◇ ◇
「そら、起きろ!」
懐かしいバリトンに、ぼんやりとした頭がはっきりとする。
「りくっ!?」
ありえない声に驚き、飛び起きた。
「久しぶりだな。……なんだか気のせいか、昔より一層きれいになったな」
二年ぶりに見るりくは、記憶の中よりがっしりとしていた。
二年前。大学卒業と同時に家を出て行ったりく。黒髪だった髪は染められて黒茶色にはなっていたけれど、焦げ茶の優しい瞳は変わりなかった。あまりにも懐かしすぎて、自分がりくとどう接していたのか思い出せない。
「俺がいない間に恋でもしたか?」
いたずら坊主のような光を宿し、りくはわたしを見ている。
恋なのか──そう問われると、微妙に返答に困る。新井のことが好きだ、という自覚はある。でもこれは、恋、なんだろうか。
「恋、なのかな……?」
りくに父が事業に失敗したこと、そして借金のかたにわたしが買われて行ったことを話した。
「これが恋だと言える?」
りくは少し複雑な表情をしてから口を開いた。
「──ストックホルム症候群、だな」
「ストックホルム症候群?」
そう言われてふと、つい最近読んだ小説だったかなにかの記事だったかを思い出した。
犯人と犯罪被害者が時間や場所を共有することで同情、好意を持つようになるという精神医学用語のひとつ。その時はそうなのか、としか思わなかったけど。
「だけど……わたしが最近その言葉を見た小説には、保護された主人公は犯人を憎悪して探し出して復讐をする、という内容だった」
「逆に犯人をかばったり、犯人と一緒に犯罪を犯したケースもある」
それでは、この気持ちは……後者のケースなのだろうか。りくに指摘され、少し冷静な気持ちでこの感情に向き合えるような気がしてきた。
「そらはその買って行った男に同情したか?」
同情。
新井の瞳に見えた悲しみを消すことができたら、と思ったのは同情なんだろうか。悲しみの光を知ってから憎むことができなくなったのは確かだ。
「同情……なのかな? あの人の瞳の奥に見える悲しみを消してあげたいと思ったのは」
「俺はそらではないから分からないけど。客観的に見ると、ストックホルム症候群だと思われる」
そう。口の中で呟き、うつむく。
愛だの恋だのはやはり、勘違いなんだろうか。
りくにそう指摘されても新井に対する愛しさは変わることがない。それともこの気持ちは嘘の物なのだろうか。
「ゆきは……起きないのか」
絶対に戻らない、と言いきって家を出て行ったりくがここにいることを不思議に思う。
「もしかして、ゆきが心配で戻ってきた?」
「大切な妹が眠ったまま起きないと聞いて、じっとしていられるわけないだろう」
ああ、それでこそ、りくだな。そう思い、りくを見上げる。
「ゆきはね、夢の世界が心地よくて戻ってこれないみたいなの」
「夢の……世界?」
「そう。わたしが呼び掛けても、ゆきは戻ってきてくれない」
うみが呼び掛ければ戻って来てくれるような気がする。
ゆきは今、夢の世界で幸せかもしれない。だけど、現実のうみは?
ねえ、ゆき。あなたの大好きなうみは、あなたが眠り続けることでずっと苦悩することになるのよ。それでもあなたはいいの?
