◇ ◇
気がつくと、自室の真ん中に立っていた。ため息をひとつつき、これからどうするか少し考える。
ゆきの病室に行ってみよう。あんなに青ざめた顔で眠っているのは、白い札を置いたわたしの責任だ。あの子があのまま目覚めなかったら……。
あぁ、羽深にどうやれば目覚めるのか聞いておけばよかった。聞いたところで素直に答えたかどうかはともかく、聞き忘れたことを少しだけ後悔した。
部屋を出ると、扉が開く音を聞きつけたうみが隣の部屋から出てきた。
「そら姉」
紺碧の海のような澄んだ瞳を潤ませ、わたしに駆け寄り、抱きついてきた。とっさのことで驚いたけど、昔はよくこうやってじゃれてきたことを思い出し、うみを受け止める。
……つもりでいたのに、運動不足と長い間食事をとっていなかったのもあり、あっさりとうみに押し倒されるような形で廊下に倒れこむ。
「うみっ!」
毛足の長いカーペットの上だったのでそれほど痛くはなかったけど、思っていたよりもがっしりとした身体とうみに
「男」
を感じ、怖くなった。新井に繰り返し加えられてきた甘い刺激を思い出し、じわりと身体の奥が疼く。吐きだした息が思った以上に甘く、自己嫌悪に陥る。
あの男に捨てられたのに。なのに──。
「そら姉、帰ってきてくれた──」
最近では憎まれ口しか叩いていなかったその口から戻ってきたことへの喜びを紡がれ、複雑な気分になる。
「そら姉のこと、大好きだ」
突然、うみは告白してきた。そしてわたしの胸に顔をうずめる。胸元の素肌に唇を這わして、吸いついてくる。ちくり、とするどい痛みが走る。
「っ!」
わたしはあせり、腕をぐいとのばしてうみを引きはがそうとする。しかし、細身に見えても男の力にはかなわない。うみは逃れようとするわたしをさらにきつく抱きしめ、顔を近づけてくる。
「やめてっ、うみ!」
顔をそらし、うみの束縛から逃れようと暴れる。だけど身体に力が入らない。このままではやばい。
必死になってこの状況をどう打破しようか考える。
力で対抗しようにも、うみは見た目より強いみたいで無理みたいだ。やめてと言ったところでやめてくれる様子もない。
この甘いしびれをどうにかしてくれるのなら、うみでもいいかもしれない……。
やめてほしいと思う気持ちとは裏腹に、身体はうみに抱きしめられ、甘くしびれてすでに反応し始めている。
あらがうことをやめたわたしにうみは力を緩める。
「抱きたいのなら抱きなさいよ!」
その言葉にうみは正気に戻ったのか、目が覚めたかのような表情をしてわたしを見ている。
「ねぇ、抱いてよ!」
相手がうみであるのはきちんと認識しているものの、あふれ出す想いを止めることができなかった。
「どうして……どうしてわたしを捨てるの」
ようやく止まったと思った涙がまたあふれ出てきた。こんなにつらい想いをするのなら──あなたのことを好きにならなければよかった。あんなに優しく抱くから、忘れられないじゃない。
去ろうとする男に取りすがって泣くなんて、かっこ悪いしダサいことだと思っていた。わたしは絶対そんなことしない、と思っていた。
だからと言って、母のような一夜だけの関係は汚いと軽蔑していた。
一番なりたくない嫌な女になっている自分が、ものすごく嫌になった。
「そら姉……泣くなよ」
先ほどの力強くて男を感じさせる抱き方ではなく、やさしくかつて父がしてくれたような包み込むやさしい抱き方に安堵した。
しばらくうみにそうして抱擁されていると、ようやく落ち着いてきた。瞳にたまっていた涙をぬぐい、ゆっくりと立ち上がる。
下の階に降りようとしたら、だれかが階段を上ってくる音がした。角を曲がり、現れたのは父だった。
「そら──!」
うみと廊下にいたところを父は走ってきて抱き寄せる。
「そら、辛い思いをさせたみたいで……すまない」
ギュッと抱きしめられ、変わらぬ父の匂いに安堵する。
「こんなに痩せてしまって」
悲しそうな黒茶の瞳に胸がきゅっと痛む。
新井の元にどれだけ自分がいたのか分からなかったけど、父とうみに相当心配をかけたことだけは分かった。抱きしめてきた父も自分の記憶の中にある抱きしめられたときの感覚が違い、少し細くなっているようだった。心配でまともに食事もとっていなかったのがよくわかった。
「そらが買われていった次の日に津久井さんは亡くなってしまったのだよ」
父の口から紡がれた言葉が信じられなくて、驚いて見上げる。
「え……?」
「すぐにそらを探しに津久井さんの屋敷に行ったのだが、そらのことをだれも知らなくて……。あせって探したけど見つからなくて」
そう、津久井の屋敷に着くなり新井に買われてすぐに連れ出されたのだから、あそこの人たちが知らなくても当然だろう。
「しばらくして、そらの口座にとんでもない金額が振り込まれたんだ」
その金額を聞き、はっとする。新井が津久井に渡した小切手に書いた金額と一緒だったのだ。どういうことかまったくわからなかった。
「ずっと探していたんだけど、突然、新井公彦と名乗る男から連絡があり、そらを預かっているから引き取りに来いと言われて」
う、そ。
「言われた場所に行くとそら、おまえがいて驚いたよ」
本当に新井に捨てられた──?
