八*練習場(後編)
そして次の日、自転車に乗って記憶をたどって練習場へと向かった。
思った通り、自転車でここに来る方が楽だった。
九時前につき、駐輪場に止めて昨日と同じ場所に立つ。土井先輩はすぐにわたしに気がついて、手を振ってくれた。だからわたしも振り返した。
練習を見ながらスケッチしていく。
やっぱり今日も、陰険ないじめが行われている。わたしはその場面を描き残した。
春休み中、わたしはサッカー部の練習がある日は極力、練習場に通った。
そして──決定的な場面をわたしは目撃してしまった。
春休みがそろそろ終わりを告げる頃。
練習が始まってすぐに、土井先輩が数人に囲まれた。今日はタイミングが悪いことに、キャプテンは遅れてくるというのだ。いや、だからこそ、彼らは今日、決行したのだろう。
そして、キャプテンが遅いということは、ギャラリーもいつもより少ないということだ。
練習というよりは明らかないじめ。ボールを蹴るフリをして、土井先輩の足を蹴っている。
わたしは耐えきれずに、気がついたらお絵かき帳を握りしめたままフィールドに飛び出し、輪の中心に割り込んでいた。
「……なんだ、こいつ」
わたしは顔を上げ、首謀者だと思われる男をにらみつける。土井先輩は足を蹴られ、うずくまっている。
「なにをしているんですか!」
「なにって、練習だけど?」
ふてぶてしい返答にわたしは一歩、前に進む。
「なにが練習ですか! あなたたちはずっと、土井先輩を標的にして、いじめてるじゃないですか!」
わたしは両手を広げ、土井先輩を背中に隠してにらみつける。
「おまえは、だれだよ?」
「……奏乃」
背後から、土井先輩の小さな声。
「おまえ、こいつの彼女かあ?」
にやにやとした笑みを浮かべた首謀者は、わたしの顔をのぞき込んできた。
「ひゅーひゅー、お熱いねぇ。女の子に守られるエースなんて、かっこいいねぇ」
その言葉にようやく、わたしはしてはいけないことをやってしまったことに気がついた。
こんなことをしたら、土井先輩が恥ずかしいだけじゃないの。
だけど引き返すことも出来ず、にらみつけることしか出来ない。
「奏乃、おれなら大丈夫だから」
「だけど……!」
振り向くと、足をかばいながら土井先輩は立ち上がろうとしている。手をさしのべようとしたけど、首を振られた。
「これは練習だ。試合になれば、もっと過酷な状況になるんだ。だから鍛えてくれていたんですよね──先輩?」
不敵な笑みに、首謀者は気圧されたようにああ、とうめくように返事をしている。
わたしなんかが出てこなくても、土井先輩は強かった。
「あの……ごめんなさい、練習の邪魔をして」
わたしは恥ずかしくなり、元の場所に戻ろうとしたそのとき。
「なんだ? お絵かき帳とか、お子ちゃまかよ!」
わたしの手にあった土井先輩が買ってくれたお絵かき帳を見つけ、素早く抜き取られた。
「あっ」
ぱらぱらとめくり、中を見ている。
「これは──」
ようやく場がおさまりかけていたのに、スケッチのせいでまた、雲行きが怪しくなる。
「なんだよ、これ」
「スパイじゃないのか?」
その一言に、一気にわたしに視線が向けられる。
「これ、どうするつもりだ?」
射貫くような視線に、わたしは動揺しながら答える。
「その、わたしは美術部員で……そのっ」
先輩たちは一歩、また一歩とわたしに迫ってくる。
「あの、そのっ。か、勝手にスケッチの題材にして──」
「どうした!」
聞き覚えのある怒声に、全員が慌てて振り返る。
そこには、遅れて来ると言っていたキャプテンが立っていた。
「なんだおまえら。練習中じゃないのか?」
わたしたちのところにキャプテンは近寄り、鋭い視線を向けてくる。
「キャプテン、こいつ、スパイですよ!」
首謀者はお絵かき帳をキャプテンに振って見せる。
「……スパイ?」
いぶかしげな表情を浮かべ、わたしを見て、お絵かき帳を見る。キャプテンはお絵かき帳を受け取り、中を見る。最初はなにげなく見ていたものの、だんだんとその瞳は真剣みを帯びる。
「これを描いたのは、だれだ?」
お絵かき帳から視線を上げ、わたしたちを見る。わたしは小さく手を上げる。
