【まこと】~理想の世界~(前編)


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 けたたましい目覚まし時計の音で、ボクは目が覚めた。
 なんだよ……。目覚まし時計なんて、だれがかけたんだよ。
 やかましく鳴り響く目覚まし時計をボクは止め、ふと違和感を覚える。
 ……あれ? なんだか身体の感覚が、いつもと違う?
 腕を伸ばした時の感覚と、最近には感じたことのないほどの下半身の痛み。

「まこと、起きなさいよー。学校に遅刻するわよ」

 部屋の外から母の声が聞こえる。
 ……学校?
 それでも二度寝しようと思い、布団に潜り込もうとして……布団のシーツの柄が目に入った。

「!?」

 びっくりして、飛び起きた。
 このシーツの柄、ボクが高校生の頃に使っていたシーツじゃないか。このシーツ……ボクが遭遇したとある『事件』の時に……自分で切り裂いてダメにしてしまったはずなのに……。どういう……ことだ?

「お兄ちゃん、また朝立ち?」

 部屋の外からにやけた声が聞こえてきた。最近ではすっかりボクとしゃべることがなくなった三つ下の妹だ。妹は男子校が少子化の影響で生徒数を確保するために共学になったという学校に通っているだけあって、男の中で生活していることもあり、ボクよりも男らしい。

「そんなこと言ってると、嫁にいけないぞ」

 妹には結婚寸前まで行くほどの彼がいたのだが……直前で彼の浮気が発覚し、別れたらしい。しかも向こうはすでに身ごもっていた、というのだから……とんでもない奴だ。それ以来、妹は仕事に打ち込み、残業の日々でほとんど家に寄り付かない。

「うるさいわね! 童貞!」

 痛いところをつかれた。
 そうだ、二十九歳現在でも……童貞だ。……自分で言っておいてなんだが、かなり心に痛い。なにがいけないんだ。
 女は処女をありがたがるのに、男で未経験でなにがいけないっていうんだ。三十まで童貞だと、魔法が使えるようになるらしい。これはネットの世界では常識だ。

「早くご飯食べて! 片付かないじゃない」

 先ほどより近くで母の声がする。どうやらドアの外にいるようだ。

「まことも早くしなさい。今日は卒業式でしょう?」

 ……卒業式?
 ああ、と思い出す。

 そうだ。卒業式のあと……ボクは『事件』に遭遇するのだ。母の声に仕方なく布団から抜け出して、とりあえず、頭を触ってみた。
 二十九歳のボクとは違い、髪の毛はそれなりにさらさらだ。身体もこの頃から少し太めではあったけど……まだ許容範囲だ。
 クローゼットの中からシャツと制服を取り出し、ボクは着替え、机の上に置かれた卓上カレンダーを覗き込む。
 九年前。すべてが狂ってしまった、運命の日。

 あれを回避することができれば……ボクは……。

 あの黒髪の奇妙な男がくれた白い札は、ボクにやり直しのチャンスをくれたらしい。どれだけやり直せれば、と思っていただろう。やり直しが無理なのはさすがに分かっていた。だけど……ボクにはやり直すチャンスが巡ってきたのだ。

「よし」

 クローゼットの扉についた鏡を覗き込んでにやりと笑った。そこには、見慣れているけれど二十九歳のボクが知っているより細くて若いボクが映っていた。
 高校の卒業式当日にボクは戻ってこれるなんて、なんてラッキーなんだ。うれしさでにやける顔をボクは両手でパンパン、と叩いて顔を引き締めた。
 ふと左手を見る。あんなに張り付いていた白い札は、なかった。

 そういえばあの日、枕の下に入れて寝ろ、と男が言っていたのでその通りにして寝たんだった。僕は確認するためベッドに近寄り、枕をあげた。

「ない」

 寝る前に確認したときは、確かにそこに白い札があった。どこに消えてしまったんだろう。

「まこと! はやくしなさい!」

 母の言葉にあわてて部屋を出た。

   ◇   ◇

 懐かしい通学路を通り、ボクは高校へ向かう。気を抜くと思わず鼻歌を歌ってしまいそうだ。

「よう、まこと。おはよう」

 クラスメイトの久保が声をかけてきたと同時に、後ろからばこん、という音がするほど激しく頭を叩かれた。

「……ってー」
「おまえ、いつになったらパーフェクト取れるんだ?」

 久保はにやにやとボクの顔を見ている。
 ……忘れていた。ボクは激しくいじられキャラだったのだ。

「そのうち取るから待っていろ」

 ボクの名前によく似たさえない彼。とうとう念願のパーフェクトを取ってパーティを開くことを、未来のことを知っているボクは知っている。

「そのうちっていつだよ」

 さすがに日付までは知らない。

「だから……そのうちだよ」

 ボクはもごもごと口の中で答えた。

「まこと、おはよー」

 お尻にどす、と鋭い痛みを感じ、ボクはゆっくりと振り返る。

「相変わらずさえない顔してるなー。童貞くん」

 ボクと変わらない身長と体重の大塚が、彼女とともに登場した。顔もボクと似たり寄ったりで、それほどいい男ではない。それなのに彼女ができて、あまつさえやつはぬけがけで童貞を卒業したから、彼女どころか女の人と話をすることがままならないボクに対していつも強気の発言をしてくる。

