「綜麻形(へそがた)」考
立川市 福永晋三
はじめに
筆者は東京古田会ニュース85号で、三つ鱗紋(三角紋)の蛇鱗起源説を疑い、鰐歯説を採った。が、万葉集一九番歌の考察から、鋸歯紋(連続三角紋)とは区別して考え直す必要性が生じた。ここに、訂正したい。
謎の三輪山の歌
額田王の近江国に下りし時作る歌、
井戸王すなはち和(こた)ふる歌
一七 味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際にい隠るまで 道の隈 い積るまでにつばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
反 歌
一八 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや
(左注略)
一九 綜麻形(へそがた)の 林のさきの狭野榛(さのはり)の 衣に着くなす目につくわが背
右一首の歌は、今案(かんが)ふるに、和ふる歌に似ず。ただし、旧本この次(つぎて)に載す。故以(そゑ)になほここに載す。
一九番歌の左注、いわゆる今案注
が興味深い。筆者が、二番「天の香具山」長歌の反歌と考察した一五番「豊旗雲」歌の今案注と同じ構文である。つまり、菅原道真公の『新撰万葉集』序に云う「字対雑糅」の例、すなわち長歌・反歌の組み合わせの乱丁の例にほかならない。
そうすると、一九番歌は、「三輪山」の表記が直接にはないが、「三輪山」の歌であり、最低でも三輪山に関連する歌であることになる。
ただし、「豊旗雲」歌で判明したとおり、一九番歌も一七・一八番の歌とは一旦切り離して、独立した歌として考察をしなければならない。題詞は、ここでも直ちに信頼するわけにはいかず(題詞の偽作性)、一旦、保留するしかないようだ。
この考察の続編には、その観点から、空前絶後・奇想天外の仮説が展開される。機会を改めて詳述したい。
「綜麻形」
初句「綜麻形」は「へそがた」と訓読し、「綜麻」は、「績(う)んだ麻を円く巻いたもの」とする解釈が通例となった。澤潟久孝『萬葉集注釋』がその基本的資料といえるが、そこの考察で、「みわやま」と訓読する説(万葉集僻案抄 荷田春満)が否定されている。そして、「へそがた」は地名とされ、滋賀県栗太郡栗東町綣へそかとされてきた。もちろん、通例の奈良県の三輪山を想定しての比定である。だが、次章の三輪山伝説を考えると、糸で測りうる距離にしては遠すぎる。従来の解釈及び奈良県三輪山の歌としてきたことが果たして歌の内実に即しているか、否か。その検証を試みた。
崇神天皇記の三輪山伝説
此の意富多々泥古と謂ふ人を、神の子と知る所以は、上に云へる活玉依姫、其の容姿端正なり。是に、壮夫有り。其の形姿威儀、時に比ぶる無し。夜半の時に、忽ちに到来す。故、相感じて共婚し、共に住む間、未だ幾時も経ずに、其の美人妊身す。然して、父母其の妊身の事をあやしび、其の女に問ひて曰く、「汝は自づから妊めり。夫無きに何の由にか妊身する。」と。答へて曰く、「麗美なる壮夫有り。其の姓名を知らず。夕毎に到来し、供に住む間、自然に懐妊す。」と。是を以て、其の父母は其の人を知らむと欲し、其の女に誨へて曰く、「赤土を以て床の前に散らし、閇蘓へその紡麻うみをを以て針に貫き、其の衣の襴すそに刺せ。」と。故、教へのごとくして、旦時に見れば、針に著けたる麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯遺れる麻は三勾みわのみ。然して即ち、鉤穴より出でし状を知りて、糸に従ひ尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其れ神の子とは知る。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。
(筆者の訓読、漢文風の訓読を試みた)
右の古事記の伝説(土佐国風土記逸文に、「『多氏古事紀』曰」として同種の伝承がある。)から、綜麻形を三輪山と訓む説があり、「多くの学者の支持を得てゐた」と『萬葉集注釋』にある。
だが、「綜麻の文字は崇神紀に大綜麻杵とある人の名が、新撰姓氏録(右京神別上)に大閇蘇杵命とあって、綜麻をヘソと訓む事は明らかだ」とし、次に、倭名抄「巻子」の注に、「巻子閇蘇(中略)績麻円巻也」とあることから、円い巻子(へそ)の形をミワヤマということは右の伝説にも合わないので、「万葉集講義(山田孝雄)」は「形」を「県」の意としヘソカタは地名とされたのである。次の図は、日本国語大辞典(小学館)所載の綜麻であり、倭名抄の注と一致はする。綜麻苧(へそを)・おだまきとも同じであろう。
綜麻形の三輪山
「綜麻」が、「績んだ麻を円く巻いたもの」すなわち球形とする倭名抄の解説は本当に正しいのだろうか。
倭名抄は九三〇年代の成立。万葉集に綜麻形の出てくるのが一九番歌だけ。これと深く関わる崇神記の伝説は、日本書紀によれば崇神七年(紀元前九一年)、疫病の流行を収めるため太田田根子を探し求め大物主大神を祭らせたという箇所にある。崇神記の「綜麻」と倭名抄の「巻子」とは一〇〇〇年ほども隔たりがある。
