おねがい、かえってきて──。
◇ ◇
「りささん、すみません」
とおるくんのお母さんの声ではっと我に返った。時計を見ると、ずいぶんと時間が経っていて、驚いた。ぼんやりしすぎにもほどがある。
「用事、終わりましたか?」
「はい。ありがとうございます。もう大丈夫ですから」
お母さんの言葉を聞いて、椅子から立ち上がった。
「う……」
その気配を察したのか、とおるくんが急にうめき声をあげた。
「とおる!?」
右手をあげて、なにかをつかもうとするしぐさをしている。
「とおる?」
お母さんはその手をつかむけど、とおるくんは力いっぱい振り払う。
「……いかな……いで……」
弱々しい声がした。私はとっさにとおるくんの右手をつかんでいた。ずいぶんと冷たい手に、驚いた。私の手をつかむと安心したのか、そのまままた穏やかな寝息を立てていた。
しばらくそうやってとおるくんの手を握っていた。規則正しい寝息に安心して、そっと手を離そうとした。が、寝ているのにどこにそんなに力があるのか、というくらい力いっぱい握られていて、解くことができない。
困ったな、とたかゆきの顔がよぎる。そろそろ帰って夕食の支度をしなければ、たかゆきが困っているだろう。
そもそも今日、朝起きてからたかゆきの顔を見ていない。結婚してから顔を見ない状況がこんなに長く続いたことがなくて、少し、不安になる。
……たかゆきに捨てられるんだろうか。さまざまな思いが一気に駆け巡る。
今すぐ帰って、たかゆきと話し合いをしなければ。そう思ったら、居てもたってもいられなくなった。
が。とおるくんの指は、私に張り付いたかのようにぴったりとくっついて離れない。
横に座るとおるくんのお母さんを見た。私の視線にすぐに気がつき、お母さんは苦笑している。
「これは……困りましたね」
「えぇ……。そろそろ帰らないと……」
「そうですよね」
お母さんは協力してくれて、指をはがそうとしてくれる。それでも……とおるくんの指は凍りついたかのように離れてくれない。
私は……帰ることをあきらめた。もう、たかゆきのことは……めんどくさくなってどうでもよくなった。
「とおるくんが手を離してくれるの、私待ちます」
「でも……」
「ここで私が待って、とおるくんが元気になってくれるのなら」
私はほほ笑んだ。
お母さんはなにか言いたそうな表情をしていたけど、とおるくんの手を再度見て、あきらめたようだった。
「わたし、片手で食べられる物を買ってきますね」
お母さんはそれだけ言うと、私の返事も待たずに病室を出て行った。
生きているのかと心配してしまうくらい、冷たい手。規則正しく上下する呼吸を見ていないと……死んでしまったのではないかと思うほど……青い顔に冷たい手。
この先……いろいろとつらいことがあると思うけど、生きてほしい。
ただ、ただ、切に。そう願った。
◇ ◇
昨日と同じように、すずめの鳴き声で目を覚ました。起き上ろうとしたけど、身体が痛くて顔をしかめる。
えっと……。なんで私、こんなに身体がこわばってるの?
右手にしっかりとしたぬくもりを感じて、疑問はすぐに消えた。
そうだ。昨日、とおるくんにずっと手を握られていて、いくら待っても離してもらえなくて、この手を握り締めたまま、寝てしまったのだ。そーっと手を抜くと、ようやく解放された。とおるくんの顔を見ると、昨日よりずいぶんと顔色が良かった。
腕時計を見て、青ざめる。
朝の六時。朝帰りもいいところだ。
なにもなかったとはいえ、たかゆきに連絡もいれず、外泊した。
良心はそれなりに痛んだけど、もうたかゆきとは終わりだと思っていたから、どうでもいいと思った。私が連絡を入れなかったことに対して、向こうからもなにもアクションがない、ということは……見限られたのだろう。
とおるくんが起きるのがいつになるかわからなかったので、簡単なメモを残して、病室を後にした。
まだ診療が始っていない時間なので、普通に出ることができなくて戸惑っていたら、見覚えのある人が近寄ってきた。
「あなたは」
研修医の新井先生だった。
「おはようございます」
「今からお帰りですか?」
冷たい瞳に背筋が凍る。
「あ、はい」
「出口はこちらですよ」
にやりと笑い、新井先生は夜間外来入口を指し示す。
「ありがとうございます」
出ようとしたら、肩を掴まれた。
「あの、なんでしょう」
振り向くと、瞳の奥に闇が見え、びくり、と身体が自然に震えた。
「ご主人がいながら……いい気なもんだな。まあ、その方が俺には好都合だけど。せいぜいあいつを苦しめるがいい」
な、んのこと……?
