HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 84 2002/03/19 火曜日 12:09 更新 


7. 松ぼっくりがあったトサ その二       立川市 福永晋三

 

前回のまとめ

 

 日本の最も代表的な木瓜紋が、松の球果すなわち松ぼっくりの輪切りの具象であることを突き止めた。

 

       
   
 

 

 


「もっこ(モッケ)」と「ぼっくり(ボックヮ)」と「きゅうり(きうり)」とが、呉音・漢音・訓読みとで全く同一のものを指していたことを明確にし得たのである。下図は、前回掲載できなかつた紋章である。日本家紋総鑑(角川書店)から借りた。

 また、本来、松の紋章であるから、松の強い火力を利用して製鉄等に携わったと見られる氏族が、その使用氏と考えられる。すなわち、古代の筑紫物部氏から、この家紋は始まったのではないかと推測した。(家内の郷里は陶器で有名な益子だが、重油

を使い始める前は近隣の赤松林が見る間に伐採されたという事実がある。それほど松の火力は強いということだろう。)

  木瓜紋の使用氏族

 

 日本家紋総鑑は、物部氏には触れないが、ある興味深い記述がある。「木瓜紋を用いた代表的な氏族は日下部氏、伴氏、紀氏である。」

 高良大社のご神紋が木瓜紋で、水沼の皇都に君臨した天子の姓が紀氏とする福永仮説は、ここでも偶然とは言いがたい一致を見る。さらに、

「武家で?紋を最初に用いたのは越前国の朝倉氏で、『日下部系図』には朝倉太郎が白猪を退治して頼朝より木瓜紋を賜ったとある。…この使用氏を見ると当時、ほとんどが西国の諸豪であり、…織田氏が木瓜紋を用いたのも、朝倉氏から受け継いだものである。」(傍線は福永)

 ?(か)紋とは上図の織田瓜の別称である。注目すべきは、日下部氏の子孫、一族が西国において、木瓜紋を用いたという事実であろう。日下部氏は孝徳天皇の子孫とされるが、代々但馬国養父郡を領して大いに栄えた。朝倉氏はその一族である。源流は、天皇・天子にかぎりなく近いことを意味しよう。(伴氏は別の機会に譲る。)

 そうすると、先の紀氏(高良大社)と日下部氏(古代丹波王国?)の例、それに戦国時代の西国の諸豪が木瓜紋を使用したこととを冷静に見るとき、木瓜紋の分布と古代倭国の領域とに「重なり」を見出すのは果たしてわたしだけであろうか。

 

日本国最後の木瓜紋

 

戦国時代を最後に統一したのは徳川家康である。この武将が、松平姓を名乗っていたときの家紋は、およそ左下のようである。

 

意外なことに、三つ葉葵ではなく、平が示すように、三つ松毬(かさ)であつたようだ。つまり、木瓜紋の一種なのである。

 卑見を述べさせていただく。戦国時代の武将は、古代物部氏から続く家系を誇りにしたのではないか。彼らが争ったのは天下の覇権だが、それは同時に「もののふ(武士・物部)の棟梁」になることと同義だったと考えられる。

 しかし、古代の物部氏の秩序、すなわち上下関係を守っていては、下位の者は棟梁に立つことはできない。越前二の宮の神官の出に過ぎない織田信長が、天下布武を達成するに当たって、主家筋の越前朝倉氏を滅ぼし、果てには、越前一の宮気比神宮を焼き討ちにした事実は、新しい時代の新しい棟梁になるための必然の手段を物語るのではないか。下剋上の世がそれを可能にしたのである。

 右大臣信長の跡を継いだのが、関白秀吉。羽柴筑前守として九州征伐に赴いた際、高良大社に行き、大祝(おおほうり)を除く神官を斬り殺すという狼藉を働いたと仄聞した。そうまでして得たもの、それが豊臣姓と筆者には推測される。天皇が豊君の大義名分をもし継承しているなら、豊臣は藤原に替わって摂政関白になり得る。その後、秀吉が関白に就き天下人となったのは歴史事実。紋は太閤桐、朝廷から下賜された。    日本家紋総鑑には実に貧弱な紋が掲載されている。朝廷からの下賜であることから元は相当立派な紋と考えられる。ここにも敗者への貶めの歴史がありそうだ。  

