テキスト ボックス:     T o k y o 古 田 会 N e w s
 
 

  −古田武彦と古代史を研究する会− 93号 2003年11月

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代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


目 次

閑中月記      古田 武彦

 

ウラジオストク特集

古田武彦ウラジオストク講演報告         

        文京区 藤沢 徹

「ロシア極東」の印象的旅行記

        文京区 藤沢 徹

古田会グループ、ウラジヲストック、ハバロフスクの旅、感想記

            坂本博美

シベリア鉄道一人旅 柳川 龍彦

 

 

「弥生時代の開始年代」   

  国立歴史民族博物館講演録

 「試料の処理と測定」  阪本稔

         要約 高柴 昭

古田武彦藤沢講演会

 『神と歴史の誕生と万葉集』

   要約(文責)  柳川 龍彦

万葉集の軌跡

「綜麻形(へそがた)」考

        立川市 福永晋三

吉山旧記への切り口   室伏志畔

平安ルネッサンスin近畿

     小金井市 齊藤 里喜代

わが万葉学事始 立川市 福永晋三

 

事務局だより     高木 博

*案内とお知らせ

 ・古田会主催旅行案内:

 ツアー名 :肥後見聞録

編集後記       高柴 昭

 

 

閑中月記  第二十六回

  ロシア     古田 武彦

     一

 ロシアから帰ってきた。九月二十三日の昼である。ウラジオストクの空港を出たのが午後二時四十分頃。関西空港に着いたのも、同時刻だった。もちろん、時差「二時間」のいたずらである。

 九月二日からの三週間、まことに実り多い日々だった。今年の三月以降、日に月にこの時を待ち望んでいたのであるけれど、これほどの収穫があろうとは。望外のことだった。 

 各会の方々や関連の多くの人々のおかげだった。わたし一人の探求を、孤独で辿る。その覚悟だっただけに、言葉の尽くしようもない。

 それらの収穫はもちろん、一過性のものではない。むしろ真の収穫はこれからだ。持ち帰った数々の地図や資料類、それらと取り組む日々が楽しみである。願わくは、その生命がわたしの中に残されていますように。

 否、たとえわたしが中途に斃れても、必ず若い人々がこれを受け継いでくださるであろう。そういう望みを託し得る人々に、日本側でもロシア側でも、めぐり会うことができたのである。

 これを幸いと言わずして、何と言えよう。帰り来たった洛西の竹林に、今日も竹葉が舞い、庭の一角の金木犀の香りが部屋の中に流れこんでくる朝夕の中にわたしは居る。

     ニ

 ウラジオストク行きの一つの目標は、極東大学の日本語研究室への訪問にあった。そこでわたしの研究目的を明らかにすると共に、今後の御協力をお願いするためであった。すぐ、どうこうというよりも、将来への学問上の提携の礎石の一つ、それを得たいと思ったからだ。

 出発に先立ち、「九月中は、研究所(アカデミー)も、大学も休暇中。」との情報に接していただけに、不安があったけど、杞憂だった。日本語研究室の主任教授ウエリンツカヤ・エリエナ教授にお会いした。にこやかな、学者としての風格豊かな女性である。すでに、ウラジオストクへ来た翌日、九月三日、日露極東シンポジュム第一日、わたしの発表を、教授は聞いておられた。

 『古代日本とウラジオストクの交流についてー地名と言語考古学―』

である。わたしは大会の第一発表者であったが、わたしの発表要旨(日本語)を全員に配布した上、丹念なロシア語の通訳が、クルラーポフ・ワレリー助教授によってなされたから、同教授も、よく了解しておられた。

 話題が種々に及び、ひとくぎりしたところで、教授は切り出された。

 「貴方は、伊勢神宮の成立につぃてどのように考えておられますか。」と。ロシアの極東の中心都市の一つである、このウラジオストクの一画であるだけに、驚いた。驚いたけれども、考えてみれば不自然ではなかった。