そこで、もう一度原点に帰って、考古学と古語や方言の中から「綜麻」を探してみた。
まず、「へそを巻く」という方言(秋田県角鹿郡)があり、「蛇がとぐろを巻く」こととあった。球形ではない。むしろ円錐形である。
このヒントから「綜麻石」の語の再発見に至った。綜麻石とは「紡錘車の一種」で「円錐台形をなす」と日本国語大辞典にある。
そこでインターネットで「紡錘車」に当たった。トップのサイトにいきなり、下の写真と図が現れた。ぐんま県埋蔵文化財調査事業団のホームページのものである。古代の「綜麻」は弥生時代以降の住居跡から出土する綜麻石で紡がれた糸のことで、綜麻石も円錐形なら、おそらく綜麻も円錐形であったろうと思われる。次頁の糸紡ぎの様子は『石山寺縁起』絵巻にも同様の図が残されている。また、群馬県から出土した綜麻石(土製の紡錘車もある)は、三角形・長方形・薄台形・厚台形の四種に分類され、三角形が最も古く、弥生時代後期(三世紀頃)に使用されたとしてある。糸が円錐状に巻かれたものが「綜麻」であるなら、「綜麻形」は「円錐形」「三角形」の意味であり、先の古事記の伝説と合わせても、「三勾の円錐形」の山だからこそ「三輪山」と呼ぶのであって、それ以外の何物でもない。
そうすると、「飛ぶ鳥の明日香」から「飛鳥(あすか)」が生じ、「日の下の草香」から「日下(くさか)」の語が生じたように、「綜麻形の三輪山」というような枕詞と導き出される言葉の定型句がかつてあって、そこから「綜麻形(みわやま)」の語が生じていた可能性も考えられるのである。荷田春満の訓みは正しかったのではないか。
そして、万葉集一九番歌や古事記三輪山伝説が実景描写であるなら、現実に日本国の地上に単純に「三輪の円錐形の山」があるはずなのである。
豊前国風土記の三峯の山
三輪山の名にふさわしい山が福岡県田川郡香春町にある。香春岳である。南から一ノ岳(315mかつては491m)・二ノ岳(470m)・三ノ岳(511m)と続く。『豊前国風土記』逸文(宇佐宮託宣集)に記事があり、「新羅の国の神、自ら渡り到来りて、此の河原に住みき。即ち、名づけて鹿春の神と曰ふ。又、郷の北に峰あり。頂に沼有り。」と記され、古代から香春岳そのものが神として奉祀されてきた。記事は、第二の峯・第三の峯と続く。古代の一ノ岳の頂上に沼のあったことは、紡錘車の頂の穴を連想させ、古代人の的確な描写を実感できる。
次は、香春町の柳井秀清さんから頂いた、昭和一〇年以前の香春岳の写真である。この山こそ、大物主大神のます三輪山であったことは言を待たない。一ノ岳には「辛国息長大姫大目命」が祀られていた。その名に「大」字が二度も出現している。
奈良県の三輪山は神とともに移動した地名でしかない。しかも、明らかに一輪の山であること自体が、本来の三輪山でないことを如実に物語っている。
綜麻形の家紋
我々は早くに「綜麻形の三輪山」を目にしていた。「三つ鱗」紋(冒頭部北条鱗を参照)である。
豊後国発祥の三輪氏族の尾形氏、その三つ鱗にまつわる伝承こそ「豊国の三輪山」に淵源のあることが知れた。
源平合戦に活躍した尾形三郎惟義の腋の下に三枚の鱗形のあざがあった。「蛇の子の末を継ぐべき験にやありけん。後に身に蛇の尾の形と鱗とのありければ、尾形の三郎という」と『源平盛衰記』にある。
古事記の三輪山伝説は「蛇婿入」説話でもある。このことと、尾形や緒方の姓は、深く深く三輪山伝承と関わっていた。
ヲガタ(緒方・緒形・尾形・尾方)という姓は、今回追究した「綜麻形」の謂いなのである。「綜麻」は績みヲ(麻・緒・苧)であるから、最も短く言えばヲ(撚糸)である。つまり、「綜麻形」と「緒形」とは全くの同義・同語源である。ヲガタ氏は「三角形の三輪山」より出た三輪一族の綜麻形氏であったのだ。
したがって、豊後のヲガタ氏の三つ鱗の紋は、もともと「豊国の綜麻形の三輪山」をそのまま図案化したものであったと考えられる。
そこに、三輪山の「蛇婿入」説話が合わさっていたから、尾形氏の家紋の謂れがいつしか「三角形の蛇の三つ鱗」と変容したのであろう。深い淵源あってこその変容である。三角紋が蛇の鱗を意味するという、能や歌舞伎の古典芸能の伝統には、やはり古代史(あるいは神話)が深く関わっていたのである。
尾形氏の家紋(三つ鱗紋)から見ても、豊国の三輪山を疑うことはもはやできそうもない。
併せて、三つ鱗紋の起源は、鰐歯ではなく、また、蛇の鱗でもなく、「(豊国の)三輪山」を直接象った意匠であったと訂正する。
狭野榛こそ地名
「三輪山の林のさきの狭野榛」と詠われているとなると、狭野榛こそが地名となる。三輪と狭野の組み合わせは、次の有名な万葉歌との関連も考えなくてはならない。
二六五 苦しくも降り来る雨か神(みわ)の崎狭野の渡りに家もあらなくに
和歌山県新宮市大字三輪崎の比定も外さなくてはならないだろう。
また、榛も「墾」の意の可能性もあり、日本国語大辞典の「墾」項には、《「にいばり」「はりみち」など、他の語と複合して用いられ、現在でも、「春」「張」などの字を当てて、地名となっている所が多い。》とある。三輪山は「鹿春」の地にある。
