私の名前は、林原(はやしばら)こうじ。年齢は五十八歳、定年を間近に控えた、冴えない中年男だ。
定時に仕事を終え、私は家へ帰る途中、スーパーに寄り、食材を買いこむ。
「……ただいま」
だれもいない家にたどり着き、だれもいないと知りつつも毎日の習慣でそうつぶやき、玄関に入る。
スーツを脱ぐ前に食材を冷蔵庫に詰め込み、書斎という名の半ば倉庫と化した自室へ戻り、着替えをする。
キッチンへ戻り、私は帰りがいつになるか分からないこの家の住人のために、夕食を作る。
◆ ◆
こういう生活が続いて、すでに二十年が経過する。その数字に、改めて驚く。そうか……あいつが
『わたしね、仕事決めてきたの。明日から働くことになったから、あなた、家のことと子ども、よろしく頼んだわよ』
そう宣言されてから、もう二十年になるのか。
私と妻のみさことは、いわゆる『職場結婚』なるものをした。
私は大学を卒業してすぐに入った会社で、入社五年目、みさこは短大卒で六年目。結婚して、すぐに子どもに恵まれ、けんご、という名の男の子を授かった。その二年後にはれいな、という名の女の子が産まれた。
私とみさこは、端から見ればとても幸せそうな家庭に見えていたと思う。
しかしある日、れいなが小学校にあがり、落ち着いた頃、私に相談することなくみさこは仕事を決め、いきなり働き始めてしまった。最初、自分の給料を見て、みさこが働きに出よう、と思っても仕方がない、と諦めていた。どうせパートだろう、と思っていた。
その頃から私は定時で会社を上がっていたが、最初、男が家事をすることにかなり抵抗を抱いた。しかし、やってみると案外面白く、それほど疑問に思わず、みさこの代わりにやっていた。
疑問を抱き始めたのは、みさこが働き始めてから一年が過ぎた頃。みさこは私より早くに家を出て、帰りもかなり遅い。それに最近、みさこの服装や化粧、持ち物が以前より派手になってきた。パートしていると見せかけて、実は浮気でもしているのではないのか?そんな疑問を抱いても仕方がないだろう。
パートにしてはおかしい、と、みさこを問い詰めた。
『だれがパートなんていいましたかっ!? わたしはフルタイムで働いているのよ!』
そんなこと、初耳だ。しかも、よくよく聞くと、私がつとめている会社のライバル会社だ。よくもまあ、向こうも採用したものだ。
この業界もお遊びでやっていけるものではないことくらい、みさこは身にしみているだろう。結婚するとき、別にこのまま働き続けてもいいんだぞ、と言った私に、
『もうこの業界にはこりごりだわ』
そう呟き、寿退社を選択したのはみさこだったはずだ。それなのに、またこの業界に戻ってくるとは。
まあ、またそうやって辞めるのは目に見えている。それまでの辛抱だ。私は自分にそう言い聞かせ、定時に上がって家のことをした。
子どもが熱を出して学校を休んだりした時は、みさこではなく、私が会社を休む。
『どうせあなた、大した仕事、していないんでしょう』
そう言って、私が休むのが当然、という態度でみさこは仕事へ出かけて行った。そんなだからか、私の出世は大幅に遅れ……とうとうコース外になってしまった。それでもいい。仕事があって、それなりに充実していた。
仕事を毎日定時に上がり、家に帰って家事をする。そんな兼業主夫的な生活も悪くない。私は自分に、そう思いこませていた。
◆ ◆
この生活が続いて、二十年。
私は何度か自分の立場に対して疑問を抱いたが、そのことを口にすることで、それなりに心地よい生活に変化が訪れることに、恐怖を感じた。
もやもやとするものがあったが、それは特に具体的な形を作ることもなく、心の奥底にずっと、くすぶっていた。
それでも、子どもふたりは順調に育ってくれたし、普通に暮らしていくうえではなに不自由なく過ごせている。
家とスーパー、会社の行き来、たまに息抜きに違う場所に行くことはあったが、それだけで私は満足していた。
そう、私はこれで満足していたのだ。それなのに。どうしてこんなことになってしまったというのだ。
私は決して、高望みなどしていなかった。現状維持でよかったというのに。
