【けんじ】~現実世界~(後編)


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     ◆     ◆

 目が覚めて、一番に感じたのはひどい頭痛。頭が割れそうだ。

「けんじ!」

 見知らぬ白い天井の元、よく知った声が耳朶を打つ。

「親父……?」

 声が出ていたのかどうか分からない。だけど視界に入った親父の顔は安堵していた。

「頭が痛い」

 親父はあわてる。オレはあまりの痛みに耐えきれず、目を閉じた。

 どうやらあれから少し眠ったらしい。部屋の中は薄暗く、夜の帳が下りている。
 周りを見回すと、ベッドが隣に一つ、前に二つ並んでいる。ここは病院、ということか?
 身体をゆっくり起こす。先ほどの頭の痛さはもうないようだ。
 どうして病院にいるのか分からず、悩む。思い起こそうとして考えると頭がものすごく痛んだ。

「けんじ、目が覚めたのか」

 ベッドの上で上半身を起こしているオレを見て、親父は安堵した表情を向けてきた。
 それを見て、なぜか心の中にどす黒い感情が渦巻く。その衝動を抑えきれず、点滴の管を抜き去って親父に投げつけ、ベッドから降りて体当たりする。

「オレなんて死んだ方がいいんだろう!」

 素足のまま、白い床の上に立つと目の前がぐるぐる回る。急に激しく動いたからか。
 次の瞬間、左頬に熱を感じ、白い床が視界に入る。なにが起こったのか分からなかった。しばらくして、右肩に痛みを感じてきた。

「なにすんだよっ!」

 親父に頬を殴られ、地面に倒れたことに気がついた。頭に血がのぼる。
 オレは立ちあがり、殴りかかろうとしたところに医者と看護師が現れ、止められた。
 妙ないらつきがオレを支配している。

「離せ! 離せよ!」

 親父に殴り返さないと気が済まない、という気持ちだけが支配している。気がついたらたくさんの人間に押さえつけられ、腕に痛みを一瞬、感じた。少ししたら身体から力が抜け、ぐったりとする。
 ベッドに寝かしつけられた。
 医者はオレを検査して、それだけ元気なら問題ないでしょう、と苦笑いしていた。

「今日は入院して、明日、また検査して問題なければ退院していいですよ」

 それだけ告げると看護師とともに去っていった。
 オレは部屋に一人、残された。
 いらつきは相変わらずオレを支配していたけど、身体を動かすのもおっくうだ。
 オレはそのまま目を閉じた。

     ◆     ◆

 次の日、朝から検査を受け、問題ないと言われて親父とともに退院した。
 たまに思い出したかのようにいらだちが甦って来るが、我慢すればやりすごせるようになった。このいらだちの正体が分からず、オレは不安になる。

「けんじ、一人で帰れるよな」

 親父は妙に疲れたような老けこんだ表情をしてオレにそんな言葉を投げてきた。あれから視線を合わせてこない。
 親父はタクシーで帰るようにと病院のエントランスに止まっていたタクシーにオレを無理矢理乗せ、行き先を告げてオレに金を握らせた。

「今日はとにかく、家でおとなしくしておけ」

 その命令口調に先ほどやり過ごしたいらだちが大きくなり、殴りかかろうとしたらドアが閉まった。オレは諦め、先ほど親父が告げた行き先を最寄駅に変えるように告げる。運転手は不満そうな表情をしていたが、一睨みしたら黙り込んだ。
 駅に着き、金を払ってその足でゲーセンに向かう。このままおとなしく家に帰っていられるか。
 ゲーセンに行くと、いつものメンバーがそろっていた。

「よう」

 オレは片手をあげ、挨拶をするとやつらはあろうことか、顔色を変えて逃げていく。

「待てよ!」

 どうして逃げるのか分からなくて、オレは追いかけようとしたが、すぐに見失ってしまった。
 なんだよ。
 手短にあったUFOキャッチャーにお金を入れ、ボタンを操作する。