朝廷からの立派な桐紋を想定するとき、ある桐紋が浮かぶ。高良大社に近い、福岡県瀬高町の「こうやの宮」に、七支刀を持した木像を始め、五体の木像が伝わる。宮の当主と思しき衣冠束帯の木像の御衣に描かれたのが、朝廷の桐に酷似した桐紋である。不思議な点が不思議な線に結ばれつつある気がする。

 秀吉の死後、江戸に幕府が開かれた。松平改め徳川氏の天下となった。 実は、それ以前に信長が将軍義昭から桐紋を下賜されている。秀吉は右記のとおり。慶長一六年(一六一一)徳川将軍家に朝廷から桐紋下賜の御沙汰があったが、徳川氏は断った。朝廷の権威は傷つけられ、逆に徳川氏の葵紋の権威をあげることになり、以後、朝廷は菊、桐紋の下賜の習慣をとりやめたと、日本家紋総鑑にある。こうして、葵の紋所すなわち日本国最後の木瓜紋が最高位の紋となったわけだが、それは奇しくも物部氏が、再び桐・菊の天皇家を凌駕したとも考えられる。(初めの事件については次の機会を得たい)

 戦国時代の天下統一は、見方を変えれば、織田瓜が先駆け、太閤桐が継ぎ、徳川葵「実は松平三つ松毬」が成し遂げたと言えなくもないのである。それらの淵源が古代倭国、出雲・九州にありそうだと筆者は見る。家康は死後、東照大権現を贈られたが、これは「東照大神」と同義と思われ、「天照大神」と対を為す諡号と考えている。

 畢竟、戦国時代も古代からの悠久の時の流れの上にあるという、当然の帰結を得たようだ。

 

 松かさの実体

 

松平の紋と推定される紋様から驚愕の新展開が現れた。他でもない。「松かさ」の実体が知れたのである。

もっこが松ぼっくり、松の球果であることはほぼ確実になつてきたと思われる。前回で、これを「松かさ」のことと解説したが、これにも長い混同の歴史が横たわつていた。

松かさを辞書で引くと、先と同様、【松毬】まつの実。まつぼっくり。とある。常識では、まつぼっくりが「松かさ」と同一であつた。筆者もこの常識に染められていた。しかし、どうやら、その常識を超えて、松かさを分別すべきときが来たようだ。

松かさは、訓読みから漢字に素直に戻すなら、「松笠」「松傘」となるべきだ。これはまた、「笠松」「傘松」でもある。先の「(三つ)松毬」図の上に最も代表的な「(三つ)笠松」紋を掲げておいた。これこそが本来の笠松であり、松笠なのである。

 そう考えが及んだとき、我々はすでに、古代のあまりにも有名な、金文といってよい五〇〇点近い遺物に、真の「松笠」を見ていたのであった。

最古の松笠紋

 

三角縁神獣鏡。

権現山五一号墳二号鏡写影部分

 

これらの中に、日本考古学界において「笠松文様」と呼ばれる文様が、厳然とある。右図の場合、左側には、従者が主人と思しき人物(東王父、仙人説等あり)に、「松傘」を捧げているように見える。右側には、巨(矩、さしがね)を銜えた神獣が、その脚に「松笠」を捧げ持っている。三角縁神獣鏡の研究史の新しい方から云えば、例えば、小野山節氏「三角縁神獣鏡の傘松形に節・塔二つの系譜」に云う「傘松形」であり、藤田友治氏「卑弥呼の鏡と三角縁神獣鏡」(新・古代学第4集)に云う「旌飾の笠松文」である。

