『想いは言葉に乗せて』


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十三*想いは言葉に乗せて(前編)



 泣いてもすっきりせず、だけど朝は来てしまう。はれぼったい顔のまま、学校へと向かった。

「おはよ。ひどい顔、してるなぁ」

 通学路で会った巡の心配そうな顔にまた、涙が出てきそうになる。
 巡のこと、こんなにも好きになっていた。その気持ちに気がつかないまま友和のことではしゃいで、挙げ句の果てには振られて……。
 友和に利用されていたんじゃない。わたしがこんな気持ちでいたから、いけないのだ。

「ほんっと、奏乃は手間がかかるなぁ」

 呆れたような口ぶりさえ、涙を誘う。ようやく泣き止んだと思っていたのに、涙があふれて来た。

「困ったな……。こっちこいよ」

 巡はわたしの手を引っ張り、路地に入った。

「だからあれだけ、無理するな、我慢するなって言った……」
「違うのっ」

 違う。友和のことはもう、吹っ切った。それに、好きだと勘違いしていたのだ。だから、大丈夫。
 今はそうではなくて、巡のことが好きなのに、この想いは決して成就しないことを知ってしまったからだ。

「ほら、ハンカチ」
「……要らない」

 巡が差し出してくれたハンカチを断り、わたしはかばんからハンドタオルを取り出す。顔にあてて乱暴にぬぐっていたら、苦笑した巡がわたしのタオルを取り、優しく涙を吸い取ってくれた。

「巡、いいよ」
「なにがだよ」
「わたしにかまわないで」

 わたしのことを妹としか思っていない巡が側にいるなんて、やっぱり辛い。わたしは巡の妹じゃない。わたしの想いが通じないのなら、やっぱり、側にいられるとすごく辛い。

「オレのこと、嫌い……なのか?」

 巡の強ばって掠れた声。
 違う。巡のこと、大好きなの。側にいて欲しいの。わたしのことを見て欲しい。
 だけど、巡はわたしではなく、篠原先生が好きなんでしょ? 側にいても、わたしのことは見てくれない。だったら──。

「嫌い。巡なんて、大っ嫌い! もう、側にいないで」

 思っていることと正反対のことを、言ってしまった。

「そっか……。オレ、迷惑だったんだな」

 違う。違うの! と言いたいけど、なんだか心がぐちゃぐちゃで言葉が出ない。

「分かった。もう、奏乃のことにはかまわないよ。……ごめん」

 友和の最後の言葉と同じことを言われてしまった。そして巡はわたしを気にしながらも、路地から出ていった。
 違うの。そんなことを言いたかったわけじゃない。本当はずっと側にいて、わたしのことを見ていて欲しいって言いたかった。わたしのことを好きになってって……言いたかったのに。
 塀にもたれかかり、洩れそうになる嗚咽を必死に押さえた。涙はどんどんあふれてくる。
 心に思ってもないことを巡に告げてしまった。ひどいことを言ってしまった。だから巡はとうとう呆れて、わたしから遠ざかってしまった。わがままで自分勝手な自分。巡に呆れられても仕方がないよね。
 遠くでチャイムが鳴っているのが聞こえてきた。わたしはのろのろと身体を起こし、涙をぬぐいながら学校へと向かう。学校に着いても涙は止まらず、わたしは泣きながら授業を受けた。だれも声を掛けてこない。
 放課後になり、美術部に顔を出すのも辛くて、無断欠席した。
 さんざん泣いたからさすがに涙もようやく止まったものの、次の日もその次の日も美術部に行く気になれず、授業が終わったら家へと帰った。心配した野原先輩がわたしのところまでわざわざ来てくれた。

