【こうじ】~現実世界~(後編)


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     ◆   ◆


「林原さん、大丈夫ですか?」

 聞いたことのないテノールの声が、耳朶を打つ。私の意識は、そこで浮上してきた。
 ぼんやりとする頭で考える。
 どうやら私は、地面に横になっているようだ。どうして横になっているのか分からなかったが、とりあえずゆっくりと目を開けることにする。
 まぶたを開くと、薄ぼんやりと黄色い光が目に飛び込んできた。
 ここは一体……?
 地面に当たる手で床をまさぐる。手のひらに当たる感触で、木の床であることは分かった。が、どうしてここにいるのか、さっぱりわからない。
 意識が途切れる前のことを思い出す。
 ……そうだ、ものすごい吐き気に襲われて……胃がひっくり返るかと思ったら。その時の胃の感触を思い出し、また軽く吐き気に襲われる。しかし、それだけだった。ほっとして、周りをゆっくりと見回す。

「起きられますか?」

 左側から急に声をかけられ、右を見ていた私は驚いて声のした方へ視線を向ける。
 少し長めの黒髪、長いまつげ、切れ長の目に茶色の瞳。黒ぶち眼鏡をかけた知的な印象の男。眼鏡の奥の茶色の瞳に、少し気遣うような光が宿っている。

「私は……?」
「あなたは、時雨堂の入口で倒れていたんですよ」
「時雨堂?」

 初めて聞く名前に、戸惑いを覚える。

「僕がお入りください、と何度かお声をかけさせていただいたのですが」

 そう言われ、お入りください、と促されたことを思い出す。ここは……あの扉の中、ということか?

「あなたが扉をふさいでくださっていたので、ここに運びいれるのに苦労しましたよ」

 声音は困ったような響きを伴っていたのに、表情はなんだか楽しそうだ。

「出入口がひとつしかないのは考えものですねぇ」

 そう言って、神経質そうな細い指で眼鏡の蔓を持ち上げ、整えている。

「起きられますか?」

 そう聞かれ、ゆっくりと身体に力を入れ、上半身を持ち上げる。そうすると、先ほどまで天井と思われる場所しか見えなかった視界が変わり、時雨堂内を見渡すことができるようになった。
 薄暗い中にぼんやりとした黄色い光がふわふわと浮かんでいる。
 昔、幼い頃に見た蛍のように淡い光。

「蛍は、儚いものの代名詞のように使われますが……僕はそうは思わないんですよね」

 この男……私の考えを読んでいる?

「物にも人間にも、生きとし生けるもの……に限らず、この世に存在している『モノ』すべてにそれぞれ与えられた寿命というものがあるのですよ。その寿命をまっとうすることが幸せ、だと僕は思うのですがね」

 男はそこで区切り、感情の読めない表情で私を見て、

「長生きすることが、あなたは幸せだと──思いますか?」

 と質問してきた。
 その質問に、私は返答しかねた。
 男はじっと私を見て、私の返答を待っている。

「私は──」

 そう口にしたものの、男の問いに対して、答えを持っていない。

「この世に存在する物すべてに『生きたい、死にたくない』という生命を維持させるためのプログラムがされているのですよ」

 ですが、とそこで男は区切り、

「床の上でお話するよりも、美味しいお茶を飲みながら語らった方がよろしいようですね」

 男はそう言い、少し微笑みを乗せ、

「こちらにお座りくださいませ。今すぐ、お茶をお持ちしますから」

 カツカツと音をさせ、男はテーブルに近寄り、椅子を引いて私に座るように促してきた。

「林原さん、たぶん手が汚れていると思いますから、できるだけ触らないようにお願いしますね。すぐに手を拭くものをお持ちしますから」

 男はそう言うと、奥へと去って行った。
 私は自分の両手に視線を落とす。見ると……私の手のひらは、赤黒い液体が付着して乾いていた。そうして、私はようやくすべてを思い出す。
 私の身体は──どうなっているのだ?

「どうぞ、こちらでお拭きください」

 男はそう言って、ウェットティッシュとビニール袋を持って戻ってきた。

「拭いたらこの袋に入れてくださいね」

 それだけ言うと、再度、奥へと戻って行った。
 渡されたウェットティッシュで手を拭き、言われたように袋の中に捨てる。かなりの枚数を使って、ようやく私の手から赤黒い液体が消えた。
 拭き終わったタイミングで、男はトレイにカップとポットを乗せて、現れた。

「どうぞ、こちらにおかけください」

 男は再度、先ほど座るように言った椅子へ私を促す。のろのろと立ち上がり、椅子へ向かうが思っていた以上によろよろになっていた。

「人間というのは、とても不思議な生き物ですよね」

 男はお茶を準備しながら、楽しそうに口角を上げ、話始める。

「生き物というのは本来、生命を維持するために……生存本能、とでも言えば分かりやすいですか? 食事をとり、自分の生命を脅かす存在を排除しようとする、のですよ」

 男の言っている言葉は、よくわかる。
 私はドキュメンタリー番組が好きで、そういうものを好んで見るが、特に野生の動物物が好きだ。時には残酷なシーンがテレビの向こうで繰り広げられ、それを見てかわいそう、と涙するものがいるが、人間だって同じなのだ。
 生きるために殺す。弱きものは強きものにやられる。子供向けのヒーローものとは違うのだ。強きをくじき、弱気を助ける……。それは、人間だけの世界の話だろう。野生では、弱いことは死ぬことなのだ。

