『想いは言葉に乗せて』


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七*「想い」が通じた時(後編)



「確か……美術部の」
「え……あっ、あのっ。し、下瀬です。一年二組の……」
「ああ、下瀬さん」

 土井先輩はわたしの前まで歩いてきた。
 恥ずかしくて、うつむいてしまう。
 目の前に土井先輩が立っている。わたしの心臓は外に出てしまうのではないのかというほど、ばくばくと音がしている。身体中を激しい早さで巡っている血液の音がうるさくて、深呼吸をする。
 土井先輩はわたしの言葉を待っている。だけどこのままなにも言わないで逃げたい。

「なにか、おれに用?」

 ずっと黙ったままのわたしに、土井先輩は尋ねてくる。

「あー、あのっ。そそそそ、その……」

 挙動不審なほど、わたしはどもってしまった。土井先輩は静かにわたしが口を開くのを待ってくれている。わたしは大きく息を吸って、思い切って口を開く。

「えっ、や……そのっ。せせせせ、先輩、すっ、す……好き、で……す」

 好き、の二文字を伝えるのにどうしてこんなにも勇気を総動員しなくてはならないのだろう。それでもようやく伝えることが出来て、それだけでわたしは満足していた。土井先輩からの返事なんてものまで考えてなくて、伝えきったことにもう終わったと思ってしまっていた。
 土井先輩の身じろぎする音に、とんでもないことを言ってしまったことに気がついた。
 穴があったら入りたい。ないのなら掘って隠れたい。それよりも、今すぐにでも土井先輩の前から消えたい。もう、恥ずかしくて仕方がない。

「それって、おれと付き合いたいっていうこと?」

 土井先輩の質問に、なんと答えればいいのか分からない。
 わたしの中では告白しても土井先輩に断られるという状況しか想定していなかったのだ。
 想いを伝えられたらそれでいい。その先のことなんて、考えていなかった。

「いいよ、付き合っても」

 予想していなかった言葉に、驚いて顔を上げる。
 もしかしたら、土井先輩の顔を正面から見るのは初めてかもしれない。
 切れ長の目。涼しげな一重。りりしい眉毛にしっかりとした鼻。きりりとした引き締まった口元。

「名前」
「え?」
「名前とケータイの番号とメアド、教えてよ」

 想いが通じ合った後のことなんて、考えてもいなかった。携帯電話は美術室に置いているかばんの中に入っている。

「あの……。ケータイは下に置いてきました」
「そっか。じゃあ、せっかくだから一緒に帰ろう。下まで一緒に降りようか」

 土井先輩は席まで戻り、荷物を持ってわたしのところに戻ってきた。

「じゃ、行こうか」
「あ、はい」

 なんだか夢みたいだ。現実感がまったくない。
 一階まで降りて、土井先輩はまっすぐに昇降口に行っている。わたしは校舎の一番端の美術室に入る。中はだいぶ人が少なくなってはいたけどまだ何人も人が残っていた。

「それではお先に失礼します。みなさん、お元気で」

 わたしの声に、残っていた三年生が手を上げる。

「下瀬さんも元気でね」
「はいっ」

 部屋の中を見回しても、巡は見当たらなかった。かばんを持ち、お辞儀をして部屋を出る。
 報告しようと思ったけど、いないのなら仕方がない。
 昇降口に行き、靴に履き替える。外に出ると、土井先輩が待ってくれていた。
 わたしたちは端に寄って、番号とメールアドレスを交換した。

「下瀬……奏乃。へー、奏でる乃で奏乃なのか。かわいい名前だね」

 褒められて、恥ずかしくて仕方がない。

「おれ、明日から大学のサッカー部の練習に参加しなくちゃいけなくて、なかなか時間が取れないんだよな」
「あ……そう、なんですね」

 想いが通じた後ってなにをどうすればいいのだろう。まったく分からない。

「メールはするよ。ところで、なんて呼べばいい?」
「えっと、奏乃でいいです」
「うん、奏乃、ね」

 土井先輩にそう呼ばれ、全身が熱くなる。

「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「あ、はい」

 なにを話せばいいのか分からない。わたしは少しだけ土井先輩の後ろを歩く。

「下瀬……じゃなかった、奏乃ってそういえば」

 土井先輩は後ろを歩くわたしを気にしながら、話かけてくる。

「絵画コンクールで賞をもらってた?」

 話を振られて、慌てて顔を上げる。それで自分がうつむいていたことを知った。

「あ、そうです。特別賞ですけど……」
「すごいじゃないか。うちのクラスのヤツもあれに出したのがいたらしいんだけど、かすりもしなかったって嘆いていたぞ。ああ、そういえばそいつも美術部だったな」
「え、そ、そうだった、んですか」