新井先生はそれだけ言うと、くるりと踵を返してすたすたと歩いて行ってしまった。新井先生の発言の真意がまったくわからなかった。
家に帰ると、だれもいなかった。
テーブルの上に置いた手紙はそのままだった。冷蔵庫を開けると、昨日出て行ったときのまま。
……たかゆきは……私の作ったご飯なんて食べたくない、ということね。
深いため息をついて、料理を取り出す。
昨日一日、ずっと冷蔵庫に入っていたのなら、食べても大丈夫だろう。重い気持ちのまま、電子レンジで温め、食べた。
それから軽くシャワーを浴びて、布団を敷いて横になった。思ったより身体が疲れていたらしく、そのまま眠りについた。
気持ち悪さに、目が覚めた。時計を見ると、十六時。我ながら寝すぎだと感心してしまった。
起き上ると胃がぐるぐるしたけど、布団から出て、キッチンに向かう。
たかゆきが帰ってきた気配はまったくなかった。水を飲んだら気持ち悪さがだいぶ薄れた。空腹と水分不足で気持ちが悪かっただけらしい。
これから夕食を作る気力がなくて、冷蔵庫の中をあさって適当にあるものを温めて口にした。
とおるくんがどうなったのかも気になっていたけど、それよりもまったく連絡のないたかゆきが心配になった。
どこかで事故にあって連絡が取れないのかもしれない。
そう思ったらいてもたってもいられなくなり、携帯電話を取り出し、たかゆきにかける。
呼び出し音は鳴るけど、出ない。三回ほどかけなおしたけど、出てくれない。
今までこんなことがなかったので正直、どう対処してよいのかわからない。
メールを打つことにした。
とおるくんに教えてもらったから、少しはまともに文章を打つことができた。
『どこにいますか。連絡ください』
きちんと変換することもできたことに満足して、たかゆきにメールを送った。
そうしたら少しは気持ちが落ち着いたので、とおるくんにもメールをする。
『おはよう。気分はどう?』
もう夕方なのにおはようもどうかな、と思いつつ、そうメールした。
たかゆきからはまったく返事がこないのに、とおるくんからはすぐに返事が来た。
『昨日はなんだかものすごく迷惑をかけたみたいで、すみません。おかげさまで順調のようです』
短い文章だったけど、ほっとした。
よかった。
しかし。たかゆきからはまったく連絡が入らない。
部屋で死んでたりしないよね?
不安になって、たかゆきの部屋をのぞいてみた。
いつ出て行ったのかわからないけれど、室内はぐちゃぐちゃで、パジャマはベッドの上に脱ぎ捨てられていた。あまりの子どもっぽさに……あきれた。
部屋を片付け、パジャマを洗濯かごに投げ入れて、ため息をつく。
外出を好まないたかゆきが……一体どこにでかけているのだろう。
たぶんこの調子だと、昨日は帰ってきていない。
女のところ?
ちらりとそんな考えが頭に浮かんだが、それはあり得ない。
たかゆきは不器用なのだ。
と思ったけど……ここのところのたかゆきの不自然さを考えたら、それも選択肢に入れておかなくてはいけないかも、という考えもよぎる。
もうそれでもいいや。たかゆきが無事ならば。
そんな冷めた考えでソファに座ってぼんやりと新聞を眺めていたら、かちゃ、と音がした。たかゆきが帰ってきたのかもしれない。新聞をたたんで立ち上がり、玄関に向かった。
「おかえ……」
玄関に行き絶句した。朝、病院で見た新井先生がなぜかたかゆきを抱えていたから。
「ほら」
物を投げつけるかのように新井先生はたかゆきを玄関先に転がして、そのまま出て行った。茫然と事の成り行きを見ていたが、たかゆきのうめき声にびっくりして駆け寄る。
「たかゆき!?」
私の声にたかゆきはちらりと顔をあげた。立たせるために肩に手をかけようとしたら、
「他の男を触った手で俺を触るな!」
と怒鳴られ、言われた意味よりも怒鳴られたことで身体がすくんだ。
「はん、俺は知ってるんだぜ。昨日の夜、おまえは他の男と一夜をともにしたってな」
たかゆきの言葉に、唖然とした。
他の男? 一夜をともに??