お渡ししたわたしの名刺(の裏側)には、

Study-Ancient Japan,History  of Thought

       とあった。

 無論、役職名(元、昭和薬科大学教授など)は一切なし。その代わりの“自己紹介”だったのである。

 教授はそれを見た。だから、短刀直入、右の質問となったのである。

 それは、わたしにとっても「年来のテーマ」だった。ニ十代の終り、信州から出てきて神戸に住んでいた頃、折しも続日本紀研究会の草創期、大阪で行われた会合に参加した。

 直木孝次郎さん、井上薫さんのコンビに田中卓さんが加わり、岸俊男さんも時に参加された。若手では、吉田晶さんとわたし。ほぼ同年だった。

 議論は烈しかった。特に、津田史学の立場に立つ直木さんと平泉澄(キヨシ)の系流たる田中さんの「対立」は烈しかった。もちろん、学問上の対立であるけれど、双方とも、三十代(半ばと後半)の“若手”だったから、時には“つかみかからん”ばかりの勢いだった。一番若い吉田さんとわたしが「止め男」の役である。

中でも、もっとも印象に残っているのが「伊勢神宮の成立」問題だった。直木さんは当然、「日本書紀(垂仁紀)の伊勢遷宮」否定論。その史的実態を天武天皇の時代(七世紀後半)に求める立場である。

これに対して田中さん。これまた当然、右の記事に対する肯定論者である。もちろん、戦前の「皇国史観」の論者のように単純≠ネものではないけれど、本質的には、これを認める、というより、「尊崇」する立場だ。後年、皇學館大学の学長を二期つとめられたのも、ふさわしい′、究経歴の持ち主である。

当然、両者の立場には、本質的に「妥協」しえないものがあったのであろう。一番末輩の私たちには、口をはさむ余地、否、力量は無かった。

その際、ひとり考えたこと、それは、「内宮と外宮の併立≠ノついて、その成立経緯を明らかにしなければ、この問題(「伊勢神宮の成立」)は解けない。」この一点だった。

この疑問が、私にとって解けた≠フは、朝日トラベルの講師として京都府の舞鶴近く(正確には、宮津湾のそば)の籠(この)神社を訪れたときだった。

この神社は「元伊勢」と呼ばれていた(同地近辺に、他にもあり。)。その祭神は「天照大神」と共に、豊受大神だった。その奥宮には「陰陽神」をしめす、陰石と陽石の一対が奉置されていた。同時に、巨大な女陰石。これらはいずれも、旧石器、縄文にさかのぼる信仰対象だ。そしてこれが「万物産出の源泉」と考えられていたのである。すなわち「五穀豊穣」という、弥生以降的表現を「神徳」とした「豊学大神」の本来の姿だ。

今は「料理の神」とされている「等由良比売」こそ、本来の「縄文の女神」なのではあるまいか。

以上の思惟は、すでに単独で訪れていたときに得ていたものだった。ところがそのとき(団体の講師)新たに気づいたこと、それは伊勢(三重県)の「二見ヶ浦」との関連だった。

「あれは、海洋民にとっての『陰陽石』だ。」

それが、稲妻のようにひらめいたのは、同地(籠神社の宮津)を発とうとして、バスの上り口に足をかけた瞬間だった。

「二見」とは二柱の神≠フ意味だったから、それが陸地へと上陸した。すなわち「内宮と外宮」となったのである。

以上が「大和からの、天照大神奉祭地の移転」以前の、伊勢の地の状況であった。私はそう考えた。

以上は、すでに何回も、講演会などで話し、かつ文章に書いたところだ。

これらの経緯を、エレエナ教授にお話しする時間が無かった。そこで、「日本へ帰って、一ヶ月以内に、書いてお送りします。」とお約束したのである。

ところが、宿所(サーシャさん宅)に帰って考えているうちに、気持ちが変わった。「今、書いて、今度うかがったとき、お渡ししよう。」

そう決心した。二週間の日程をギッシリつめこむことをせず、ゆったりとしておいた。それが役立った。

三日あと、再び日本語研究室へおうかがいしたとき、私の小論文をお渡しした。

「―極東国立総合大学 東洋学部

 ウエリンツカヤ エリエナ教授のお求めに応じて―

   伊勢神宮の成立」

二〇〇字づめ、約六十枚の原稿だった。教授は、とても喜んでくださった。

今回、十月十九日の日本思想史学会の報告(筑波大学、二〇〇三年度大会)の参考資料として参加者に配布する予定である。

     三

ロシア行きの直前、思わぬ「天恵」をうけた。八月下旬、医者から「顔面神経痛」の診断を受けた。幸い、MRIの検査でも、頭脳そのものには何等の障害は無かった。むしろ従前にも増して壮快だ。

だが、これを私は「天からの警告」とし、その恵み≠ニ考える。すでに老年。余年は知れている。その間、もっとも本質的な研究、根源的な勉学をなすべし、と。このような天からの告知≠ネのではあるまいか。