先ほど渡された一枚の紙を握りしめ、空を見上げた。空は、私の気持ちなんてこれっぽっちも気にしていないほど、雲ひとつない青空が広がっている。
なんで私だけがこんな目に──。悔しさがこみ上げてきた。
◆ ◆
出社すると、メモが置かれていた。珍しく思い、メモ書きを見ると、保健医からだった。すぐに来るように、と書かれている。健康優良児と自負している私としては、どうして保健医から呼び出されるのか分からなかった。酒もたばこもやらないし、すこぶる体調もよい。
そういえば、最近少し胃がもたれたり痛むことはあるが、それはたまにあることだ。わけが分からなくて、私はそのメモ書きを破り捨て、呼び出しを無視した。
次の日、出社すると、またメモ書きが置かれている。やはり保険医からだった。用があるのなら直接くればいいだろう。私は無性に腹が立ち、またそのメモ書きを破り捨てた。
そんなやり取りがあったことをすっかり忘れていた頃。終業時間間際になり、保険医がやってきた。
「林原さん、呼び出しのメモ、無視してくれてありがとう」
と嫌味を言われたが、用があるのならさっさと出向けばいいのに。それにしても、終業時間間際に来るとは、なんの嫌がらせだ。
「なんのご用でしょうか? 予定が入っていますから、終業時間が来たら私はすぐに帰りますが」
「……そうですか。では明日の朝、一番でわたしの部署まで出向いていただけますか?」
嫌だったが、保険医の有無を言わせぬ迫力に嫌々、はい、と返事をする。
保険医はにらみながら去って行った。なんだ、感じの悪い奴だ。私はその後、嫌な気分で過ごすことになった。
◆ ◆
そして次の日、私は保険医の元へ行かなかった。どうにも足が向かなかったのだ。仕事をしていると十時過ぎに保険医がやってきた。
「林原さん。わたしと昨日、約束しましたよね?」
保険医の声に、周りの者が何事かとこちらに視線を向けてくる。
「今すぐ来てもらいますよ」
保険医は座っている私の腕をひっぱり、椅子から立つように言う。私は周りの視線が嫌で、言われるまま立ちあがり、ついていく。
「ほんとに、あなたみたいな人が一番、嫌ですね」
保険医は自分の部署に着くなり、開口一番、私に対してそう嫌味を言う。
「はい、そこに座る」
私は無言で指示された椅子に座る。
「先日、健康診断をしましたよね」
そう言われ、私は思い出す。
健康優良児という自覚があるため、毎年のこの健康診断の意味がまったく分からず、指定されていた日程の最終日にしぶしぶ病院に足を運んだ。毎年変わらない検査内容に嫌な気分になりながら、義務を果たした。
「今年の検査で林原さん、再検査項目がありまして」
保険医の言葉に、わが耳を疑う。
……再検査? 健康優良児の私が?
「再検査、というよりは……。うーん、この数値は強制入院……あ、ちょっと、林原さん!」
私は保険医の話を途中で席を立ち、自席へと戻った。
健康優良児の私が、入院? ありえないだろう。
今年の看護婦は腕が悪いな、と思っていたのだ。あの看護婦のせいだな、その数値は。
私はその後、胸がむかむかしながら仕事を続けた。
◆ ◆
「林原くん、部長が話があるそうだ」
保険医から呼び出されて数日後。朝、出社して一番に課長に肩を叩かれ、そう言われた。課長はくいっ、と親指でとある一室を示している。そこに部長がいるから行け、と言っているらしい。
先日の保険医に言われた件か? いや、違うな。そんなことで部長が私を呼ぶとは思えないし。
私の会社は、四半期ごとに目標設定を立て、四半期が終わる前に呼び出され、目標は達成できそうか、などといった面談がある。その面談には少し早いような気がするが、それしか思い当たらず、私は部長が待つという部屋へ行く。
ノックをすると、部長の陰鬱な声が返ってきた。いつ聞いても気持ちが暗くなる声だ。
ドアノブをひねり、部屋に入る。部長も先ほどの課長も、私より年下だ。順調に出世していれば、そのポストには私がいるはずだった。それとも、こんな時期に呼ばれる、ということは……もしかして、よい話なのか?