筆者の求め続けた「幻の弥生・古墳期の旗印」の一つが、見方を変えた途端に、朽ちざる金文に立ち現れたのだ。「最古の松笠紋」と名づける所以である。

 

三角縁神獣鏡の注文主

 

三角縁神獣鏡が中国から一枚も出土しないことは有名な事実だ。鋳型の破片も見つからない。また、奥野正男氏の研究によれば、中国鏡には笠松文がないとのことだから、松笠紋のある三角縁神獣鏡は日本国内の製作鏡ということにならざるを得ない。それではこの鏡の注文者は果たして誰か。

この大きな問いに対して、右の藤田友治氏「卑弥呼の鏡と三角縁神獣鏡」(新・古代学第4集)に、すでに、驚倒の回答が暗示されている。中国鏡の入手から倭国の鏡製作にいたる段階についての氏の仮説に、それがある。要旨は次のようだ。

第一段階

中国で製作された鏡を輸入した段階。舶載鏡の段階。前漢鏡・後漢鏡、魏鏡・呉鏡の別がある。

第二段階

舶載鏡に魅せられた倭人たちが先達の技術を持った渡来人と合作して製作した段階。神仙思想や宗教観を表現した神獣鏡、画像鏡は呉から亡命し渡来した呉の工匠と一緒に鏡作神社などの拠点地で倭人と合作した鏡である。倭人の好みで、本国(中国)にはない傘松文様などの意匠を入れたりした。(藤田氏は、これを「倭呉合作」と表現された。)この段階を従来説は認めず、舶載鏡として魏鏡の中に入れ「卑弥呼の鏡」として扱ったため、百枚をはるかに超える枚数となり、説明不能の謎となってしまった。

第三段階

呉の工人の二世・三世による鋳造の段階。水準が低下した。従来説は、この段階の鏡を?製鏡といい、国内産とした。

 

以上の三段階を、藤田氏は具体的には、石切神社の穂積殿の宝物である鏡群に適用され、見事な証明を得られたのである。

大阪府東大阪市東石切町一‐一にある式内社の正式名が石切剣箭(つるぎや)神社であり、その祭神こそ、物部氏の祖の饒速日(ニギハヤヒ)命と可美真手(ウマシマデ)命なのである。

短絡に過ぎるかも知れぬが、ニギハヤヒの子孫物部氏が代々、呉の工人に発注して作らせた、藤田氏言うところの第二段階の「倭呉合作鏡」が、三角縁神獣鏡の実体と思われるのである。発注者は物部氏の棟梁と考えて大過なかろう。それは、谷川健一氏たちの言われるように、遠賀川流域から東遷あるいは東侵してきた筑紫物部氏の末裔でもあろう。

(神武天皇はかなり後発の東遷部隊と見るよりほかはなく、かの大和盆地内の戦闘譚も怪しい。)

 

親魏倭王と非親魏倭王

 

三角縁神獣鏡の出土分布と、卑弥呼が魏から下賜されたと思われる漢式鏡(『古代は輝いていた』T 古田武彦)の出土分布は、きれいに二分される。前者は近畿地方を中心とする地域であり、後者は福岡県筑前中域に集中する。この分布の背景を初めて的確に言い当てたのも藤田氏であろう。

三世紀の東アジアの国際情勢は風雲急を告げていた。

魏と覇権を争う呉の孫権は、黄龍二年(二三〇)に将軍の衛温と諸葛直とを派遣し、武装兵一万をもって、夷州と亶州を捜させた。かの徐福が童子童女数千人を蓬莱に連れて行って帰らず、その子孫が栄えていた。そこに兵士狩りをさせた。

だが、平和な丹波に上陸した彼らの多くは亡命し、夷州から数千人を連れ帰っただけに終わり、衛温らは獄に下された。

確かに右の記録と推察は、「倭呉合作鏡」の背景を裏付けるものであろう。三世紀の倭国に、呉の人々が渡来して三角縁神獣鏡が作られた。漢式鏡の出土地帯が筑前であり、そこが親魏倭王の領土であるなら、三角縁神獣鏡の出土地域は、呉と関わりの深い、少なくとも非親魏倭王の領域と言えないだろうか。

