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古田会グループ、ウラジヲストック、ハバロフスクの旅、感想記

            坂本博美

 

 初めて皆さんとの旅行に参加させて頂きました。結論から申せば有意義且つ楽しい旅をさせて頂きました。皆様に厚くお礼申し上げます。

 お天気にも概ね恵まれ、日本と余り変わらない気候の中での旅でした。

寒さを嫌って持参したらくだの股引、肌襦袢、カシミヤのセーターが全く無用の長物と化し、移動の都度、荷紐が肩に食い込んだのには参りました。

 ついでに大した事では有りませんが、止め栓の無い洗面盤、すぐぬるくなるホテルの湯、喫煙チャンスを絶えず窺う気忙しさ等も、参った項目に付け加えます。

 この旅での印象としては、現地少数民族のばあ様(名は確かカーシャさん、日本の大戦前期女性名のとめ、ふく、なつ等が似合いそうな人でした)のご自宅に伺い、朝から準備したであろう手料理を頂き、自分の田舎と同じだなとの感がありました。

 庭で、一人で煙草を吸いながら通りすがりの現地人の反応を観察しても、都会に出稼ぎに出ている親戚の男ぐらいの反応が得られた程度でした。顔立ち、雰囲気ともに日本人と近似する種族との感でした。

 かの地の小数民族はユーラシア大陸の陸上移動より日本列島経由の海上移動に重点が置かれるべきとの印象を強くしました。

 黒曜石を使った道具についてもロシア側では発掘例が少なく、余り重視されていません。発掘されたその道具の原石産地や如何にとの検討、解析は進んでいない様です。

 特筆すべきはC14の年代測定でB.C.1200年の鉄器が発掘されており、黒曜石の道具の進展具合から推して、日本経由と考えるべきと、云えます。日本の発掘例も加えて、日本の鉄器使用は縄文後期(B.C.1000年+α)が定説となるでしょう。

 青銅器を主体とした中国の殷時代は短い時間とは思いますが、鉄を錆び易い加工し難い、格下の金属と考えたのであろうと推定されます。ある方が指摘した様に金偏に夷を鉄と読ませるのは、その名残りではが、正解と思われます。

 明治維新が、日本の近代化がもう100年位早ければかの地は日本の領土と成っていたろうとの感想を持ちました。勿論先の大東亜戦争に勝っていれば同様でしょう。

 かの地の人々にとっては物質文明の恩恵と言う側面で言えば、現状より優れた状態と成り得ました。(台湾や韓国がそうある様に)

 古田先生とご一緒に旅をさせて頂き、病も恐れぬ、学問の為なら命もいらぬとの情熱に接し、改めて感動しております。

 只、先生も寄る年波には逆らい難く、先生お一人にその学問の一側面、伝達とその拡大をお願いし続けるべきでは無いとの印象を強くしました。

全国の古田学に端を発するグループが小異を問題とせず一致結束し、その活動の半分を伝達活動とすべきです。

 根無し草のごとき既存の権威にのみ依拠する学者諸氏の心胆を寒からしむる、のも世の為となります。長年の古田先生の口惜しさに、我々で一矢報いてやりたいとも思います。

前記主旨は些事です。

 敗戦後の米国の意図による自虐史感が日本の隅々に行き渡り、且つ、お金のみが価値の主体であるとの誤った歴史観に染まってしまった日本人を立て直す必要があります。

 計画性を必要とする四季に恵まれ、狭い日本列島の中で人々が折り合いを付けながら、一万年の余大きい民族変動を持たない文明は世界でも日本に限ると云えます。

 この中で生まれ積み上げられた人々が、より安定して共に生きて行く、不文法的知恵の積み上げも世界に優れたものである筈です。それは正しい歴史の中にあります。

 誇りを持てない民族は滅びるのが歴史の必然です。ないがしろにされた国家、国民との意識を誇り高き形で改めて現代の社会に合うべく、組み立てる必要があります。

 方法論は決まっています。古田先生が端を開かれ拡大された正しい歴史の中にしか、ありません。今後の日本民族の興亡は古田先生の説を引き継ぐ、我々の双肩にあるとの気概が必要です。

 日本の若い世代はお金だけが価値の主体である事に不安と、不満を持っています。生きていく価値と、共に生きる集団の中での自分の役割、その中での自己規範の有り方等で迷っています。極端な形で殺人を犯す子供が現れるのはその結果と言えます。優秀な子供がそうなり易いと云えます。

