神武天皇なりとあり。神武帝熊野に入給ふ事、日本紀に見えたり。佛者の熊野権現は天竺より来り給ふといふも、神武帝は日向より上り給ふ故、日向も天竺も西の方なれは、似たる事を取合せて称する也。此村民の傅説も、是によれるなるへし。又三國傅記に、熊野権現天竺より来り玉はむとて、先剣をなけ玉ふ。其剣のと々まる所、熊野のと云所也と見えたり。かく其事跡似たる事多けれは、熊野権現は則 神武帝ならんか。又熊野権現の使をは、烏なりと云ふ。神武帝熊野に入んとし玉ひしに、烏の先に飛ひたりし事、日本紀に見えたれは、是又故有事也。然れは此所は則

 神武帝日向よりのほらせ給ふ時に、御休息ありし地なるにや。此地日向より上方へのほり玉ふ順路にあらずといへとも、神武帝日向より豊前を経て、筑前岡の湊に来り給ふ事、日本紀にしるし、岡田の宮に一年留まらせ給ふ事、舊事記に載せたれは、爰にも来り玉ふへし。村中にも熊野権現の社あり。今村民のいひ傳ふるにまかせて、みたりに鄙意を述へ侍へる。此村の枝村に、親山と云所有。其内に大なる石窟あり。南にむかへり。奥に入事三間三尺、横一間、高さ口にては少俯して入。奥は頭つかえず。三方は石をたヽみ、上は大石也。上古の時いまた家居なき時、人の住家成へし。』

 更に、可也山の項に次の文がある。

 『…又山上に権現の社あり。是熊野権現なるにや。又山の北の半腹、小金丸村の方に虚空藏堂あり。今は小なる庵なり。いにしへは大伽藍なりしとて、今に基礎残れり。寺も十二坊ありしと云。其舊址も残れり。…』

 「続風土記付録」の小金丸村熊野権現の項には次の記述がある。

 『産神なり。祭る所三座。伊弉冉尊・速玉男命・事解男命也。相殿に大上戸天神をも祭れり。鎮座のはしめ詳らかならす。社は可也山の麓にあり。昔の社は山上にありしといふ。

舊宮の跡今詳らかならす。』

 古田先生によると、昔神武が若かったとき、山の頂上によく遊びにいっていたと村の古老が語ってくれたそうである。

 一の町遺跡を弥生中期後半遺跡という事実と古伝承だけで神武と短絡するのは早計かもしれない。

 しかし、すぐ近所で糸島水道の船の停泊地だった泊村の属村大塚にも、熊野神社があり凄い伝承を持っている。

 社伝に大塚は彦火火出見尊の御陵とある。ひょっとすると瓊瓊杵尊(紀)の子、山幸彦のこと、鵜茅草葺不合命(記)の父、神武の祖父 のことか。神代巻に見えたる日向の高屋の陵に葬るとあるは是也ともある。鹿児島県姶良郡溝辺町の高屋の山上陵は明治維新の薩摩の仕業か。

 まだある。志登の神洞は豊玉姫なりとある。元岡村ササクマの竜王の祠は鵜茅草葺不合命なり。二神みな近き所にましますも故ある事なりとそと結ぶ。

 そういえば、日本書紀神代下の第十段には本文から一書第四まで話が混乱する。第八段の第六の一書、第十一段の第二から第四の一書では神武が火火出見尊になっている。神武紀にも諱は彦火火出見とある。お祖父さんとごちゃ混ぜだ。神武はヒコホホデミ・ジュニアか。

 

熊野神社とは何だ

 熊野大神は出雲の意宇川の上流熊野山に祀られている神で、出雲では杵築大社より格が上らしい。

 「風土記」で「伊弉奈枳の麻奈子に坐す熊野加武呂乃命」とあり、「延喜式の出雲国造」では「伊邪那伎の日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とある。

 これは、「伊弉諾尊の愛し子である祖神の熊野大神」と

解釈され、語幹は「みけ」である。

ケの神様である。伊弉奈伎の子の建速須佐之男をいうのか。(本居宣長説)

 次に続くのが「國作り坐しし大穴持命」で出雲大社の祭神の大国主命と同じとされる。出雲国造の認識である神賀詞では出雲では出雲大社はナンバー2になっている。

 出雲に比べると、紀州の熊野三山はずっと新しい。奈良時代から平安時代に政治的に強くなった熊野山岳修験道信仰が全国的に広まると、出雲の熊野神社の影が薄くなってしまった。というより、記紀からも消されてしまっていた。

