◇ ◇
黄色い光は少しずつ収束した。恐る恐る目を開けると、そこは病室のようだった。ベッドの上を見ると、何か月かぶりに見る妹のゆきが青白い顔のまま、眠っていた。
ゆっくりと近づき、左手をそっと枕の下に入れる。そして同じようにゆっくりと手を引き抜く。
手のひらに張り付いていたはずの白い札は、どうやら枕の下におさまったようだ。枕の下に白い札があるかどうか確認して、病室を出る。
すると、なぜかそこはずっと閉じ込められている部屋だった。
不思議に思いつつ、新井の眠る横へするりと滑り込み、眠りについた。
◇ ◇
肩に痛みを感じて目が覚めた。
ふと見ると、そこにはいつも見ている栗色の頭があった。新井はわたしの肩にかみついていた。じわり、とにぶい痛みがそこから身体中に広がり、なぜかそれは甘いしびれへと変わっていく。
「別の男の匂いがする」
その言葉にどきり、とする。
「嫌なにおいだ。……あいつのところにいたのか」
瞳の奥にいつも見える暗い炎の代わりに別の色が見えて、どきりとする。この人は……思っているよりさみしがり屋なのかもしれない。
そのことに気がつき、わたしの心の中でなにかが音を立てた。
ずっとずっと、憎しみの気持ちしかなかった。お金でわたしを買って、思うがままに欲望を吐き続けるこの人に、憎しみの気持ちしか抱けなかった。そして繰り返し与えられる甘い刺激にあらがうことができず、自己嫌悪にも陥っていた。逃げられない自分が……嫌だった。逃げたいのに新井にくわえられる甘い刺激が嫌ではなく、さらにそれを欲する自分が自分でなくなっていくようで怖かった。
逃げられない状況にしているこの男が、心底憎かった。
そして、けがれを知らない繊細な妹にまで歯牙を掛けようとしたこの男に対して殺してしまいたいほどの憎悪の気持ちを抱いても、それは仕方がなかった。殺してしまえばわたしは楽になる。だけど殺すと……もうこの甘美な刺激を受けることができなくなる。
殺したいほどの憎しみを抱きながらそれから逃れることのできない自分。
心が引き裂かれそうだった。
新井は暗い炎に嫉妬とともに今まで見たことのないやさしい光を宿してわたしをただ欲望のままに抱く。
「やぁ……」
自分の口から出た拒否の言葉さえ甘く、嫌になる。言葉をふさぐように唇を重ねられ、舌を絡めとられる。いつもと違うやさしいその刺激にわたしは戸惑う。
急にやさしくしないで。
憎めなくなってしまうじゃない。
わたしの気持ちを知っているのか、憎しみのこもった表情とは裏腹に、その行為は今までとは違い、やさしい。
どちらが本心なのか分からず、混乱する。
そんなにやさしく抱かないで。いつものように、わたしを物のように扱って。
そうしないとわたし──。
自分の中に浮かんできた甘ったるい気持ちを振り払うように頭を振り、新井を挑むようににらむ。
「そう、その瞳だ。空色の瞳に憎しみをこめろ」
瞳の奥に悲しさを見つけて、気持ちが揺らぐ。
どうすればよいのか分からず、新井から与えられる刺激に身をゆだねた。
◇ ◇
それからぱったりと新井はわたしに触れなくなった。触れないばかりか、姿さえ現さない。
あまりの変貌ぶりに気が狂いそうになった。
どうして──?