 若い人に日本の縄文以来の優れた文化と、活動範囲の広さ等連綿として現代にも繋がっている民族、国民で有る事を教えてあげるべきです。

 伝達活動の方法論は辻説法の心組みで臨めば良いと云えます。例え5人でも10人でも人が集まれば我々が伺い、お話します。我々100人が4回/月*10人で年間5万人に伝わります。10年で50万人となります。現代は辻に立たなくともテーマが少ない公民館、市民会館等でそれを探されていると聞いています。その場を借りて活動する事が可能といえます。

 話をすることは出来ても市役所との渉外活動が苦手な方は、それが出来る方が代わって実行します。更にその講演では視聴覚に訴える映像ソフトが必要です。講演を聞きに集まる全員の資料は準備しません。より反復したい方は映像ソフトを購入依頼します。更に精細な内容を望む方には本を販売します。そのソフト、本の販売益は我々グループの活動経費とします。古田学の書籍中には映像ソフトの商品としてのテーマがたくさんあります。

古田グループの中で分科会を作り、議論し手分けし進めることが肝要かと思います。

 

 旅の感想記が横道にそれてしまいましたが、以前から皆様に相談したい、提案したいとの思いをこの一文を借りて吐露致しました。

所詮、学者としての能力、心構えには無縁の、古田先生始め皆様の説を読み、且つ楽しむ事に徹している人間です。お許し下さい。 

 

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 シベリア鉄道 一人旅

       柳川 龍彦

 

 当初、この旅に参加するつもりはなかった。

 小生のパスポートは、八月中に期限が切れることもあり、八月八日に申請し、一五日に入手した。

 この時点でも、まったく旅行のことは考えていなかった。

 そもそも、洋食が嫌い(特に肉料理が苦手)なので、気乗りがしなかったのである。

 ところがである。

 八月二〇日になって、高木さんより電話があり、どうしても参加してくれないかとのこと。

 当日帰宅した妻に話したところ、「ロシアなんて、一生行けないのでは」ということで、後押ししてくれた。

 夜になり高木さんの自宅に電話でOKした。

 翌二一日、ビザの申請のため、高木さんが自宅まできてくれ、手続きをした。

 そのとき、「最悪のときは、ウラジオストック〜ハバロフスク間は、シベリア鉄道で一人になるかもしれないとは話があった。

 あくまでも、「最悪のとき」である。

 二八日にビザOKの連絡あり、どうやら、「最悪のとき」になったようだ。

 

 前置きはこれくらいにして、九月五日十七時(現地時間:以下同じ)、皆と別れ、シベリア鉄道のウラジオストック駅に行くと、出発までの諸々のことを手伝ってくれるというガイドが来ていた。

 アンナ・ブローバ(БУРОВА АННА)さん、極東大学三年生とのこと。

 彼女はお父さんがウクライナ人ということでもあるのか、中年になっても、その辺で見られる大柄な体型にはならないだろうと思われる小柄な娘さんである。

 出発まで三時間もあるので、コーヒーでも飲みながら、シベリア鉄道のことなどを聞こうと、駅の構内のコーヒーショップに。

 コーヒーだけでなく、アイスクリームもということになった。

 ただ、コーヒーが八ルーブルに対して、アイスが三十一ルーブルというのが気になった。

 出されてみて、値段は納得するも、量がビックリ。

 日本で食べる六個分が重なっているではないか。

 

 そこで、チケットを確認していたところ、出発時刻は、二〇時のはずなのが、一三時になっているので、これはなんだと聞いたところ、それはモスクワ時間になっているのだという。

 モスクワとは、七時間も時差があったのだ。

 まあ、そんなことで、シベリア鉄道のことは一通り聞いたが、まだ時間はたっぷりある。

 そこで、日本語を勉強する気持ちを持ったのは何故かとか雑談をするも、まだ時間は有り余っている。

 今度はアンナが、軍艦を見に行こうということで、外に出ることにした。

 九月三日から、極東の軍事演習ということで、自衛隊の「しらね」(もう一艘きていたがわからず)や韓国の船も停泊しているところまで、およそ一〇分歩いた。

 雨もかなり激しかったが。

 基地のところに着き、彼女が掛け合ってくれたが、事前の申込がないので駄目だということに。

 已むなく、外側から見ることに。

 その後、第二次世界大戦のロシアの潜水艦が展示されているということで、そちらに回り、さらにニコライの門に。

 潜水艦は中も見られるとのことだったが、この日はすでに閉館時刻をすぎていた。

 まあ、潜水艦とニコライの門は最終日(九月九日)に皆と行くことになったが。

 