「『ボクの恋人は右手です』」

 久保がボクのまねをしてからかう。

「久保くん、朝から下品」

 大塚の彼女が口に手を当てて笑っている。
 ……なんで大塚にこんなかわいい彼女ができて、ボクにはいないんだ。

「よしよし、童貞くんのためにオレがいいことをしてやろう。高校卒業と同時に脱! 童貞!」

 来た……!
 そうだ。久保のこの言葉が……ボクのその後の人生を大幅に狂わせるのだ。

「要らないよ」

 ボクはこの後のひどい展開を知っているので、きっぱりと断る。

「いやいやいやいや、まことくん、遠慮はいらないよ。オレときみの仲じゃないか」

 久保には兄がいて、その兄が結構悪いことばかりしているらしく、不良のたまり場にいつもいた。久保自身もたまにそこに呼ばれて行っているのを知っていたが、この久保がたくらんだボクの脱童貞計画は……この不良たちからもたらされた、とんでもないものだった。
 必死になってあれをどうやって回避しようか考える。

「まま、まことくん。オレからの卒業プレゼントだから、な。気軽に受け取れ」

 久保はボクの首に腕をまわして首を絞めてくる。

「く……! ぐるじい」

 久保が手加減なしで首をしめてくるから、ボクは本気になって暴れて久保の腕から逃れた。

「なんだ? 今日のまことはやけに反抗的だな」

 学校についた。久保にいろいろ小突かれたりしながら教室に入る。卒業式開始までボクたちは教室のいつもの場所でたまって話をしていた。
 これも今日で最後なのか、と思うと……少ししんみりしてくる。

「おまえら、席につけ!」

 久しぶりに見る担任に、ボクはくすり、と笑みがこぼれた。
 禿げあがった頭を隠すために、サイドの髪を伸ばしててっぺんの禿げを必死になって隠しているその髪型。相変わらずださい。

「いいかー」

 担任が教壇の上で今日の卒業式の注意事項を述べている。
 それよりも『事件』をどうやって回避するか、考える。
 式の後にひとりでばっくれるか? いやいや、それは無理だな。
 九年前を思い出しながら、どうすればいいのか式の最中も考えた。結論は……出なかった。その場でなるようになれ、だな。
 無情にも式も終わり、教室での最後のホームルームも終わり……さみしさとうれしさと解放感あふれる独特の空気が流れ始めた。
 九年前のボクは、ホームルームの後にいつもの仲間と他愛のない話をしていて……久保に無理矢理連行されたのだ、あの場所へ。とっとと退出すれば流れが変わるかもしれない……そんな淡い期待を抱いてボクは机の中とロッカーの中を確認して、カバンを持って教室を出る。最後に教室をちらり、と見る。
 久保はボクが出て行ったことに気が付いていない。
 靴箱まで急いで走り、靴を履き替えて上履きをカバンに適当に突っ込み、走り出した。久保につかまったら……あの悲劇が繰り返される。
 必死になって走った。普段走り慣れていないボクは、すぐに息が上がる。ぜえぜえ、という自分の呼吸音に運動不足な自分の身体を呪う。少し運動しよう、とボクは心に誓う。
 穏やかな日差しの中、周りはのんびりと家路に向かう同じ制服を着た生徒が歩いている。
 その中をボクは必死に走り抜けていて、少し異質だ。
 そこの角を曲がってしばらく行ったところが、ボクの住むマンションだ。角を曲がろうとして勢いよく身体を左に振った。
 がごんっ!
 とベタな恋愛物よろしく状態で、だれかにぶつかり、走っていたボクは勢いよく飛ばされた。

「っっと」

 ぶつかられた人はその場にどうにか踏みとどまったようだ。無様な格好で地面に転がり、思いっきり右肩をぶつけてしまった。
 痛い。

「お兄ちゃん!」

 非難するようなかわいらしい声が響いた。

「危ないな、いきなり飛び出してきて」

 どこかで聞いたことのある声が上から降ってきた。

「……と、おまえは」

 痛む肩をかばいながら身体を起こし、声の主を見上げた。

「あ……」

 見覚えのある顔に、ボクの顔から血の気が引いた。そう、忘れもしないこの顔。
 柔らかな少しウェーブのかかった栗色の髪に、ひどく冷淡な茶色の瞳。赤い唇の口角をあげてにやりと笑う男。嫌でも思い出してしまう。