多くの方々にご迷惑をおかけすることであろうけれど、竹林の間、私の孤立の探究をお見守りいただければ、これ以上の幸せはない。

――二〇〇三、十月十二日記――

 

 

ウラジオストク特集

 

 古田先生のウラジオストク講演が実現し、同行したメンバーが、歴史研究的な視点で、彼の地の現状を見聞してきました。先生の講演録とあわせ、その周辺を特集しました。

古田武彦ウラジオストク講演報告         

       文京区 藤沢 徹

 

 平成十五年九月三日、古田先生はロシア・ウラジオストクのロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所主催、第19回シンポジウムで「古代日本とウラジオストクの交流についてー地名と言語考古学」という題でプレゼンテーションを行った。以下は冒頭講演の内容である。

 

 古田武彦でございます。私はかつて1987年8月に、このウラジオストクで行われた当大会において、日本の古代との交流をめぐる、新しい仮説を提出しました。それは次のようでした。

@                     日本の古典として有名な「出雲風土記」(出雲は島根県の古名です。その地の歴史と伝承を書いた本)の中の「国引き神話」によれば、「四つの方向から、国が引き寄せられて、この出雲が成立した」とされています。四つの方向の第一は新羅、第二と第三が「北門の国」第四が越(能登半島の一帯の古名)とされています。

A                     その中心は「北門の国」であるが、「北門(きたど)」とは「北の出入り口。港」を意味する。すなわち、ウラジオストクの古名が「北門」だ。従って、「北門の国」とは、沿海州と朝鮮を含む領域名だ。私はそう考えました。従来説がこれを「島根県の北部」にあてていたのに対して、反対したのであります。

B                     この「国引き神話」は縄文時代に日本海の西半分を「世界」として作られた、海洋民(漁民)による「縄文神話」であります。なぜならそこには、「弥生時代」の特徴をなす金属器が一切出現していないからであります。

C                     以上の、私の仮説がもし正しいならば縄文時代において「出雲」とウラジオストクとの間に、既に交流が存在していたことになるでしょう。

D                     その場合には、ウラジオストクの縄文時代(BC1000年以前・注1)の遺跡から、出雲の隠岐島産出の黒曜石の鏃が必ず出土するでありましょう。なぜなら日本列島の西半分において、隠岐島の黒曜石は極めて出色の存在です。古代の出雲の繁栄にとって中核的な重要性を持っていたからです。この黒曜石は弓矢の鏃として最適であり、金属器以前の時代には、最高の材質でした。

E                     私はこの大会でこの仮説を発表すると共に、このウラジオストクにおいて、黒曜石の鏃が当地の遺跡から出土しているのでないか、それを検証しようとしたわけです。しかし当時、ウラジオストクの博物館は休館中であったため、私の目的は達せられませんでした。けれども、当大会のロシア側の関係者(学者)の手厚い協力に対して、私は心から感銘し、感謝いたしました。

 

 この発表の8ヶ月あと、すばらしい反応がありました。1988年の5月です。ノボシビルスクのソ連科学アカデミーシベリア支部・歴史文献哲学研究所の学者、ルスラン・S・ワシリエフスキー、アレキサンドル・I・ソロビヨフの両氏が来日し、早稲田大學で講演されました。(5月10日)その時、彼等はウラジオストク周辺100キロの範囲内の約30数個所の遺跡出土の70数個の黒曜石の鏃を持参しました。

 それらは立教大學の理学部の鈴木正男教授によって分析(屈折率測定)されました。その結果は、50パーセントが出雲の隠岐島、40パーセントが北海道の赤井川産出の黒曜石であることが判明したのです。赤井川産出の黒曜石は青森県の三内丸山など、津軽海峡圏で使用され、分布している鏃の材質であります。

 以上のような、ロシア側の発表により、私の仮説が正当であったことが、学問的に証明されたのでありました。15年前のことです。

 

今回私の仮説はさらに大きく発展しました。それは次のようであります。

F                     現代の日本人の中に「ずうずう弁」と呼ばれる話法(発声法)が存在しています。それは地域的に局限されています。東北地方と出雲(島根県)です。注2

G                     同じく、先にのべたように、ウ ラジオストク周辺出土の黒曜石の鏃は、一方では出雲―50パーセントー、他方では東北地方(産地は北海道)―40パーセントー、に分布しているものでした。すなわち、判明している「黒曜石の分布地帯」の100パーセントが問題の「ずうずう弁の使用地域」でありました.これは果して偶然の一致でしょうか。