「下瀬さん、どうしたの?」

 わたしはうつむいたまま、すみませんと小さくつぶやいた。

「今は絵を描ける気分じゃないんです」
「……そう。しばらく、お休みってことでいいかしら?」

 わがままなことを言っているから『退部ね』と言われるかと思ったけど、お休み扱いにしてくれるらしい。

「描ける気持ちになったら、いつでもいいから来てね。待ってるから」
「はい。すみません、ありがとうございます」

 わたしは野原先輩に深々と頭を下げた。

     **:**:**

 それから夏休みに入り、三年生は受験勉強のために出てこなくなった。
 まだ描く気になれなくて、夏休みはほとんどを家で過ごした。去年のことを思えば、大違いだ。
 夏休みが終わり文化祭が近くなってきて、ようやく少し絵を描こうかなという気になってきたので、久しぶりに部室へと行った。
 部長は交代していて、わたしと同じ二年生が部長になり、副部長は一年生がなっていた。野原先輩から事情を聞いていたらしく、特になにも言われることなく、復帰できた。
 サッカー部をデッサンする気にもならず、だからといって石膏像を描くと巡を思い出すから辛くて、室内にある机をぼんやりと描いてみたり、花瓶を描いてみたり。
 周りのみんなは文化祭に出品する作品に取りかかっているのにわたしはそこまで到達することが出来ずにいた。焦る気持ちはあったけど、絵を描こうとしても手が動かない。
『なにがあっても、絵は描き続けろよ。約束だぞ。嘘ついたら、キスするからな』
 巡がそんなことを言っていたことを思い出し、涙がにじむ。
 巡、わたし今、約束を破って絵を描いてないよ。だから──。

 昔はあっという間に消費していたクロッキー帳のページもまったく減っていかない。クラブには出ていても活動はしていない状態。宿題をして、ちょろちょろっとクロッキー帳の端っこに落書きをして、おしまい。
 文化祭が行われ、運動会があって、気がついたら寒くなって冬休み。
 年が明けて新学期になると、自由登校になった三年生は学校に来なくなってきた。
 巡は相変わらず目立つようで、自然と状況が耳に入ってくる。色んな大学を受けて、ほとんど受かっているらしい。巡はわたしと違って、きちんと前を向いて歩いている。わたしは反面、あの日からずっと、止まったままだ。

     **:**:**

 三月に入り、雪の日が増えてきた。もう少ししたら、巡は卒業する。去年の今頃もそういえば友和が卒業する前で、なんだか淋しい気持ちになっていたような気がする。今年は去年とは比にならないほどの気持ちを抱えていた。身が裂かれてしまうような淋しさ。

