目覚まし時計の音に、目を覚ました。窓から入ってくる朝日が目に眩しい。
何時だろう、と時計を止めるついでに時間を見る。
やばい、寝過ごした!
あわてて起き上がるが、なにかがおかしい。昨日までのあのせんべいのようなぺたんこで固い布団とは違い、驚くほどふかふかのいいにおいがする布団。しかも、よく見ると、どうやらベッドの上のようだ。
半分物置と化している部屋で、狭いところに布団を敷いて寝ているはずなのに、どういうことだろう。しかも、部屋の中を見回すと、とても広い。ベッドもダブルサイズより大きいし、桐のタンスにドレッサーまで置いてある。どうなっているんだ?
とりあえず、朝ごはんとお弁当を作らねば、と着替えるより先にあわてて部屋を出るために扉を開ける。扉を開けて、その向こうに広がる光景にさらに驚く。
どういうことだ? いつの間に家を改装したのだろう。
戸惑い、首をかしげる。
どう考えてもここは、昨日までいたあの築三十年になりそうなぼろいマンションではない。ここは、どこだ?
疑問に思っていたところに、妻のみさこがやってきた。
「あら、あなた。おはようございます。早く着替えてくださいな。今日は朝から会議があるんでしょう。朝ごはん、できていますわよ」
みさこはにこやかに元来た道を戻っている。結婚当初しか聞いたことがない言葉に、自分の耳を疑う。
最近では、顔を合わせても挨拶さえしないほど冷え切っているというのに。向こうからおはようと言ってきた。その上、朝ごはんができている、だって? なにが起こったのか分からないが、とりあえず会社をリストラされたことは伝えていないので、会社に行く振りをしなくてはならない。
桐のタンスを開け、目を疑う。ここにかけられているスーツ、どれもこれも高級品ばかりではないか。タンスの扉についている鏡を見ると、確かに見覚えのある自分の顔が写っている。しかし、血色もよく、あれほどあった白髪はほとんど見当たらない。なにがどうなっているのかよく分からなかったが、とりあえずタンスの外にかけられていたワイシャツを着て、スーツを適当に決めてネクタイもしめてキッチンへと向かう。
「おはよう、お父さん」
キッチンに行くと、ダイニングテーブルに座って先に食事をしている娘のれいながいた。
「お父さん、今度の土曜日の予定は?」
「あぁ……」
「なに、れいな。なにかあるの?」
みさこがキッチンから声をかけている。
「うん。あのね……会ってほしい人がいるんだ」
「まぁ」
みさことれいなが会話を始めたため、私はゆのみと箸がセットされている席へ座る。
「ああ、ごめんなさい。すぐにご飯とお味噌汁をお持ちしますわ」
みさこはあわててよそって持ってきてくれた。なんとなく、落ち着かない。もそもそと食べ、そわそわと会社へと向かう振りをする。
駅まで来たが。私は昨日、理不尽にもリストラされてしまったのだ。どうやって時間をつぶそうかと思っていたら。
「あら、林原部長、おはようございます」
聞き覚えのある声に、驚いて振り向く。そこには、いつも美しい社員全員のあこがれの人が立っていた。
「部長の最寄り駅ってここだったんですね」
部長? 私が?
「おはよう」
いつもの自分だったら、声をかけてもらうことも、ましてやこうやって挨拶をすることなんて考えられなかったのに、気がついたら当たり前のように挨拶をして、あこがれの人と楽しく会話なんてしている。私は本当にどうしてしまったのだろうか。 そうしてそのまま、一緒に会社まで来てしまった。
とりあえず、どうやら私は部長らしい。部署はどこだろうか。
悩んだが、身体が覚えているらしくするするとたどり着く。席に着き、準備を始める。よくわからないが、なすがままにやっていくのがいいようだ。
そうして、いつもは思うだけで口にできない言葉がするすると出てくるではないか。私はどうしてしまったのだろう。
「林原部長、おはようございます。この書類なんですが」
次から次へと人が訪れる。どうやら私は本当に部長らしい。昨日、リストラされたのはやはり嘘だったのか。
昨日までの出来事は、きっとそうだ、あれは夢だったのだ。今のこれが現実だ。
楽しくなり、やる気になって仕事がはかどった。気がついたら、終業時間はとっくに過ぎていた。
「お疲れさま」
仕事がひと段落ついたので、帰宅する。家に帰ると、みさこがご飯を準備して待っていてくれた。
ああ、そうだ。私はこんな家庭がほしかったのだ。帰ったら妻が優しく出迎えてくれる。食事も準備してある。求めていたものはこれだったのだ。
「あなた……」
ベッドに横になって本を読んでいると、お風呂からあがってきたみさこがするりと私の横へとやってきた。
うるんだ瞳で見つめている。本を閉じ、ごくりと唾を飲み込む。
みさことは、そういえばれいなが産まれてからまったくのご無沙汰だったな。久しぶりな出来事にドキドキする。
みさこを抱きしめる。若い頃より少し丸くなっていたが、久しぶりにみさこを抱擁したことにより、高鳴りを覚える。
ああ、すべてが私の理想通りだ。
◆ ◆
土曜日にれいなは結婚を前提として付き合っているという彼氏を連れてきた。見た目もそれほど悪くないし、真面目そうないい青年だったので、れいなをよろしく、と伝えると彼はほっとしたように微笑んでいた。
息子のけんごは二年ほど前に結婚して、今では一児の父らしい。そうか、私には孫がいるのか。
息子がいて、娘がいて、それぞれがまた、新しい家族を作る。
優しい妻がいて、家で私の帰りを待ってくれている。
「れいなが結婚したら、かなりさみしくなるな」
「そうですね。でも、すぐに孫がたくさんできて、にぎやかになりますわ。けんごのところの子どもは男の子ですから、けんごに似て、わんぱくに育ちますわよ」
そういって笑うみさこに、愛しさを覚える。結婚した当時と変わらない愛に、目を細めた。
「え?」
別室に呼ばれ、またリストラか? と思っていたら。
「林原くん、キミを本部長に、という話がでているんだが」
私が本部長? 本当なのだろうか?