「肉食動物は肉を食べなくては自らの生命を維持できないから、弱いものを襲い、その争いに負けたものが食べられてしまう」

 男はカップにお茶を入れ、私の目の前にどうぞ、と置いてくれた。
 薫り高いにおいが鼻腔をくすぐる。

「少しずつ、お飲みください。一度に飲むと、弱った胃がびっくりして、また大変なことになりますよ?」

 気を失う前のことを思い出し、この空間の扉の向こうはどうなっているのか、急に気になってしまった。

「ゆっくり、ね」

 男は目を細め、窺うような視線で私を見ている。私は用意されたカップに手をかけ、カップの縁に口をつける。熱くて飲めないか、と思ったが、カップの中の液体は適度な熱さになっており、やけどすることなく、するり、と心地よく口の中に入り、食道を抜け、胃に落ちて行った。
 そのままの勢いでカップの中の液体を胃に入れたい衝動にかられたが、男の言葉と先ほどの苦しさを思い出し、一度、カップの縁から口を離し、ソーサーの上に戻す。
 その様子をじっと見ていた男は、満足したようにさらに目を細め、今度は自分の目の前に置かれたカップに手をかけて一口、口に含んでにっこりと微笑む。

「うん、今日も上手に入れられました」

 のんびりとした声に、どうして私がここにいるのか、忘れそうになる。

「人間はそんな野生の弱肉強食の世界から抜け出たようで、抜け出ていませんよね。やはり、生あるもの、そう簡単にその輪から抜け出すことなど……簡単にできないのですよ」

 私は手をのばし、カップをつかんで中の液体を口にする。舌の上に少し苦味が残るが、口の中がざらついて鉄の味が残っていたのがきれいに取れ、満足する。
 空になったカップに男は無言でお茶を注いでくれた。先ほどより少し熱いようで、カップの液体の上に白いほんわかした白い湯気が立ち上る。
 私はその湯気を見ながら男の話に耳を傾けた。

「それなのに、たまにその輪から意図的なのか、無意識なのか、外れようとする人がいる」

 男の話の先が見えず、私はカップから視線を上げ、テーブルの向こうに座る男に視線を投げる。

「そういう方がいらっしゃるから、僕の商売は成り立つわけですがね。──ああ、申し遅れました、僕はこの時雨堂の雇われ店主・羽深(はぶか)しぐれ、と申します」

 羽深と名乗った男は、私に頭のてっぺんを見せるように深々とお辞儀をする。私はそれにつられ、目線だけ男から床へと移動させる。

「いじめだって、その生存本能がゆがんだ形で表に現れたもの、ですよね」

 羽深は頭を上げ、穏やかな表情で話の続きをする。

「自分と少しでも違う考えを持つ者、違う見た目をした者、不快に感じる者……。別にその相手が今すぐ自分を食って殺すわけでもないのに、人間って愉快ですよね」

 そう言って、喉の奥でくつくつと笑う。
 羽深がなにに対して笑っているのか判断しかねて──湯気がだいぶ落ち着き、熱さも和らいだと思われるカップに手をかけ、念のためにと息を吹きかけて冷まし、ゆっくりと口にする。
 先ほどよりも熱い液体が口の中に入り、スーッと胃の中におさまった。

「あなたは、そんな人間の愚かさが嫌で、争うことを避けてきた──そうですね?」

 羽深にそう言われたが、そんなことを思っていたわけではないので答えられずにいた。
 それを羽深は肯定ととったのか、否定ととったのか。
 表情からは分からなかった。

「会社の出世コースから外れ、ドロップアウト。奥さんと言い争いたくなくて言われるがまま。子どもさんふたりからも言われるがまま」

 ドロップアウトはともかく、みさことけんかはしたことがなかったし、子どもにもなにか言った覚えがなかった。
 それが言われるがまま、だったのかは分からない。

「奥さんとけんかをしたことがないなんて、仲の良い夫婦なんですね、なんて言われて……あなたはそれが幸せの証拠だと、思っていませんでしたか?」

 そう思っていたが……それは、違うのか?