「おまえが描いたのか?」
「そうです。その、練習に──」
キャプテンはわたしの言葉を遮って質問してきた。
「これで全部か?」
「はい」
「……分かった」
そういうと、キャプテンはわたしにお絵かき帳を返してくれた。
「もっと描いてくれていいから」
それだけ残し、キャプテンはプレハブに着替えに行った。
「練習の邪魔して、ごめんなさいっ」
わたしは深々と頭を下げ、元の場所に戻る。
キャプテンの許可が降りたので、わたしは気兼ねなしに描くことが出来るようになった。
先ほどの一件があったからか、土井先輩は狙われることはなくなった。じっと見ていると、普通に練習が行われている。
休憩を挟み、練習が終わった。
土井先輩の元に駆け寄ろうとしたら、キャプテンも一緒にやってきた。
「もう一度、見せてくれるか?」
「あの……」
「さっきの絵」
わたしはおずおずとお絵かき帳をキャプテンに手渡す。
今日の練習で増えたところも見ている。
「おまえ、サッカーやってた?」
キャプテンはお絵かき帳から視線を外し、わたしに視線を向けてきた。そのまなざしは心の奥まで見透かされそうなくらい、鋭いもの。嘘を言ったら許さないと言わんばかりのもので、背筋が伸びる。
「わたし、運動は苦手です」
ちょっと外れた答えだけど、キャプテンは分かってくれたようだ。
「運動が苦手だからか? このスケッチ、なかなか的確に練習を写し取っている」
そういえば、巡にも似たようなことを言われた。
「名前は?」
「下瀬奏乃です」
キャプテンはじっとわたしの顔を見る。
「土井の彼女か?」
隣に立つ、土井先輩に質問している。
「はい、そうです」
その言葉に、頬に熱を覚える。
「それなら、また練習を見に来てくれるんだよな?」
わたしの顔をじっと見て聞いてくる。土井先輩をちらりと見るとうなずかれたので、キャプテンを見て、うなずいた。
「そうか。また見に来てくれて、絵を描いたら見せてほしい」
「──はい」
訳が分からないけど、描くことに対してお許しが出た。
「また見に来ます」
お辞儀をしたわたしの頭をなでると、キャプテンは去っていった。
「キャプテンでも、許可なく奏乃にさわるなよ」
むっとした声音にわたしは驚いて顔を土井先輩に向けると、抱き寄せられた。
「あの……」
土井先輩の熱い腕の中に戸惑う。鼻孔をくすぐる汗の匂い。男らしさを感じて、怖いと感じてしまった。
身動きができない。わたしは強ばったまま、俯いて目を閉じる。
しばらくして、土井先輩は大きなため息とともに、わたしを解放した。
「……ごめん」
その謝罪の言葉はなにに対してなのだろう。混乱したまま、土井先輩を見る。
「奏乃がフィールドに飛び込んできたとき、すごい驚いた」
そうだ。謝らないといけないと思っていたのだ。
「余計な口出しして、ごめんなさい」
謝罪の言葉に、土井先輩は苦笑する。
「助かったよ。だけど、奏乃があんなに正義感が強かったなんて、知らなかったよ」
正義感のためではない。見ていられなかったのだ。だけどあんなことをして、わたしは土井先輩のことを軽く見ていたのではないかと反省した。わたしの助けなんて、必要なかった。逆に彼に恥をかかせてしまったのではないだろうか。
「もうあんなこと、しないでほしい。心臓がいくつあっても足りなくなるよ」
「すみません……」
土井先輩は優しい笑みを浮かべ、わたしの顔をのぞきこむ。
「片付けがあるから、先に帰ってもらって、いい?」
「はい。今日も色々とありがとうございました」
深々とお辞儀をして、わたしは駐輪場へ向かう。爽やかな季節の中、自転車を漕ぐ。桜が咲いていて、風に吹かれて散っていく。
はらはらと散りゆく花びらに自転車を止めて、見とれる。
どうして桜はこんなにも美しいのだろう。儚さに、目が離せない。
そして、一人で眺めていることに淋しさを覚える。
隣にいるのは──。
何故か真っ先に思い出したのは、巡だった。
土井先輩と並んで桜を見ている絵が思い浮かばない。
巡がにやけた顔をしてわたしを見ている姿しか、想像できない。
そういえば、卒業式に土井先輩の前に放り出されて以来、巡に会っていない。今更ながら、そんなことを思い出した。