H                     いいかえれば、偶然、「ずうずう弁の使用地域(両地帯)」からだけ、黒曜石の鏃がもたらされたとは、考えにくいのです。なぜなら、日本列島には、他にも有名な「黒曜石の産地」が存在するからです。たとえば、旭川(北海道)、和田峠(長野県)、姫島(大分県)、腰岳(佐賀県)などです。

I                     以上のように考えると、もっとも可能性の高い仮説、それは次のようではないかと思われます。すなわち「ウラジオストク周辺(或は沿海州領域)の人々(ツングース・モンゴル系の住民)が、一方では出雲へ、他方では東北地方へ来た。その人々の話法(発声法)は、いわゆる、“ずうずう弁”風の、独特の発声法を持っていた。この人々が、現代日本の出雲人、または東北人の祖先となった。」というわけです。

J                     先の「出雲風土記」の「国引き神話」ではその中心に「北門の国」、つまりウラジオストクからの「人間の渡来」が告げられているのです。なぜなら「国」という言葉は、土地と共に「人間」をふくんではじめて成り立つ概念だからです。また東北地方の古代伝承でも、ユーラシア大陸のツングース系の一族(まっかつ族)が、津軽(青森県の古名)へ渡来し、その領域に定住したとの記録が残されています。(注3)これらの伝承から見れば、現代の出雲、東北地方の人々のの共通の祖先は、いわば「ずうずう、まっかつ族」とも言うべき語族であった可能性が高い、ツングーズ・モンゴル語系です。

以上が、私の抱いた新仮説、いわば「第二段目の仮説」なのであります。

 

    四

 今回、私がこのウラジオストクで発表をさせていただくこととした、その目的は次のようであります。

K                     古代日本とウラジオストクとの間には、深い交流が存在し、今も、「言語」や「発声法」等に根強い影響がのこされていること、そしてそのような問題に対する純理性的な学問的研究が日本側に存在することを知っていただくことであります。

L                     もしこの「仮説」が正しいならば「北門の国」といった中心国名だけではなく、その周辺地名(中地名や小地名など)にもまた、「古代日本語地名」が断片として今ものこされている可能性があります。この点、ヨーロッパ(イングランド・ウエールズのケルト語)やアメリカの現地語地名等、地球上至るところに、同類の「重層地名」が存在しています。いわゆる「言語考古学」は、そのような研究対象を目指すものと思われます。それゆえ、今回このウラジオストク周辺地名(大・中・小地名)の中に、そのような「古代日本語地名」の残存の有無を検証したいと思っています。

M                     さらに、ウラジオストク周辺の原住民の方々の「言語の発声法」をテープに収録させていただき、今後の比較検討の資料としたいです。

N                     そして何よりも、私の望むところは次の一点であります。ウラジオストクの極東大学や各研究所、また一般の方々の中から、この興味深い問題に対して関心をもつ、新たな研究者を一人でも多く、見出すことであります。現在と将来にわたって今回の発表と当地における研究調査が、そのためのささやかな「入り口」もしくは「発火点」となりうるならば、これ以上の幸せはありません。

 

 尊敬すべきロシアの学的関心をもつ多くの方々に対して、このことを深くお願いして本日の発表を終わらせていただきます。

 なお、9月9日以後も、約2週間、このウラジオストクにとどまり、極東大学日本語学科をはじめ、言語・地理関係等の各研究室や研究所等で御教導をいただきたいと思っています。

 なお、注1として、縄文時代について、最近(今年5月)その下限を「BC850年前後」とし、弥生を500年遡らせる発表がありました。(国立歴史民族博物館)

 これに対し、その上限は,

A 19380 cal(修正値) BP (ニ片。 縄文土器片か。 長野県佐久市下茂内遺跡)

B 縄文土器関係品で、16500 cal BP (完形。青森県下津軽郡蟹田町、太平山元遺跡)

 測定者は、Aは名古屋大學中村俊夫教授、Bは同上及び国立歴史民俗博物館辻誠一郎氏です。

 注2として「ずうずう弁」は他に能登半島(石川県)の一部等にあります。

 注3として、東北地方に残っている伝承は和田家文書(青森県)です。

有難うございました。

 

「ロシア極東」の印象的旅行記

        文京区 藤沢 徹

 