部長は私が入室して扉を閉めたのを確認すると、ソファに沈めていた身体を少し起き上がらせ、テーブルに投げるような動作で一枚の紙切れを置いた。
「用件はこれだ。よく読んでおくように」
それだけ言うと、部長は嫌なものでも見たかのような表情をして、ソファから立ち上がり、勢いよく大きな音を立てて部屋を出て行った。
なにが置かれているのかいぶかしく思い、恐る恐るテーブルに近寄る。A4サイズの用紙の真ん中になにか文字が書かれている。余白がもったいないな、とどうでもいいことを思いながらその用紙を手にして、書かれている意味が分からなくてスーツの胸元に入れている老眼鏡を取り出した。
震える手で眼鏡をかけ、もう一度その用紙を手に取る。
「……人員整理……林原……こうじ……」
声に出して、読んでみる。
人員……整理? どういう、こと、だ?
用紙に書かれている意味が分からなくて、もう一度、先頭の一行を読む。
どう見ても、人員整理、と書かれている。
その下には、昨今の会社の業績と今後の売り上げを考え、余剰人員を抱えて行く体力がないと幹部が決定をくだしたため、個人成績をかんがみて、将来性を見込めない者を対象に、会社の将来のために人員を削減する、と書かれている。
要するに、リストラ、ということか。いや、そのリストラ、ということはともかく。
私はあと二年すれば、定年退職だ。定年退職になったら、そのまま会社を辞める気でいたというのに。
それなのに、これは……どういうことだ?
私は、会社にも社会にも貢献してきた。それなのに、そんな私を首にするとは。
どういうことだ!
◆ ◆
それから私は自分の席に戻り、かばんを持つとそのまま会社を出て、近くの公園で空をずっと見上げていた。
端から見ると、危ない人に見えたかもしれないが、幸いなことにだれにも声をかけられることはなかった。
空をずっと見上げていたら、どんどんと青い空の色が変わってきて、オレンジから紫へと変わるのを見て、ああ、夜が来てしまった、と思い、仕方がなく家に戻った。
家に着き、会社で受け取った紙を握りしめたままだったことに気がつく。くしゃくしゃにして丸め、会社へ行くときに持って行くかばんにその紙を放り込んでおいた。
冷蔵庫を開け、あるもので夕食を作ろうとしたら、家の電話が鳴った。
『ああ、ようやく繋がった』
電話の向こうの声は、どうやら娘のれいなのようだった。
『今日、友だちにご飯誘われちゃってー。だから夕食、要らないからー』
電話の後ろで、男の声がする。……彼氏とご飯か? 返事もせず、受話器を置く。
そして、料理に取りかかろうとしたら、またもや電話が鳴る。
『親父、どこに行ってたんだよ?』
電話の主はどうやら息子のけんごのようだ。
『言うの忘れてたんだけど、今日、合コン! 夕食は要らないから!』
それだけ言うと、私の返事を待たずに電話が切れた。
……れいなもけんごも夕食は要らないのか。
それなら、みさことふたりなら……メニューを考え直そうと再び冷蔵庫を開けようとしたら、三度目の電話が鳴った。
なんだ、今日は妙に忙しいな。
電話に出ると、
『ああ、あなた。今日ね、会社のみんながわたしの部長昇進パーティをしてくれるって!』
……部長?
『だから、夕食、要らないから~!』
電話の向こうから部長、早く行きましょうよ~! なんて声が聞こえてくる。その声をBGMにして、電話は切れた。この差は、一体なんだ。
私は今日、朝一番でリストラを申しつけられ。みさこは部長に昇進、だと?
