目覚まし時計の音。オレは枕元でけたたましく鳴る憎い塊を地面へと投げつけ、再び眠りにつこうとした。
「けんじ、起きなさい」
聞き覚えがある懐かしい声。そして、二度と聞くことがないと思っていた声。有り得ない声に一気に目が覚め、飛び起きた。
「お袋?」
「けんじ、早く起きないと、まさきくんが待っているわよ」
まさきが?
昨日、あんなに調子が悪かったのに起きて、しかも家に来ているだって?
着替えてキッチンに向かうと、ダイニングのソファに制服を着たまさきが座って新聞を読んでいた。どこのオヤジだ。ではなく。
「まさき、おまえ……熱があったんじゃ」
「けんじ、おはよう。熱? 当分出てないよ、熱なんて」
まさきはおかしそうに笑っている。
昨日、あんなに顔色がすぐれなかったのに、今日のまさきは中学生らしい健康的な肌の色をしている。それに、あんなに細かった腕にも筋肉がついている。
「けんじ、早く食べなさい」
キッチンからはいい香り。ここ数年、この家にこんな温かな匂いが漂ったことがなかった。それが当たり前のように存在している。
テーブルに並べられた朝食を見て、オレは無言で食べ始めた。
「こら、いただきますを言ってから食べなさい!」
軽くおでこを叩かれ、小さな頃、よくされていたその何気ないしぐさに戸惑いを覚える。
お袋はオレが十歳の時に亡くなっているはずだ。なのに生きて、こうして当たり前のようにいる。わけが分からなかったが、深く悩んだところで答えが出るとは思えなくて、用意されたご飯を口にする。もう二度と口にすることができないと思っていた、懐かしい味。美味しくて、思わず食べ過ぎてしまった。
「けんじ、学校に行こう!」
よく見たら、まさきはオレと同じ制服を着ている。まさきはオレなんかと違って頭がいいから、もっといい学校に通っていたはずだ。
釈然としないまま、学校へ行く。
今日は不思議と普通に授業を受ける気になれた。気まぐれに聞いていると、授業内容が分かった。勉強ってこんなに面白かったんだ。先生にあてられてもよどみなく答えられる自分に驚く。オレって実は頭良かったんだ。
いつもはかったるくて仕方がない授業もあっという間に終わり、掃除当番だというまさきを置いてオレは一足先に家へと向かう。
「あいつら」
駅前のいつものゲームセンターに寄ってみると、見慣れたメンツが顔を揃えていた。オレはいつものように足を踏み入れると、一斉に視線を向けてきた。
「よっ、よお」
「…………」
向こうは無言だ。いつもならうるさいくらいに返事が返ってくるのに。やはり、あの集会の時の出来事が影響しているのか。
「おまえ、だれだ」
ダチがオレに対して聞いてきた。
「おい、なに冗談言っ」
「馴れ馴れしいヤツだな。だれだよ」
「オレだよ、けんじだよ」
こいつら、よくオレをからかうことがあるけど、たいていはだれかが笑っている。だから顔を見れば本気なのか冗談なのか分かる。全員を睨みつけるように見るが、表情は本気だ。今日はエイプリルフールではないから、これは本当に向こうはオレのことを知らない?
オレが知っているけど微妙に違うこの世界。オレの知っているこいつたちは存在しているが、どうやらオレとこいつらは接点がなかったようだ。声をかけたのは失敗だったのかもしれない。
「やっちまおうぜ」
その声を合図に、一斉に襲いかかってきた。オレはかばんを振りまわし、応戦する。数人がオレに向かってキックやパンチを繰り出してくるのに、どこにどうやってくるのか予想できる。身体が軽くていつもよりよく動く。面白いくらいかばんは当たり、次々に倒れていく。
気がついたら、オレの周りにはあちこちを腫らして痛がっている人の山ができていた。
「おまえ、強いな。名前は」
本当は知っているんだろう、と思いながらオレは名乗った。
「けんじ、か。また待ってるぜ」
ダチは不敵な笑みを浮かべ、手を差し伸べてきた。力強く握り返し、立たせる。
「またな」
オレは家へ戻った。
「お帰りなさい」
家には当たり前のようにお袋がいた。
「今日は遅かったのね」
無言で部屋に戻ろうとしたら、首根っこをつかまれた。
「帰ってきたらきちんと
「ただいま」
と言って手を洗わないとだめでしょ」
こんなこうるさいばばあだったか?