「手切れ金として口座に入金したから探すな、ということを言われ──」
「嫌だ」
手切れ金とはなによ。もう私は必要じゃないということなの!?
「嫌だ、お金なんか要らない! お父さん、探してよ!」
父の胸元をつかみ、新井を探すように揺さぶる。わたしの尋常ではないその様子に父はなにか感じるものがあったのか、とても悲しそうな表情で顔を見ている。
「探したんだ、真意を知りたくて。だけど……見つけられなかった」
「どこかにいるでしょう!? あれだけの資産家なんだから」
「そう思って探した。だけど、不思議なことにだれひとりとして『新井公彦』なる人物のことを知らないんだ」
あのお屋敷の人に聞けば──。
「お屋敷の人たちも知らないと」
知っているのはあの『羽深しぐれ』のみ、ということか。意味深にまた会うでしょうと言っていたのを思い出した。
「分かった。自分で探すわ」
どうあっても探し出してやる。探し出して文句を言うのだ。どうして捨てたのか、と。
わたしはあきらめが悪いのだから。
姿を消してお金さえ渡せば諦めるとでも思われたのか。
わたしは新井にあれだけひどいことをされておきながら、瞳の奥に見える憎しみを知りながら……いつからか彼のことを愛していることに気がついてしまった。
最初、その気持ちはものすごく戸惑ってしまったが……。そう気がついてしまったら止めることができなくなってしまった。
時折見せる切なそうな悲しみの光を知ってしまい、憎むことができなくなってしまった。
自分がその悲しみの光を消せるのなら。
「探すって、あてはあるのかい?」
父が心配そうに聞いてくる。
「うーん、あると言えばあるけど、ないと言えばない」
羽深の話をしたところで──とそこでゆきのことを思い出す。
「そうだ、ゆきは!?」
その一言でうみと父は顔を見合わせる。
「なにが……あったの?」
ふたりのただならぬ雰囲気に気持ちが焦る。
「そら姉が連れて行かれた後、ゆきは……自殺未遂を」
ゆきが? どうして!?
うみを見ると、唇を噛んでうつむいている。父は黒茶の瞳を潤ませてうみを見つめている。
どうすればいいのか分からなくて、うみの手を取る。
「ゆきのお見舞いに行きたいんだけど、連れて行って」
うみの手を握りながら、父にお願いをする。父は泣きそうな表情でわたしを見ながらうなずく。
「その前に、ご飯を食べてシャワーを浴びてきなさい。ひどい顔をしている」
父はわたしの頬に手をかけて親指で涙を拭きとってくれた。泣きはらしたひどい顔をしているのが分かった。まぶたは腫れ、熱を持っている。
部屋に一度戻り、着替えを手に持ってシャワーを浴びに行く。いつ以来か分からないけど、久しぶりのシャワー。温かいお湯に打たれて悲しい気持ちも一緒に流されていくような錯覚に陥る。あの閉じ込められていた空間は夢の中での出来事だったのではないかと思われるほど、手をのばすとあやふやで形のないつかみどころのない記憶だった。
しかし、身体を洗う時に触れる自分の指が官能の記憶を呼び覚ます。新井に触れられた所に自分の指を這わす。こんなことをしている場合ではないと頭では分かっていても止めることができなかった。
忘れたくなくて、思い出したくて記憶にある刺激をたどる。自分で触れたことのないナカに指を入れる。そこは思っていた以上に湿っていて、それでいて熱かった。奥の方が疼く。指をさらに奥へと進ませるが疼きの中心には届くことがなかった。
「いやぁ……」
あなたの指を感じたい。あなたの熱いモノを入れてほしい。
浴室の冷たいタイルに抱きつくように身体を寄せる。熱く火照った身体を冷やしてくれるが、それも一瞬だった。
どうしてこんなに求めているのに、あなたは目の前にいてくれないの。お願いだから、捨てないで──。
◇ ◇
シャワーに悲しい気持ちが流されたはずなのに、さらに切ない気持ちになってしまったのは身体の疼きをおさめることができなかったせい。
時間が経てばこの辛い気持ちを忘れさせてくれるのだろうか。
シャワーを浴びる前より重たい気持ちで食堂に出向き、用意してもらっていた食べ物を義務的に胃におさめる。半分ほどしか食べることができず、作ってくれた人に申し訳ないと思いつつも食事を終える。