 各地の熊野神社は神仏習合のもと中世以降熊野権現社と名前を変えた。

明治初年の神仏分離・廃仏毀釈により修験道は壊滅的打撃を受けるのは後のこと。江戸時代の名前は全部熊野権現社になっている。

 さて、「続風土記」とその「附録」にある筑前での熊野神社(熊野権現・熊野三社権現・熊野三所宮・熊野社・熊野新宮大明神社・熊野大神社)の三十社を調べた。

 中世以降熊野から勧請した記録のある社を除き、鎮座の初詳ならずとある社の位置を現在の地図の上で照合してみた。

 すると多くが現在発掘された遺跡とダブっている。那珂郡須久村の支村岡本八戸では近くに須玖岡本遺跡、嘉麻郡立岩村熊崎では立岩遺跡、怡土郡染井山では三雲遺跡、怡土郡川原村では井原鑓溝遺跡がある。

 遺跡ではないが志摩郡泊村大塚の熊野権現には彦火火出見尊の御陵、前述の大石器産地の怡土郡夷魔山(今山)の中腹には熊野権現がある。

 メジャーな遺跡で熊野権現がないのは吉武高木遺跡ぐらい。(近くの飯盛三社権現の祭神は少し違う)

 これだけ有名遺跡と関わるとは何だろう。祭神を調べて見た。

 

熊野神社祭神

 共通しているのはの三神を祀ってあること。例によって夫々熊野三山と結ばれている。しかし紀州より出雲とのつながりが深そうだ。

 まず伊奘冉尊で女神。旧石器縄文の女伸信仰の表れか。紀州の熊野那智大社の御神体が滝なのであやかったか、紀伊では大神となっている。

 速玉男之尊は。出雲の熊野大神そのもの。熊野速玉大社(新宮)の祭神は伊弉諾尊になっている。

 事解男命は。紀伊の本宮では素盞鳴尊こと子大神と変わっている。物部氏の祖神の饒速日尊は消された。紀州では、饒速日尊が消され伊弉諾尊に取り替えられている。物部氏の祖神故に消されたのだろうか。しかし、筑前では熊野神社は出雲系の神としてちゃんと残っている。物部氏は更に遠賀川沿岸、高良大社にも足跡があるが、ここでは深入りしない。

 因みに、素盞鳴尊(子の五十猛命も)は筑前で多くの有名な神社に祀られている。例えば、小倉の八坂神社(祇園社)、鞍手郡新北村の剣神社、博多の櫛田神社(祇園宮)、鞍手町の古物神社、宮田町の天照神社、久留米の伊勢天照御祖神社、御笠郡原田村の筑紫神社、各地の貴船神社等々。

 出雲王朝の王者大国主命は素盞鳴尊の子(紀)六世孫(記)で、天照大神の娘の多紀理姫を娶って産んだ子が神、別名

 福岡市で警固から薬院町に移った神社、志摩町村の小烏神社(船越の苔牟須姫の桜谷神社に近い)、奈良県榛原町の神社の祭神になっている。熊野三山のそれぞれの境内社でもある。神武東征に際し熊野の山中を案内したのは建角身で神武の片腕として活躍した。後に御所市鴨神の「高鴨神社」に祀られ、子孫は京都に移り賀茂県主となる。

 烏とはカラスンマクラの黒曜石をいうのでないかと古田先生はいう。八咫は大きいの意で、八咫烏は大きい黒曜石。小烏は小さい黒曜石をいうのだろうか。

 

まとめ

 糸島半島が怡土国(伊都国)と水道で島(志摩国、斯馬国)と分れていたとき、可也山の麓、久米の一の町にあった大集落の跡が出た。

 時期的には前末中初の天孫降臨後の、記紀の日向三代頃に当る。地理的には神武の出身伝承に一致する。神武はこの久米地方の海人を部下に率いて近くの日向から東征に出発した。 一の町の他、今山、立岩、須玖岡本、三雲、井原鑓溝など旧石器縄文・弥生遺跡群は熊野神社の分布から出雲王朝との深い関係が浮かんできた。神武も出雲系の援助があった。記紀にない歴史が一端を覗かせたようである。(史料が古いので行政地名が現在と一致しない)

 

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3. 古代史の旅『神武の来た道』に参加して                  豊中市 山浦  純

 

 旅行案内を見た時、これは面白そうだと直観した。

 この二十年来、私の中で神武は、弥生期の大阪湾の地形と共に確固たる実在だった。

 しかし、日下の盾津(東大阪市)で長髄彦の軍に敗れ、南方(みなみかた−大阪市)を 通って退却し、血沼海(堺市)で兄五カ瀬命が死に亀山(和歌山市)の陵に葬った・・。

そこで私の中の「神武の来た道」は途絶えていた。その先は? どの道を通って吉野へ?