この鏡の分布の違いを凝視するとき、筆者には次の考えが浮かぶ。

 

三世紀に二分された東西の異なる鏡の国は、それぞれに発展した。四世紀に入って、再び東アジアの激動に呼応して、三角縁神獣鏡の国から神功皇后が挙兵し、漢式鏡の国を征討した。

(つづく)

次回は、三角縁神獣鏡の中のもう一つの重要な文様について私見を述べます。

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教室便り

 「改新の詔を読む会」

 

立川市 福永晋三

 

 どういうわけか、こちらの会にも参加させていただいています。

 二月の会で、「歩と里の概念」についてお話をさせていただき、皆さんから批評を頂きました。三月の会で、天武紀朱鳥元年八月条を読んでいたとき、「二百戸を封す」の個所で、平田さん・平松さん・福田さんたちが、孝徳紀のある記事を、わたしにとっては重大な記事を思い出してくださったのです。それが「五十戸を里とす」の一文でした。

 佐野郁夫さんが、神社の神文を十年来調査中とのことです。今回は、敦賀の気比神宮に「右回りの三つ巴」を見出され感激されたとのことです。平成十三年四月に上海博物館の中国古代青銅館で?鐘編鐘十鐘の前中央に「右回りの三つ巴」を見出したのと同じだといわれるのです。?鐘は春秋晩期のものとされ、この鐘の出土地は当時の晋国であると続けられました。詳細は、別の機会に発表があるかも知れませんが、二千数百年の時と、気比と山西省の空間を超えて、「右回りの三つ巴」が同じとする着想には驚かされます。

 しかし、隣の韓国の謂れが、戦国時代の韓の国から朝鮮半島に逃れてきた人々が、自分の出自を表わすために付けたことにあるとの見解が古田先生にあります。

 佐野さんの直観も大事に見守りたいと思います。

天武紀朱鳥元年八月条の「天皇の為に、八十の僧を度せしむ。…僧尼あはせて一百を度(いへで)せしむ」とはどういうことですか、とわたしが突っ込みました。私度僧を国の僧にしたことだとすぐに回答がありました。律令制の時代に百八十以上の私度僧がいるんですか、とわたくし。皆さんは真剣に考えてくださいました。解答は見つかりませんが、日本書紀は読めば読むほど、不可解なことが書かれているのです。

次回こそ、天武の崩御に行き着くか、楽しみ?です。

次回の日程・会場はいつも通りです。

 

 「神功紀を読む会」

 

 立川市 福永晋三

 

二月の中止、誠にご迷惑をかけました。深くお詫び申し上げます。

神功皇后紀にやっと入ったものの、まだ、「小山田邑の斎宮」の部分で停滞しています。というのも、少し先の個所の予告編のつもりでお話したことが本格化してしまったからです。この号の「歩と里の概念」「松ぼっくりがあったトサ その二」がそれです。さて、小山田邑の斎宮ですが、岩波日本古典文学体系では例によって「不詳」となっています。『書記通証』は「山田村と香椎村相隣る。その側に聖母屋敷と伝え称するもの有り。けだし斎宮の旧址なり。神祠有り。祭るところは天疎向津(あまさかるむかつ)姫命、健布都神、事代主命、表筒男、中筒男、底筒男、六座なり」と記しています。『筑前国続風土記』は聖母屋敷を神功皇后の斎宮址としています。吉田東伍も読史地図において、香椎のすぐ東隣に小山田邑を比定しています。