今まであんなにずっと側にいたのに。
──捨てられた。
その考えにいたり、絶望の淵に立たされていた。
ううん、喜ばしいことじゃない。あんなに嫌がっていたじゃないの、あいつに抱かれることを。ようやく解放されたのよ。喜びなさいよ。
自分にそう言い聞かせるけれど、心も身体もいつの間にか新井のことを欲している。
あんなに憎んでいたのに。側にいることに吐き気さえもしていたのに。
今は逆に、側にいないことに不安に思い、息をするのも苦しい。
「────っ!」
だれもいない部屋で言葉にならない声を上げる。
鉄格子のかかった窓に手をかけ、ここを開けろと叫ぶ。
だけど……その声は、だれにも届かない。
食事だけは一日三回、規則正しく届けられる。食欲なんてない。食べることを拒否したら、あの人は心配して来てくれるだろうか。
出される食事を拒否していたら……五日目の朝、ようやくあの人は来てくれた。
久しぶりに見る新井は、少し疲れた顔をしていたものの、変わりはなかった。
「食べろ」
命令口調に首を振る。
新井は乱暴に腕をつかみ、無理やり椅子に座らせる。そして強引に口を開けられると口移しで食べ物を口に入れられた。
ひとりの時はあんなに砂のようにざらざらとした触感しかなかったものたちが、甘くて美味しく感じられる。
親鳥が子どもに餌を与えるように新井はわたしに食べさせる。相当お腹がすいていたようで、むさぼるように与えられる食事を食べた。
すべてを食べ終えたのを確認すると新井はそのまま部屋を出て行こうとする。無意識のうちに新井の腕をつかんでいた。
「嫌だ……、置いて行かないで」
気がついたら自分の口からそんな言葉が出ていた。みっともない、取りすがるだなんて。
気持ちとは裏腹に新井の着ているジャケットを脱がし、シャツのボタンに指をかける。乱暴に取り払われ、その反動で床に座り込む。
「オレにすがりつくおまえなど、要らない」
暗い炎を宿した瞳でさげすまされる。わたしの瞳に知らず知らずのうちに涙があふれる。
「嘘よ! 前のように……」
冷たい視線に見上げていたわたしの顔はうつむく。その様子を見ていた新井は無言で部屋を出て行く。
もしかして、あいつの興味は妹に……?
その考えを否定したくて首を振る。
そんなことはない、ゆきは病院のベッドで今もあの白い札がもたらす深い眠りについているはずだ。いくらあいつがひどい奴だからってずっと寝たままのゆきに手を出すはずはない。
「羽深しぐれ! 出てきなさいよ!」
黒髪のあの男に会えば分かるような気がしたから部屋の外にまで響き渡るほどの大声を張り上げた。
「どうせわたしのことを見てあざ笑ってるんでしょう!? 出てきなさいよ!」
大声をあげて部屋の中の扉という扉を片っ端から開けていった。それでも……羽深は現れなかった。
「なんなのよ、ひきょう者……! 自分の都合で現れて」
探すことに疲れて部屋の真ん中に座り込んだ。
フローリングが素足に冷たく返す。
「出てきなさいよ……」
久しぶりに動き回ったことで息があがり、ずるずるとそのまま倒れこんだ。
◇ ◇
唇に柔らかな感触を感じ、ぬるりと唇を割って入りこんでくる舌に無意識のうちに応える。久しぶりの甘い感触と身体の芯から痺れるような疼きに思わず首に腕を巻きつける。
うっすらと瞳を開けるとそこにはつい最近まで見るのも嫌だった茶色の瞳を見つけ、安堵する。
あんなに憎んでいたのに。今はどうしてこの人のことを少しでも思うと胸が苦しく、締めつけられるような気持ちになるのだろう。なんとなく甘酸っぱい気持ちがいっぱいになる。
久しぶりの感触に期待からか、下着がぐっしょりと冷たく感じるほどの甘い蜜を吐いている。新井もそのことに気がつき、いつもの意地悪な表情で見る。その視線にますます感じてしまう。
この人なしでは生きていけないのかもしれない。
殺したいほど憎んでいたのに。憎しみはこんなに簡単に愛に変わるものなのだろうか。
熱い塊に貫かれ、息も絶え絶えになる。このまま身体を引き裂かれ、絶頂のまま死にゆくのもいいかもしれない。
前と変わらぬまま何度も何度も抱かれ、貫かれ、吐き出され……そのまま久しぶりに深い眠りに就くことができた。
◇ ◇
夜中にふと、不安になって目が覚めた。
寝返りを打つといつものようにそこには新井がわたしに背を向けるようにして穏やかな寝息を立てて眠っていた。その背中が愛おしくて、わたしはするりと抱きつく。
「う……ん、あやね……」
その寝言に、心は一瞬にして凍る。
だれ。
そんなに切なそうに、愛おしそうに、大切そうに……わたし以外の女の名前を呼ばないで。
嫉妬の炎に身を焦がされ、そのまま一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
眠れずにただ新井の横に身体を横たえていた。朝を迎えたけれどカーテンが引かれているために薄暗い中、じっと身じろぎせず新井を見つめる。
背中を向けていた新井は寝返りを打ち、こちらに顔を向ける。
警戒心ゼロの寝顔にどきりとする。
まぶたを閉じているから当たり前だけど、起きている時の暗い炎が見えなくてなぜか不安な気持ちになる。このまま、この人が瞳を開かなかったら……。
馬鹿な考えに自分を笑う。
この人はわたしなんてどうでもいいのよ。身体だけが必要なのよ。だから……飽きたから、わたしの元から去って行った。
ではなぜ、急に戻ってきたの? ただの気まぐれ?