一九番歌の新訓・新解釈
綜麻形(みわやま)の林のさきの狭野榛の 衣に着くなり目につくわが背
【解釈】三勾の綜麻形(三角形・円錐形)をした三輪山、その林の先の狭野榛のハリではないが、針が着物に着いて三輪山の神の社におわしたことが知れたというあの大物主大神のように、私にはどこにいても目につく麗しく愛しいあなたであるよ。
【解説】明らかに、三輪山の近くに住む、恋する乙女が、三輪山伝説をモチーフにして愛しい男性(大物主大神の血筋を引く人物か)への恋心を高らかに歌った歌である。「榛」に「針」が掛けてあることも明白。「着くなり」は筆者の新訓である。原文は「着成」で、従来は「着くなす」と読まれ、「野榛の着物に染まりつくように」と解釈されていた。これに対し、四句までが大物主大神の故事を引き出す、実質を伴う序詞となっていると解すると、伝聞・推定の助動詞「なり」と訓むことが自然である。一首の主題は、勿論五句にある。
この男女の恋が成就したとすれば、三輪氏やヲガタ氏にとっては、あるいは、先祖の残された貴重な古歌と成り得よう。
おわりに
一九番歌の新解釈は、序章にしか過ぎない。この歌の前後の歌に、古代史の衝撃の事実が詠われているようだ。
筆者は、倭人伝再読において、伊都(いつ)国の読みを再確認し、新たに伊都国を福岡県鞍手郡に比定した。また、倭国易姓革命論では天神降臨の地を現地伝承どおり筑前宮田町の笠置山に比定した。これらはいずれも実は、古代の「豊国」内であることから、筆者の新・九州王朝論は、従前の「九州王朝筑紫一元論」とは違う次元に突入している。いわば九州王朝豊・筑・火多元論を展開することになったのである。
今回の新解釈も右の筆者の両論に密接に関わってくることになる。
ここに「豊国万葉歌」の呼称を仮設する次第である。
室伏志畔
本誌91号で期せずして古田武彦と福永晋三が『吉山旧記』について触れており、九州王朝説内での大善寺玉垂宮の位置付けが、ほぼどのようなものであるかについて教えられ興味深かった。しかし、そこで古田武彦が大善寺玉垂宮の『吉山旧記』の原本と浄書本を比較しながら、その浄書本を「薬師寺本」とし、大善寺に薬師寺が現れ、また薬師寺姓が始まったとしながら、その重大さについて触れず素通りしているのが気になった。というのは『吉山旧記』は別名を『薬師寺旧記』といい、薬師寺の意味を置いてそれを語ることはできないように思えるからだ。
確かに古田武彦のようにこの寺の火祭りに遠く縄文の名残りを感じ、福永晋三がするように、藤大臣の桜桃沈輪退治を原点として語り始めるのも悪いことではない。しかし大善寺玉垂宮と高良大社にあったかつての序列が、現在に至る逆転現象が生じたのは、この薬師寺問題を外してはありえないように私には思える。
そこで私は薬師寺問題を切り口に大善寺玉垂宮の核心に推参したいと思うのだ。というのは今春、奈良の薬師寺が三十五年振りに白鳳大伽藍を再現し、その落慶法要が喜多郎の音楽をバックに荘重に営まれたことについてNHKが特集を組んだことは記憶に新しい。私はそれを見ながら、奈良の薬師寺は、飛鳥の本薬師寺の移建・移座をもって最終的に完成を見たと考え、その「凍れる音楽」と評されるその柔らかな東塔の裳階をもった三重塔もさることながら、「力強さ」と「優しさ」を具備した金堂にある見事な本尊の薬師三尊はもとより、今、講堂にある新たに弥勒菩薩像を中心とする三尊に名は改められたが、それも本薬師寺からの移建・移座を今に伝えるものではないかとしてきた。
問題は本尊の薬師三尊像は、当時の唐の工人なくしては完成を見なかった白鳳仏であるのに対し、講堂の薬師三尊像は時代を後にしながら前時代の飛鳥様式を伝えるのは日本の工人にその技術がなかったからだとした鈴木正の言をおもしろく受け取めてきた。そしてこの一寺に二つの薬師三尊像が存在する理由こそ、薬師寺の建立を天武の皇后の病気平癒の発願に始まったとしながら、正史『日本書紀』はその皇后を持統とし、第一皇后の大田皇后を隠したところに薬師寺の秘密はあるのだとする論を私は書いてきた。
しかし今度、藤原京から平城京の遷都に伴い、飛鳥四大寺である大官大寺、法興寺、薬師寺、川原寺(弘法寺)がそれぞれ、大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺と名を変え、またかつての飛鳥四大寺の現物の全部と言わないまでも一部が移建・移座にあったことを見るなら、『日本書紀』が天武による九州から近畿での大和朝廷の開朝を隠すために、筑紫から豊前への神武東征の豊前王朝の開朝を、瀬戸内海経路の一行を造作することによって、天武の大和創業の業績を隠し、天智を新皇祖とする正史を完成したことを思うとき、天武のよる九州から近畿への遷都を我々は押さえそこない、それに伴う九州から近畿への大寺の移建・移座を見失ってきたのだ。