オレはいらつき、首にかけられた手を振り払い、部屋へ戻った。後ろではオレの名を呼ぶお袋の声がしたが、知るか。
なんだ、この妙な高ぶりは。
家でじっとしていられなくて、私服に着替えて部屋の窓から外へ飛び出す。
鉄パイプが転がっていたから拾ってやみくもにあちこち叩いて回る。とても愉快で仕方がない。次々に壊れていく物たちが楽しい。
「あははは」
声に出して笑ったら、気持ちが軽くなってきた。気持ちが晴れる、というのはこのことを言うのだろうか。
「欲望に忠実なのはいいことだな」
背後でいきなり声が聞こえ、あわてて振り返った。そこには、赤い着物を着た切りっぱなしの真っ黒なおかっぱ頭の日本人形を抱いた男が立っていた。栗色の少し癖のある髪に暗い感情を抱いているように見える茶色い瞳。どこかで見たことのある容姿に記憶をたどる。
思い出した。
盗んだ原付に乗っている時に信号で見かけた男だ。
「ここは夢の世界。なにをしたって許される。そんなのでおまえは満足なのか」
手に持っている鉄パイプに視線を向け、男は口角をあげて見ている。
「この世界、そのものを壊そうと思わないのか」
世界を壊す?
「ここはおまえの望みすべてが叶う世界。楽しむといい」
それだけ言うと男は人形とともに去っていった。茶色いガラス玉は相変わらず光り、オレを見つめていた。その視線は助けてと言っているようだった。
「ここが夢の世界だって?」
声に出して確認してみる。
夢の世界なら、あのアイドルがオレの前に現れてオレに告白、なんてのもありだよな。
「こんにちは」
その人は突然、現れた。
「うわぁ」
マジかよっ! 本当に本人?
鉄パイプを投げ捨て、引き寄せられるように彼女に近づき、手を握る。温かくて柔らかい、女の子の手。ドキドキしてきた。
これが本当に夢の中なら……。
そう願っただけで、場所は一瞬にして変わる。テレビでしか見たことのない、超高級ホテルのスイート。ガラスの向こうに広がるのは百万ドルの夜景だ。
「けんじくん、大好きよ」
隣に立っている彼女はオレの名を呼び、うるんだ瞳で見つめてくる。心臓の鼓動がどんどん早くなってくる。彼女は瞳を閉じ、オレにキスを要求している。
ファーストキスが彼女とでよかった……! なんて思いながら、彼女のぷるんとした唇に口づける。
夢なら……。
オレは彼女をベッドに押し倒し、獣のように貪る。
ああ、最高だ!
これならあの子やあの子も。
オレは次から次へとテレビの向こうでしか見たことのない彼女たちを想像して、次々に交わる。
理想の世界、最高だ!
彼女たちを周りにはべらせてみる。
これは、いい!
自分の中の願望を少し強く思うだけで次から次へと実現していく。
金も女も思いのままだ。
オレの思った通りにすべてが動く。ちょっと考えただけで自分の思うままにすべてが動くなんて。
「なんてすばらしいんだ!」
思わず声を出して叫ぶ。
彼女たちはオレの言いなりだ。脱げ、と命令したら恥ずかしそうな顔をしながら脱いでくれる。命令したことすべてが受け入れられる。
オレは面白くなって次から次へと今まで思っていたことを想像した。とにかく、寸分違わず実現する。世界の王になった気分だ。
最高だ、サイコーすぎる!