新井を探すのならしっかり食べて体力を養わなくてはならないのは分かっていたけど、このまま見つけられなくて泣いて暮らしてもいいかもしれないと後ろ向きな考えも浮かんでくる。悲劇のヒロインになったつもりではないけど、新井を探すにしても情報がなさすぎる。
すっきりしない気持ちのまま父の書斎に赴く。ドアをノックすると入るように言われたので中に入る。書斎には父ひとり、疲れた顔をして応接セットのソファに腰をかけていた。
「ゆきはどうして自殺未遂なんて起こしたの?」
うみの悲痛な顔を見ているとそれ以上の追及はできなかったけれど、父にならと思いきって聞いてみる。
しかし、父は力なく首を横に振るだけだった。
「なにがあったのか、分からない。真相を知っているらしいうみは話してくれないし、肝心のゆきはずっと眠ったままだ」
眠ったまま。
「ゆきが自殺未遂をしたのは、いつのこと?」
問いかけに父はしばらく宙を見て考えている。
「そらが買われてから半年が経っているんだ」
半年。
「うみはそらがいなくなってから毎日、探していた」
小さい時、少しでも姿が見えなくなったら
「そら姉、どこ?」
と泣きながら探していたのを思い出した。あの子は、ひとりにされるのを極端に恐れていた。ここに父に連れてこられて、ゆきがここに来るまでうみの世界のすべてはわたしだった。
相変わらずゆるい下半身の持ち主だった父は、仕入れ先で訪れたどこかの港で知り合った女にゆきを産ませ、引き取ってきた。ゆきが来ることでうみの中の世界が変わった。白くて小さな存在に驚き、それからうみは大切にゆきを育てた。そう、まさしく育てた、と言っても過言ではないほど、愛情たっぷりこめてかいがいしくお世話をしていた。
そんなうみにゆきが懐くのも当たり前で、端から見ていてもほほえましいふたりに、見ていて心が温まった。
しかし、そんなふたりの関係も、ゆきが初潮を迎えたあたりから崩れ始めていたように思う。
ゆきとうみの年齢差は六つほどあり、ゆきは初潮を迎えたことで『オンナ』としての自覚を持ったような気がする。急にうみのことを意識し始め、年齢より大人びた表情を見せるようになった。その変化に戸惑ったのはうみで、少しずつ避け始めていたようだった。
母に捨てられたうみ。そのことをトラウマに思っているのは明らかで、しかしわたしに『母』を求めていた。そしてゆきの中の『オンナ』を見て母の嫌な部分を思い出していたようだ。
わたしがいなくなったことでふたりの微妙な関係が崩れたのだろう。
「あんなにゆきにべったりだったうみがそらを探して相手にしないから、毎日のように言い争っていた。『あたしとそら姉のどちらが大切なのよ』と怒鳴っているゆきの声を聞いたよ」
それではなんだかただの痴話げんかではないか。
「ゆきはそらがいなくなってからショックでしばらく口がきけなくなっていたのだが、内容はともかく、そうやってうみに対してはしゃべっていたから安心していたんだ──ところが」
やはり、繊細なゆきにはあの出来事はショックだったようだ。かわいそうなことをした。
「二か月ほど前だったか……うみが血相を変えてこの部屋に飛び込んできた」
二か月前と言われ、そんなに月日が経っているということに驚いた。
「ゆきが睡眠薬を大量に飲んだというからあわてて部屋にかけつけると、ベッドの上でぐったりと眠っているゆきと枕元には睡眠薬の入っていた空っぽの瓶が転がっていた」
あわてて救急車を呼び、胃の洗浄をしてもらったが飲んでからかなり時間が経っていたようでそれからずっと眠ったままだという。わたしが病室でゆきが眠っているのを見たのは、このせいだったのか。
「ゆきのところに連れて行って」
行ったところでゆきが目を覚ますとは思えなかったけど、ゆきをこの目で見て確かめたかった。父は無言で立ち上がり、ついてくるように合図をしてきた。父の後を追い、ついて行く。
父の運転でゆきがいるという病院に連れてきてもらった。父が行くままについて行き、ひとつの扉の前で立ち止まった。
「ここだよ」
呟くように言い、中に入るように促される。不安に思いつつ見上げると、
「ゆきを見るのはつらいから。申し訳ないがひとりで入ってもらえないか」
父は力なくそう呟き、ロビーへと向かった。仕方なく軽くノックをして中に入る。
