【まこと】~理想の世界~(後編)


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   ◇   ◇

 卒業式が終わり、ボクは久保に廃屋に無理矢理連れて行かれた。そこには、久保の兄と不良仲間が待っていた。
『な、なんだよ!?』
 久保がボクの脱・童貞計画を練ってくれている、と言ったからボクはついて行ったのに……。
『俺、童貞の男をヤッてみたかったんだよな』
 不良仲間のリーダー格の男がにやにやしながらボクに近寄ってくる。身の危険を感じて後ずさりして、くるりと背を向けて走り出そうとした。が、久保がボクより一瞬早く、腕を捕まえる。
『やめろ!』
 ボクは叫ぶが久保はにやにやしたまま腕に力を込める。ボクは腕の痛みに顔をしかめる。
『俺たちがかわいがってやるぜ』
 久保はボクを羽交い絞めにして、不良仲間たちはにやにやしながらボクに近づいてきた。
 思い出したくもない過去を思い出し、ボクは少し憂鬱になる。
 それから不良仲間たちに無理矢理制服を脱がされ、身体を弄ばれた。
 なにが脱・童貞だ!
 散々いじられ、ボロ雑巾のように廃屋に捨てられた。痛む身体を抱えてボクは……必死になって家に帰った。
 家にたどり着くと、帰ってこないボクに父と母は警察に届けてまで探していたようだ。その時まで親を心配させるのはよくないのは分かっていたので、遅くなる時は必ず連絡を入れていたのだ。そのボクが連絡もなく、こんな夜中までうろうろしていたのだ。
 そして、こんなにボロボロになって帰ってきた。
 父は憤り、母は泣きだし……なにも語らないボクに父は殴った。その父のビンタに、ボクは切れた。
 なんだって言うんだ、ボクがなにをした!?
 そんなことを叫びながら、ボクは狼狽する父と母を力の限り殴りつけた。
 深夜のマンションに響くボクの怒声。
 遠くから徐々に近づくサイレンの音。
 警察官が駆けつけてきても、荒れ狂う自分の心をどうすることもできず、暴力を止めることもできなかった。
 ボクのどこにこんな激情と力が眠っていたのだろう。
 警察官三人に羽交い絞めされてもさらにボクは暴れ狂った。
 ボクの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、それでもボクは力の限り暴れた。
 みぞおちを殴られ、ボクはそこで一度、意識を手離した。

 それからだ。ボクが家に引きこもるようになったのは。

 遅すぎた反抗期。

 せっかく決まっていた大学も通うことをせず、外に出るのが怖くなったボクは……家に引きこもった。
 父と母は最初は説得していたけど、そのたびにわき上がるこの暴力的な激情をどうすることもできず……力の限りボクは暴れ狂った。そしてそのうち、父も母もボクを諦めた。妹もボクから離れて行った。

   ◇   ◇

 だけどボクは、この『事件』に遭遇しなかったのだ。ボクは生まれ変わる。そう心に決めて、ボクはベッドにもぐりこんだ。
 右肩の痛みが治まったころから、ボクは少しずつ運動を始めた。最初の頃はそれこそランニング、と言ってマンションを一周するだけでへとへとになっていた。
 だけどあの最低な『事件』のことを思ったら、あの悔しさや哀しさ、憎しみの気持ちを持つことよりこの走って息が上がる苦しさなんて一時的なこと。永遠に続く苦しさより、一瞬の苦しさの方が楽なのを、ボクは知っていた。
 ランニングで少し体力がついてきたら、今度はスイミングスクールに通うことにした。
 そうして始まった大学生活。大学は……ボクが想像していた以上に楽しかった。勉強ももちろん、友だちやサークル活動も楽しかった。
 そして、ボクはアルバイトを始めた。

「はじめまして、今日からアルバイトさせていただく野村まことです、よろしくお願いします」

 アルバイト初日。同じアルバイト仲間の前でボクはそうあいさつをした。ふとアルバイト仲間になる人たちを見る。
 あ……。
 この間、あの栗色の髪の男と一緒にいた少女を見つけた。向こうもボクに気がついたようで、少し頬を赤らめていた。
 やばい……まだあのことを覚えているのか? 恥ずかしかった。