「ゆき、起きろ」
りくはゆきの身体をゆすっている。ゆきは死んでしまった人のようにりくの働きかけにも反応しない。身じろぎさえしない。
うみが呼び掛ければ、戻ってくるかもしれない。
りくが止めるのも聞かず、病室を飛び出して家まで戻る。
「うみ!」
うみの部屋をノックしてから扉を開け放つ。久しぶりに見るうみは、憔悴しきっているように見えた。
「うみ、ゆきに現実世界に戻ってくるように呼びかけて」
「そら姉」
うみはゆらり、と椅子から立ち上がりこちらに歩いてきた。
「ねぇ、うみ。ゆきとの間になにがあったの?」
父からはゆきが自殺未遂を起こした、という話は聞いたけど、原因は聞いていない。うみとゆきの間になにかがあったことしか分からない。今までのふたりの関係を知っているから推測はしたけど、それが正しいかどうか分からない。
「ゆきに告白された」
やはり。
「おれはどうすればいいのか分からなくて……ゆきを拒否してしまった」
ゆきの世界はうみがすべてだった。いつもおどおどと世界に接していたゆき。だけどうみの前だと自然なままでいられるようだった。そのうみに拒否されて……絶望してしまったのだろう。
ゆきの気持ちが痛いほど分かる。わたしも母に、新井に捨てられてしまった。
でも。死んでしまいたい、とは思わなかった。夢の世界に逃げてしまいたい、とも思わなかった。
羽深はわたしのことを『強い』とは言ったけど。
想う相手が『生きて』いるのなら、わたしは探し出して想いを伝えたい。ゆきも一度断られたくらいで絶望することないじゃない。
「うみはゆきのこと、どう思っているの?」
「好き……だけど。それがどういう『好き』なのかが分からなくてあの日からずっと悩んでいた」
うみはゆきが自殺未遂をはかった日からずっと、悩んでいたのだろう。
「ゆきのこと、好きなんでしょう? その好きがどの好きかなんて、どうでもいいじゃない。ゆきを『夢の世界』から呼び戻しましょうよ」
うみの手を取り、歩き出す。
「おれには無理だよ」
ぐい、と腕を引っ張られ、その勢いでうみに抱きしめられる。
「おれにはそら姉しかいない」
うみの腕の中にすっぽりと包まれ、新井との甘い記憶を呼び覚まさせられる。
もう忘れたと思っていたのに。昔より研ぎ澄まされたような気がして、身体の芯が甘いしびれに支配される。
こんなに忘れられないのに。これはりくが言っていた『ストックホルム症候群』のせいなの?
新井のことを考えると、甘さと切ない気持ちが心を支配する。これが愛でも恋でもないのなら、この感情になんと名前を付ければいいのだろうか。
「うみがわたしに対して持っている気持ちと同じものをゆきは持っていたんだと……わたしはそう思う」
うみははっとしたように顔をあげ、わたしを見つめる。
「うみのすべてはわたしだった。ゆきのすべてはうみだった」
うみはなにかを訴えるかのようにわたしを見つめている。
「そら姉……おれ」
「ねえ、うみ。わたしも自分の中の『好き』という気持ちがよく分からないの。感情というものはいくら考えても……分からないものじゃない?」
りくに『ストックホルム症候群』だと言われたけど、それでもいい、と思う。自分の中の新井に対する想いがそこから発生したものであっても。今ある気持ちは『愛している』ということ。きっかけがそうだったとしても、今抱えている気持ちが偽物だと思いたくない。
「うみはゆきが好き。──それでいいじゃない」
うみの『好き』とゆきの『好き』の形は違うかもしれないけど、今はそんなことは重要ではない。『好き』という気持ち。それが大切だと思う。
「わたしたちみんな、ゆきに戻ってきてほしいと思っている。その気持ちは違わないでしょう?」
うみはこくり、と大きくうなずく。
「じゃあ、ゆきに戻ってきてもらいましょう。──悩むのは、それからでも遅くないと思うよ」
出口の見えない迷路をさまようよりはまし、という程度かもしれない。憔悴して思い悩むうみを見ているのは辛くて。
「そら姉は、強いね」
うみはぽつりと羽深と同じことを呟く。
「強くなんかないよ。だけど、大好きなゆきと大好きなうみが苦しんでいる姿を見たくない……ただそれだけだよ」
小さく微笑む。
わたしは再度、うみの手を取る。うみは迷うことなくわたしの手を取り歩き始める。
ゆき、待っていて。うみを連れて行くから。だから、夢の世界から戻ってきて。
ゆきの病室に戻ると、りくはゆきの手を両手でにぎりしめていた。その姿はなにかに祈っているようだった。
「長兄……」
うみはりくのことを長兄、と呼んでいる。びくりと身体を震わせ、病室の入口で立ち止まる。
「うみ、大きくなったな」
りくは立ちあがり、うみの近くまで歩いていく。