だれもいなくなった室内で、信じられなくて自分の頬をつねってみる。……痛い。どうやらこれは、夢ではないようだ。
そうだ、これなのだ。会社に貢献してきた私がリストラされるわけがないのだ。
部長になっているのは当たり前だし、本部長にだって。このままいけば、末は社長にも。
私はそっと、ガッツポーズをした。
仕事も家庭も順調だった。
れいなは例の彼と結婚した。
具体的に結婚、という話がでて初めて知ったらしいのだが、どうやらどこやらの御曹司で、れいなはいわゆる『玉の輿婚』だったらしい。
まさかそんな人とは思っていなかったらしいれいなは当初、かなり戸惑っていたようだが、大丈夫、必ず幸せにするからと言われ、正式に婚約をして、今日の結婚式にこぎつけた。二百人以上の盛大な式に、かなり盛り上がった。最後の両親の挨拶で思わず泣きそうになってしまった。
ありふれた、しかし、一番欲していたものが手に入った。
そうだ、私は大きなものは望んでいない。ドラマチックな人生などほしくない。ホームドラマのような、こんな人生がよかったのだ。
本部長になり、前より仕事が忙しくなった。
そして、人間ドッグで
「再検査?」
なにかの項目で引っ掛かったらしい。
本部長、身体が資本ですから! と部下たちに言われ、再検査を受ける。
そこで、ガンが見つかった。
あまりの出来事に目の前が真っ暗になったが、早期発見ですから大丈夫ですよと言われ、手術に挑んだ。
手術は大変だった。
しかし、そのあとの治療はもっと大変だった。
仕事とかねあいながらの治療だったが、ありがたいことにいい部下たちに恵まれ、助けられながら無事に乗り切ることができた。
そうして。
「社長に?」
「そうだ。役員会議で全員一致でキミに決まったよ、おめでとう」
私が社長だって?
本部長、だけでもすごい出世だと思っていたのに。
取締役、常務、専務を飛び越して、いきなり社長?
まさか、と思っていたが、人事発令には確かに社長に私の名前が載っていた。
「あなた、おめでとう!」
みさこはものすごく喜んでくれた。
結婚してすぐに子どもができたらしいれいなも子どもを連れて驚いて帰ってきて、お祝いを述べてくれている。
けんごはすぐに来れないけど、おめでとうをすぐに電話をかけて来てくれた。
ああ、なんてすばらしい人生なんだろう。
そうして私はがむしゃらに働き、会長へとなった。
そうだ。
私の人生はこうでなければならない。
これが正しい人生だったのだ。
会長室の窓から、外を眺める。
下にはキラキラと眩しいほどの日差しを浴びた街並みが見える。
美しいじゃないか。
最高の人生だ。
努力は報われる。
「うっ……」
急に胸が苦しくなり、胸を押さえてしゃがみこむ。
「会長、大丈夫ですかっ」
秘書があわてて駆けつけてくる。
意識が薄れて行く……。
この人生には悔いがない。
望んだもの、望んだままの人生だ。
■ ■
ふと気がつくと、白い天井が見えた。耳に機械音が聞こえてくる。
「林原さん、気がつきましたか?」
枕元に、見覚えのある黒髪で黒ぶち眼鏡の知的な印象の男が立っていた。
「どうですか、あなたの理想の世界の人生は」
理想の世界?
「いやしかし、あなたの理想はつまらないものですね。これでは商品になりません」
男はそうして、懐からうっすらと色づいた黒い札を取り出し、握りしめる。男は目の高さにこぶしを上げ、手のひらの中のものを指先でこすると、なにかが手の中から落ちてくる。
「現実世界のあなたもつまらなかったですけど、理想の世界もつまらないですね」
男の瞳には侮蔑の光が宿っている。私は反論しようとしたが、ぜえぜえという音しか出なかった。
「あなたに問います。ここは、あなたの理想の世界──夢の世界です。現実の世界に戻り、やり直したいですか? それとも、あなたはこの理想の世界で、人生をまっとうしたいですか?」
「わ、私は──」
反論しようとした時は声が出なかったのに。どうして今は、声が出るのだろう。
疑問に思いつつも、男の問いに私は答えた。
【こうじ おわり】