 二月五日、関西空港に集まったのは総勢四十四名。平日の四日間という日程にもかかわらず、北海道や九州からの参加者を含めバスは満員。熱気と盛り上がりが感じられた。

 バスが走り出してしばらくして、古田先生から「神武軍に敵対した祖先を持ったためにいまだに白眼視されている吉野の住人の嘆きの証言」が紹介された。面白いと思った。神

武が「架空」なのに「吉野の住人の嘆き」だけ実在、「架空の伝承によって実生活で白眼視される」−そんな不条理があるだろうか。逆に「神武軍に味方した祖先を持ったために

商売で得をした」材木商の社長の話もお聞きした。もし人あって、柳田国男や宮本常一の様に子孫たちの証言を丹念に集めていけば、それは一つの民俗学になるし、何より神武実

在の強力な傍証になる。かく思ううちにバスは淡島神社から龜山神社へ。

 淡島神社の祭神の一人に少彦名命がいる。この命が博多湾岸で歌った歌が、遙か後代の仁徳期にノリとハサミで挿入されているという。でも、天孫ニニギの征服譚が、ある時は神武期に、ある時は景行期に、と自在に挿入されているという説を知っている者には驚きではない。

 龜山の地も弥生期には海に接していたから、「陸路はるばる」とならず、容易に船で行って五カ瀬命を葬ることができた。ここでも大阪の河内湖の論証が適用できる、と。

 二日目は、熊野那智大社から神倉神社へ。

 神倉神社のお燈祭見学は本旅行のハイライトだ。二月六日の火祭の夜は、五三八段の不規則な石段を、松明を手にした約二千人が一斉に駆け降りる。私たち一行はホテルの屋上

で見学したが、少し遠すぎて祭の迫力が迫って来なかった。「お燈祭りは男の祭、山は火の滝下り龍」と新宮節に歌われた下り龍にならないのだ。でも、遙か二千年の昔から伝わるらしい伝統の祭を思うと、いにしえが偲ばれる。神武が海上から来る時、松明を手に出迎えた故事によるとされるが、これは後代の付会らしい。でも、祭神の高倉下命(饒速日命の子)が神武軍を助けたのは当時からの伝承そのままだ。神武が太陽を背に戦える伊勢まで迂回せずに、この熊野から大和に向かえたのも熊野地方を治めていた高倉下命の力によるものだろう。

 神倉山には書記にいう「天の磐盾」があるという。それは神社の左手の岩肌らしいが、平成二年に神社右手のガマカエルの形をした(?)「ゴトビキ岩」に比定され直した。

当地の伝承を大切にする心が伝わってくる反面、岩肌にリアリティーが感じられなくなって比定し直したというのが面白い。(大分県にあるという本来の天の磐盾は見ていない)

 神武軍は熊野から尾根伝いに吉野に入ったらしい。というのは、熊野から吉野の井光(いひか)まで地名が飛んでいるからである。ちょうど天孫ニニギがクシフルの峯に降臨し

たように尾根は古代の軍隊にとって重要な軍事線である。それを先導したのは八咫の烏―鳥ではなく人間―である。古田先生「カラスのカラは黒曜石を指す。八咫のカラスとは、

指を広げて周囲が八咫もある大きな黒曜石。転じて、黒曜石を探して歩く、いうところの山師―その人たちを『八咫の烏』と呼んだ。だから彼らは山道に精通していて、神武たち

を案内ができた」

 三日目に、神武軍に帰属した弟猾(おうかし)のご子孫にお会いした。略記すると、弟猾の墓はないこと、兄猾(えうかし)は大和のどこかの神社に「隠れ祭神」として密かに祭られているのでは、などと想像を逞しくさせられたことと、神武侵入がつい昨日のことのようにタイムカプセルの向こうから蘇ってくるような一時を過ごせたことはこの旅の醍醐味になった。

 武器が大量に出土したメスリ古墳にも触れたかったが、紙数も尽きた。

 最後に旅行で大変お世話になった高木博さんにお礼を申し上げて、この拙文を終わる。(十四・三・二)

 

 

 


那智大社で由緒書に見入る古田先生

 

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4. 歩と里の概念      立川市 福永晋三

はじめに

中国古典を学んできた者にとって、短里説に対しては、一点の不審がある。それは、歩と里の関係である。加えて、中国から出土した、ものさしに見られる各時代の尺の実測値との関連の問題もある。要するに、短里説には、未だ歩や尺との整合性に欠ける点があるように思われる。

 

歩と長里の関係

市販されている漢和辞典の付録を見ると、例えば角川書店の新字源の場合、周から隋までは一里=三〇〇歩、すべて長里であり、四〇五bから五三一bの値が並ぶ。(唐以降は一里=三六〇歩となる。)

周代と三世紀魏の歩と里の数値は、次のようだ。

周 歩=一・三五b、里=四〇五b

魏 歩=一・四五b、里=四三四b

「周制三百歩を里と為す」が大前提となっていて、これを疑う者がなく、右の里の長さが通用していた。それには、歩の語源と概念が大きく関与している。歩は甲骨文「 」に見るかぎり、左右の足のあとの象形で、あるく意味を表す。これが長さの単位になると、ふたあし、英語の2ステップスに相当する(左図参照)。