そのことについて私は『大和の向こう側』(五月書房)の「双子寺の遠景」の中で、天武紀の中の飛鳥寺の騒動は、この九州から近畿への移建・移座問題に反対する急先鋒による、豊前の飛鳥にある椿市廃寺跡にあった元興寺に展開した事件であったと、私は今にそこに残る願光寺(ガンコウジ)の音から幻視した。この移建・移座によって近畿の飛鳥寺の金堂に本尊が入らずてんやわんやしたと言う事件が、推古紀にさも創建時に起こった事件のごとく記録されたのだ。しかし本尊の入らない金堂の設計なぞありえないから、これは椿市廃寺跡にあった元興寺からかっぱらってきたのは明らかだ。こうして九州→飛鳥→奈良への遷都に伴い、九州の元興寺は飛鳥の法興寺、そして奈良の元興寺と二遷したなら、他の大寺についても九州からの飛鳥への移建・移座について私は幻視するほかないのだ。その過程で私は川原寺はカワハラ寺ではなくカワラ寺としたことによって、他の九州の三寺は百済寺→大官大寺、香春寺→川原寺、薬師寺→薬師寺としたが、その九州の薬師寺が、なんと九州の大善寺跡にあったと『吉川旧記』はするのだ。
その部分を『吉川旧記』から摘記するなら、第二十一代吉山久運は僧安泰を六六九年に渡唐させ、翌年に帰朝した安泰は高良社の傍らに、後の天武天皇の為に御廟院高法寺を建立したという。その安泰の弟子となった久運の嫡子秀丸がまた薬師像を安置し薬師寺を始めたらしい。問題はその僧安泰が六八〇年に遷化し、六八八年の久運の死去を境に、吉山秀丸が薬師寺姓に改姓している事実である。
九州における廃仏毀釈は、私の理解によれば六八〇年を境に、「飛鳥寺の西の槻の枝、自ずから折れたり」という記述を引き継ぐように、正史は飛鳥寺の僧弘聡の死、六八四年の僧福楊の獄死を告げる。私はその飛鳥寺を豊前の椿市廃寺跡にあったとし、天武の仏教政策は九州仏教を借りて大和仏教を興すものとしてきた。このとき九州の名刹のほとんどが軒並み移築・移坐を迫られる廃仏毀釈であったというわけだ。このため飛鳥寺あるような抵抗も生じたわけだ。その六八〇年に久留米の高法寺の僧安泰が遷化したことを『吉山旧記』は伝え、天武が同年に飛鳥での薬師寺の建立を皇后の為に発願したと『日本書紀』は記すのは偶然ではありえない。
つまり天武の六八〇年の飛鳥の薬師寺の建立の発願は、高良社の薬師寺の移築・移坐を前提として計画されたのだが、事前の相談なく一方的な執行が進む中で僧安泰はショックで倒れたが、元々天武のための寺としてあったことは、大和での吉山家の優遇がを確約されたにちがいない。しかし、六八六年の天武崩御に続く大津皇子の変を境に、天武から持統を介して天智を戴く天皇制の変化は、九州の薬師寺の近畿へ移築・移坐は、吉山家への保証なき簒奪へと変化した。それは天武が大田皇后の為に発願したこの薬師寺が、中宮の持統のための寺となってゆく経緯に重なる。持統が飛鳥の薬師寺で天武の無遮大会(追悼式)を取り仕切った六八八年に重なるように、吉山秀丸が薬師寺姓に名を改め還俗したのは、このとき久留米の薬師寺の一切は大和に奪われた上に、完膚なきまでの廃仏毀釈を受けたからで、その無念を秀丸は薬師寺姓に刻むほかどんな手立てもなかったからである。
私は誣妄の言を成しているのだろうか。私はこの幻視を鬼夜保存会の会長の光山利雄や宮司の隈正實やの前で述べた。そして「薬師寺姓への改姓の前に二人の死を見るのは、豊前の飛鳥寺での二人の僧の死と程度の差はあれ同様のことが、ここの薬師寺でも行われたのではないでしょうか」とし、薬師寺の礎石の一部でも残っていないかを尋ねた。
大善寺玉垂宮の境内の片隅に案内された私たちの足元に、円柱の柱跡の彫り込みのある礎石断片があった。私は新聞紙を頼み、「九州古代史の会」の兼川晋がその円柱跡を型取ってくれるのを見ながら、それが飛鳥の薬師寺の礎石に合えばと夢みたいなことを考えていた。翌朝、大阪に取って返した私は大芝英雄を誘い、飛鳥の本薬師寺跡に飛んだが、彫り込みのある礎石は本堂跡にも西塔跡にも一切見ることはできなかった。私はワラにもすがる思いで田圃道から一段高いところにある東塔跡に上ったとき、円形に雨水をたたえ心礎が、その回りにいくつかの礎石を伴ってあるのを見た。「大きすぎるなあ」と云う私をよそに大芝英雄は九州から私が持ち帰った新聞紙をその縁に沿わせたとき、それは誂えたようにぴしゃりとその円に沿ったのである。私たちは一瞬、言葉を失い、直径九六センチの水盤と化した東塔の心礎を眺めていた。
「幻想史学も捨てたもんじゃないなあ」と私は冗談を飛ばしながら、あの礎石断片を今に伝えた薬師寺姓に変えた吉山家のことを思った、おそらく吉山光丸は薬師寺の一切をわがもののごとく持ち去った大和朝廷に向かって、薬師寺はわが家に始まると、薬師寺姓を名乗り、その無念を今に伝えようとはかったにちがいない。
この幻視が正しければ、今回、大善寺玉垂宮の境内から見つかった礎石断片は、「凍れる音楽」の異名をもつあの薬師寺の東塔の本来の心礎であるばかりか、現在の薬師寺の本尊である薬師三尊像は、本邦での白鳳仏ではなく、僧安泰が唐から持ち帰り、今に伝わる唐の世界的な逸品であると私は迷わず断言することができる。(H.一五.八.二四)
小金井市 齊藤 里喜代
はじめに