昨日のことを思い出すだけで身体の奥からじわりと疼く。
以前はあんなに乱暴だったのに、この間、羽深に会ってから急にやさしくなった。
口や表情は相変わらず冷たいけれど、その手はやさしく気持ちがよかった。
身じろぎして、ようやく新井は目を覚ます。わたしの視線を感じて目を細める。
「ずっと起きていたのか?」
質問にこくりとうなずく。
「馬鹿だな」
ふっと笑ったその顔が切なくて、抱きついていた。新井は困ったような表情でわたしを離し、起き上がる。そして、無情な言葉を言い放った。
「もうおまえは要らない。帰れ」
視線をそらし、それだけ伝えると新井はベッドからするりと降りて部屋を出て行った。
要らない。
はっきりとそう言われた。瞳から涙があふれてきた。捨てられた……。
あの日と同じだ。
思い出さないようにかぎをかけて胸の奥にしまっておいた
「あの日」
。
◇ ◇
わたしとうみは、もともと母の生まれ故郷である国で生活していた。そこがどこの国だったのか、まだ小さかったので正確には覚えていない。海辺の小さな村だった、ということは覚えている。
年に何度か大きな船がなにかを買い付けに来ていた。その船の持ち主は、わたしの父だった。
母もわたしとうみと同じ伽羅色の髪に海の青さを映したかのようなきらめく青い瞳をしていた。海の青さと周りの建物の白さの中、どこからか抜け出たような存在感たっぷりな人だった。
父がそんな母を見初めたのは自然の成り行きのようだった。父が滞在している間、何度か肌を合わせたのだろう。仕入れが終わり、帰って行ったあとに妊娠に気がついたという。
そして再び仕入れにやってきた父に母は妊娠したことを告げると、ぜひとも産んでくれ、と言われたらしい。いくばくか生活費を渡され、断ることができなかったらしい。おろす気でいた、と青い瞳に冷たい色を乗せてわたしを見つめていた。
父は仕入れに来る度に母にお金を手渡した。そして、出産にきちんと立ち会ってくれたらしい。わたしの名前をつけたのは父だと、憎々しい表情をして母はわたしに告げた。
どうして──そんな顔で見るのだろう。
わたしが産まれて二年ほどして、母はまた妊娠した。訪れなくなってきた父の代わりに肌恋しくて通りすがりの一夜の関係を結んだどこのだれか知らない男の子を、母は父に当てつけのように産んだ。父は養育費を母の銀行の口座にきちんと払いこんでくれていたらしい。
わたしが五つになった時、父は久しぶりに母の前に現れた。
そして、わたしとうみは、父の生まれ故郷である日本にやってくることとなった。女手一人で育てることに疲れ切っていた母は父がわたしたちふたりを引き取ることを知り、にこやかに笑って承諾した。
『あなたたちはもう要らないの』
そういってすがすがしく晴れ晴れとした表情でわたしたちを見送った母。
捨てられた──。
厄介払いをできた母はにこやかにわたしが見たことのない男と船を見送っていた。
母も……さみしい人だったのだ。だけどどうしても『捨てられた』思いはわたしの心に深く傷を残していた。