 


新字源よ     ここで、注意を要するのは、一歩=六尺の数値であろう。

『史記』の「管晏列伝」に、春秋時代(周)の斉の宰相晏子に仕えた御者の逸話が記録されている。そこに、晏子の身長が「六尺に満たない」ことと、御者が「八尺」の大男であることが書かれている。『中国古代度量衡図集』(北京 文物出版社)によれば、周には戦国時代のたった一本の、しかも伝一九三一年河南洛陽金村古墓の銅尺しかないようだ。この一尺が、二三・一センチb。新字源が二二・五センチb。新字源の数値から言えば、晏子が一・三五b弱、御者が一・八bとなる。

「漢代の史記」の中の、「周代の尺」と身長に関わる分かりやすい貴重な記録と言わざるを得ない。

右のように、人体から自然に派生した長さと、先の大前提が合わされば、従来の歩と長里の関係のほうがむしろ整然としているのである。

 

短里の実在

 では、周代の里は短里ではないのか。谷本茂氏の『周髀算経』の計算結果から見れば、やはり、短里が存在しよう。管晏列伝が前漢、周髀算経が後漢の編纂のようだが、記された内容は共に周代の単位そのままである。したがって、歩(六尺)も短里も正しいはずだ。

神功皇后を追求しているときに、倭国に伝わる短里を発見したようだ。

万葉集に、山上憶良の詠んだいわゆる「鎮懐石の歌」がある。その序文に、「子負の原 海に臨める丘の上に二石あり 深江の駅家を去ること二十許里」(抄出)という文句が見える。石のあった場所は、現在の鎮懐石八幡宮(地図左)と考えられ、福岡県二丈町の教育委員会もここを基点にして、深江の駅家を探そうとされている。平成九年二月六日発行の広報「にじょう」二月号では、八幡宮から直線約八百b東に出た、塚田南遺跡(地図右端)を比定地の一つに考えている。その中で、苦慮されているのが、里問題。「一里五三四b、一〇キロ以上になり、狭い深江の中に深江駅家と子負原があることなどありえなくなってしまう」とされている。長里では無理なのだ。

 この狭い深江こそ、如実に、周もしくは魏朝に関わる短里が残されているとしか言いようがない。山上憶良は、筑紫の古老からの伝聞を書きとめたに過ぎないから、直線距離であれ、道なりの距離であれ、塚田南遺跡は最有力候補と考えてよいのではないかと思われる。親魏倭王の領域を証明する格好の遺跡ではないかと考えている。

(「にじょう」および塚田南遺跡周辺地形図は、鎮懐石八幡宮宮司 空閑俊明氏に頂いたものです。改めてお礼申し上げます。)

 

塚田南遺跡

テキスト ボックス: 塚田南遺跡

鎮懐石八幡宮


テキスト ボックス: 鎮懐石八幡宮


 


 

 

歩と短里の関係

 

 右のように、短里の存在も確実であるとすると、問題は、「周制三百歩を里と為す」に集約されよう。これの出典は『孔子家語』「王言解」である。孔子家語は、魏の王粛の偽作といわれる。『春秋穀梁伝』にも「古は三百歩を里と為す」があるが、日中の学者はどうやら、孔子家語に拠ったらしい。

 魏志倭人伝の里も短里であれば、すなわち、魏が周制に復したのであれば、この問題は極めて重要である。

 なぜなら、魏朝の「歩と里の関係」についての考え方は、秦漢の長里のあり方を誤って引いた可能性があるからだ。

それは、史記の秦始皇本紀にある「数は六を以って紀と為す」というあり方である。秦の始皇帝は度量衡の統一に当たって、周の時代の数値を六倍にしたという。この事実から逆算すれば、周の一里はあるいは五〇歩ではなかったか。つまり、人体を基にした歩の実数は変えようがなく、五〇歩=一里を三〇〇歩=一里に替えたのではないかと推測されるのである。従来の数値から計算しても、一・三五b(歩)×五〇=六七・五b(里)という、周代の歩と短里に関する記録のどちらも正しいとの概念が成立するのである。

 

 五十歩百歩の再認識

 

 こう考えると、俄かに重要性を帯びてくるのが、あまりに有名な「五十歩百歩」という故事成語である。

 戦国時代(周)の孟子と梁の恵王の政策問答に由来する。「戦場で五十歩逃げても百歩逃げても、逃げたという点では変わりないこと。表面的には少しの違いはあっても本質的には同じである意。大差がないこと。」

 この「五十歩百歩」が、もしも「一里二里」に同じなら、「少しの違い」や「大差がない」という成語の眼目は、短里説にこそよく合う。すこぶる合理的だ。筆者は、ここに「見失われた歩と里の関係」を見ている。