 旅行から帰って、この記事を書く段になり、そのときの二時間半あまりは、あのグレゴリーペックを思い出した。

 そう、あのオードリーヘップバーンとのシーンを。

 皆と一緒ということは、おじさん・おばさん(ごめんなさい)の中にいるだけで、なんの変化もない旅に終わったことになるところが、若い娘さんとの時間は、ずっと楽しかった。

 「最悪のとき」どころか::::。

 

 十九時半過ぎ、オケアン号に乗り込むことに。

 乗り込んだところ、電灯もついていない。

 あちこちチェックをするも状況がわからなかったが、なんのことはない、出発の一〇分前になり点灯した。

 アンナが車掌に話をつけてくれていたためか、移動中は何もおこらなかった。

 しかし、車掌の客をなんとも思わない横柄さにはあきれるばかり。

 結局は、酒を飲んでいても一人ではなんの面白いこともなく、少し余計に飲んでただ寝るだけ。

 これは、まさに「最悪のとき」であったと思って、迎えのガイドと皆の待つホテルに。

 食事中の皆に会い、一人で大変だったのではというようなことをいわれたが、飛行機が、関西国際空港からの乗り継ぎの関係で、出発が二時間も遅れたようで、ホテルに着いたのが一時ころとのことで、かえってゆっくり寝られただけ、列車のほうが快適だったのかもしれない。

 

 なんのことはない、「一人旅」というタイトルは、どこにいったのかという記事になってしまった。

 

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「弥生時代の開始年代」   

国立歴史民族博物館講演録 その2

        要約 高柴 昭

 

試料の処理と測定」  阪本稔

    (情報試料研究部 助手)

 

 私からは、どのように試料を作り、どのような手続きを経てデータを出しているのかと言うことに付いてお話します。

 まず、試料を選ぶ事が大変重要なことになります。データを出す為には、その意味付けが明らかな試料を選ぶ事が必要と考えています。土器付着炭化物は、使われた年代と直接結び付けられると言う意味で、非常に適当な試料と考えられます。

 遺構出土の木炭や木材も何点か計っていますが、遺跡、住居址面等直接結び付くものであれば、ある程度信用しても良いと思います。一番困るのは同じ地層から出土した小さな木片、種、米等で、他の年代が混ざる恐れがあり、データを解釈をする上でどうかなと思うケースもあります。

 試料を受取ると、先ず良く観察し、ゴミが付着している可能性があれば、ごみを除くため、汚れた部分を切り出したり水で洗ったりします。次に付着炭化物を取り出すために、酸で煮る、次にアルカリで煮る、再度酸で煮ると言う作業繰返し、最後に洗って乾燥させます。得られた炭化物から炭素の抽出を行うため、一旦燃やして二酸化炭素にした後、粉末にし、加速器で計れるようにホルダーに詰めます。それを測定を依頼するために測定機関に送る訳です。

 結果は炭素14年代で表されめすが、これはモデル年代の値なので補正が必要になります。基準は千九百五十年の大気で、炭素14の半減期五千七百三十年をベースに過去の大気の変動を反映します。具体的には、樹木年代等実際の年代が分かっている試料と比べて補正を行います。

 得られた数値を、確率密度分布法という手法を使って統計的処理を行います。歴博では95%の確率を目指しています。


 実際には、(グラフの)山の形を見て実際の年代を判断する訳です。雀居遺跡を例に取りますと図に示したようなデータが得られるわけですが、得られた較正年代がどれも同じように可能性があると言うことではなく、90.8%の確率を示しているBC七百九十年から五百十年の範囲のところに納まる可能性が高いと見るわけです。今回の成果は土器に付着した炭化物を計ったと言うところに意味があると考えています。これは韓国、岡山のデータと比べても矛盾がありません。

 我々としては、自然科学者の立場として、気を付けて試料処理を行っております。

 

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古田武彦藤沢講演会

 『神と歴史の誕生と万葉集』

   要約(文責)  柳川 龍彦

     

前日は台風一〇号で大荒れであったが、この日は久しぶりの真夏日となった。

 