その地こそ、「猪野皇太神宮」(福岡県粕屋郡久山町猪野)に他なりません。実は、天照皇大神宮なのです。現在、「九州のお伊勢さん」とPRしていますが、日本書紀を読むかぎり、こちらが本家の伊勢神宮、少なくとも猿田彦の時代の「伊勢」である可能性が高そうです。祭神の天疎向津姫も天照大神の荒御霊といわれています。この祭神は、日本書紀には、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)天疎向津媛命」と出てきます。私たちは意外な所で、この神と出会ったのです。京都府舞鶴市の弥伽宜神社(大森神社)の神璽(おふだ)の中にいらっしゃいました。その名も

「撞賢木伊豆御霊天疎向津比売命」

 神功皇后を追求して、平田さんからのヒントを得て、やっと辿り着いたその宮に、九州のお伊勢さんと同じ神が坐しました。もはや偶然とは言いがたいのです。なぜなら、いわゆる古代丹波王国の地には、「元伊勢」と呼ばれる宮が点在するからです。その一つ「籠神社」の十八代「健振熊命」は、神功皇后に率いられて熊襲征討に行ったと、宮の文書に記されていました。この健振熊命が、仲哀記において忍熊王を入水に追い遣ったわけですから、事変は九州の地に起きたと、筆者は考えています。

 次回は、羽白熊鷲征討の段です。現地取材の資料が豊富にありますので、ご期待ください

4月13日の会場は西荻地域区民センター 杉並区桃井4の3の2

Tel03-3301-0811

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友好団体の会報から

「多元No.48」

降臨以後(記・紀の構造・二)

               古田武彦

盗まれた降臨神話      

―『古事記』神武東征説話の新・史料批判

               古賀達也

いくつもの中国       川端俊一郎

「神武の来た道と熊野お燈祭り」旅報告        下山昌孝 

「神武の来た道」に参加して

    村本寿子 東京国立博物館見学記

    清水 淹 謡曲の中の九州王朝―弱法師 

新庄智恵子

「臺・台」(たい・だい)地名をたずねて        長井 敬二

加茂岩倉遺跡の新たな謎「第二の坑(あな)」      宍道 正年

海を渡る鹿―応神紀ひとつの疑問        

富永長三 

「木村桂造氏を悼む」     下山昌孝 

 

古田史学会報No.48 

古田武彦外人記者クラブ講演会報告 

藤沢徹

水滸伝中の短里        西村秀己 

論語と孟子の「百里」

短里と長里の史料批判(補論) 古賀達也 

盗まれた降臨神話

―『古事記』神武東征説話の新・史料批判         古賀達也

随想「()立為(たた)之嶋(しのしま)」      力石 巌 盗まれた年号―白鳳年号の史料批判    

古賀達也

第三回古代武器研究会を傍聴して     

伊東義彰 

クエを九州ではアラと呼ぶ   木村賢司 

 

九州古代史の会 News No.101 

「磐井の乱から考える(11)」

兼川 晋 

白村江以後の倭国(4)    小松洋二 神風と日本地名の起源    平野雅曠 金印は「蛇紐」で良いか    大芝英雄 移築論争における欠落    室伏志畔 岡垣に巨大前方後円墳      編集部

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ご案内とお知らせ

 

1.古田先生の定期講演会と年次総会を現在のところ次の予定で開催いたします。

日時:平成14年六月30日(日)

13:00〜16:30

場所:全逓会館 

文京区後楽1の2の7

JR水道橋駅から外堀通りに沿って飯田橋方向に徒歩3分。

  詳細は次号に掲載します。

 

2.「多元的古代」研究会・関東主催の旅行が企画されていますので希望者は申し込んでください。

 

a.関東史跡散歩-「上野三碑を訪ねる」

日 時:4月14日(日)

午前8時新宿駅富士銀行前集合

目的地:多胡碑、山ノ上碑、山ノ上古墳、金井沢碑、七興山古墳、伊勢塚古墳、山王廃寺(放光寺)、宝塔山古墳、蛇穴山古墳など

参加費:6千円 定員は25名。

参加希望者はハガキにより左記当てにお申し込み下さい。

富永長三 〒181-0005 

三鷹市中原1の14の8

 