 ただ、残念なことに、五〇歩=一里の直接史料は今のところ見当たらない。

 

孝徳紀の証明

 

 ところが、再び日本の側に、貴重な史料が残されていたのである。

 孝徳紀の次の一節である。

「五十戸を里とす」

 日本古典文学大系には、「この文章は養老戸令、為里条の『凡戸以五十戸為里。…』と同じ。」との補注までついている。この令が、九州王朝からの盗用である可能性も考えられるが、ここで大事なのは、中国から影響を受けたわが国の律令の中に、「五〇=一里」の換算が残されていることである。これはあくまで、「戸」に関する史料なのであるが、その数値および一方が「里」であることは、中国の「見失われた歩と里」の補証に成り得ると筆者は見る。

 

歩と里の概念

 

 魏朝が里の長さを周制に復したこと、および一里を三〇〇歩としたことは、歴史的事実と見られる。文献もそれを支持する。したがって、この王朝の「歩」は、新字源によれば、二四・二センチbとならざるを得ない。片足の長さであり、英語の1フィート(正しくはフット)約三〇センチbの概念に近い。これが現実に行われたから、大漢和辞典などにも、歩の長さが「ひとあし」とされる、もう一つの説明が、残されたと考えられる。「歩」の語源とは合わない、言わば「誤った歩」が施行された結果と考えられるのである。従来の長里説は、「魏朝の復古の際の誤り」に基いたもののようだ。筆者は、易姓革命のもたらした錯誤と捉えている。

 

(なお、中国から出土した「尺」のものさしからは次の数値が得られている。

三国魏 二三・八 センチb

三国呉 二四・二 センチb

二三・五 センチb

西晋  二四・一五センチb

二四・四七センチb

二四・三 センチb

二四・五 センチb )

 ようやく、周と魏がほぼ同じ長さの短里であったことが、自分なりに得心できた。それと同時に、魏志倭人伝に残された「径百余歩」の卑弥呼の冢についても、今は迷わず、直径二五bほどの円墳であることに同意できる。

 

周 歩(ふたあし)=一・三五b、

里(五〇歩) =六七・五b

魏 歩(ひとあし)=〇・二四b、

里(三〇〇歩)=七二・五b

 

 右が、従来の長里数値と再認識された短里説とを筆者の仮説で整合し直した、新しい里数値である。

 

おわりに

 

 今回の自問自答で得られたのは、『史記』には、「周代の度量衡」と「秦漢の度量衡」とが併記されているという単純な結果である。「里」に絞れば、短里と長里は並存しているのである。対照的に『三国志』には、「魏・西晋の短里」と「秦漢の長里」とが併記されているのである。

 右の概念の成立するかぎり、「魏志倭人伝」は短里で書かれているのであり、親魏倭王の国は、北九州とその周辺にしか存在しないのである。

 

二〇〇二年一月五日草稿

三月十六日記了

 

 なお、この文章は推敲して他の機関に発表する予定です。それまでは、筆者に無断での引用および批判を固くお断り申し上げます。

 

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5. 思いがけない出会い

   −八郷町西町古墳出土の円筒埴輪に刻まれた「X」印−

 

     杉並区  飯岡 由紀雄

 

今年の正月、高校の同窓幹事会の新年会の呼び出しがあり日立方面にでかけることになった。東京から車で高速道路を利用すれば片道二時間三十分ほどの小旅行である。

何度も利用しているルートなので点と点を移動するだけの旅行に物足りなさを感じ、地図を広げてみた。目に飛び込んできたのは昨年の秋、文化の日に会員有志(高木事務局長、田遠、福永)達で勝田の虎塚古墳を見学した際に時間の関係で見学を諦めた石岡周辺の地域だった。石岡は常陸国府の置かれた場所で隣接の霞ヶ浦地域とともに「常陸風土記」の中心世界として描かれている所でもあるので、この機会に思い切って訪問してみることにした。(虎塚古墳:装飾古墳として有名。年2回、春と秋に一般公開される。今年は4月4〜7、11〜14日ということなので興味のある方は出かけてみてください。問い合わせ先はひたちなか市教育委員会、文化課 Tel 029-262-4121 担当 住谷(すみや)係長。東京古田会といえば分かります。)