「なに言ってるのよ! それよりもたかゆき! 今までどこに行ってたのよ!?」
こうして無事に帰ってきたことにほっとしたものの、たかゆきに怒りを覚えていた。
たかゆきからはタバコと大量のアルコールのにおいがしてきて、気持ち悪くなった。たかゆきはお酒は嗜む程度にしか飲まない。こんなにぐだぐだになるまで酔うなんて、今までなかった。
どうして……? もしかして、私の、せ、い?
「たかゆき……」
たかゆきの横にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「りさ……俺を……置いていかないでくれ……」
それだけ言うと、うずくまったまま、たかゆきは寝てしまった。
「ちょっと! 起きてよ」
たかゆきの身体を引っ張って起こそうと思っても、まったく起きる気配がない。眠ってしまったたかゆきの身体は重たくて、起こすことをあきらめ、寝室から掛け布団を持ってきて、たかゆきにかけた。
いくら待ってもたかゆきは起きてこなかったのであきらめて、自室に戻って寝た。
寝入ってどれくらいたったのだろう。寒さと身体の重さを感じて、目が覚めた。
「りさ……」
目の前には、見慣れたたかゆきの顔があった。
私が起きたことに気がついたらしいたかゆきは、私の両手首をつかみ、キスをしてきた。
いつもの優しいキスではなく、壊されそうなくらい激しいキスに、驚く。息ができないほど激しく求められ、戸惑う。
「たかゆ……」
口を開いたと同時に、たかゆきは舌を押しこんできて、私の口の中を蹂躙する。
なにがなんだかわからないうちに、たかゆきはパジャマを脱がし、手荒に胸をもむ。
痛くて抗議の声をあげようにも、口をふさがれていて息をするのがやっとで。私は怖くなった。
「おまえは俺のものだ。だれにも渡さない……!」
そういうなりパジャマのズボンとパンツを脱がされ、いきなり入れられた。
「っ!」
メリメリ、と音がしそうな勢いで、痛みに悲鳴を上げることさえできなかった。
そんなことお構いなく、たかゆきは私に腰を打ちつけ、私の中に欲望を撒き散らして勝手に果てた。
あまりの出来事に、思考が停止していた。
今のたかゆきの言葉と行為は……どう解釈すればいいのだろう。
たかゆきは大の字になって、私の横で寝ていた。
痛む腰を押さえながら私は立ち上がったけれど、それ以上歩くことができなかった。
あきらめて散らばった服をかき集め、身に付けた。
たかゆきは……このままでいいか。
たかゆきを布団に引っ張りあげて、一緒に寝ることにした。久しぶりにこうしてたかゆきのぬくもりと匂いを感じながら寝ることに……された行為はともかく、安堵した。
◇ ◇
今日もまた、すずめの鳴き声で目が覚めた。横を見ると、たかゆきは寒そうに丸まって寝ていた。
「たかゆき」
ゆさゆさとたかゆきの大きな身体をゆすった。うーん、と身じろぎをして、たかゆきは起きた。
「りさ……」
横に寝ていることを不思議そうに見て、しばらくぼんやり私の顔を眺めていたたかゆきは、昨日のことを思い出し、突然青ざめた。
「り、りさ! すまない!」
たかゆきのその言葉に、ほほ笑んだ。
めったに謝らないたかゆきが、素直に謝っている。それだけでもう充分だった。ずいぶんと私も甘いな、と思うけど。
たかゆきのその性格を知って結婚したわけだし、これ以上はたかゆきに求めていなかった。
「俺としたことが……!」
たかゆきは四人姉弟の一番末っ子で、待望の男の子だったらしい。そんな環境だったからか、甘えっ子で、上の三人の姉からはそれはそれはかわいがられて育ったらしい。そして常に『女の子にはやさしくね』と言われて育っていて。たかゆきが私に乱暴をすることは一度あっただけで、それ以降は今までなかった。
「りさ、痛かったよな」
たかゆきはいたわるように私の腰をさすってくれる。
「かなりね」
