『想いは言葉に乗せて』


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一*爽やかな季節の中、想いは募る(前編)



「へへっ、今日もデッサン、一枚おーわりっと!」

 放課後の美術室。わたしはいつものように教室の一番後ろの窓際を占拠して、日課としているデッサンをしていた。
 窓の外は気持ちがいいくらいの五月晴れ。さわやかな風が吹いている青空の下でクラブ活動が行われている。
 そして、わたしの視線の先には……。

「うーん、今日のは六十五点かな」

 突然の声に、わたしは驚いて飛び上がった。そのせいで手に持っていたデッサン用のクロッキー帳を投げ飛ばしてしまい、それは床の上に音を立てて柔らかく広がり、鉛筆は足下にころころと転がった。

「うわっ! 気配なく近寄って後ろから声をかけるの、やめてよ!」

 抗議の声を上げ、振り返る。
 茶色がかった柔らかそうな少し長めの髪、黒の細めフレームの眼鏡、その奥に意地悪な光をたたえる焦げ茶色の瞳。見慣れた顔に、わたしは思わずため息をつく。

めぐる、いきなり声をかけるのはやめてよ」

 そこには、中学校からの腐れ縁で一つ上の先輩である皆本みなもと巡が立っていた。

「ここに入ってくるときに挨拶もしたし、奏乃かのって呼んだのに、気がついていないそっちが悪いんだろ」

 巡は手に持っていたクロッキー帳でわたしの頭をはたき、眉をひそめた。

「毎日、熱心にサッカー部をデッサンするのはいいけど、ここからだと遠すぎだろ。そんなので上手になるのか?」

 巡はわたしのクロッキー帳を拾い、めくってみている。改めてそうやって見られると、かなり恥ずかしい。

「ちょっと、見ないでよ」

 わたしの抗議の声を無視して、巡は何度か最初から今日のデッサンを行ったり来たりして見比べている。

「うーん……。上達はしてるなあ」

 そうやって自分のデッサンを振り返ってみたことがないので、クロッキー帳の上を引っ張って逆さから見る。
 最初のページの日付は四月九日。入学式の次の日で、美術部に入部した日だ。
 初日は購買にクロッキー帳を買いに行って、美術室の片隅に置かれた石膏のデッサンをさせられたのを思い出した。
 部長の『イケメンに描いてやってね』という言葉を思い出し、笑ってしまう。

「思い出し笑いをするヤツってエロいっていうよな」
「なっ!」

 巡の意地悪な言葉に対して、わたしはにらみつけてやった。しかし、巡は口の端を軽く上げ、さらに言葉を続けた。

「独り言は多いのは相変わらずだし、この一年で全然変わってなくて、安心したよ」

 巡はクロッキー帳をもう一度見て、わたしに返してきた。慌てて受け取る。

「別にここにこもってデッサンしないといけないってことはないから、外でしてくれば?」

 とはいうけど、外でデッサンなんて恥ずかしくて出来ない。

「近くでしっかり見た方が上達は早いと思うし」

 巡はそういうと、真新しいページを開いて石膏のデッサンを始めた。わたしはぼんやりと巡の鉛筆の先を眺めていた。
 言われなくても分かっているけど、外に出てなんて積極的に行動ができないわたしには、ハードルの高い言葉だ。
 巡は迷うことなく、鉛筆を走らせている。真っ白だった紙に石膏が浮かび上がってくる。さっと鉛筆の先が紙の上に走ると、そこに息吹が宿る。無機質なはずの石膏なのに、巡の手にかかるとなぜかそれには命が吹き込まれる。

「今日はこんなところかなぁ」

 瞬く間に描き上がったデッサンを両腕を伸ばして確認して、日付を入れると閉じた。

「さて、今日の活動はおしまい!」
「はやっ!」

 来たばかりだというのに、巡はクロッキー帳と鉛筆を片付け始めた。

「奏乃も片付けろよ」
「え? なんでわたしも?」

 もう一枚くらい描こうと思っていたところなのに、その気持ちを折るような言葉を巡は口にする。

「たまには早く帰ってもいいだろ」
「まー、そうなんだけど」

 巡は長めの前髪をかき上げ、わたしを見る。

「土井先輩の勇姿が見られるぞ」

 巡の視線はわたしが開けたままにしておいた窓の外に向いていた。それに釣られ、わたしも視線を向けた。
 校庭の一角に準備されたサッカーゴールに挟まれた中に、練習用のゼッケンをつけた人たちがいる。

「練習試合をするみたいだぞ」

 わたしは慌ててクロッキー帳と鉛筆を片付けた。窓を閉めようとしたら、巡が代わりにやってくれたようだ。窓辺に置いていたかばんを手に取る。

「窓、ありがと」
「気にするな。オレは花粉症だ」
「え、巡、いつから花粉症になったの?」
「ついさっき」

 しれっとつかれた嘘に、わたしは思わず吹き出してしまう。

「オレが花粉症ってのは冗談として。先輩の中には花粉症の人がいるから、明日からは外でデッサンすることをすすめるよ」
「……うん」

 いつも巡はさりげなくそうやってアドバイスをしてくれる。

「じゃ、土井先輩の勇姿を見るついでにデッサン場所の下見もしてこようぜ」

 巡はそうして、からかうような笑みを浮かべ、わたしを見た。

     **:**:**:

 わたしたちがグラウンドに出た時にはまだ試合は始まっていないにもかかわらず、すでにギャラリーで一杯になっていた。試合が見たくてフィールドが見えるところを探すのだが、みっしりと人が埋まっていて、どこにも隙間がない。それでも人が少ないところを見つけ、背伸びをして人と人の間から試合を見ることにした。
 これだと屋上から見た方がよく見えるなあと思っていたら、巡が腕を引っ張ってきた。