常磐道を桜土浦ICで降りて国道6号を経て354号線沿いに地形、風景を確かめるように暫く車を走らせて見た。

霞ヶ浦町と町名変更される前は霞ヶ浦に突き出た土地ということで出島町と呼ばれていた。

海進の影響によってこの土地を流れる二つの川、菱木川、一ノ瀬川沿いは枝状台地が広がりその台地の上に多くの古墳が築造され、茨城県で屈指の古墳密集地帯である。

丘陵状の土地を走っていると日当たりがよく、以前訪れた九州の志摩半島、国東半島を思わせる風土であることが感じられる。

現在も雪はほとんど降らず、気候温暖、海上交通の便、海の幸、山の幸に恵まれているということであれば「常陸風土記」に描かれているように、民衆が遠くは相模の国から食料持参で春と秋に背後に控える筑波山に伴侶を求めて訪れた「歌垣」を支えたものは、この自然条件なのではなかったのかと思えた。倭武天皇が舟遊びを楽しむ一方で、近づけばすぐ逃げてしまう土蜘蛛と記紀が表記した先住民を美しく飾り立てた舟でおびきよせては彼らの住処である穴倉にあらかじめ茨を置いておいて(茨城の名の起こりという)追い詰めては殺戮したという記事から分かるように縄文の時代からこの気候風土は多くの人々を養いつづけて来たに違いない。

もっとこの土地を概観できるところは無いかと思って、地図を広げてみると郷土資料館がありそうなので、そちらへ寄ってみることにした。霞ヶ浦町郷土資料館、出島にあったという城を模した立派な資料館である。資料館の職員の方に話をして弥生、古墳期の出島を簡単に紹介している資料があるかどうか尋ねると、以前、資料館の開館十周年記念展示会(1997年)のときの資料を、評判が良かったのですが…と言いながら紹介してくださった。題名は[霞ヶ浦の首長]、副題は古墳にみる水辺の権力者たち。霞ヶ浦と石岡近辺の古墳と出土物が簡略に紹介されている。一部購入してページをぱらぱらめくっていると驚く一枚の円筒埴輪の写真が目に飛び込んできた。4段に分かれた埴輪の最下部にくっきりと<X印>が線刻されているのを拡大した写真が掲載されているのである。出土した古墳は八郷町(やさとまち)にあるという西町(にしまち)古墳。職員の方に所在を尋ねたがよくわからないという。

地図で八郷町の場所を確認してみると石岡から筑波山の麓よりの所で笠間に抜ける道筋にある町だと分かった。同じ風土記に語られている不二山に宿を頼んだが断られ、筑波山に宿を乞い、受け入れられたという御祖命(ミオヤノミコト)の説話が頭に浮かんでくる。

御祖命はその巡行の帰り道だったようなのであるが彼は筑波山に宿乞いをして、身なりを整えてから、当然お供の人々はいたろうから、伴連れを引き連れてどこへ帰っていったのだろうか…などの疑問が湧いてくる(どん突きに当たる笠間はその地名からして有力な候補地であろう。笠は有力者、貴人のいた土地にふさわしい名称であるし、それより以北は白河の関を越えることになり蝦夷の土地であったろうから)。

<X印>、1984年神庭荒神谷から出土した358本の銅剣のほとんど(350本近く)に線刻され、1997年加茂岩倉出土銅鐸の一つの吊り手部分にも鏨(たがね)で打ち込まれているという。97年、池袋の東武美術館で催された「古代出雲文化展」でその線刻を見たが、その後、新聞紙上でも大いに話題になり、古田先生も製作工房集団のマークではないかとの見解を出されて以来、自分でも何なのだろうと気になって、何度か先生と話をさせて頂き出雲を象徴的に表し、現在もその神社様式の屋根に高々と乗る<置き千木>を象ったものではないかとの自分なりの意見を述べさせて頂いた。

屋根に置かれた<X印>千木は霊木、祖霊神の降臨する神霊樹であろうし、現在、大いなる、ある時点で統治可能な日本の全ての領土を統治した出雲のシンボルなのではないか?そして、それを数字の「八」が表している。これは会報ですでに福永君に紹介して頂いたように日本海沿いに点在する、現在考古学で言われている四隅突出墳(残存した言葉と墓形の整合性からみると実は、八隅突出墳)に眠る大王にかかる枕詞として当初使われたと思われる八隅知之(安見しし、ヤスミシシ)の真に意味するものの発見、また、四方八方、八方ふさがり、八州(関八州、大八州[オオヤクニ])などの言葉が現存しているように、余すところの無い全領域を表している。<X印>はその「八」の交差した形だと今、思っています。

中国ではそれが「八」ではなく「九」に変っていった。あるいはもともと「九」であったものと思われる。その伝統的用法・考えから天子は九軍を率い九州を統括するということになっていったのではないか。

八重と同じく九重(宮中?)という言葉があるが「八」は末広がりで縁起がいいというこじつけからか生活用語としては八重のほうが日本では安定的に好まれてきたようである。

九重は天孫族が出雲族を追い落とした時から、あるいは九州王朝が天子を自称してから使われだした言葉なのかもしれない。九州の言葉と同時期か?日本語としての認知度、使用頻度からすると八重と比べるにどうも安定性を欠いている気がします。