 わたし以外にも出していた人がいたなんて、初耳だ。

「奏乃はすごいんだな」
「そ、それほどでも」

 あれは自分一人では描けなかったものだ。巡の協力があったから。

「奏乃って緊張してる?」
「はっ、はい。か、かなり」
「そう言われると、おれも緊張するな」

 激しくぎこちない会話。

「あ、わたしの家、ここです」

 マンションのエントランスの前で立ち止まる。

「へー、学校に近くていいな。おれの家、もっと先なんだよな」
「そうなんですね」
「じゃ、奏乃。メールするからな」
「はい。その、ありがとうございます」

 わたしはお辞儀をして、土井先輩に手を振る。土井先輩は笑顔を向け、歩き始めた。その背中が見えなくなるまで、わたしは見送った。

     **:**:**

 土井先輩は律儀に毎日、メールを送ってくれた。こちらから送ろうと思っていたらいつも早いタイミングで送られてくる。メールの内容は他愛のないものだ。サッカーの練習であった出来事、どんな人がいるのか、そんな何気ないこと。だけどすごく楽しそうで、わたしも練習を見に行きたくなった。
『練習を見に行ってもいいですか?』
 先輩たちが卒業して数日して、在校生のわたしたちも春休みに入った。コンクールがあるわけでもないから、まだまだ寒くて家から出たくなかったので、家でのんびりと宿題をしていた。だけどさすがにそれにも飽きてきて、きっかけがあればどこかに出かけたいと思っていた。
 先輩からはすぐに返事が来た。
『来てくれるの? うれしいな。明日は大丈夫?』
 用事があるわけではないから、行けると返事を返す。
 土井先輩の返事には、八時に大学のサッカー部の練習場がある最寄り駅で待っていると書かれていた。八時は早いなと思ったけど、練習は九時からで、一年生は早く行って準備をしないといけないということを聞いていた。
『分かりました。寝坊しないようにモーニングコールを早く起きた方がしましょうか』
 電話で話すことを今までしていなかったから、そんな提案をしてみた。
 普段、電話だとなにを話せばいいのか分からなかったからメールはありがたかったけど、やっぱりどこか、淋しい気持ちがあったのだろう。モーニングコールならおはようくらいで済むから、間が持つ。
『お、いいね、それ』
 先輩から返事が返ってきた。
『それでは、わたしが頑張ってモーニングコール出来るように、もう寝ますね』
『おお、もうこんな時間か。それでは、おやすみ』
『おやすみなさい』
 それだけ返して、わたしはベッドに潜り込む。明日、急に先輩に会うことになってしまった。学校の外で会うのは初めてだな……と思って、大変なことに気がついた。

「うわっ、着ていく服!」

 制服で行くわけにはいかない。そのことに気がついたら眠気がすっかり飛んでしまった。
 ベッドから抜けだし、なにを着ていこうかクローゼットを探す。

「あああ、なに着ていこう」

 悩み始めると止まらない。明日の天気は? 先輩は何色が好き? そんなことを考えたら、決められない。

「ううう、どれがいいかな……」

 この春先は日によって気温が違う。今日は比較的暖かかったけど、明日はどうなのだろう。
 そうやって悩んでどうにか服が決まったときには、日付が変わりそうだった。
 わたしは慌てて布団に入り、目覚ましを掛ける。起きられるだろうかとどきどきしながら目を閉じる。興奮して眠れないかと思っていたけど、すぐに眠ることが出来た。

 けたたましい目覚ましの音と携帯電話の音で目が覚める。何事かと思って飛び起きる。
 そして、昨日の先輩とのメールのやりとりを思い出して、携帯電話に飛びついて、開く。

「おおおお、おはようごじゃ……った」

 目覚まし時計を止めながら電話に出たら、見事に舌を噛んだ。電話の向こうの先輩は声を上げて笑っている。

「す、すみませんっ」

 慌てて謝ったら、ますます先輩は笑っている。
『おはよう、奏乃。緊張して、早くに目が覚めてさ』
 先輩は笑いながらそんなことを言っている。わたしは起こされるまで眠っていたのに。
『八時に待ってるな』

「はい。分かりました」

 それだけ言うと、わたしは電話を切った。耳元に響く先輩の声に、なんだか恥ずかしくなる。
 昨日、準備していた服に着替えてキッチンに向かう。

「おはよう。あら、今日はどうしたの?」
「うん、急に出かけることになって」
「そうなの? どこに行くのか知らないけど、遅くならないようにね」

 お母さんは朝食を用意してくれて、わたしは食べる。

「奏乃、その服で行くの?」

 春だからと新しく買ったちょっと薄手の服にしていた。

「え、うん」
「今日、寒くなるみたいよ。それだと寒いわよ」
「え、寒いの?」

 時計を見ると、着替えている時間はあるようだ。わたしは慌てて部屋に戻り、冬服に着替える。ブラウスにセーター。スカートにしようかと思ったけど、ズボンの方がいいだろう。コートを手に持ち、バッグを持つ。お財布とハンカチ、携帯電話を確認する。

「あああ、歯を磨くの忘れてた!」

 部屋から飛び出し、歯を磨く。髪をとかして色つきのリップを塗り、おかしくないか確認する。

「お母さん、行ってきます!」
「気をつけて行ってらっしゃいよ」

 今日は珍しく、お父さんより早い。お父さんが出てきたらなにかと面倒だから、慌てて家を飛び出した。



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