 平成十五年九月二日から九日まで、古田武彦と古代史を研究する会、多的古代研究会「関東」、の三会共同主催による「古田武彦と行くウラジオストック・ハバロフスクの旅」に参加した。行く前は古田先生の研究以外はあまり期待していなかったが、なんと大違い。たいへん面白く勉強になった。新石器時代(縄文時代)、鉄器時代、歴史時代を通ずる日本列島との交流の数々の証拠を見て、日本人の祖先、少なくても縄文人とシベリア、ロシア極東との深い関係の存在を認識し、目から鱗が落ちた。

 大体この地方はシベリアと思っていたけれどハバロフスク地方や沿海州は「ロシア極東」と称するのだそうだ。満州を含めかつて満蒙の地だったところだ。旅行の印象を自分なりに整理したのが本稿である。

 

 T 民族の興亡

 沿海州とアムール川(黒龍江)中下流域を占めるハバロフスク地方の「ロシア極東」はロシア系移民の白人の他はツングース系の原住民、少数民族が狩猟・漁労などで生活している。

 ここは元々中国東北(満州)の一部だったが、十六世紀後半清朝の頃進出してきたロシアと紛争が続出し、1689年ネルチンスク条約、1858年の愛揮(アイグン)条約、1860年の北京条約でロシアが国力の弱った清朝から獲得したところだそうだ。

 中国の史書によるとここは王朝興亡の地である。史書は以下の民族名を記している。

 粛慎(周のころ)、穢貊、夫餘、高句麗、?婁(漢魏のころ)、勿吉(モッキツ)、靺鞨(マッカツ)=赫哲(ヘジェン)女真または女直(宋代の満州族と同じ)

 萩原真子氏によれば、靺鞨は中国東北地方の赫哲と同一だといい、池上二良氏によれば、赫哲はツングース系のナナイ族とする。であれば、勿吉=靺鞨=ツングース(通古斯)となり、ナナイ族も靺鞨となろう。

(萩原真子・池上二良「民族の世界史2 東北アジアの民族と文化」1989年)

 ウラジオストックの極東大学付属博物館でポポフ教授の弟子の大学院生K・エフゲニー・ボリソヴィッチ君によれば、靺鞨は英語表示でMokheと書き、モッケ・マッケでな

くモヘとロシア語で言い、靺鞨文化はモヘスカヤ・クリトゥーラというそうだ。

 女真はジュルチンまたは女直ジュルチと発音するが、中国語や朝鮮語のように清濁音の差が弁別されないとジュでなくユとなりユルチ又はオロチと発音されるはずだ。沿海州の日本海岸に住む少数民族のオロチ族と関係あるのかも知れない。

 アムール川(黒龍江)、松花江、ウスリー川、遼河、大凌河などの大河流域すなわち中国東北(満州)・朝鮮半島東北部・沿海州を含むロシア極東に興った中国の記録にある政治権力を概観しよう。

 燕(紀元前3世紀)、秦の遼東部、古朝鮮(夫餘・高句麗)、公孫氏(2世紀末)、衛満朝鮮、東沃沮/北沃沮、勿吉→靺鞨(5世紀〜6世紀)、?婁、粛慎、五胡十六国時代の遊牧民と高句麗、渤海(7世紀〜10世紀)(女真族・隋唐に朝貢)契丹・遼(改名)(契丹族)(10世紀〜12世紀)、金(女真族)(12世紀〜13世紀)、元(モンゴル)(13世紀〜14世紀)、明(漢族)(14世紀〜17世紀)清(女真族)(17世紀〜20世紀)

 ロシア語で中国をキタイ(契丹)という。中国語はキタイスキーという。907年の阿保機のつくった契丹国・大遼国の威光が現代まで及んでいるのは面白い。

 

 U シャイガ城郭址

 セルゲーエフカ村に行く予定だったが、何のためどっちに行くのか分らなかった。ある人はウラジオストックから北のハンカ湖の方だといい、ある人は運転手が東へ行くみたいだよという。バスが走り出すと太陽が進行方向右前方に出ている。東に違いない。

 河口にナホトカ港があるパルチザンスカヤ川(元スーチャン川)の60キロ上流沿岸の山間平野部に16世紀に8家族20人がウクライナから入植したという。このセルゲーエフカ村は人口1万人ぐらいでかなり大きい。ロシア正教の教会のある丘の上から眺めると数十年前札幌の月寒(ツキサップといった)でみたような切妻屋根の小屋風農家が点在する。走るトラックは勿論日本製中古車だ。