(一) はじめに

最近、映画を見ました。

「スパイ・ゾルゲ」です。

ゾルゲは、父はドイツ人で、母はロシア人であったが、ナチスに反発して、共産党員になっていました。

ドイツの通信社の記者という肩書きで日本に来ましたが、実態は、ソ連のスパイであったのです。

当時、ソ連の最大の関心事は、日本が北進してナチスと協力してソ連を攻めるのか、それとも南進するかにあった。

このような状況下において、ゾルゲは日本に来て、尾崎秀実と知り合った。

尾崎は一高・東大で西園寺公一という親友がいました。

西園寺は、昭和天皇の顧問をしていた西園寺公望の孫です。

このような背景から、西園寺公一は、国家の最高の機密を知り得る立場にあり、それを尾崎に伝えていたのです。

 一方、尾崎はソ連大使館に深く通じていたため、日本の最高機密は直ちにモスクワに伝えられていました。

 明治になって、政府は、神の末裔である天皇家の時代になったということをしきりに喧伝していましたが、これらに対して、一般の国民は、将軍の時代から天皇の時代に変わったのだといわれても、内心はどうだったのでしょうか。

 しかし、このようなことをいくらいわれていても、国家の最高機密が、敵に漏れている状況を知った青年たちは、最前線の兵隊が一所懸命に戦っていたとしても、まともに戦えるなどとは考えていませんでした。

 このような時代背景が、尾崎などをあのような状況に追い込んだにちがいないと思います。

 権力を握れば、ウソの歴史を押しつけることもできるのだというようなことは、信じることができなかったのです。

 ところで、現代の歴史教科書は、真実を伝え、また、一般国民は、それを信じているのでしょうか。

 

(二) ヒルコ神について

 国生神話の中に、天の沼矛や天の沼戈がでてこない神話があります。

 書記の第十の「一書に曰く」というところに、蛭児(ヒルコ)が生まれた。

 このときの蛭児というのは、失敗作であるから船に乗せて流したという神話になっています。

このとき、天つ神は、男の伊奘諾尊ではなく、女の伊奘冉尊が主導したので、蛭児が生まれたといった。

 これは、縄文時代は、女性中心であったものが、弥生時代になると、銅器が中心になってきたが、この銅器は単なる農具ではなく武具(戦争の道具)であり、その結果として男性中心の社会に変わっていったことを強調しているものだと考えています。

 ところで、古事記や日本書紀の国産み神話は、オノゴロ島(古事記では淤能碁呂島、日本書紀では?馭慮嶋と表記)が中心になっていますが、この蛭児の話は、銅矛や銅戈のない淡路島が中心になっています。

 オノゴロ島という博多湾岸中心の神話は、この淡路島中心というより古い時代を消しさることを意図したものであったのです。

 蛭児神とは、エビス神のことなのです。

 現在でも蛭子と書き、エビスと読んでいる漫画家もいますが。

 このエビス神の分布は、淡路島が中心になっていることでも明らかではないでしょうか。

 近年では、西宮戎や大阪の今宮戎がよく知られていますが、この祭りには、熊手が扱かわれています。

 それでは、エビスとは。

「エ」愛であり、良いという意味。

「ヒ」太陽の日。

「ス」須磨などのスであり、人の住みかをあらわす巣。

 すなわち、美しい太陽神がエビスなのです。

 

 さて、岡山から香川に橋が通ったが、その工事の際に、十万点を超える大量のサヌカイトが出土しました。

 瀬戸内海は、元々は海ではなく、陸地であったが、そこに住んでいた人たちが使っていたのがサヌカイトです。

 したがって、瀬戸内海は、縄文時代の一大文明の遺跡であった可能性が出てきたのではないかと考えています。

 また、このサヌカイトを使っていた人たちが、無神論者であったはずはありません。

 サヌカイトを単に石器として使っていただけで、他になにもしないというようなことは考えられません。

 彼らが、サヌカイトを用いて祭っていたのがエビス神(ヒルコ神)にほかならないと考えています。

 一方、奈良県(大阪府の間違いではないか?)の太子町の近くの字地名に、「送迎」と書いて「ヒルメ」と読ませるところがあります。

 これも、ヒルメ信仰があったことを表しているにほかなりません。

 「ヒルメ神」を祭るのに、その神を送り迎えするところということで、このような字をあてたにちがいないと考えています。

 古事記・日本書紀は、これらのヒルコ・ヒルメ信仰を否定するために、蛭児を不具だとして船に乗せて捨ててしまえというのは、最高神である蛭児神を廃し、新しい神の下に統治するための物語に過ぎないのです。

 