あまりの馬鹿らしさに、私は取るものもとりあえず、そのままふらふらと家を出る。
だれも……私を必要としていない。
私は……死んでしまった方がいいのかもしれない。
今までそんなこと、一度も考えたことがなかったが、こうまでも自分に一度に不幸が降りかかってきたら、生きていたって仕方がない、と思ってしまう。
定年ももう目の前だ。私はいつ死んでもおかしくない。
だったら、寿命が来て死ぬのも、自ら選んだ死も、そう変わりはないはずではないか。
私はあまりのことに、暗い方へ、暗い方へと歩みを進める。
そうして歩いていると、目の前にいきなり、見たことのない木の扉が現れた。
さっきまでここは、向こう側が見えていたはずなんだが? 私は目をこすり、目の前の木の扉が錯覚ではないかと確認する。しかし、その木の扉はきちんと目の前にあり、主張している。
人さまのうちに、勝手に入ることはできない。そう思い、くるりと振り返って元来た道を戻ろうとしたが。先ほど、確かに道を歩いてきたはずなのに、振り返ると思いっきりおでこをコンクリートの壁にすりつけてしまった。ひりひりして痛い。
なんでだ? おかしい、明らかにおかしい。先ほどまでここにはきちんと道があったではないか。
私は確認するようにコンクリの壁をぺたぺた触ったり叩いたりしてみた。
そこにはきっちりとしたコンクリートがやはり存在していて……。分からなくて、壁に背を預けた。
私は動くことができず、灰色のコンクリートに背中を預けたまま、ぼんやりと目の前の木の扉を眺めていた。
コンクリートのひんやりとした冷たさが背中から伝わってきて、身体の芯まで冷やしていくようだ。その冷たさが、少し冷静さにかけていた私の頭にじんわりと伝わってきて、少し落ち着くことができた。
風もないのに木の扉はきぃ、という音をたて、勝手に開いた。
このご時世、なんと無防備な家なんだろう。
そんな感想を抱いたが、木の扉はきぃきぃと音を立て、目の前で開いたり閉じたりを繰り返している。
きっちりと扉を閉じてあげるのが親切心だろうか。
そう思い、預けていた背中をコンクリートから離す。
先ほどまで背中に感じていた冷たさはなくなり、少しほっとする。
思っていた以上にコンクリートは背中を冷やしていたようだ。
手をのばし、扉に手をかけたその時。
「中へお入りください、林原こうじさん」
中から、聞いたことのない声がして、しかも私のフルネームで呼ぶものだから、文字通り飛び上がって驚いた。な、なんで私の名前が……?
私はそのまま手のひらで押し、物悲しい音を立てて開いていた扉を閉じる。
中から聞こえた声がなんで私の名前を知っていたのか分からないが、これでもう、聞こえない。
ほっと安堵の息をつき、扉から手を離す。と、また音を立て、扉は開く。なんと建付けの悪い扉なんだろう。
先ほどより力を入れ、扉を押す。そして、ゆっくりと扉から手を離すが……。
私の手にぴたりと吸いつくようにして、扉がやはり、物悲しい音を立てながら開いてくる。
「林原さん、ご遠慮なさらず中へどうぞ」
開いた扉の隙間から、テノールの声が聞こえてくる。
信じられなくて、両手で扉を押しつけ、先ほど、灰色のコンクリートに背中を預けていたように、同じ恰好で今度は木の扉に背中を預ける。
こちらの扉は木でできているからか、先ほどの無機質なコンクリートのような冷たさはなく、気のせいか、温かかった。
背中に、心地よいぬくもりを感じる。私はそのままずるずると滑り落ち、地面に座り込む。
目の前には、やはり灰色のコンクリートがそびえたっていた。突如現れたこの木の扉とコンクリート。どうしてなのか、これがなにか分からなかったが、妙な倦怠感を覚えた。
そして急に、身体の奥からなにかがせりあがってきた。最近、たまにあるが、みぞおちのあたりに気合を入れるとどうにかやり過ごせるのだが、今日はそうやっても我慢できず……。
「ごふっ」
胃の中の物を、少し戻してしまった。嫌な音を立てて、口内から地面に胃の中の物が落ちる。
しかし、今日はそういえば朝にご飯を軽く食べて以来、なにも食べていなかった。そのせいか、せりあがってきたものは胃液だけだったようで、口の中に嫌な酸っぱさが広がる。
吐いてしまえば少しはすっきりするかと思ったが、胃のむかむか感は治まるどころか、ますますひどくなるようだった。いつものようにみぞおちあたりに力を入れるが、そのせいでか、ますます気持ちが悪くなってくる。
気持ち悪さをどこかへ押しやりたくて、私はゆっくりと息を吐き出す。そして、それと同じくらいの速度で息を吸い込む。そうやって息を吸って吐いて、とやっていると……その気持ちが悪いものはどうにか落ち着いたようだった。
ほっとして、大きく息を吐いた瞬間。
今まで感じたことのないくらいの激しい吐き気が胃の奥の方からせりあがってきた。それはまるで、食道を通って胃がひっくり返ってでてきそうな感じ。あまりの衝動に前のめりになり、口を押さえるが、まったく治まらない。
ぐえぇ、と声というより身体の中から出てきた変な音を口から漏らし、たまらず吐きだす。
ごぼっと音がして、口の中から液体がこぼれ出てきた。たまらず地面に吐き出し……その色を見て、驚いた。見たことのない、どす黒い赤、が地面に模様を描いていた。
これは……なんだ? どうなっているのだ?
地面の模様を見て、手のひらに付着した液体を見て、私の意識は、そこでふつり、と切れた。