 小中高校が一つの建物になっていて、博物室がある。そこで女性のオリガ先生が説明してくれた。我々は山に行って遺跡を見るのだそうだ。

「来るんじゃなかった」と悔やむ人も含め、一同はコルホーズのじゃがいも畑を踏み越え、人跡未踏のような背の高さもあるブッシュを掻き分け山を登った。九州で道のない神籠石の山に登ることを想像してください。あ、人がずり落ちた。ゴロゴロ転がる人もいる。

 こうして登った山は55ヘクタールもあるシャイガ城という金時代の城郭址だった。女真のつくった金は12世紀に契丹族の遼を滅ぼし、宋の皇帝を捕え淮水以北の華北・東北・沿海州を支配した大帝国である。この大金国の富の源は阿什河の砂金と何とシャイガ城の製鉄だった。武器製造に必要な銑鉄を産出し精錬鍛造技術も発達していた。

 わがオリガ先生は発掘時のタタラ跡の写真パネルを持参し、製鉄現場で説明してくれた。

 更に、頂上近くに宮殿跡がありオンドルなどの石造物が残っていた。近くにはスコップで掘った穴が点々とあり、監視の眼を盗んでは今も続いているとか。

 帰りは農民の罵声を浴び畑の中は避け遠回りした。

 何も期待しないで行ったので、凄くいいものを見て勉強した気になった。企画した人に感心した。

 

 V 黒曜石を求めて

 古田先生のウラジオストック訪問目的の一つは、別稿の講演録にあるように、出雲とウラジオストックの交流が黒曜石を通じて証明されている点の確認である。

 ノボシルビスク科学アカデミー研究所のルスラン・S・ワシリエフスキー氏とアレクサンドル・I・ソロビヨフ氏の尽力により、日本で屈折率測定した結果、ウラジオストック周辺100キロの範囲内三十数か所遺跡出土七十数個の黒曜石の鏃は50パーセントが隠岐島産出、40パーセントが北海道赤井川産出のおのと証明された。

 さて残りの10パーセントはどこだろうか。我々はウラジオストックとハバロフスクで9ヶ所の博物館(美術館を除く)を訪れ、その度に学芸員に展示の黒曜石の原石や鏃の原産地についてしつこく問いただした。恐らくこんな日本人訪問団は初めてだったろう。

 しかし、ワシリエフスキー氏の研究成果を知っている人はなく、一般的な説明に終止したのは残念だった。

 ウラジオストックの極東大学付属博物館でのポポフ教授下の大学院生の説明では、沿海州の黒曜石製品は北朝鮮の白頭山からのものとか、ボリシェニスカ火山あるいはバリーソフスコイという休火山からイリスタリヤ川・ラズーリナヤ川に流れ込んだものということだった。

 ハバロフスクの地質学博物館ではナターリア館長が親切に詳しく説明してくれた。帰り際に現地の黒曜石の現物を日本で検査するよう古田先生に渡してくれた。

 彼女の説明によると、館内の黒曜石原石の展示品は、アルメニア、グルジア、米国のオレゴン州、オホーツクのマガダン産出のものとのこと。

 なお、ロシアの黒曜石産地は、カフカス、コーカサス、グルジア、アルメニア、カムチャツカ、沿海州のハンカ湖とセルゲーエフカとのことだった。

 古田先生はこの他にもいろいろの黒曜石を研究用に持ち帰っているので検査結果が楽しみである。

 