(三) フジについて

 次に、昨日の富士と今日の藤沢の「フジ」とはなんだろうかということです。

 古賀達也さんは、「フヂ」ではないだろうかと言われています。

 いわゆる、「チ」の神様として。

 これについて考えてきましたが、現在は「ジ」のほうが良いと考えるようになってきました。

「フ」は後で述べることとして、「シ」は、信州に塩尻と

いうところがあります。

 松本深志高校に赴任した当初、先輩の教師に、「塩」を交換したところだと教えられました。

 その当時は、そのまま受け取っていましたが、その後同窓会の際に、関係する資料を皆に頼んでおいたところ、長野県には、「塩」のつく地名がたくさんあることがわかりました。

 その中で、塩尻だけが「塩」の交換をしていたとはとうてい思えなくなりました。

 結論からいえば、「シ」+「ホ」です。

 「シ」は、人の生き死にする場所を意味するものと考えています。

 後の「ホ」は、穂高の穂です。

 ところで、「死」というのは、元々漢語(中国語)だと考えていました。

 しかし、「死」に対して「生きる」ということを「生ぬ(ショウヌまたはセイヌ)」とはいわないことに気がつき、考え方を変えるようになってきました。

 それは、「死」というのは、漢語ではなく日本語なのではないかということです。

 漢語の中に、日本語が取り入れられるというようなことがありうるのだろうかと考えました。

 そういえば、中国語で、「死」を意味する文字には、没・滅・崩などたくさんあります。

 そこで、中国は、いろいろな言語を持った多民族の集合体であるので、それらを反映しているのではと考えました。

 結果として、日本語も中国語に取り込まれたものもあると考えるのはおかしくないのではと思えるようになってきました。

 本題に戻りますが、静岡県に清水という地名があります。

 この語幹は「シ」であり、「ミ」は御、「ツ」は津だと考えます。

 「シ」は、前に述べた人の生き死にする場所です。

 では「フ」とは。

 「淵」という文字がありますが、「チ」は、例の「チ」の神です。

 「フ」は、奥深く、神秘なところという意味です。

 しかし、藤沢という地名が、どのような由来であるのかは、まだはっきりしません。

 富士山に関係があるのかもしれませんが、皆さんにご教示戴ければと考えています。

 

(四) 国引神話について

 今度、九月二日から二三日まで、ウラジオストックに行ってきます。

 最初の九日までは、シンポジウムの参加など皆さんのツアーと一緒です。

 その後、ホームステイをして、懸案事項を研究してきたいと考えています。

 さて、国引神話ですが、一五年程前(一九八七年)にもウラジオストックに行きました。

 そのときに、国引きとして、「四つの方向から、国が引き寄せられて出雲の国ができた」とあります。

 このうち、@新羅(韓国の古名)とC越(能登一帯の古名)については異論がありません。

 ABに、「北門(きたど)」とありますが、これは、北の出入口、すなわち港であると解釈しました。

 その結果、「北門」は、ウラジオストックの古名であり、沿海州と朝鮮半島を含む地域と考えました。

 この仮説が正しいとすると、縄文時代には出雲とウラジオストックは交流していたことになります。

 となると、ウラジオストックには隠岐島の黒曜石が出土していると考えました。

 このときはウラジオストックの博物館は休館中のため、目的は達せられませんでした。

 しかし、それから八ケ月後にロシアの歴史文献哲学研究所の学者二人が来日し、ウラジオストック周辺から七〇数個の黒曜石の鏃を持参され、それを立教大学で分析してもらいました。

 屈折率測定の結果、五〇%が隠岐島産、四〇%が北海道の赤井川産と判明しました。

 このうち、赤井川産の黒曜石は、青森県の三内丸山などの津軽海峡圏で使用されているものなのです。

 一方、東北地方と出雲は、「ずうずう弁」という発声法が共通しているのです。

 以上から、ウラジオストック周辺の民族(ツングース・モンゴル系の住民)が東北地方と出雲に来て、その人たちの発声法が、現在の「ずうずう弁」の基となったという従来の視点を変える仮説を立てるにいたりました。

 また、ツングース語群の中にオロチ語というものがありますが、これはヤマタのオロチを連想されるものです。

 「ヤマタのオロチ」は、山田(ヤマタ)のオロチと考えています。

 この「山田」は、先進的な地域を表す表現で、現在でも、隠岐島や八丈島などで、仕事に行く・働きに行くということを、「ヤマに行く」と言う地域もあるようです。

 これらを考え、今回のホームステイのときは、周辺の現地民の方々の発声法について今後の研究の資料としたいと考えています。

 