注意事項:雨天決行です。弁当、飲み物は各自用意のこと。歩き易い服装で参加してください。

 

.「対馬、壱岐の神々を訪ねる旅

天国の中心領域、そして神々の源郷

―古田先生同行

九州王朝の原点・天国の源郷を訪ねる旅で

す。古田先生が同行講師として参加され、

対馬、壱岐の延喜式式内社や弥生・古墳時

代の遺跡を訪ねます。

日程:6月5日(水)〜8日(土)3泊4日

集合:5日羽田空港出発ロビー7:00AM

解散:8日羽田空港10:00PM頃

主な見学場所

対馬

阿麻?留神社、根曽古墳群、住吉神社、和

多都美神社、金田城、太祝詞神社、雷命神

社、銀山神社(我が国最古の銀鉱山)、海神

神社、歴史民俗資料館、千俵蒔山(古代烽火

台跡)天多久頭魂神社など・・その他

壱岐

壱岐郷土館、原の辻遺跡、岳ノ辻展望台、壱岐風土記の丘、聖母神社、天の原など・・その他

参加費:11万円(東京発着)、

8万7千円(福岡合流)

宿泊は原則としてシングル・ルーム使用。

但し二人相部屋でツイン・ルームを使用す

る場合は3千円引き

申込み:参加希望者はファクス又はハガキ

により多元の会、下山昌孝さん宛に申込ん

でください。

212-0054 川崎市幸区小倉1の1、I-514  TEL/FAX044-522-4185

 

お詫びと訂正

 

1、                            前号に山本前会長の思い出を書いたが、肝心の氏名の文字を誤って原稿を書き、そのまま掲載された。山本前会長のお名前は真之助が正しく、真之介は誤りです。謹んでお詫びし、訂正します。  杉並区 吉田堯躬

 

2、                            前号No.83 佐野さんの投稿記事白鳳弐年「栗隈王」の前段「はじめに」の中の5、7行目にある宮野神社は鳥野神社の誤りとのことです。お詫びして訂正します。

 

 

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会長コーナー

            藤沢 徹

 

 寄付のお願いをしたところ、多数の会員の皆様から早速多額のご寄付をいただき感謝に堪えません。

 当会の会計担当者が昨年九月末に退任したので清算したところ、昨年度の決算報告通りの赤字が出ました。

担当者が永年苦労しながら会費の先食いをしたり、自腹を切ってやりくりしてくれていたのです。

 ニュースのコンピューター編集化など経費節減に努めてまいりましたが、前回のニュースで窮状を訴えました。その結果皆様から暖かいご支援が続々いただけました。毎日配達されてくる郵便局からの入金報告書一枚一枚めくる毎に涙が止まりません。

 こんなに皆様に支持されているんだ、頑張っていい会にしなくてはと一際決意を新たにいたしました。

 入金報告書に一言感想を書かれている方がいました。事務局運営上、会員のご意見は必須です。ニュースやホームページの編集について独善的にならなければいいな、偏った少数の意見の独占にならなければいいなといつも心掛けています。よろしくご叱正のほどお願いいたします。

 なおまだ会費を払い込んでいらっしゃらない方にお願いします。もう少しで赤字が解消します。金額は問いません。寄付をお願いできれば幸いです。

 『「邪馬台国」はなかった』出版三十周年記念の集まりは大盛況でした。有難うございました。

 これからのイベントの目玉は何にしようかと事務局一同考慮中です。

久留米の大善寺玉垂宮は来年一九〇〇年祭で大イベントを考えているそうです。当会も友好団体と大見学団を企画中です。ご期待ください。

 本年二月には当会と多元の会・関東と共催で「神武の来た道」旅行をおこなったところ、多くの会員のご参加を得て大成功でした。目玉は神倉神社のお灯祭りでしたが、NHKの連続朝ドラ「ほんまもん」にも出ました。本番撮影でなく二日後のロケものですが、勇壮な雰囲気が出ていました。