わたしとりくは四歳差、りくとうみは六歳差。りくはうみの父代わり、と言っても過言ではないほど家を出るまでかわいがっていた。
りくが家を出る時、うみは泣き叫んだ。
『おまえもおれを捨てるのか──!』
その叫び声が昨日のことのように思い出され、胸が痛む。
「……んでいまさら」
うみの押し殺したような声にハッとする。
「なんでおまえはいまさら、おれの前に現れるんだよっ! 帰れよ! ゆきに触るなよ!」
うみの魂の叫びを聞き、りくはひどく傷ついた瞳をする。
捨てたものと捨てられたもの。この時初めて、捨てたものの痛みを知った。
いつも捨てられる側だったわたし。捨てるものは平気でいると思っていた。
「そんな傷ついたかのような顔するなよっ! 捨てたヤツがなんで被害者面するんだよ──!」
うみは今にも泣きそうな顔をしてりくのところまで歩いていき、りくの腕を掴んで部屋から追い出そうとする。
りくのがっしりとした身体とうみの細い身体。明らかにりくの方が強そうなのにうみの気配に圧倒されてしまっているのか、りくはあっさりと部屋の外へ追い出されそうになっている。
「うみ、待ちなさい!」
部屋から追い出そうとするうみを制止する。
「りくはわたしたちを捨ててないわよ! ゆきがこうなったから戻ってきてくれたじゃない」
「捨てたことには変わりないだろうっ!?」
違う、とわたしは言えなかった。
そう、りくはわたしたちを捨てた。父に嫌気がさし、跡取りのはずだったのにすべてを捨てて、逃げた。
うみは家族だけど、父の血は引かない。だけどあの宇田川の家にはりくがいなくなればうみしか男がいない。あれだけ父はあちこちに子どもを作っておきながら、りくしか男がいなかったようなのだ。必然的にうみは跡取りにさせられた。思いがけない重責に、うみは戸惑い、いつしかりくのことを恨んでいたのかもしれない。
「おまえたちの元を離れて……家族の大切さが身にしみたよ」
りくはぽつり、と呟いた。
どこでどうやって暮らしていたのは知らないけれど、出て行ったころのなにも知らないおぼっちゃま然とした表情はなく、引きしまった世間を知っている男の顔をしていた。
「うみ、あなたがりくに対していろんな恨みがあるのは分かる。だけど──こうして帰ってきてくれたじゃない。それでいいとわたしは思うけど、甘いかな?」
「そら姉は甘すぎる!」
許さない、というのはなんと楽なことなんだろう。
受け入れるより拒否する方が簡単なことなのかもしれない。受け入れる、というのは新しい価値観を自分の中に取り入れることに似ているのかもしれない。
新しいものを受け入れる、というのは自分の築いた城を下手すると根底から壊すということにもなりかねない。
今のうみはまさしくそうで、りくが戻ってきたことで今まで必死になって築いてきた『なにか』を壊してしまうことになるのかもしれない。
「いくら謝ったところで俺の取った行動は許されるものではない……。だけど、うみ。もしも少しでも許してくれるのなら、もう一度、家族として受け入れてくれないか」
二年という月日が長いのか短いのか分からない。
だけど、りくにとってはきっと毎日後悔するほど長い月日だったのがその顔のしわからうかがい知ることができる。
りくをよく見ると、顔だけではなくあんなに細くて白くて美しかった手ががさがさになり、手の甲には傷がようやく癒えたのではないかと思われるほど生々しい傷跡が残っている。
「勢いで家を出たことをずっと後悔していた。うみを捨ててきたことに対して、毎日懺悔していた」
うみはあり得ない、という表情でずっと首を振っている。
「うみ」
本当はうれしいのに素直になれないうみにどう声をかけていいのか分からない。名前を呼んだけど、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「出て行けっ!」
うみのその一言にりくはうなだれ、部屋を出て行こうとした。
「待って! りく、行かないで」
せっかくこうして戻ってきてくれたのに、またりくがいなくなるのは耐えられない。だれひとり、わたしの元から去っていかないでほしい。
「うみ、やめて。りくがまたいなくなったら、あなたはまた、傷つくわ」
うみはゆっくりとわたしを見る。
「もうわたしの前からだれかが消えて行くのなんて、耐えられない」
最初から存在しなかったのではないか、と思われるほど痕跡を消してしまった新井。
あれほど側にいたのに。ひとつにつながっていたというのに。なんで今はこんなに遠く離れてしまっているのだろう。
「お願いだから、消えないで──」
急に消えてしまった新井を濃厚に思い出してしまい、胸がきゅっと詰まって涙があふれてくる。