たかゆきは泣きそうな顔になる。痛みを思い出して、泣きたいのは……こっちだって言うのに。たかゆきはギュッと私の身体を抱きしめる。ああ、こうして抱きしめられるのは……いつ以来だろう。
「たかゆき……ごめんね」
たかゆきはさっきよりももっと泣きそうになる。
「俺を置いて……行かないでくれ」
たかゆきがさみしがり屋だったのを、すっかり忘れていた。
「うん」
たかゆきを抱きしめ返す。
「私にはたかゆきだけだから」
たかゆきはさらに力を込めてギュッと抱きしめてくる。
たかゆきに望まれるまま結婚して、望まれるまま仕事をやめて。たかゆきのことだけを考えて、一日を過ごす。
専業主婦を望む世のだんなさんはみんな、それを望んでいるのかな? 他の男の視界に入れたくなくて? 独占欲が強いな、と苦笑いした。
「軽くシャワー、浴びてきなよ」
たかゆきを抱きしめながらそう言った。
タバコとアルコールと汗のにおい。嫌いではないけれど、そのままで学校には行けないだろう。
たかゆきは名残惜しそうに私を抱きしめて、軽くキスをしてようやく私を解放する。その行動が付き合い始めたころを思い出させてくれて、懐かしい気分にさせられた。
たかゆきが部屋を出るのを見届けて、痛む股を我慢しながらどうにか立ち上がり、部屋を出て廊下を通って新聞を取り、キッチンへ。
いつものようにソファに新聞を投げて、台所に立つ。
コーヒーを入れて、パンを焼いていたらさっぱりしたたかゆきがシャワーから出てきた。
すでに着替えていて、頭をタオルで乾かしながらキッチンへ来た。
もう少しで朝食の準備ができるのを見て、たかゆきはテーブルに座る。
私は股をかばうように歩いているので、なんだか変な歩き方だし、ゆっくりで我ながら泣ける。
それを見てもたかゆきは手伝おうとしてくれない。きっと、言わないと手伝えないのだろう。
たかゆきにたくさん望むのを最初からあきらめている私は、極力あまり動かなくていいような動線を考えて、テーブルに食事を並べる。
「いただきます」
テーブルについて手を合わせて食べ始める。
たかゆきはいつものように無言だ。
お義母さん、かなり甘やかしすぎですよ、と心の中で毒づき、無言で食べる。
食事を終え、たかゆきはやはり無言で立ち上がり、ソファに座って新聞を読む。片づけがつらくて食器を流しに入れて水につけるだけにして、腰を押さえながら自室へ向かう。横になると、ずいぶんと楽になった。今日は一日、寝て過ごそう。
ぼんやりと天井を眺めていたら、遠慮がちに扉が叩かれた。
「あ、出勤するんだよね」
起き上ろうとしたけど、予想以上に身体が重くて起きることができなかった。
「行ってくる」
そう声だけ聞こえて、がちゃんと扉が閉まる音と鍵をかける音がして、静寂が訪れた。
ふぅ、と息を吐いた。今日はとてもではないけど、起き上るのは無理っぽい。朝ご飯を作れたことだけでも奇跡だ。
昨日はよく寝たからこれ以上眠れないだろうな、と思いつつも……疲れていたからか、気がついたら眠っていた。
「りさ、いるか?」
たかゆきの声で目が覚めた。周りを見ると、思った以上に暗くてびっくりした。
「たかゆき、お帰りなさい」
びっくりして飛び起きようとしたけど、身体に鉛がつまっているように重い。
たかゆきは遠慮がちに部屋に入ってきた。
「あ、ごめんね。朝、見送れなくて。あれからずっと寝てたみたい」
起き上ろうにも、力が入らない。
「ごめん……。なんだか起き上れない」
たかゆきは部屋に入ってきた。
無言で手を差し出してきたので、手を取った。
たかゆきの手、こんなに冷たかった? その冷たい感触が気持ちよくて、私はぼーっとたかゆきを見つめた。
「りさ。おまえ、熱があるだろ」
「……え?」
たかゆきはびっくりして私の手を離しておでこを触る。
「おまえは寝てろ」
たかゆきに肩を押されて布団に寝かされた。
開いた扉の向こうでなにやら不穏な音がする。
「いてっ」
心配で起き上って様子を見に行こうとしたけど、身体が動かない。
私はあきらめて、そのまま横になって目をつぶった。