「取れた!」

 前から欲しかったぬいぐるみをようやく取ることができ、オレは満足した。
 ゲーセンを出たらダチがいたので捕まえると、真っ青な顔をして

「許してくれ!」

 と懇願された。

「なんだよ」
「こっ、殺さないでくれ!」

 さっきから人の顔を見て血相変えて逃げたり、許してくれと言ったり。オレ、なにかやったのか? しかも殺すな、なんて、物騒だな。

「なあ、どうしたんだよ」

 オレは極力笑顔で聞いたのだが、逆効果だったようだ。いつもなら気さくに接してくるそいつは死に物狂いでオレの手を振り払い、来た道を全速力で戻っている。悪ぶっている癖に妙に行儀のいいヤツが通行人に肩がぶつかってもお詫びも告げずに、だ。
 オレはゲーセンから出て、自動販売機でオレンジジュースを買い、そのまましゃがみこむ。プルタブを上げ、少しずつ飲む。
 おととい、集会に行った時のことから思い出そう。
 遅れて着いて、北間さんがいて、オレが大好きなブラッドオレンジのジュースを飲んで、それからの記憶がない。
 視界が面白いくらいぐにゃぐにゃして、触れただけでみんなが苦しそうな表情をしていて、一瞬のうちに移動できたり。あれは不思議な体験だった。
 オレを見ていた道下さんのきらきらした瞳を思い出す。彼女の髪に触れてみたくて触ったら。

「ああああっ!」

 オレは一瞬にして、思い出した。正確に言えば、認識した。オレンジジュースの味と匂いが忘れていた記憶を呼び覚ましたらしい。怖くなり、手に持っていた缶ジュースを地面にたたきつけ、走り出した。あたりにオレンジジュースの甘ったるい匂いが立ちこめる。
 ブラッドオレンジになにか混ぜられていたらしく、あれを飲んでからオレの身体はおかしくなった。妙な高揚感、解放感。なにをやっても許されるような錯覚。気がいつも以上に大きくなっていた。あの感覚はそう、自慰をしている時に似ている。
 すごく気持ちがよかった。ただ一つ、違うことは……罪悪感の有無だ。
 あのぐにゃぐにゃの視界にいた時は、恍惚感だけだった。悪いことをしている、なんてまったく思わなかった。
 今も思い出すととてもひどいことをしていたのは分かるのだが、まったく悪いことをした、という感情がない。もう一度、あの時の気持ちになりたい、ただそれだけだ。
 だけど先ほどのメンバーたちの表情を思い出し、それから逃げたくて、オレは家に急いだ。
 マンションにたどり着き、鍵を開けていたら隣からまさしが出てきた。この時間に家にいる、ということはまた熱を出して学校を休んだのか? パジャマのまま、顔色が悪いのに頬だけ赤く染め、息も荒く立っている。

「けんじ、大丈夫なの。入院したって聞いて、心配していたんだよ」

 オレの心配より自分の心配をしろよ、と思いつつオレはまさしを家の中に押し込める。

「オレの心配はいいから、おまえは寝ていろ!」

 おととい、あの寒い中、オレが出てくるのを外で待っていたから案の定、熱を出したのか。身体が弱いのを自覚しろよ。

「けんじが帰ってくるの、待っていたんだよ」

 肩で息をしながら、まさしは珍しく抵抗してきた。

「けんじ、これをあげるよ」

 驚くほど冷たい指先に手首をつかまれ、しかし、手のひらは驚くほど熱くて、まさしにされるがままになっていた。

「ぼくにはもういらないから。……けんじはもっと要らなかったかなあ」
「ほら、部屋に早く戻れよ」

 強い口調にまさしは素直にうなずき、部屋へと戻っていった。
 オレもそのまま家に入り、自室へと向かう。ベッドに身体を横たえ、両腕を天井に向ける。

「あれ?」

 右手のひらに、なにか白い札が見える。先ほど、まさしが手を握ってきた時のものか?
 手首を返し、手のひらを見る。白い札が、手のひらに貼りついている。左手で札の端を引っ張ってみるが、不思議なことに外れない。人差し指でつついてみても硬質な感触を返してくるだけ。右手のひらを握りしめ、しばらくして開いても、白い札にはしわひとつついていない。手のひらを天井に再度向け、明かりにかざすが、指の間から白い札が見えるだけで特に光を通すということはしない。指の間に指を入れて札を触るが、そこに札がある、というだけだ。
 はさみで切れるかな、と思って指の隙間からのぞいている白い札を切ろうとするが、切ることができない。

「なんだ、これ」

 手のひらを弾きながらオレはベッドに戻り、布団にもぐりこむ。なにも考えたくなくて、頭を抱えるようにして瞳を閉じる。
 明日、考えよう。
 オレはそう決めて、眠ることにした。