奈良時代から平安時代にかけて服装や文字や好みなどが大幅に変わったことが解っている。従来平安国風文化と名づけている。しかしここに多元史観を持ち込むと違った見方が出来る。
七〇一年をOLD.NEWラインつまりO.Nラインとして九州王朝から近畿王朝への移行するとき、『続日本紀』の大量の「始めて」「初めて」がある。これらは当然近畿王朝としての「始めて」「初めて」であることは、多元史観の人々には常識になりつつある。
明治時代鎖国から醒め、海外から沢山の文化が流入したのと同様に、唐風の九州王朝の文化や役人たちが近畿王朝に流入してきた。そして近畿王朝自体も九州王朝の模範とした唐へ遣唐使を送り積極的に文化の吸収に努力していた。それが奈良時代である。女は鹿鳴館よろしく唐服を身に纏い、男たちは漢文を操り舶来品を尊んだ。
平安時代になると、没落した九州王朝の物まねに疲れて、元もとの近畿の文化に戻ったのが平安国風文化なのである。私はこの文化の流れを「平安ルネッサンスin近畿」と名付けた。
一、黄葉から紅葉へ
朝日新聞のコラム「ことばの交差点」二〇〇二年一〇月三十一日分は『<紅葉>平安以前は「黄葉」が主』とある。「紅葉」も「黄葉」も音読みは「こうよう」で、訓読みも「もみじ」で同じである。コラムを必要なところだけ引用すると、【万葉集では「黄葉」とする例が多く、「紅葉」はわずかです。漢詩で「黄葉」が多く使われていたためですが、平安以降は黄色よりカエデの鮮やかな赤に好みが移ったため、「紅葉」が増えていきました。】
つまり唐と九州王朝が「黄葉」で近畿王朝が「紅葉」なのである。
二、梅から桜へ
梅は落葉高木。中国から渡来。万葉では白梅が主。多くは中国風の雰囲気で歌われる。と中西進編『万葉集事典』(注一)にある。太宰府天満宮の紋が梅ばちであるのが九州王朝の紋所である証拠だとおもう。
桜は総称。咲く・ら(咲く花の代表)の意。落葉高木。と右の『万葉集事典』にある。
梅は九州王朝と奈良時代、桜は近畿王朝元々の花である可能性が高い。
江戸時代以来、熊本の武士や士族の間で梅の花の品種改良が流行していた。これも淵源は九州王朝ではないだろうか。他藩では聞かない。
三、真綿から十二単衣へ
奈良時代の都では軽快な唐服で、平安時代の京都では重たい十二単衣。盆地の京都の冬は寒く夏は暑い。半端じゃないのは現在冬の京都へ行く新幹線が割引になっていることで解る。それほど観光客は冬の京都を嫌う。
北九州の邪馬壱国では真綿があり、ぎ志倭人伝に綿衣(綿入れ)綿(真綿)として出ている。出土物でも麻布に真綿が付着した綿入れの衣服が出土している。真綿というのは繭から絹を取った残りの糸にならない繊維や質の悪い生糸を大量に使って作るもので、軽くて暖かい。産地ならではの物だ。
平安時代となると、京都では舶来品の上等の絹の衣服を重ね着して寒さを防ぐのが貴族のお姫様の着物となった。重たくて身動きもままならない。
四、漢文から仮名へ
『日本書紀』を作るのに八年で出来たのは滅亡した九州王朝の史官を使ったからである。中国の歴史書を引用したりするのには子どもの時から中国の書物を読んで育った者でないと無理だ。九州には中国の書物だけでなく、今の国会図書館のように日本全国についてのの書物が集められていたこと明白である。しかも九州王朝の歴史記事を近畿王朝に置き換えるのは、ますます九州王朝の史官の独壇場である。
一方近畿の方にあるのは『古事記』のもととなつた『先代旧辞』を代表とする「たらし」を「帯」、「くさか」を「日下」とする近畿方言といってよい漢字書である。
小林芳規氏は「第一は、漢文の訓読法が歴史的に変遷している。特に平安初期以前と、平安中期を過渡として、平安後期以降との間に大きな変改が生じている」(注二)という。
これなども唐物かぶれから、近畿本来の方言の読みに戻ったとみて間違いあるまい。
九州王朝出身の太安萬侶は全部音だけで綴ると長すぎるとして、『古事記』では音訓読みを採用した。しかし、平安朝の女性たちはその長さをものともせずに、かな文字のみで文章を綴った。しかも清音のみでである。そして女流文学の最高傑作源氏物語が生まれた。それも下地がないと書く側はついていけても読む側の一般女官たちはついていけない。女官たちは徹底して一字一音の万葉の東歌に慣れていたのではないだろうか。とすると音訓のある方の万葉歌は九州王朝の歌となる。
おわりに
元の地が出た平安ルネッサンスin近畿は清音を使う人たちである。いろは四十七文字も濁音無しである。九州や関東は濁音有りの万葉仮名の本場である。
鎌倉時代以後は官公所の書類と歴史書は漢文で書くが、本場の漢文に慣れ親しんでいる階層は僧侶のみになってしまった。であるから漢文の偽書というと僧侶の作文というのが定番で出てくるのである。
(二〇〇三年九月二十五日記)
(注一)講談社文庫『万葉集事典』
万葉集全訳注原文別巻
(注二)日本思想大系『古事記』岩波書店解説「古事記訓読について」六五一ページ一、二行
立川市 福永晋三
はじめに