「大丈夫ですか!?」

 栗色の髪の男の後ろからひょこ、と少女がのぞいていた。ボクはこんな場面にも関わらず、思いっきり下半身が反応する。ううう、無駄に若さあふれるこの身体が憎いっ!
 肩口に切りそろえられた少し癖のある黒い髪をさらりとさせ、焦げ茶の瞳でボクを見つめている。二重の大きな瞳、少し小さい鼻、健康的なピンク色の唇。ボクの語彙の少なさではこの少女のことをうまく伝えられないのだけど……とにかく、かわいいのだ。
 少女はボクのことを見つめて……顔を赤らめた。ボ、ボクの下半身が反応してるのが……ばれた!?
 ぶつかったときに飛んでいったカバンを引き寄せ、下半身をさりげなく隠しつつ、ボクはどうにか立ちあがる。

「アレを使ったのか」

 栗色の髪の男は愉快そうに笑い、後ろにいた少女の腰をぐい、と抱き寄せた。
 少女はびっくりして目を見開き、嫌がって抗っていたけど男はそれさえも見せつけるようにして去って行った。
 よろよろと痛む身体を抱えながらマンションに戻った。
 部屋に戻り、着替えてようやく冷静にさっきのことを思い返すことができた。
 な、なんだあの男……!
 自分でもびっくりするくらい、男に今まで抱いたことのない感情を抱いた。
 その感情に名前をつけるのなら、嫉妬。
 どうしてボクがそんな感情を男に持ったのか分からなかった。だけどボクは、去り際に見たあの少女の嫌がる顔を忘れることができなかった。
 あれはまるで、ボクに助けを求めているようだった。そう思うのは、ボクがあの男に対していい印象を持っていないからだろうか。
 ベッドの上に転がってぼーっと考えていたボクはいくら考えても出ない答えに考えることを放棄して、立ちあがろうとした。

「うっ……」

 右肩がずきん、と激しく痛んだ。さっき転げたときにぶつけたからか。できるだけ肩が痛まないように慎重にボクは起き上り、リビングに行く。

「あら、どうしたの?」

 ソファに座ってのんきにテレビを見ていた母がボクの気配を感じて聞いてきた。視線はテレビに釘付けだ。

「湿布ない?」
「湿布? どうしたの」

 そこでようやく母はボクの顔を見た。

「あら、やだ。その顔、どうしたの?」
「顔?」
「右側の頬のあたり、擦り傷がすごいわよ」

 母に言われて初めて、顔に鈍い痛みを感じる。

「さっき、角を曲がったところで人とぶつかってこけた」

 素直に話をした。

「あらぁ、あそこの角? やっぱりあそこ、危ないわよね」

 母はあそこの角がいかに危ないか、ということをぶつぶつ言いながら救急箱を出してくれた。

「顔を洗っていらっしゃい」

 言われるまま洗面所に行き、顔を洗った。……水がしみる。鏡に映ったボクを見ると、右側だけ派手に擦り傷ができていた。
 リビングに戻ると、母は困った顔で救急箱をのぞいていた。

「あらぁ、湿布がないわ。激しくぶつかったの?」

 激しくぶつかった……といえばそうだ。

「念のために病院に行ってらっしゃい」

 母はそう言って保険証と診察券とお金を出してボクに渡した。病院に行きたくなかったけど、母に強く説得されて渋々行くことにした。

 病院に行ってレントゲンを撮ってもらった。

「骨は問題ないですね。痛み止めと湿布を出しましょう」

 看護婦さんが優しくボクの頬を消毒して、右肩に湿布を貼ってくれた。ああ、女の人にやさしくしてもらうってなんて嬉しいんだろう。痛いのに自然に緩む頬。
 それにしても、ボクはなんて女っ気のない生活をしていたんだろう。
 四月から大学生になるんだ。少し気分を一転して、女の子にもてもての人生を歩みたいなぁ。
 ボクは病院からの帰り道、ふとそんなことを思う。
 肩が治ったら、少し運動しよう。
 昔、
『おまえはやせたらもてるぜ』
 と言われたことがある。
 それは本当か、ボクは確かめることにした。
 そうだ、あの『事件』にボクは遭遇しなかったんだ。
 ボクは……生まれ変わったんだ!

 足取り軽く、家に着く。
 右肩が痛いから生活にいろいろ支障が出たけど、そんなこと、あの『事件』に比べたらないに等しい。
 ボクは夕食を食べ、部屋に戻った。

 『事件』は……思い出したくもないほど、ひどいものだった。
 アレのせいで、ボクの人生は狂いに狂いまくったのだ。