二度ほど見た覚えのある部屋だった。
ゆきの枕元に立つ。いつもより白い顔をして横たわっているのを見ると涙が出そうになった。
細くて白い髪をなでる。繊細で人一倍傷つきやすいゆき。
あなたがここまで思いつめるなんて、それだけうみのこと、大好きなんだね。今のわたしならその気持ちが痛いほど分かる。
新井を探すことも重要だったけど、ゆきの方がもっと心配で、毎日病室へ通った。面会時間めいっぱい使って、ゆきの横に毎日座って待っていた。ゆきが起きて来るまで、と思って待つ間、本も雑誌もたくさん読んだ。
それでも、ゆきは起きてこなかった。
こうしてゆきが起きてくるのを待っている間に新井への想いが薄れたり消えたり断ち切れるかも、という期待を胸にしていたけれど、そう思っている間はやはり消えないのか、ますます想いは募るばかりだった。
ゆきも白い札で夢を見ながら想いを募らせているのだろうか。それだけ夢の世界は心地いいのだろうか──。
「ゆき、帰って来てよ……」
さすがにこれだけ長い間、毎日読書は飽きてきた。
気がついたら季節は移り変わり、冬も終わりを告げようとしていた。
ねぇ、ゆき。このままあなたはずっと夢の世界で生き続けるつもりなの? あなたはこの春、中学生になるはずでしょう?
お願いだから、起きて『現実』を生きて──。
ベッドにひたいをつけて祈るようにゆきの手を握りしめる。
そうしてわたしは気がついたら、そのまま眠ってしまったようだった。
「あなたも本当に困った人ですね」
聞き覚えのあるテノールの声で目が覚めた。
「ここは……?」
なにもない暗闇。だけどいつか時雨堂で見た、淡い黄色い光がふわふわと漂う世界。
「ここはゆきさんの夢の世界の片隅ですよ」
ゆきの……夢の中?
「あの男の側に長くいたからか、元々あなたがそういう素質を持っていたのか知りませんが、他人の夢に介在してくるとは……」
羽深は聞こえるか聞こえないかの声音で、困りましたね、と再度つぶやく。
「ねぇ、ここがゆきの夢の中なら」
「だめです。今すぐあなたは現実世界に戻りなさい」
羽深は間髪入れず、拒否の言葉を吐く。
「嫌だ。ゆきも連れて帰る!」
羽深の制止する声を無視して、闇雲に走る。そちらが正しい方向なのか、ゆきがいるのかなんて知らずに。
走っても走っても暗闇が広がっているばかり。ゆきは……こんなに暗い世界にいるのだろうか。
走り疲れて、足を止める。肩で息をする。体力がかなりなくなっていることを知る。
「残念ですが、たどり着けませんよ」
後ろからゆっくりと羽深が歩いてきた。
「ゆきさんはあなたのことを拒否しています」
羽深の楽しそうな声に首を振る。
「嘘よ」
ゆきのにっこりと微笑む顔しか思い出せず、首を振る。
「ゆきさんはあなたにうみさんを取られた……と思っていますよ」
取るだとか取らないだとか。
「うみもゆきも、わたしの大切な家族よ。──ゆきを返しなさいよ!」
羽深に近寄り、胸ぐらをつかむ。
「暴力的ですね」
そういいながらも涼しい顔をして見下ろしてくる。切れ長の茶色の瞳に小馬鹿にしたような色を感じて、にらみつける。
「ゆき、聞こえているんでしょう? 夢の世界であなたは幸せかもしれないけど、うみも悲しんでいる。あなたは、自分ひとりが幸せなら──それでいいのっ!?」
羽深はわたしに白い札を渡すときに言った。
『理想の世界にいざなってくれる』──と。
だけどそんなまがい物、理想でもなんでもない。逃げたってなにも始まらないのだ。
「ゆき、帰ろうよ! うみも待ってるよ」
だけどその声は、暗闇にむなしく消えていくだけ。
「無駄ですよ。ゆきさんは今、とても幸せなんですから」
「なにが幸せよ! 自分の妄想が夢の世界で実現したって、むなしいだけじゃないのっ!」
「それは、あなたが強いから……そう言えるのですよ」
黒ぶち眼鏡の奥の茶色の瞳は怜悧に光っている。
「強くなんてないわよっ!」
ふっと目の前の羽深がぶれて見える。
「おや。だれかが現実世界であなたのことを起こしているみたいですね。お帰りなさい、そらさん」
待ちなさいよ、と口を開こうとした瞬間。目の前にいたはずの羽深は消え、ずるり、と嫌な感触がしてどこかに引っ張られる感覚がした。