 優しい先輩に仕事を教えてもらい、仕事の楽しみも覚えた。アルバイトの人たちはみんな優しくていい人ばかりで、そしてとてもみんな仲良し。
 仕事が終わったらみんなで食事に行く、というのは日常茶飯事。アルバイトの後の交流が楽しくてアルバイトして稼いでいるんじゃないか、と思うこともあったけど、ボクはそれでいい、と思った。特に目的があってお金をためているわけではない。
 こうして日々を過ごすことにも意味があることを知ったボクは、うれしかった。
 家にこもっていたら得られない、この充実感。
 そしてボクは……今までの人生がうそのように、もて始めていた。

「あの……つ、付き合ってください!」

 呼び出されて、こう告白されるのが日常茶飯事。みんなかわいい女の子ばかり。
 ボクは最初、どうしちゃったんだろうと浮かれていたけど……こうも毎日続くと、さすがにマヒしてきた。
 いまいちボクはまだ自分に自信が持てなくて、申し訳ないけどと断った。もちろん、そうやって告白しようとする勇気がどれだけ必要か知っていたから、ボクは敬意をあらわして、できるだけ傷つけないように断った。
 断ること自体が傷つけるのにね。ボクはなんて身勝手なんだろう。
 だけど……ボクの心にはひとりの人が住んでいたから。
 ボクは臆病で勇気がないから、彼女たちのように告白することができないでいた。
 告白してくれる彼女たちはボクが断るのを知っていながら、どうして告白してくるんだろう。
 ボクが断るとやっぱりね、というすがすがしい表情をして、みんな去っていく。
『みんなのアイドルまことくんだね』
 といつもつるんでいるやつに言われたけど……。ボクはそんな大した男ではない。ボクはすごく複雑な気分だった。

   ◇   ◇

 大学も三年になり、就職活動も視野に入れなくては、と思っていた。
 アルバイトも少し日にちを減らして……。と思っていたある日。
 ボクはたまたま栗色の髪の男と一緒にいた少女……名前は中島みゆきっていうらしい……と帰りがたまたま一緒になった。

「あの……肩、大丈夫でした?」

 肩? ボクは記憶をたどる。ああ、ずいぶん前の話だな、とボクはようやく思い出す。

「三年も前の話を覚えてるなんて、中島さん、すごい記憶力いいね」
「いえ……ずっと気になっていたんです。兄が……兄と言っても義兄なんですけど……ぶつかっておいて謝らないから」

 栗色の髪の男をボクは思い出していた。言われてみれば、確かにまったく似ていない。義兄と言われて納得した。なぜだかものすごくほっとした。
 ボクと中島さんはなりゆき上、一緒に夕食を食べて帰ることになった。
 なんとなくいつも行くお店に行くのが恥ずかしくて、別の中島さんおすすめのお店に行くことにする。おしゃれなお店に少し尻ごみしたものの、店内に入って席に座るととても落ち着く居心地のいい空間だった。
 中島さんとは食事をしながら他愛のないおしゃべりをして、ボクは彼女のことを知って、惹かれて行く自分に気がついた。
 彼女と話をしていると、とても落ち着く自分がいる。彼女の側にいると、とても心が安らぐ。
 その日を境に、ボクと中島さんはたまに食事に行く仲になっていた。
 彼女はボクの二つ下で、大学一年生。大学は違ったけれど、結構近いことを知る。家も聞くとどうやら近くのようで、あそこで出会ったのも、うなずける。
 就職活動に行き詰った時、中島さんに思わずぽろり、と愚痴が出た。

「野村さん、真面目ですよね。たまには息を抜いてみたらどうですか?」

 中島さんはにこにこしながらそうアドバイスしてくれた。
 就職活動で疎遠になっていたスイミングスクールに久しぶりに顔を出してみよう、と思ったのは、彼女のそんなアドバイスのおかげかもしれない。久しぶりに顔を出したスイミングスクールには、なぜか久保と大塚がいた。ボクはここで避けても仕方がない、と思いきって声をかけた。

「よ、久しぶり」

 高校卒業以来に見るふたりは、大学生になって少し垢ぬけた部分はあったけれど、驚くほど変わらなかった。

「おまえ、だれだ?」

 大塚の言葉に、ボクは驚く。

「野村だよ、野村まこと」

 大塚と久保は軽く悩んで、ああ、と同時に声をあげる。

「まことか!? すっかり変わってびっくりした!」

 ボクはそんなに変わったんだろうか?