 W 日本人の祖地かーアムール 

 川沿岸遺跡群

? ハバロフスクからアムール川に沿って約70キロ東北へ下ると少数民族ナナイ人のシカチ・アーリアン村がある。ここを訪ねて見聞したことがこの旅のハイライトになった。

 小学校のスベトラーナ先生には学校の博物室でいろいろ説明していただいたが、紹介されたとき、顔容貌姿形それに雰囲気があまりにも日本人に似ているのにびっくりした。

 中国人や朝鮮韓国人とも違う、ネパールやブータンにも日本人に似ている人がいるが、これほど似ている人種にはお目にかかったことがない。

ナナイ人が靺鞨や女真とするとどうなっているんだろう。宮城県の多賀城碑を考えてしまう。

 ナナイ人のカーチャ婆さんの家で手作りの料理をご馳走になった。一つ一つはたいしたものではない。茹でじゃがいも、魚の煮付、野菜の煮物、歯欠けの玉蜀黍(とうきび)・・

これがまた我々のDNAに潜在する食味にぴったりなのだ。連日のロシア料理にいささか食傷気味だったので皆大喜びだった。

 カーチャ婆さんは日本の農村のどこにでもいる普通のおばあちゃんだ。娘さんも文化センターの露天土産物売り場にいたが、この人も黙っていれば日本人だ。

 シャーマンの踊りを見せてくれた村のティーンエージャー(小学校5,6年ぐらいから)の娘さんたちも日本人そっくりだった。ある人類遺伝学者が日本人の原像はシベリアのバイカル湖畔のブリアート人だといっているが、感覚的に納得合点した。

(松本秀男「日本人は何処からきたかー血液遺伝学から解く」NHKブックス 1992年)

 ちなみにナナイ人はツングース系民族でブリアートもその一つ。

 

? 屋根のある屋外舞台では、白地に黒く三つの太陽を描いた幔幕をバックに12人のナナイ人の娘さんたちがシャーマンの踊りを演じてくれた。

 広辞苑によるとシャーマンとは、

「自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き神・精霊・死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。」とある。

 青森県の下北半島のイタコみたいだが、盲目でないしちょっと違うみたい。加藤九祚氏の著作が参考になる。

 団扇太鼓のような一枚皮の太鼓をオドロオドロと鳴り響かせ、出雲の阿国の原型もかくやとばかり、女が姿態なまめかしく身をくねらせ踊る。黙って座っていればあどけないのに、子供とは思えない色気だ。

 仮面行列の踊りもあった。人が死ぬとき霊魂を他界(ブニ)に送る葬送儀礼だそうだ。大シャーマンは腰に金属の筒をいくつかぶらさげて、太鼓にあわせ腰を振るたびにチャカチャカと賑やかな音をたてる。極楽のブニへの道は困難で、大シャーマンの助けがないと行き着けないのだ。

 解説の郷土史家のサーシャ氏によると、大シャーマンのエネルギーに当たったとき眩暈とともにくらくらしたそうである。ロシア人が医学を持ち込む前はシャーマンが人々の病気を治したのだそうだ。そういえば、ハバロフスクの郷土誌博物館には両性具備のシャーマンの木偶があった。どういう宗教祭儀を行うのだろうか。

 

? 萩原真子氏による射日神話はかねてから古田先生によって引用紹介され有名だが、ここがその本場である。

 「昔太陽が三つあった。魚が水から跳び出ると焼け焦げて死に、草小舎は燃えた。男が石を投げつけて二つの太陽を殺し一つにした。」

 シカチ・アーリアン村はアムール川岸にあり、その川の岩には動物の絵が彫ってある。たまたまアムール川が増水していて本物はたった一つしか見られなかったが、レプリカがハバロフスクの考古学博物館の前庭にあったので翌日くわしく見て写真をとった。村の小学校の博物室に岩絵の写しが沢山あった。

 人間、オオジカ、水鳥、龍、蛇、小舟などさまざまな画像の中で、特に印象深かったのは渦巻き紋様のあるオオシカとどんぐり眼の龍だった。

アムール川とは龍の棲む川、黒龍江に他ならない。

 実は筆者は昨年黒海北岸のウクライナのキエフにスキタイ文化を学ぶべく訪れ、クルガン(塚状古墳)出土遺物がピョートルに持っていかれたエルミタージュ美術館までコレクションを見に行ってきた。

 そこで学んだことはユーラシア大陸にあまねく存在する渦巻紋様を含む動物意匠(animal style)だ。ケルトはもともと大陸にいたがアイルランドなどに追い出されている。ダブリン大学トリニティー・カレジ図書館所蔵ダロウの書は動物意匠の宝庫だ。スキタイ・サルマタイ・アルタイ・オルドス地方に亘り遊牧民共通のシンボルだ。

(鶴岡真弓「ケルト/装飾的思考」筑摩書房1989年)

 ナナイ人の伝承によると、アムール川地域の考古遺物である岩絵(ペトログラフ)は複数の太陽のために岩が粘土のように軟らかだったころに描かれたものだという。

(萩原真子「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」山川出版社1989年)

 しかし、ユーラシア大陸の東端にも、遊牧騎馬民族ユーラシア文明の産物動物意匠が存在することに注目したい。故江上波夫氏はすでにこの文明を喝破している。

(江上波夫「騎馬民族国家」中公新書1967年)

 