「お父さんはね、私に対してそれはもう、しつこかったのよ」

 二人で摂っていた夕飯時、お母さんはなにか思い出したらしく、いきなりそんなことを言って、一人でくすくすと笑った。

「新入社員として入ってきたお父さんを最初に指導したのが私だったの」

 そういえば、お母さんは結婚するまで働いていたってお父さんとの喧嘩の時に言っていたのを思い出した。

「お父さんはあんな性格だから、あんまり女の人に優しくされたことがなかったみたいなのよ。私が教えたのは仕事だからなのに、激しく勘違いされちゃったのよね」

 お父さんって……。

「あの情熱はどこから来たのかしら。私は結婚する気は全くなかったんだけど、押して押されていつの間にか結婚していたわ」

 情熱的なお父さんなんてまったく想像もつかない。

「不器用だけど何事も真剣に取り組むお父さんを見ていたら、いつの間にか好きになっていたの」

 そう言った後、お母さんは恥ずかしかったらしく、エプロンで顔を隠した。

「あらやだ」

 とつぶやくと、お母さんはなにか言い訳を口にして、席を立った。


「お父さん」

 わたしは久しぶりにお父さんに声をかけた。お母さんの言っていた真相を知りたくて。お父さんは少しだけ視線を上げて、わたしを見た。

「お父さんはお母さんに猛アタックしたって聞いたけど、振り返ってもらえなかったらどうするつもりだったの?」

 わたしの質問にお父さんは驚いたようだ。顔を上げて、わたしをじっと見る。

「普通なら、断られたら諦めない?」

 お父さんは少し困ったような表情をして、おもむろに口を開いた。

「一度や二度、断られたくらいで諦められる気持ちは本物ではない」

 その言葉に、はっとする。

「どうあっても手に入れたいものというのは、存在するんだ。諦めきれなかったんだ」

 真剣な表情に言葉を失う。

「想っているだけではダメだって教えてくれたのは、母さんなんだ」

 それは、わたしが前に巡に対して言ったのと同じような言葉だった。

「願えば叶うなんて、それは嘘だ。願っただけで叶うのならば、みんなが満足しているはずだ。願って実行して諦めない心──それが大切なんだ」

 熱に浮かされたようなお父さんの言葉に、なんだか背中を押されたような気がした。
 それは、巡の卒業式の前日だった。

     **:**:**

 そして、卒業式当日。今年の卒業式も寒くなるのだろうかと思っていたら、やっぱり雪が降った。寒さは今年の方が厳しいような気がするのは、わたしの心持ちのせいだろうか。
 去年と同じように厚手のタイツをはき、カイロを張って寒さ対策をするけど、わたしの冷え込んだ心を象徴するかのようにそれでも寒かった。体育館の中なのに、吐く息が真っ白だ。
 入場してきた三年生の中に巡を見つけて、胸が締め付けられる。こうやってここで巡を見るのも最後になる。
 そればかりか、巡とはもう、会うことがないかもしれない。巡はたくさんの大学を受けて、第一志望と思われる大学に入学が決まったようだ。そこはわたしが今から必死になって勉強したとしても、とてもではないけど入れそうにないほど、学力の高いところだ。しかもわたしがぼんやりと考えている大学のある場所とは逆方向で、疎遠になるのは目に見えている。
 これで良かったのだろうかと自問しているうちに、卒業式が終わってしまった。
 去年と同じように美術室を飾り付けして三年生を待つ。
 しばらくすると先輩たちがやってきた。去年は巡が最後に入ってきてみんなを笑わせていたなと思いながら、最後尾に視線を向ける。しかし、巡はいない。前に並んでいる三年生を改めて見ても、巡はいなかった。
 美術部を辞めたとは聞いていないから、もしかしたら卒業式名物の告白を受けていて遅れているのかもしれない。そんな積極的な人たちをうらやましく思いながら、だけど分かっている結果を思い知るのが怖くて、そんなことが出来ずにいた。
 野原先輩が挨拶をして、乾杯をして思い出を語りながらみんなでおかしをつまんでいたら、前の扉が開いた。

「やー、遅くなってごめん!」

 巡が教室に入ってきた途端、なんだか場の空気が華やいだような気がする。

「皆本くん、遅い! って、うっわー、なにそれ」

 巡の周りに人だかりが出来る。輪の中心に立って、巡は笑っている。

「女の子のパワーってすごいねぇ。ボタン、全部むしりとられた」
「やーだ、なにこいつ。もてるって言外に言ってるのか?」

 同じ三年生の男子は巡を取り囲み、みんなしてからかっている。女子は、ボタンを一個くらい残しておきなさいよ、奪い取って欲しい人に高く売りつけたのになんて軽口を叩いたり、それを聞いた他の男子がおれのでいいか? なんて言って笑っている。
 ぼんやりと部屋の隅っこで巡を見ていたら、こちらをちらりと巡が見た。だからわたしは慌てて、目をそらす。

 そういえば、中学校の卒業式の日。
 同じようにボタンを奪われ、同級生にうらやましがられていたのを思い出した。そして、なぜか巡は帰るときに、わたしにボタンを一つ、渡してきたのだ。
『それ、第二ボタン』
『……え、あ、うん』
 すっかりボタンはなくなっていると思っていたのに手渡されて思わず、首をかしげる。
『それ、やるよ』
『……なんで?』
 意味が分からなくて、思わず聞いていた。
『おまじないだよ』
 巡の口からおまじないなんて言葉が出てきて、あまりにも意外性がありすぎて驚いたのを思い出した。
 それを真に受けていたわけではないけど、巡から渡されたボタンは大切にお財布の中にしまっている。

 そういえば、巡はあの時、どうしてわたしにボタンをくれたのだろう。『おまじない』ってなんのだろう。お守りじゃなくて、おまじない……?
 巡は一体、なにを願ったというのだろう。
 お財布からボタンを取り出し、ポケットにしまいこむ。このボタンは巡が着ていた制服にずっとついていたと思うと、なんだか奇妙な気持ちになってくる。ジャケットを巡が着ている限り、だれよりもずっと側にいる。
 ……ボタンにまで嫉妬してしまう自分にあきれて、ため息を吐いた。

「そろそろお開きにしましょう」

 部長の声にそんなに時間が経っていたのかと驚き、立ち上がった。残ったお菓子を片付け、ごみをまとめて捨てに行く。
 美術室に戻ると、だれもいなかった。
 わたしは室内を見回して、片付けがきちんと出来ているのか確認をした。かばんを持ち、鍵を手にして教室を出ようとしたら、だれかが入ってきた。
 


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