「おまえ、かっこよくなったなぁ。女がほっとかないだろう?」

 久保はにやにやと笑っている。

「まこと、卒業式のあとにすぐに帰ったな? せっかく面白いことを用意しておいてやったのに」

 そう言われてボクはぞくり、と背中に冷たいものが伝った。
 しまった……! 声をかけたのは失敗だったか?

「そ、そうか。残念だったな」

 ボクは乾いた笑いをあげ、その場を逃げるように去った。危ない……。

 とそこへ、頭の中に急に見知らぬ映像が飛び込んできた。
 ……これは!?
 先ほど見た風景が見える。
 だけどボクは、大塚と久保を見かけて声をかけなかった。
 そして場面は転換して、今度は急に見覚えのない風景が目の前に見えた。
 大塚と久保が目の前に立っている、その後ろに……久保の兄と不良グループがいる。
 もしかして……!?
 これは、ボクがあのふたりに声をかけなかったときの未来が見えるのか?


「またおまえか」

 急に声をかけられ、ボクはびくり、と身体を震わせた。
 この声は……?
 ボクはその場に座り込んでいて、指先が痛いほど冷えていた。顔をあげると、栗色の髪の男が立っていた。

「あそこで声をかけて、命拾いしたな。ああ、あと……みゆきには手を出すなよ」

 みゆき……?
 ボクは一瞬、だれのことか分からなかった。ようやくだれのことか思い出した。中島さんか。

「おまえに指図されるいわれはない」

 栗色の髪の男は唇を嘲笑の形にゆがめ、そのまま立ち去った。
 ボクは冷えた身体を温めるため、シャワーを浴びに行った。

 ボクはそれから、スイミングスクールをやめた。こうすることが正しいことのように思えたからだ。

 就職活動は厳しかったけれど、ボクはどうにか内定をもらうことができた。あとは授業に出て、無事に卒業しなくてはならない。
 そしてボクは、空いた時間は就職活動で自粛していた分を取り返すように積極的にアルバイトした。偶然なのかはたまた違う理由なのか、中島さんとシフトがよく重なった。終わる時間も同じことが多くて、そうなると必然的に一緒に帰ることが多くなる。帰る方向が一緒、というのはなんともいいものだ。
 食事を一緒にして、ボクは中島さんの家の前までいつも送る。
 たまに心配したかのように栗色の髪の男が家の前で待っていることがあったけど、中島さんの笑顔を思えばそれは些細なことだった。
 そしてボクは、アルバイト最終日を迎えた。
 大学四年間、とても充実していた。
 ボクの他にも何人か今日でアルバイトを辞める人がいたので、お疲れ会をすることになった。
 いつものお店でいつものメンバーでわいわいと騒ぐ。名残惜しみつつ、明日があるので早めに切り上げる。
 ボクはいつものように中島さんと一緒に帰る。
 駅に着くと、中島さんは急に無言になった。

「中島さん?」

 電車から降りてもなかなか歩き出そうとしないでうつむく中島さんにボクは心配になり、声をかけた。

「野村さん」

 人のざわめきの中、中島さんの声が妙にボクの耳に響いた。

「わたし……野村さんのこと、好きです」

 中島さんはボクをまっすぐに見つめている。
 どくん、と心臓が大きく鼓動して、どくどくどくどく…と急に早鐘を打ち始めた。ボクも中島さんを見つめる。
 ボクたちの間に、妙な空気が流れる。
 中島さんが……ボクのこと、好き?
 そんな馬鹿な。
 中島さんはボクのこと、友だちのひとりとしてしか見ていない……はずだ。
 たまに一緒に食事をするけど、一緒に帰ることもあるけど、それはたまたま……ボクと中島さんの家が近いからであって……。
 大学に入ってから告白されることに慣れていたはずのボクだけど、中島さんの言葉はあまりにも急すぎて、ボクの思考は停止した。

「あ、あの! め、迷惑ですよね、いきなりわたしからこんなこと言われたら」

 中島さんはボクの顔を見て少し泣きそうな表情で謝っている。

「か、帰りましょう!」

 中島さんはくるりとボクに背を向けて歩き出そうとした。ボクはとっさに中島さんの手をつかんでいた。

「野村さん?」
「中島さん……」

 ボクはようやくそれだけ言うのが精いっぱいだった。
 今までボクに告白してきてくれた人たちは、なんて勇気にあふれた人たちだったんだろう。
 ボクはドキドキバクバクする心臓がうるさくて、喉もからからになってそれ以上、声を出すことができなかった。
 息ができなくて、ボクは空気を求めて水面に浮かんでくる鯉か金魚のように口をパクパクさせた。そんなボクを中島さんはじっと待ってくれている。
 息を整えて口を開こうとした瞬間、中島さんの後ろに、あの栗色の髪の男が現れた。