東京古田会ニュース九一号に、「ニギタヅについて、場所は一貫しているが、歌の時代や状況については論旨に変化が見られる。この点分かり易く説明して頂きたい。」との高柴昭氏の筆者への質問が寄せられた。
これは、その回答であると同時に、筆者の端緒に着いたばかりの我流の万葉学を語るものである。照覧あれ。
九州王朝論邂逅以前
高校・大学と漢文学に親しんだ筆者に、万葉集はまだ遠くにあった。わずかな接点は、漢文の訓読のため、万葉仮名にいかなる音訓の例があるかを参照するくらいだった。呉音の宝庫であることは承知していた。が、歌の主題や解釈、まして時代背景等にはとんと関心がなかった。
学生の時に万葉集に関して記憶しているのは次の一点だけだ。
「万葉集は原文でお読みなさい。」
当時の国学院大学教授岡野弘彦(歌人)のどういうわけか源氏物語の講座での言葉である。続けて、「他人の解釈を読んでも万葉集を読んだことにはなりません。」とあったことを憶えている。
その記憶から言えば、筆者は未だ万葉集を読んでいなかった。
昭和五〇年三月、国学院大学を卒業した。が、前年の春から夏にかけて就職活動ができなかった筆者は、二松学舎大学教授赤塚忠(故人、今文尚書を教わった)の就職斡旋を丁重に辞退し、恩師浅野通有教授(故人、楚辞を始め多くの漢籍を教わった)の勧めで角川書店辞書・教科書部にアルバイトとして入った。ここで後に伴侶となった伸子と出会う。筆者と共通の師、東京学芸大学教授柳町達也(故人、訓詁学の碩学)から国文学の才媛との紹介を受けた。今にして思えば、運命的な出会いである。
角川書店で都合三年ほど勤めた。この間、東京・京都の中国文学、国文学、国語学の学究達とお付き合いいただき、多大の影響を受けた。特に、国立国語研究所に出入りした経験は今も忘れがたい。また、現在茨城大学教授である加納嘉光から泡盛を頂戴しながら漢語音韻学の手ほどきを受けたことも有り難くそして懐かしい。恵まれた三年間だった。
昭和五二年、正社員としての採用が見送られ、初めて教員採用試験を受けた。東京、埼玉、福岡、熊本と受験。熊本を除いて名簿登載となった。翌年正月、福岡の採用が僅かの行き違いで見送られ、その後大学の助言もあり、東京都に採用された。
昭和五三年春、東京都立府中高等学校国語科教諭に補される。
自分の知るかぎり、間違いや嘘は教えたくない。この一念で、教材研究に勉めて教壇に立った。この時の経験が、後に「『九州』の発見―王維の認識」(明石書店『九州王朝の論理』所収)などの発表につながった。
万葉集を読み始めたのもこの頃である。解説だけでなく、原文・原表記を自分なりに読む。筆者は二十五歳の時、教壇に立ちながらようやく万葉集を読み出した。
『萬葉古徑』の精神
万葉集を教えることになって、最も頼ったのが『萬葉集注釋』(澤瀉久孝)であった。澤瀉久孝は明治生まれの学究で、『注釋』完成直後の四三年十月に急逝した。その一字一句をもゆるがせにしない、広範囲に渉猟した資料に基づいての緻密な考証に感嘆させられた。今も万葉歌に当たるときの必読の書である。
大著の『注釋』に対し、『萬葉古徑』(中公文庫)という著作がある。筆者の手にある文庫本は昭和五四年発行のものだが、「はしがき」には昭和一六年五月の日付がある。そこの最初の二条こそ、筆者の万葉集を読むに当たっての基本精神となったお手本である。
一、一、本書は、萬葉集の作品中で、從來の訓詁に從ひがたきものまたは異説多く疑問を殘してゐるものなどについて小見を述べたものである。
一、一、萬葉研究の窮極所は、ただ一首一首の作品を正しく會することに盡きると信ずるわたくしは、この書に於いて、その窮極所への小徑をほんの少しばかり墾いてみたつもりである。
また、カバーには「『萬葉集を萬
葉集として正しく解く』ことに生涯
をかけた学究」との紹介もある。
右の非凡な謙遜に深く心を打たれた筆者は、浅学非才の身も顧みず、蟷螂の斧を構えたのである。『萬葉古徑一』には全十五章あるが、そのうち今日の筆者の問題意識に残った章の名を記しておく。
「いささ群竹」、「清明」攷、「音のさやけさ」、「にほふ榛原」、「月待てば潮もかなひぬ」、「家もあらましを」と「家居らましを」、「田兒の浦ゆ打出でて見れば」の七章である。
「清明」攷は、一五番「豊旗雲」歌を二番「天の香具山」長歌の反歌とする私見の基になった。「にほふ榛原」、「家もあらましを」と「家居らましを」は、一九番歌の「へそがた考」に結実した。そして、「月待てば潮もかなひぬ」の章が、八番歌「熟田津」の新比定の、福永伸子のとも違う、筆者福永晋三の考察の基盤となった。筆者の仮説に肯定的な方も否定的な方も、こういう学究の墾いた「小徑」から入られ、然る後に筆者への批判・非難をされるなら、より建設的な展開も生じようかと思う。ご一読・ご一考いただきたい。
万葉集と多元史観
一大転機が訪れる。『失われた九州王朝』(角川文庫版)を読んだ。中国史書等に現れる「倭国」が九州王朝であるとする仮説の、それまでにない合理性に共鳴した。同時に、万葉集の概念が揺らいだ。「万葉集を万葉集として正しく解く」ためには、従来の古代史を見直して、いつ(時代)、誰が(読み人)、どこで(詠歌地)、何を(主題)、どのように(修辞)、詠んだかを解かなくてはならない。また「和歌」とは一体何なのか、万葉集とはそもそも何か。こういう基本的な命題を抱えながら、「市民の古代」に入会した。昭和も暮れようとしていた。