「もうこんな思い、したくない」
どうして新井のことを考えると、こんなに切なくなって涙があふれてくるのだろう。
この気持ちは、偽りの気持ちなんだろうか。
「そらは……辛い恋をしているんだね」
出て行こうとしていたりくはわたしの元へ来て、そっと抱きしめてくれる。そして伽羅色の髪をやさしくなでてくれる。りくのぬくもりを感じて、少し気持ちが落ち着いてくる。
「りく、もういなくならないよね──?」
泣きぬれた瞳のまま、りくを見上げる。焦げ茶の瞳は昔と変わらないやさしい光が宿っていた。
「うみ──」
うみを見るとぎゅっと眉根を寄せ、苦しそうにうつむいている。
「……わかったよっ! そら姉がそれほど言うのなら──」
本当はうれしいのに素直に喜びを表せないうみにくすりと笑い、
「ありがとう、うみ」
わたしのお礼の言葉にうみはむっと顔をしかめ、困ったように視線をそらす。
きっと、わたしよりうみの方が救われたはず。りくが帰ってきたことでその細い両肩に乗っていた重い荷物を下ろすことができるはずだから。
うみはそのままゆきの枕元に歩いていき、ゆきの顔を覗き込む。
「ゆき、起きろよ」
青白い顔。
固く閉じられた瞳。
うっすらと開かれた血の気の引いた唇。
わたしはりくに抱きしめられたまま、うみとゆきの様子を見守る。
「ゆき……ごめん。おまえのことを拒否して。好きと言われて、おれ……」
うみはそっとゆきの頬に手を添える。壊れものを扱うかのようにそっとやさしく。
「ゆき」
うみの小さな囁き。
「戻ってこいよ」
ぴくり、とゆきのまつげが動いたような気がした。
「ゆき、戻ってこいよっ!」
その言葉と同時にうみの瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれる。きっと拒否したことへの後悔の思いが詰まっている。その涙はゆきの顔を濡らしていく。
わたしが呼び掛けてもりくが起こしてもまったく身じろぎしなかったゆきが、うみの涙に再度、まつげを揺らし、ゆっくりと瞳を開けた。
ぎゅっと強く瞳を閉じてぽろぽろと涙をこぼして泣いているうみは気がつかない。
「う……み……?」
ぽたぽたと顔を濡らす涙に戸惑った表情を見せているゆきは、目の前で泣いているうみの頬にやさしく触れる。
「……ゆき?」
頬にゆきの指を感じたうみは驚いた表情で瞳をあけ、ゆきを見つめる。
「うみ……ごめんなさい」
小さな呟きに、うみは瞳を大きく見開く。
「心配掛けて、ごめんなさい」
ああ、ゆきは戻ってきてくれた。
わたしは安堵して、りくとともに病室を出た。
「りく、家に戻るでしょう?」
ゆきも夢の世界から戻ってきた。りくも戻ってきてくれた。わたしの大切な人は、ひとり残してみんな戻ってきた。
そしてわたしは気がつく。
まったく手がかりのない新井を探すことを諦めて泣き暮らすより、小さな手がかりを元に探せばいいのだと。
探しても見つからないかもしれない。見つけ出しても自分のほしい答えが返ってこないかもしれない。それでも──……一目でいいから新井に逢いたい。
また捨てられるかもしれない。そんな恐怖もあるけど。それでもいい。
今のわたしは一目でいいから逢いたい。
「すぐには戻れないけど、片をつけたらおまえたちのところに戻るよ」
りくの穏やかな表情を見て、安堵する。
「りく、探すよ。見つけてもほしい答えをもらえないかもしれないけど」
手がかりなんてなにもない。見つかる保証もない。だけどなにもしないで嘆き悲しむのは駄目だ。
りくが見せた捨てたものの傷ついた瞳を思い出す。
もしかしたら、新井はわたしの知らないところで同じ瞳をしているかもしれない。そうじゃない、わたしはあなたに捨てられていない、と一言言いたかった。悲しみの光も消してあげたいと思ったけど、それよりもわたしのために傷ついた瞳をしないでほしい。
この想いが偽りのものでもいい。だけど今は、こんなにも自分の心は新井を求めている。
「そらにとって辛い思いになるかもしれないぞ」
「それでもいいの。一言、あの人に言いたいの」
『愛してる』とただ一言。見返りを求めるかもしれないけど、気持ちのままに、求めるままに。
「羽深しぐれ、出てきなさいよっ!」
わたしは宙に叫ぶ。
当たり前だけで羽深はわたしの前に現れない。だけどふと風が、
『本当に──あなたは困った人だ』
という羽深の声を届けてきた。
「そらは、強いな──」
「そうよっ! 恋する乙女は強いのよ!」
待ってなさい、新井! 絶対にあなたを見つけてみせるから──。
上を見上げると、わたしの瞳と同じ色の空が広がっていた。
春はもう、そこまで近づいてきているようだった。
【
「そら」
おわり】