「みゆき、遅いから迎えに来たぞ」

 ぐい、と男は中島さんをかなり強い力で引っ張った。

「お義兄ちゃん!」

 中島さんはものすごく嫌そうな顔をして、引っ張られた腕を振り払った。

「野村さんがいるから、迎えは要らないって言ったじゃない!」
「その男は、宛てにならない」

 男は鼻で笑うようにボクを見ながら中島さんに告げる。
 カーッとボクの身体の血液が熱くなり、気がついたら中島さんをつかんだ手をグイッと引き寄せ、自分の後ろに引き寄せていた。

「ボ、ボクが中島さんを守ります!」

 男はボクのいつにない強気な態度に右の口角をあげ、嗜虐的に瞳を細めてボクと中島さんを見ている。ボクは男を睨みつけながら背後に中島さんを隠して、改札に向かった。改札を出て、ボクは中島さんの腕を掴んで歩き出した。
 ボクたちは無言だった。中島さんの家の前に着いた。

「中島さん」

 ボクはようやく落ち着いた気持ちを胸に、中島さんの想いに答える。

「ボクも、中島さんのこと……好きです」

 想いを口にして、ボクは今までの気持ちがあふれ出る。
 そうだ。ボクは中島さんのことが好きだ。大好きなんだ。
 だからボクは、今まで告白してきてくれた女の子たちの想いに応えることができなかったんだ。だけどボクはそんな彼女たちとは違って臆病で勇気がなくて……。中島さんに想いを告げることができなかった。
 関係が壊れるくらいなら、ボクのこの気持ちが伝わらなくてもいい。
 それよりもボクの目の届く範囲で笑っている中島さんを見ることができれば……それで満足だったんだ。
 だけどそれも、今日で終わり。
 ボクは明日から就職して、今までと違う生活になる。
 中島さんはこれまでと同じ日々を過ごす。
 残されるものの悲しみ。
 残す側のボクには分からない痛みだ。
 なんでそこに気がつかなかったんだろう。
 また明日も変わらず会える、とそう信じていた。

「ボク、中島さんのこと、ずっと好きでした。ご、ごめんね、中島さんから告白させて」

 ボクの言葉に中島さんは信じられない、という表情をして首を振っている。気持ちが通じ合えると思っていなかったボクは、この後どうすればよいのか悩んだ。そしていつまでも玄関先に立っていると中島さんが帰れないことに気がつき、焦って

「遅くまで引きとめて、ごめんね。ボク、帰るね」

 ぎくしゃくとした動きで回れ右をして歩き出した。

「明日からお仕事、がんばってくださいね」

 その声に振りかえると、満面の笑みを浮かべた中島さんがボクのことを見送ってくれていた。
 ボクはその笑みにいつも心癒されていた。この笑みはずっとボクに向けられる……なぜかその時、そう確信した。

 仕事が始まり、思った以上の大変さに毎日へとへとだった。アルバイトをしてそれなりに働くことは知っていたけど、アルバイトで働くのと正社員として働くことの気持ちの違いに翻弄されていた。
 それでも中島さんとは前ほどではないけど会ってデートして……。会うたびにボクは中島さんのことが好きになる。
 彼女は今年は就職活動に入り、応募書類を作ったり面接に行ったりと忙しそうだ。
 中島さんも忙しい中、どうにか時間を作って会ってくれる。あの笑みに癒され、次の日から仕事を頑張ろう、と思える。
 たまに義兄の新井さん??新井公彦(あらい きみひこ)という名前らしい??に邪魔をされるけど、それ以外はボクたちの関係は順風満帆だ。
 仕事もたまにミスはするものの、どうにかそれなりに働けるようになり、中島さんも無事に就職が決まった。
 もちろん、そんな間にボクはみゆき??いつの頃からか名前で呼んでいた??とファーストキスをしたり、その先もあったり……。
 お互い初めて同士で少し戸惑ったけど、たぶんボクたちは身体の相性も良かったと思う。
 比較対象がないから分からないけど。
 小さなケンカをしながら絆を深め、みゆきが就職して三年目、ボクは桜が舞う中、プロポーズした。