古田武彦氏が万葉集中の「古歌」群から「九州王朝の歌」と思われるものを抽出されていた。「市民の古代」に集った人々も、多元史観から万葉集を検討されていた。『市民の古代』第九集(昭和六二年、一九八七)に特集があり、当時の古田武彦氏らの万葉集研究の成果が記されている。千歳竜彦氏の「万葉集の成立」は、山口博の『万葉集形成の謎』を取り上げながらも結局、従来の論に落着している。これらは、依然として題詞や左注に拘束された研究成果であり、筆者の求める万葉集の本質にはほど遠かったと言わざるを得ない。
続く第十集の中小路駿逸氏の市民の古代十周年記念講演会、「古田史学と日本文学」中の万葉集に関する論説に到っては、万葉集に九州瀬戸内の住民の歌が欠落していると述べられた。つまり、万葉集が大和王朝側の編纂であるから九州王朝の版図の歌が欠落していて、逆にそれが九州王朝の実在を物語るとされた。この観念が多元史観側の通念となっていった感があるくらいだ。
筆者にはもどかしかった。決定的に、何かが物足りないままだった。
一九九二年、古田武彦氏の文京区民センターでの新春講演会でちょうど人麻呂のことが語られ、思い切って質問したことがある。万葉仮名が呉音で書かれている意味をお尋ねした。『市民の古代』第十四集に記録されている。福永の姓が古田武彦氏の姓名とともに書かれた最初でもある。丁寧なお答えを頂いたが、それでももどかしさは収まらなかった。平成四年のことである。
嘉麻三部作新解釈の衝撃
平成五年(一九九三)の『市民の古代』第十五集に、富永長三氏の「憶良と亡命の民―嘉麻三部作」が載った。惑情を反さしむる歌一首并せて序、子等を思ふ歌一首并せて序、世間の住みかたきことを哀しぶる歌一首并せて序、の三部作(八〇〇〜八〇五)の新解釈が示されていた。八〇三番銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやもは著名で、教科書にもよく採られる。子への愛情を詠った名歌とされてきた。子煩悩の歌といってもよい。
富永氏は、惑情を反さしむる歌の序の「山澤に亡命するの民」の一語に深い洞察を注がれた。『萬葉集注釋』にも、《元明天皇即位の宣命中大赦の條で「亡命山澤、挾蔵軍器、百日不首、復罪如初」(第三詔、慶雲四年七月十七日)とあり、和銅改元の宣命(第四詔、和銅元年正月十日)にも同じ句がある事は注意すべきである。》とあるが、それ以上の考証は展開されていない。
多元史観に立つ富永氏は、続日本紀と一致するキーワードから、倭国(九州王朝)の王権が潰え、日本国(大和王朝)の王権が確立した直後に、倭国兵の抵抗もしくは反乱という歴史事実が筑前国嘉麻郡にあったのではないかと推測された。そうして嘉麻三部作は、倭国兵への投降・自首を促した歌ではないかとの衝撃的な新解釈、新たなる主題を提示されたのである。銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやもの歌も、子が可愛いのなら一日も早く自首・投降して一緒に暮らすがよいとの主題が考えられる。「万葉集を万葉集として正しく解く」ための従来にはなかった新しい手法がここにはあった。何を(主題)、どのように(修辞)、詠んだかについてこれほど斬新な追究はなかった。これ以後、筆者はこの歌を教える時には、必ず富永氏の新解釈を引用することにした。
多元史観の一角に現れたこの貴重なお手本が、以後の筆者を導きつづける。
市民の古代分裂
嬉しい衝撃の直後に、不幸な衝撃が走った。市民の古代分裂。一般会員でしかなかった筆者(今も一般会員でしかない)は、困惑しながらも結局、「多元的古代」研究会・関東と古田武彦と古代史を研究する会に入った。平成六年(一九九四)のことである。
全日制に勤務していたが、努めて多元の会に通うようにした。そこに富永長三氏がいらっしゃった。氏が講師をされる万葉集を読む会があるにも関わらず、あまりに人々と異なる疑問を抱えていたため、ほとんど参加しなかった。皆さんの迷惑にならないようにと考えたからである。そのかわり、氏の定例活動の報告は欠かさず読んだ。旅行に参加する折にはよくお話させていただいた。
古田武彦氏と親しくお話する機会も増えていったが、平成八年(一九九六)春、古田氏は東京十二年を終えられ、帰洛される。筆者も昭和高校定時制に異動した。翌平成九年、幹事に迎えられ、その年末、ついにその時が訪れる。
大君は神にしませば
平成九年(一九九七)十二月一日、高田かつ子氏からのFAXが筆者を覚醒させた。四二六〇・四二六一番の歌がそこにあった。
皇は神にし座せば
赤駒の腹這ふ田為を京師となしつ
大王は神にし座せば
水鳥のすだく水沼を皇都となしつ
この両歌を邪馬台国の歌、すなわち倭国の歌(倭歌)と直観した筆者は、間髪を入れず、「水沼の皇都」、「題詞の偽作性」というテーマを立ち上げた。筆者独自の万葉学、多元史観をも導入したそれはついに始まったのである。