(五) 「川」について

 東伊豆町に大川というところがあります。

 以前から、ここにある巨石をみてほしいという依頼がありましたので、一昨年に富士と藤沢の講演会を利用して、ここに行ってきました。

 現地では、一目みて縄文時代の信仰物だということがわかりました。

 ところが、大川というもののそこには川はなく、あまり大きくはない池がありました。

 その池のことを大川と呼んでいるのです。

 川の「ワ」は、祭りの場を表しています。

 信州にストーンサークルで有名なところに、「ワッパラ遺跡」というところがあります。

 「上原」と書いて、「ワッパラ」とよませていますが、同じように祭りの場の「ワ」です。

 では、「カ」は何かと言いますと、神聖な水のあるところで、これが神としての本体だと考えます。

 「川」とは、本来神聖な水たまりを表したもので、それが転じて、後代には、そこから流れるものを川というようになったものなのです。

 関東地方には、氷川神社というものが数多くありますが、そこには川はなく、元々水があったところを意味しています。

 すなわち、神社というのは、そこにある「水」が神聖なもので、それを祭るために、神殿などが建てられたものに過ぎないのです。

 

() 万葉集について

 まず、万葉集を読んでいて、今までの定説なるものがこれほどひどいものだとは思いませんでした。

 いくつかの例を挙げて、それについての話をしたいと考えます。

 

@ 天皇 香具山に登りて望国したまふ時の御製歌

(2) 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 

まず、奈良の香具山と解釈しているが、わずか160b位のところに登って、海など見えるはずがないので、これは奈良で作られたものではないはずです。

 奈良だとしても、たくさんある山の中から、香具山が一番良いと言っているが、畝傍山や耳成山の方が山としてははるかにすばらしく、取り立てて香具山に登るということはないと思います。

 また、「天の」と言っているが、奈良の山に、「天の」を冠した山はないのです。

 したがって、この「天の」は、天国を指しているのです。

 結論から言いますと、この歌は別府湾で歌われたものです。

ア 登立、国原ともに、別府湾岸の

  地名です。

イ 天の香具山は、鶴見岳(1,300b)

  とかんがえられます。鶴見岳は、

  「かぐつちの神」を祭っており、

  近くには「かぐらめ湖」もあり

  ます。

ウ 「煙立ち」の煙は、竃のけむり

  ではなく、温泉の湯煙です。

  まさに、別府温泉を歌ったもの

  です。

エ 蜻蛉とは、現在の大分空港のと

  ころに、「安岐」がありますが、

  そこを歌っているのです。

 

A 天皇 雷岳に御遊しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

(235) 大君は 神にし座せば 天雲の 雷の上に廬らせるかも

 

 まず、雷岳は、一般に、奈良県高市郡明日香村大字雷といわれています。

 しかし、この雷山は、たかだか二〜三分で登れるほどの単なる丘です。

 この高さでは、雲などかかるはずがありません。

 通説では、天皇の威徳を賛美した人麿の真摯な態度が、このように誇張して言ったところに面白味があるなどと言っています。

ア ここの雷岳は、前原市のあの神

  籠石の雷山です。

イ 時は、白村江の後であり、唐の

  進駐軍も筑紫に来ていた状況か

  ら考えると、一般市民は心とと

  もに、家・屋敷とも荒廃しきっ

  ていたのです。

  それなのに、筑紫の代々の君の

  廬は、荒らされることもなく雷

  山の上に祭られているという庶

  民の嘆きを歌ったものなのです。

   

   岡本天皇の御製歌 一首

1511)夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は 鳴かず 寝にけらしも

 小倉山であるが、奈良にはないのです。

 通説でも、所在不明としたり、飛鳥の東方、桜井市今井谷あたりとしている。

ア この小倉山は、宇佐神宮の近くの小椋山と考えます。太宰管内志にも、小倉山が記されています。

 

 崗本天皇御製一首

485)神代より 生れ継ぎ来れば 人多に 国には満ちて あぢ群の 去来は行けど わが恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み 思ひつつ 眠も寝がてにと 明しつらくも 長きこの夜を

 

この歌の中の「君」という言葉は、女性が男性を呼ぶときの言葉で、崗本天皇(舒明天皇)とするのはおかしいと考えています。

 また、この崗本天皇の崗本は、あの須久岡本の岡本で歌われたものと考えています。

 

 このほかにも、万葉集は、いろいろな学者たちの意見がありますが、近畿で詠まれたあるいは近畿を舞台にしていると考えると理解できないものがたくさんあります。

これらが、九州を舞台にすると、にわかに臨場感にあふれた生き生きとしたものになるものがたくさんあります。

 

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