「みゆき、ボクと結婚してください」

 ボクはストレートにみゆきにプロポーズした。最近見た記事で『プロポーズしたのに理解されなかったことがある』というのを見かけたので、凝った言葉よりもはっきりと言った方がいいのを知り、ひねらずにそのまま伝えた。
 みゆきは口に手を当て、びっくりしたようにボクを見つめ、次の瞬間、大きな瞳に大粒の涙をためて、泣き始めてしまった。
 ボクは言ってはいけないことを言ってしまったのか、と思って焦ったけど、みゆきを抱きしめた。
 みゆきはボクの腕の中で、嫌がることなくむしろボクに身体を預けて泣いている。

「まことさん、ごめんなさい……」

 その言葉に、ボクはプロポーズはダメだったのか、と泣きそうになった。それでもボクはみゆきのぬくもりをこの腕の中から失いたくなくて、ギュッと抱きしめて髪の毛をなでた。

「わたし、うれしくて……。まことさんにプロポーズされるって思ってなかったから」

 みゆきはボクの腕の中でボクを見上げる。

「わたしでよければ、結婚してください」

 みゆきは泣きぬれていたけど、いつものあの癒される笑みを浮かべ、ボクを見つめた。うれしくて、みゆきにそっとキスをした。
 ささやかだけど結婚式も挙げ、ボクたちは狭いながらも分譲マンションを購入して新生活を始めた。
 みゆきは結婚しても仕事を辞めずに家計のために頑張ってくれている。家に帰ると必ずみゆきがいる、ということはなかったけど、とても充実していた。
 こんなに幸せでいいんだろうか。
 そして、子どもにも恵まれた。
 仕事にも張り合いが出て、それなりに出世できた。
 素敵な奥さんにかわいい子ども。仕事も充実して幸せだった。
 だけど……どこかでボクはむなしさを感じていた。

 ボクは年を取り、病院のベッドの上に寝ていた。みゆきには二年前に先立たれていた。とても悲しくて泣き暮らした。
 だけど娘と孫がそんなボクを励ましてくれた。
『いつまでも泣いているとばばが悲しむよ』
 かわいい孫にそう言われ、ボクは前を向くことにした。
 みゆきがいない生活に慣れてきた矢先、風邪をこじらせて入院することになった。熱にうなされ、苦しんでいた。ふと人の気配を感じ、横を向いた。
 そこには、何十年前かに見た、みゆきの義兄の新井公彦があの時と変わらない姿で立っていた。

「夢の中での一生は幸せだったか?」

 夢の中……?
 ボクは息をするのがやっとで、聞きたくてもぜえぜえ、という苦しい息をはくことしかできない。

「あなたですか、僕の仕事の邪魔をしている人は」

 ちりん、といつか聞いたことのある鈴の音とともに、黒髪の男がどこからともなく現れた。

「ようやくお出ましか、羽深しぐれ」

 にやりと口角をあげ、新井はうれしそうに黒髪の男を見た。

「僕の名前をご存知とは、ただ者ではありませんね」

 黒髪の男??遠い昔にボクに羽深と名乗った??はふわり、と笑みをその顔に乗せてボクを見た。

「この男の言う通り、あなたが今生きていると思っているのは、夢の世界です。あなたはここで最後の選択をすることができます」

 ちらり、と羽深は新井を見て、そしてまた笑みを浮かべてボクを見た。

「あなたはこの夢の世界でこのまま生を全うしますか? それとも、現実世界に戻って元の人生を送りますか?」

 羽深の言葉に、ボクは惑った。
 ここが夢の世界?
 みゆきのあのぬくもりも、あれもどれもこれも……夢だった、というのか? ボクの感じていたむなしさは、夢のせいだからか? だけどあのぬくもりは、ボクの勘違いでも気のせいでもない。確かにそこには、ぬくもりがあった。

「どうしますか? あなたは夢の中でとても幸せな人生を送れましたね? このまま生をまっとうした方が、あなたは幸せだと思いますが……どうしますか?」

 羽深はこのまま生をまっとうしますよね、という表情でボクを見つめている。
 ボクは荒い息の下、首を横に振った。