「いきなり引っ張らないでよ」

 文句を言ったのに巡は聞こえなかったのか、さらに強く引っ張る。わたしの視線はフィールドに向いていたが、あまりにも遠慮のない引っ張り方だったので巡に視線を移した。巡はこちらを見ているのかと思ったら違って、どこか遠くを見ている。わたしは引っ張られるままに巡の横に立った。

「あ……」

 赤いゼッケンをつけた土井先輩の背中が少し先にあった。周りに同じゼッケンをつけた人たちがいるところを見ると、試合前の作戦会議中といったところだろうか。

 土井先輩──土井友和、高校三年生。わたしの二個上。
 わたしはこの四月から公立千川原(ちがわら)高等学校の生徒になった。
 土井先輩とは入学式の後に引き続き行われた生徒会主催の歓迎会で初めて会った。
 体育館を半分に分け、○ゾーンと×ゾーンに分けていて、該当すると思うゾーンに行く、という形式のクイズをわたしたち新入生がいち早くこの高校のことを理解できるようにと生徒会の人たちが考えてくれていて、運良くわたしは残っていたのだ。
 そしてラストの問題だったと思う。残っているのはわたしを含めて四・五人。
 文化部と運動部では文化部の方が数が多い、○か×か。
 そんな質問に×ゾーンにいたわたしは迷わず○ゾーンに向かった。
 しかし。
 緊張のあまり、わたしは○ゾーン手前の部分で派手に転んでしまったのだ。そしてそこで移動時間が終了となり、わたし一人×ゾーンに残ってしまい、不正解。
 恥ずかしいやらみっともないやら、悔しい気持ちもあって、なかなか立ち上がることができなかった。
 そんなかっこ悪いところにだれかが近寄ってきて、わたしを立たせてくれたのだ。

『痛くない、大丈夫?』

 と優しく声を掛けてくれ、よく頑張ったなと優しく頭をなでてくれた。
 わたしはもう、恥ずかしくて顔を上げられなくて、うつむいたまま、

『ありがとうございます、すみません』

 と口の中でもごもごとお礼を告げた。下を向いたわたしの視界にはその人の履いている上履きが見えた。かなり薄汚れた色をしていたけど名前は読み取れて、『土井』と書いてあった。

『今のは残念だったけど、場を盛り上げてくれたから、キミが一位だよ』

 と慰めなんだかどうだか分からない言葉を付け加えてくれた。
 悔しい気持ちが大きかったけど、わたしはその一言にずいぶんと気持ちが楽になった。

 次に会ったのは、科学室の場所が分からなくてうろうろしている時だった。

『どうした、迷ってるのか?』

 と声を掛けてくれて、科学室がどこにあるのか聞いたら親切にも部屋の前まで連れて行ってくれたのだ。

『ありがとうございます』

 と頭を下げたとき、入学式の後の歓迎会の時に見た同じ上履きが見えて驚いた。慌てて頭を上げて顔をしっかりと見ようとしたら、その人はもうわたしに背中を見せていた。引き止めようかと思ったけどチャイムが鳴り始めたので、諦めた。
 それからその人のことが気になって、巡に相談した。
 巡はめんどくさそうに、しかも乗り気ではなかったのにもかかわらず、『土井』さんが何者であるのかすぐに突き止めてくれた。
 土井友和。高校三年生。サッカー部に所属している。二年生の半ばからレギュラーで、ポジションはミッドフィールダー(MF)。
 サッカーは授業で適当にしかやったことがないわたしは、いきなりポジションを告げられてもまったく意味が分からなかった。

『オレもサッカーはそれほど詳しくないんだが、ミッドフィールダーというのはフィールドの中央でフォワードとディフェンスの中継ぎをする重要な役割を担うポジションらしいぞ』
『フォワード? ディフェンス? ディフェンスは守るだから分かるけど……』
『だったら、フォワードは攻撃手だって分かるよな』
『うん』
『攻撃してきた相手チームからディフェンスがボールを奪い、ミッドフィールダーを中継してフォワードにボールを渡してゴールに入れさせるってのがサッカーの基本的な動きだ』

 巡にそう説明してもらってようやく、それらの単語を理解した。

『ふへー。じゃあ、ミッドフィールダーって重要なんだ』
『そうだな。フォワードの役目もディフェンスの役目もこなさないといけないみたいだしな。司令塔の役割を果たす人もいるらしいぞ』

 よく分からないけど、すごい人らしい。
 それからわたしは毎日、放課後の部活動時に美術室の窓から校庭を眺めていた。やがて見ているだけでは飽き足らず、デッサンを初めてみたり。
 遠くからでも土井先輩が上手なのは素人のわたしでもよく分かった。
 そして遠くから観察して分かったことがもう一つある。それは、土井先輩はとてもよくもてる、ということだ。あまりにもライバルが多すぎて、わたしは遠くから眺めているだけで満足だった。




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