? ガーシャ遺跡の縄文(網目文)土器

 シカチ・アーリアン村の文化センター食堂の二階にあるナナイ民族博物館でウラジミール氏の説明を聞いてびっくりした。

 この村の近くのガーシャ遺跡は後述のハバロフスク市内にあるオシポフカ文化とされ、両面加工尖頭器、打製石斧、石刃、楔形細石核などとともに厚手の条痕文(あるいは押圧縄文/網目文)土器が発見された。炉の炭のC14年代は12,960年±120年BP(但し補正値calではない)となり、日本の縄文時代草創期と相当する。

(梶原洋「石器時代、北アジア 岩波講座日本考古学 別巻2」岩波書店1986年)

 その土器は高さ35センチほどの平縁・平底のコップ形で、土器の表裏には条痕文状の平行沈線が施されている。 

(加藤晋平「東北アジアの自然と人類史 民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」山川出版社1989年)

 残念なことに土器の実物はノボシビルスクにもっていかれたそうである。

 日本から行ったにせよ、日本に来たのにせよ、縄文土器はアムール川沿岸と関係があったようである。類似の紋様が多元的に同時発生したことはないだろうか。

 現在、國學院大學文学部考古学研究室が小林達雄教授の指導の下、沿海州の考古学発掘調査を続行中である。縄文時代の権威による研究成果が期待される。

 鉄器はアムール川上流のウリル文化(BC2000年末〜BC8・7世紀)とポリツエ文化(BC7世紀〜AD4世紀)遺跡から出土している。

 更に、沿海州でもオクラードニコフの発掘報告でペスチャヌイ半島の集落址から確実に鉄器が出土したが、集落の時代はBC11〜9世紀と推定され、鉄器の出現はBC10世紀前後と発表された。

(菊地俊彦「青銅器時代以降 北アジア 岩波講座日本考古学 別巻2」岩波書店1986年)

 日本ではC14法で弥生時代が500年遡ることになると、福岡県曲り田遺跡出土の鉄器がBC800年頃になる。そうすると鉄は中国から来た筈なので鉄を使っていない殷周時代より古くなるのはおかしいと言って保守的考古学者が騒いでいるが、アムール川沿岸でも沿海州でももっと古い時代に鉄が使われているのだ。彼らも蛸壺から出て世界を見たら視点が変るのではないか。

 

 X アムール川流域の文化層

 ハバロフスク州郷土誌博物館の支部、考古学博物館では休日にも拘らずアナトリー館長が出迎えてくれ、イゴーリ氏が説明してくれた。次のように要約される。年代測定はC14法によるが補正はされていない。

 

中石器時代

ウチーノフカ文化層

19,000年〜11,000BP

(石器・土器)

セレンジャー文化層

11,000〜10,000BP

新石器時代

オシポフカ文化層

13,000〜7,000BP

(ガーシャ遺跡)

コンドン文化層

8,000〜6,000BP

マルシェフカ文化層

7,500〜7,000BP

(網目文土器)

ヴォズネノフカ文化層

5,000〜3,500BP

(渦巻紋様、ハート形の人面を描いた土器)

鉄器時代(青銅器時代はない)

3,000年BPからアムール川流域では鉄が使われていた。

ウリル文化層

3,200〜2,400BP

(同時代沿海州ヤンコフスキー文化)

ポリツエ文化層

BC7世紀〜AD4世紀

(栽培植物の種子)

モヘ文化層=靺鞨文化、渤海文化

AD4世紀〜8世紀

歴史時代

女真文化(金)

9世紀〜11世紀

 

 Y 今後への期待

 旅の見聞とその後の勉強は好奇心を刺激してくれたいへん面白かった。しかし、欲求不満も残った。

 ロシア極東の博物館の学芸員は黒曜石の鏃製品と原産地についての明確な認識がなかった。日本の北海道産についてふれた人はいたが、隠岐や赤井川など産地については知らなかった。やはり研究本場のノボシルビスクの科学アカデミーシベリア支部研究所でワシリエフスキー先生に直接お話を聞かないと始らないのではないか。高木さんに企画してもらいたい。

 シャーマンについても観光用でなく本物に会いたかった。ロシア語でなくナナイ語を話すナナイ人はいないのだろうか。北海道のアイヌのように言葉が消えたのか。母音が三つの中舌母音なら東北弁になるのだが。

 古田先生のウラジオストック研究成果の発表が早からんことを祈る。

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