この日から、立川市と向日市との電話とFAXの往来は引きも切らなかったのである。
平成十年(一九九八)、「多元」二三号に古田武彦氏の「大君は神にしませば」が載った。肝要部分を抄録する。
《弥生時代、博多湾岸を首都圏とした倭国は、四世紀中葉、高句麗の水軍の襲来をおそれ、背後(筑後川流域)に都を移した。
「万葉集には九州人の歌がない」このテーマは中小路駿逸さんが示されたところ。一応「表面」はその通りだけれど、何と万葉には「九州王朝の歌」が隠され≠トいたのだ。「君が代」と同じく、「大君は神にしませば」の創始王朝もまた、九州王朝だったのである。
万葉研究は、新しい段階を迎えたようである。
なお、この問題の強い推進者・発見者は、多元の会の福永晋三・伸子の両氏であった。ここに深く感謝させていただきたい。
一九九八年一月十九日》
右の内容は、古田武彦氏と筆者との共通認識であり、筆者の万葉学の始まりが、古田氏とともにあったことを今も誇りに思う。
東京古田会の皆さんにもぜひ知っておいていただきたく、紹介した。
「熟田津」の新比定が、決して一朝一夕に生まれたものではないことを、先ずはご理解いただきたいのである。 (つづく)
ウラジオストク、ハバロフスクの旅にて私が感じたのはシカチ・アリアン村にてナナイ人の伝承と踊りと歌が紹介されて時、会場と控室を間仕切る三枚の幕に三個の太陽らしき絵が描れていたことです、最後の質問コーナーにてお聞きしたところ、三個の太陽とのことでした。話の内容は三個の太陽が天空にあったときは熱くて岩も柔らかくアムール河河畔の岩刻画が簡単に描けたとのこと、神話がリアルな姿を残していた。
もう一件はハバロフスクの郷土誌博物館でオホーツク海の海流図があり、無知だった私の脳裏をを打ち砕かんばかりでした、その図は対馬海流はオホーック海の奥深くまで達し、黒潮は親潮をかいくぐり各海峡からオホーック海へ侵入していました。
極東アジアの交流は最初は海の道を遣って倭、毛人、極東ロシアの現在は少数民族となっている先住民族間にて侵略や交易を含めた交流がなされていたことは明白です。
東日流外三郡誌を始めとする和田家文書の語るところと記紀の記述にある蝦夷征伐との関連記事はその範疇を極東ロシアの地平を我々の視野の中に勝ち取ったであろう。
賢い人が虚空で考えたことは、アムール河の川面に消えていく。神話に考古学出土品に接し、仮説立案と論証の積重ねのみが北の大地にかかった霧を切り開く。
会員の皆様へ、『閑中月記』にて古田先生が述べられていますように現在治療療養中にて定期的講演会と会報等への発表を控えたい旨のお話を承りましたので、当会として了解いたしました一日も早い快復を祈っております。
小字名はスペースの都合上、次号と致します。
案内とお知らせ
古田会主催旅行案内:
ツアー名 :肥後見聞録(装飾古墳、トンカラリン遺跡と阿蘇神社)
期間:11月30日(日)〜12月2日(火) 定員20名(最低催行人数15名)
見 所 :菊地神社,県立装飾古墳館、山鹿市立博物館、チブサン古墳、オブサン古墳、鍋田横穴墓、 菊水町歴史民俗博物館、江田船山古墳、トンカラリン遺跡、玉名市穴観音横穴墓、ナギノ横穴墓、甲斐神社、井寺古墳、阿蘇神社、阿蘇山、西原町馬頭公園ペトログラフ
宿 泊 :玉名(ビジネスホテル)、阿蘇プリンスホテル
内 容 :往復航空券、宿泊、朝食2回、昼食3回、夕食1回、中型観光バス貸切、拝観料含む
費 用 :50000円(シングル希望者5000円up)
申 込 :11月14日迄 郵便又はFaxにて(株)トラベルロード 担当:高木 迄
〒191-0031日野市高幡1000-1
マロニエビル3F
電話:042-599-2051
Fax:042-599-2054
編集後記 高柴 昭
今号の執筆者を見て「おや」と思われた方もあるかも知れません。
当ニュースは90号でお示ししました方針の通り、古代史に関する議論は積極的に行っていく積りでおります。議論を重ねる過程で、自ずから納得出来る方向が見えてくるものと考えているからであります。
又、いくら優れた理論であっても切磋琢磨がなくなれば、独り善がりにつながり兼ねない事を恐れるからでもあります。
同時に、議論を行う場合、日本人が陥りがちな、議論と個人攻撃等との混同は避けたいとも考えております。
一時期その辺りがやや曖昧で混乱を招きましたが、なるべく早い機会に、本来目指すべき、いわゆる多元的視点からの古代史の解明に向けて、力の結集が出来れば良いなと考えております。
そういう意味で議論のやり方はともかく、肌合の違いという次元を乗越えて真摯にやりとりが出来るかたちに向けた一里塚と受止めて頂ければ有難いと思います。
感情論に陥らずに冷静な議論を進めていくことが出来る様、今後とも務めていきたいと考えております。
91号での私の質問に対し、福永氏から解答がありました。スペースの関係で後半は次号に譲ります。先入観に捉らわれない意見交換の形として広がることを願っております。