それが出雲の地を遠く離れた石岡近在の八郷町(この町名も出雲に関係するような「八」の字をその町名にもっているのが気になるところである)の西町古墳(現在の村役場の近くであるという)出土の埴輪に刻まれているのである。

<X印>が話題に上り加茂岩倉の銅鐸報道と併せて、荒神谷についての夥しい出版物が書店の店頭を飾った時に、この西町古墳の埴輪に言及した記事が掲載された出版物があったこと、話題に上ったことは寡聞にして知らない。

出雲の地以外にこの<X印>が見られるということは、あの埋められた358本の剣は出雲の地に、「神集い」のために参集した神々の持ち物だったのではあるまいか。

中国の周代すでに、封建制度は始まっていたろうから「論衡」(後漢AD25-220の王充?〜192年著)に記されているように周王朝に朝貢した倭人達はそれがどういうものであるか知っていたろうし、大陸から主に朝鮮半島(スサノヲの説話から判断するに新羅経由か)を経て、当時のあらゆる技芸・知識が持ち込まれたことは理解できる。その記憶が出雲建国に関った主要な登場人物スサノヲとその家族、大国主、少彦名が今なお農林業、医薬、酒の神として各地の神社に祭られ、記紀にも記され伝えられている理由なのではあるまいか。各地の有力者は当時の先端技術・知識を導入するために出雲王家に、あるいは王家より派遣された臣下に臣従を誓い、王家はその見返りとして王家の象徴を刻んだ銅剣を下賜する。あるいは王家の紋章の使用を許す。そして天孫降臨によって統治権が天孫族に移動したときに、荒神谷あるいは加茂岩倉の地で大社に高々と、息子の覚悟の入水自殺と敗戦・降伏の事実を知らされ、生きながらの死を与えられて幽閉された大国主(かつての主君)を眺めながらひっそりとかつ粛々と下賜物の埋納儀式があの山かげの地で執り行われたのであろう。(荒神谷では火を焚いた祭儀が執り行われていたことが報告されています。その年代は炭素年代測定法によると500〜900年頃であろうということです。従って、現時点では埋納時の祭儀ではないとされているようです。)

そして、天孫降臨についても単に天孫族(海人族)が出雲族の大国主から国を奪い、権力が移動したとだけ理解するのではなく、天孫降臨によって変ったものは何か、変らなかったものがあればそれは何かが見極められなければと思います。古代の祭政一致の政治形態を考えるに、宗教祭儀方式および政治方式の二つに大きな変動があったのではと思うのです。

古田先生が説かれたように新しい指導者達が作り上げた弥生の新作神話は記紀に記録されることにより、かつて仏教がその役割を担ったように民衆教化の役割を見事に果たして来ていますし、21世紀の現在もなお日本国民を歴史の真実からほど遠い所に置かしめています。博多湾岸糸島の地に侵入した指導者達は降臨後の現実の統治を前にして、さらなる権威付けのために土地の有力者との婚姻による血縁作りばかりでなく、それまでとは違う新しい指導理念・宗教祭儀を必要としたであろうと思い至るのは容易です。宗教祭儀につきましては出雲大社、熊野大社、諏訪大社のものから思うに、火を鑽り出したり、銅鐸や鉾を鳴らして神託を伺うことで決め事の正否を占うという方式から神官が羽振りあるいは神舞を鏡を持って、あるいは舞台の周りを鏡で飾り荘厳な太陽の光の反射の中で舞う(イザナギ、イザナミの時代は太占(フトマニ)という骨卜による占い)ことで神託を伺うといったように、またその具現化の統治につきましては神託を伺う者と実行する者が出雲のように大国主が唯一人の一人統治型から高木の神と天照神のセットが示すように、それぞれの役割分担による二人統治型(兄弟統治)へと変っていったのではないか。あるいは大国主時代の一人統治型からそれ以前の二人・複数統治型へ戻ったのかもしれません。現在、手元に資料がないのではっきりしたことは言えませんが銅鐸や鉾を鳴らしたり、火を鑽りだしてその焼け焦げの痕を見て吉凶を占うのであれば、それまでの骨卜と同じように前時代的な感じがしますし、それよりも着飾った神官あるいは高揚感の中で巫女さんが太陽光の反射を浴びて舞い踊りながら神託を述べる姿に、新時代の匂いを嗅いでしまうのですが如何でしょうか。天の岩戸の説話はこの新・祭儀方式の出現を語るものだったのではないでしょうか。もちろん、天孫降臨は魏志倭人伝にも「南北に市糴す。」と書かれたように食糧事情が国盗りの最大要因であることに違いはないでしょうが、出雲の宗教、政治の方式が天孫降臨後もそのまま何の変動もなく引き継がれたとは思えないのです。