「奥さんが働きに出る、と言った時、その意味をあなたは考えましたか?」

 私の稼ぎでは暮らしていけないのかと思っていたのだが……。

「みさこさんは、女の最高の幸せは結婚、と思っていたのですよ。ですが、あなたと結婚して、思っていたものと違う。仕事をしている時の方が幸せだった──」

 羽深に言われ、思い出す。
 みさこは、結婚に対してものすごい憧れをもっていたようだった。彼女は短大を卒業して二十歳から働き始めていて、周りの友だちがちらほらと結婚しはじめていた時だったようだ。
 よくは知らないが、仲間うちでだれが結婚が早いか、をかけていた様子でもある。結婚が早い、遅いなんてどうでもいいと思っていた私には、不可解だった。
 しかし、この機会を逃すと次がいつか分からなかった私は、プロポーズを少し焦っていたのも確かだ。
 みさこは私のプロポーズの言葉にかなり戸惑っていたが、かなり悩んだ末、受けてくれた。
 結婚が女の幸せ。友だち同士との競争。
 言われてみて、思い当たる節があった。
『こうじ、結婚式は友だちをたくさん呼びたいの』
 私には結婚式に呼ぶほど仲の良い友だちがそれほどいなかったから戸惑ったが、みさこは友だちとともに幸せを分かち合いたい、と言うので呼びたいだけ呼べばいい、と言った覚えがある。
 結婚式にはものすごい数の友だちがみさこの結婚を祝っていた。
 あのたくさんの友だちは、そういう意味だったのか。

「みさこさんの意図がどうだったにしろ、あなたは生存競争、という意味では勝ち組ですね。みさこさんという伴侶を得て、さらにはお子さんにも恵まれた。そのお子さんのご結婚はまだのようですが、あなたは自分の遺伝子を残す、という偉業は成し遂げた」

 生物学上ではそうかもしれない。
 しかし。

「今回のリストラなんて、そんなあなたへのやっかみですよ。気に病むことはないと思いますが」

 と言いつつ、羽深は面白そうに喉の奥で笑っている。明らかに本心ではないことを言っているようだ。

「働く場所があり、家族もいる。身体も今までは健康だった。なに不自由ない、素晴らしい人生だったではないですか」

 しかし、と羽深は続ける。

「ここは、現実世界に嫌気がさした人にしかたどり着けない場所。あなたがここにいる、ということは……そんなあなたの素晴らしい人生が不満だったのですか?」

 羽深にそう言われ、ずきり、と心の奥底に隠していた言い知れぬ劣等感が疼き始めた。

「愛する奥さんの代わりに家庭を守る。そのおかげで、奥さんは部長に昇進したのではないですか。すばらしい。内助の功、ですね」

 くつくつという笑い声が、私の劣等感の疼きとシンクロする。激しく胸の奥が痛む。

「違う人生を歩みたい……と思いませんか」

 羽深の言葉にますます胸の奥の疼きが激しくなる。
 そう言われるほど、私の人生は……駄目なもの、だったのか。

「人生に『もしも』はありませんが」

 その時、奥の方からちりん、と涼やかな鈴の音が聞こえてきた。
 その音を聞いた羽深は楽しそうな笑みを浮かべ、細くて神経質そうな長い指を懐に忍ばせる。指先に、白い札がつままれて出てきた。

「林原さん、人生はやり直せませんが、これがあれば……違う人生をのぞくことができますよ」

 羽深は人好きのするさわやかな笑顔を浮かべているはずなのに、私には邪悪な笑みにしか見えない。しかし、羽深のその提案は今の私にはとても甘美で……気がついたら、首を縦に振っていた。

     ◆   ◆

 羽深にあの後、あの白い札を半ば押し付けられるかのように渡され、時雨堂を後にした。
 淡い黄色い光に包まれ、気がついたら昼間、ぼんやりと過ごした公園の暗がりに立っていた。
 都会の中にある、緑のオアシス。思っているより緑が多くて、深呼吸をして新鮮な空気を胸の奥へ送り込む。
 時雨堂にいる間、ずっと胸の奥の劣等感を刺激され、ずきずきと疼いていた。
 そうだ。私だって部長になりたかった。
 年下のボンクラのあいつたちなんて見返してやるくらいの部長に私はなれたはずだ。
 それなのに、会社は私の偉大さに気がついていなかったのだ。
 入社して、今まであんなに会社に貢献したのに。会社を守るため、だって?私ひとりさえ守れない会社なんて、なくなってしまえばいいのだ。
 外の空気を吸って冷静になった私の頭は、次から次へと恨み事が湧き出てくる。
 この白い札さえあれば……私は理想の世界へ行けるのだ。
 私は特に目指す場所があったわけではないが、疲れた身体を少し休めたくて、ふらふらとさまよった。ベンチに座ろうかと思ったが、どこのベンチも先客がいた。
 仕方がなく、木の影を探してそこで休むことにした。
 いい感じの場所を見つけた、と思ったら……先客がやはりいる。
 悩ましい声を出して絡み合っているカップルがいたりと、この国はどうなっているんだ、と怒りに震えながら休む場所を探す。
 公園の一番端まで来て、ようやくいい感じで休める場所を見つけた。
 少しの間……なんだ。今日はいろいろあって、疲れた。
 私は白い札の張り付いた左手を枕にして、木の陰に横たわった。
 ああ、ゆっくり休めそうだ……。