しかし。
ある程度、自分の思っていたことが叶ったら、急につまらなくなった。
「もうおまえたち、要らない」
オレにべたべたとすり寄ってきていた女たちに一言言えば、目の前から消えていなくなった。
「あーあ、つまんない」
足元を見ると、さっきまで振りまわしていた鉄パイプが転がっていた。拾って振りまわし、高級家具を叩き壊すと、すっきりした。オレは振りまわし、世界を破壊して回った。
壊せば壊すほど、いらいらが募る。この世界は自分の願ったことがすべて実現する。思い通りになる。なのになんでこの気持ちだけは思う通りにならないのだろうか。
「今回はまた厄介なのが札を使いましたね。まったく、『彼女』もやみくもに配らないでほしいですよ」
聞いたことのないテノールの声。
もうこの世界には自分以外いないはずなのに。
「こんにちは、川中けんじさん」
少し長めのストレートの黒髪、切れ長の瞳は茶色く、長いまつげが縁取っている。知的に見せる黒ぶち眼鏡の初めて見る男。
どうしてこいつはオレの名前を知っている。だれなんだ。
「羽深しぐれと申します」
男はオレの考えを読みとったかのように名乗った。
「今まで、何人もの夢の世界を見てきましたが、あなたのような人は初めてですよ」
羽深と名乗った男は呆れたようにオレを見ている。
「確かにここは理想の世界。願ったことが叶う場所」
オレは目の前の得体のしれない羽深という男に消えてほしくてそう願った。
「僕を消そうとしても無駄ですよ。僕はあなたの夢の一部ではない」
神経質そうな細くて長い指で眼鏡のつるを押し上げ、オレを見る。
「この夢は、黒岩まさきさんに渡した札で見ているのですね」
「まさきを知っているのか」
羽深はオレの質問には答えず、笑みを浮かべてこちらを見ている。
「なるほど……まさきさんは自分の死を予感して、あなたにこの札を託したのですね」
羽深は懐からなにかを取り出し、こちらに見せる。
「これはあなたがまさきさんから譲り受けた札です」
羽深は指で黒い札をつまむようにして持っていた。オレがまさきから渡されたのは白かったはずだが。
「あなたの夢には新井が出てきたのですね。それで、あの男はどこに行った」
羽深は急に口調を変え、射るような強い光を放った瞳をオレに向けてきた。ぞくりと背筋が凍りつく。
「新井ってだれだよ」
ようやく口にできたのはその一言。いらだちが身体の奥から湧きあがってくる。この男をこの世界から消すことができないのなら。
「壊すまでだっ!」
オレは鉄パイプを振り上げ、羽深に振りおろした。先ほどまで目の前にいたはずなのにそこにはすでにいなく、真後ろから声がする。
「無駄ですよ。僕をこの世界から排除できません」
楽しそうな声音にますますフラストレーションがたまる。振り向きざま、鉄パイプを横に振る。真後ろにいたはずなのに、空を切る。
「無駄ですよ」
今度は目の前にいた。突き刺そうとするが、すでにいない。
「なるほど、あれを摂取してしまったんですね。本当に困った事ばかりしてくれます、あの人は」
羽深はなにか納得したのか、ため息をついてオレの目の前に立った。
「黒い粉を飲んだ覚えはありませんか」
黒い粉?
「あの時、あそこであのままにしたのが失敗でしたか」
羽深は一人で納得している。それがますますむしゃくしゃとさせた。
「なに一人で納得してるんだよ」
どれだけ振りまわそうと羽深に当たらないのは分かっていた。でも、身体の中からあふれ出す衝動を止められなくて振りまわし続けた。
「けんじさん、あなたはこのままこの夢の世界にとどまりますか。それとも、現実世界に戻って蔑まされますか」
羽深の質問に、オレは思い出す。
そうだ、オレは。あの集会での出来事を思い出す。
「なるほど。その時に飲まされたのですね」
「なに納得してるんだ!」
なんだ、この目の前にいる男。気持ちが悪い。どうしてオレの考えていることが分かるんだ。
「気持ちが悪い、ですか。久しぶりにそんなことを思われましたね」
にこやかな表情をしているが、怒っている?
「人の心を勝手に読むなよ」
得体のしれないこの男、早くオレの中から排除しなくては。怖い、気持ちが悪い、いらいらする。そんな感情が渦巻いているのが分かった。鉄パイプを握りしめ、自分一人では無理だと分かったのでオレは人を呼び寄せた。
「なるほど、考えましたね」
現れた人間に羽深が動かないように押さえつけるように命令する。筋肉が隆々とした屈強な男たちは羽深を捕まえ、羽交い絞めにする。
オレは鉄パイプを大きく振りかぶり、羽深に向かって振りおろした。