 熊野神社で買った御由緒書に面白い統計がありました。全国熊野神社総数3,367社。一社一祭神ではないが、祭神名はイザナギ神(速玉神)1,708.イザナミ神(夫須美神)1,526。コトサカノオ神708。スサノオ神(ケツミコ神)398。天照大神177他とあった。小生の別掲論文にあるように事解之男こと饒速日尊が熊野三山の祭神から消されても地方には沢山残っていることがわかります

 

事務局便り

高木博

拝啓

若輩の私が長い間事務局を預からせて頂けたのも会員の皆様の力添えがあったからです。数年前から不摂生が祟り体調不良にて騙し騙し続けてきましたが限界のようです。

古田先生の「『邪馬台国』はなかった」発刊30周年記念行事も昨年実施でき、けじめの時期と感じていました。今後は優秀な人材に職責を譲って一会員として貢献できる道を模索したいと思います。

孤高の探求者古田武彦が探求の意思を持ち続ける以上、後ろを歩くつもりです。

閃きは錆付いた歯車を回す原動力となるが,歯車を回すためには油も必要。暗黒の時代を切り開いた古田武彦に続き、閉塞の時代を走り抜けるのは誰だ!        

会員各位殿

敬白

 3月3日の古代史探訪ツアーにての驚きは舟塚山古墳の墳丘の石碑に残る「都久志兎根命」晴天の空に響く真実の声。

 

編集後記

飯岡由紀雄

 

大型バス満席乗車の盛況だった熊野旅行。身動きの取りにくい最後部席で、バスのひどい揺れに疲れと飽きを覚える頃、「足引きの熊野詣〜」で始まった爆笑に疲れも吹き飛んでしまいました。

古田史学・北海道の鶴さん、高田さん、村井さん、そして多元の会の若林さん、その節はありがとうございました。龜山神社で宮司さんの説明を伺いながら天神を祭っているのに神社様式が置き千木の出雲スタイルに驚いて宮司さんに聞いたところ、建替えの際に以前の様式を踏襲したとのこと。元々は地域一帯、名草戸

畔の支配地とのこと。五ケ瀬命が葬られているとはいえ土地の慣習の根強さには驚きました。

私が言い出して始まってしまった霞ヶ浦・石岡周辺の古墳見学会。春のうららかな天気に恵まれて、富士見塚古墳に登り、眼下に広がる霞ヶ浦を目にした時、一瞬地方豪族になれた気がしました。また古墳の主軸線が見事に筑波山の二つ峰の真中を射しているのが分かった時は何とも言えない感慨に襲われました。

「松ぼっくり」の話もだんだん核心に入ってきました。奥野さんが三角縁神獣鏡に見える「笠松模様」が中国にはない日本独特のものであるとした時、九州をその拠点に活動なさっている氏が宮地嶽古墳の神紋に気付かなかったはずは無いのですが…どうしてその先の筆が止まってしまったのか、不思議でなりません。

八郷町の「X印」も「松ぼっくり」から説き起こされる物部氏の話もまだまだ続きそうです。

古田先生そして会員の皆様と失ってしまった歴史を考えて行きたいと思いますので、ご支援の程お願い致します。

 

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東京古田会賛助会員の紹介

保険の相談は

インシュランスオフィス湘南

(安田火災海上・ひまわり生命保険代理店)連絡はTel0466-26-4866 Fax0466-52-3110  担当 小沢

 

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(株)トラベル・ロード

Tel042-599-2051   担当 高木

 

住まいの手入れは

(有)スバル総建

Tel03-3392-8596 Fax03-3392-8596

                     担当 矢代

 

貴金属・宝飾品の相談は

(株)ジュエル第一

Tel03-3834-4611 Fax03-3834-4645

 

賛助会員登録希望は事務局のほうまでお問い合わせください。会報に広告が載ります。

 

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