色々考え込んでいるうちに、陽も西に傾き、資料館の最上階から展望する霞ヶ浦の湖面には冬の力を落とした弱々しい西日が照り渡り、資料館を後にして車のハンドルを日立方面に取った時には翳りゆく日の光を背にして、その山の稜線をくっきりと浮かび上がらせた二つ峰の筑波―常陸の二上山―は西日の光に姿を輝かせて、古代もかくあったろうと思われる神々しい姿を見せていた。

以上、これからの探求課題を羅列した指標めいた推論ばかりになってしまいましたが、思いつくままに八郷町・西町古墳から出土したという円筒埴輪に刻まれた<X印>について考えてみました。

後日、旅行の旅程作製のために八郷町のほうへ問題の円筒埴輪の所在確認のために何度か電話を入れさせていただいたところ係りの方から返事と写真の載った説明書をFAXしていただいたのですが、その説明書きにーx印―は現在、製作窯元の印ではないかと考えられているとの見解が付けられていましたが<X印>の付けられた埴輪もまだ、何個かあるらしいのです。ただ、素直に感じるのは異なった地域であるならば異なったその地域の製作元の印が付けられると考えるのが自然ではないでしょうか。同一のマークならば何故、時空間を隔てて同一であるのかが改めて問われなければならないと思います。あるところ(この場合、出雲)からの葬祭の儀に伴った下賜品であるという可能性を含めて。

また熊野旅行の折に古田史学の会・北海道の高田さんから諏訪大社の御柱にも<X印>が刻まれていると教えて頂きました。会員の皆様のご意見等ありましたらお送り下さい。

3月3日には高木事務局長の取り計らいで見学会が催されるということなのでまた報告できる機会があればと思います。

2002年2月18日  記

 

西町古墳の「X」印の刻まれた円筒埴輪


 


 

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6. 和名抄にみる駅家・余戸・神戸・刑部名の郷の分布について

世田谷区 十川昌久

 古代の地名を研究するには「和名抄」が最適である。正式名は「和名類聚タ」で、わが国最初の分類体百科辞典、源順編。承平年間(931-938)に成立。その「和名抄」を調べてみると、不思議なことに気がついた。それは表題の地名が「西海道=九州」には存在しないのである。五畿七道、全国68ヶ国、589郡、4029郷の郷名に律令体制に関係する名前としての駅家・余戸・神戸・刑部の郷名があるが、この4つの郷名が西海道には見付からないのである。全国で駅家が79郷、余戸97郷、神戸54郷、刑部が16郷存在する。範囲を広げて、郡家・都家を含めて駅家グループが94郷、忍壁を加えて刑部グループが17郷、全戸を加えて余戸グループが100郷となり、4つの郷名合計が全国で265郷にもなる。4029郷の内の6・6%も占めるのに、である。

 特に「神戸」については、筑前国の宗像大社には「神郡」が認められており、西海道全体で郷名が存在しないことはきわめて不自然である。「神郡」がなくても「神戸」があるなら納得もいくがどうだろうか。


 

 和名抄にみる「駅家」「余戸」「神戸」「刑部」名の郷の分布数 

五畿

駅家

余戸

神戸

刑部

その他の

七道

郡家、都家

全戸

 

忍壁

特長点

摂津5

山城2、大和1、河内3、
摂津5

大和4、摂津1

河内1、摂津1

 

5

11

5

2

 




伊勢2、志摩1、尾張2、
三河3、遠江5、駿河1、
相模4、武蔵11安房1、
下総1、常陸1

伊勢1、志摩1、尾張2、
甲斐1、相模3、武蔵11、
安房1、上総1、下総5、
常陸2

伊賀1、伊勢5、志摩2、
尾張3、遠江2、駿河1、
安房1

伊勢1、三河1、遠江1、
駿河1、上総1

 

35

28

15

5

 



近江4、美濃10、上野4、
下野3、陸奥8

美濃2、飛騨1、信濃2、
下野3、陸奥18、出羽6

近江2、信濃2

信濃1、下野1

上野・浮囚3

29

32

4

2

 



若狭1、加賀2

若狭2、越前1、能登2、
越中1、越後1

若狭1、越前1、能登2

 

 

3

7

4

 

 



但馬1

丹波4、丹後1、但馬2

丹波1、丹後3、因幡1、
伯耆1、出雲2

丹波1、因幡2

 

1

7

8

3

 



備前1、備中3、備後3、
安芸2、周防4、長門5

播磨4、周防3

播磨3、周防1、長門3

備中2、備後3

播磨・夷浮2

周防・浮因1

18

7

7

5

 


紀伊1、淡路1、讃岐1

紀伊2、阿波2、伊予4

紀伊8、伊予5、土佐1

 

 

3

8

14

 

 

西

 

 

 

 

 

合計

94

100

54

17

 

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