アンリアル~Unreal~【りさ】06


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   ◇   ◇
 ちゅんちゅん、というスズメの鳴き声で目を覚ました。部屋はうっすらと明るい程度だった。時計を見ると、朝の六時前。少し早くに自然と目が覚めてしまった。目覚まし時計が鳴る前にアラームを止めて、起き上った。
 パジャマを脱ぎすて、服を着替える。ラフな格好だけどあまりにもラフにならないような服装を選んだ。
 布団を押入れに入れ、パジャマをたたんで手に持って部屋を出る。
 そのまま洗面所へ向かい、パジャマを棚に入れる。それから洗顔をして、軽く化粧をする。
 キッチンに行く前に玄関に行って新聞を抜き取り、ソファの上に新聞を投げてからキッチンへ向かう。
 コーヒーメーカーでコーヒーを入れている間に、冷蔵庫から牛乳を取り出しレンジで軽く温めてから専用の泡だて器で泡立てる。
 コーヒーが入ったのを見計らってお気に入りのマグカップにコーヒーを注ぎ、きれいに泡立った牛乳をそっと注ぐ。これが最近の朝のお気に入り。
 ソファまでマグカップを持って行って、テーブルに置き、新聞を見ながら飲む。
 ふわふわの泡に昨日の女の子を思い出して少し気分が滅入ったけど、ふるふると頭を振り、そのことを追い出す。
 たかゆきは昨日、遅くまで起きていたらしい。たぶん、今起こしても起きてこないだろう。ましてや、昨日の様子を見ると……起きていたとしても、部屋から出てこないだろう。そのことを思い出してため息をついた。
 なんだろう、あの子どものような反応は。いい大人なのに、子どもよりたちが悪い。
 新聞を適当に読み、コーヒーが空になったらソファから立ち上がり、朝食を作る。と言っても、パンを焼いてその日の気分で卵を焼いたりソーセージをゆでたりするくらいのものだけど。
 朝食をとり、お昼すぎまでおそらく起きてこないと思われるたかゆきのために手紙を書く。
 昨日の夕食の残りが入っているから適当に食べておくように。出かけてくるけど帰りはわからないということも書き添えて。
 その事務的なメモを見て、再度、ため息をつく。
 夕方までには帰ってこれる……はずだ。手術に立ち会ったことなどないから、わからないけど。
 ゆっくりと過ごし、予定より少し早いくらいに家を出ることにした。
 一応、たかゆきの部屋をノックする。やはり、返事がない。ドアノブを回しても、私のことを拒絶するように鍵がかかっていた。
 もう私たち、だめなのかな……。
 ふとそんな考えが頭をよぎったけど……。私は気がつかなかったふりをすることにした。

「行ってきます」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で扉に向かって声をかけ、家を出た。
 今日も憎々しいほどの青空だ。天気予報は夕方から雨が降る、と言っていたけど。とてもそうとは思えないほどの天気の良さ。青空をにらんで、歩き出した。
 病室に行くと、すでにとおるくんのお母さんは来ていた。

「おはようございます。あの、すみません、ずうずうしくもお邪魔しまして」
「りささん、ありがとうございます」

 お母さんは恐縮したように頭を下げる。とおるくんは昨日よりも青い顔をして、少しぐったりと瞳を閉じてベッドに横になっていた。なんと声をかけていいのかわからなくて、とおるくんを見た。お母さんは部屋を出て行った。

「とおるくん、おはよう」

 極力明るい声でとおるくんに声をかけた。力なく瞳が開き、私を見上げている。

「あ……りささん」

 つらそうなとおるくんに、ほほ笑む。

「今日、いい天気だよ。手術が終わって、元気になったらどこか行こうか? あ、こんなおばさんとじゃ嫌か」

 左手で自分の頭を困ったようにかく。ふと違和感を覚え、左手を見た。ああ……そういえば。白い札。
 あのしぐれとかいう男の人から、とおるくんに渡すように言われていたんだっけ。

「あのね、これ。お守り」

 そっととおるくんの左手に自分の左手を重ねた。

「……なに?」
「うん、よくわかんないけど。渡してほしいと言われて」

 とおるくんは左手を見る。あんなにひっついていて取れなかった白い札は、あっさりととおるくんの左手におさまっていて、驚いた。

「なんだこれ?」

 とおるくんは不思議そうに白い札を眺めて、右手で触ろうとする。

「あ、さわれな……え?」

 私がいくら触ろうとしても触れなかった白い札をとおるくんはいとも簡単に触っていた。

「なんか変な感触」

 とおるくんはぷにぷにと白い札を夢中になって触っている。

「なんかよくわかんないけどこれ、お守り代わりに持って行くよ」

 私がうなずくと同時に、気配がして室内に人が入ってきた。

「島田とおるさん。今から手術室に移動します」

 とおるくんの表情が硬くなり、緊張の色が見える。看護師さんはなれた手つきでベッドを移動させる準備をする。

「待ってるからね」

 とおるくんは少し泣きそうな顔をしていた。

「心配しないの」

 とおるくんの頭をくしゃっとなでた。

「また、携帯電話の使い方、教えてよ」

 とおるくんはぎこちなくほほ笑んだ。
 がんばって、とは言わない。だって、とおるくんは今までもずっとがんばってきたんだもん。これ以上、がんばれ、なんて言えない。

「移動します」

 その言葉と同時に、ベッドが動き出した。部屋を出ていくベッドについて一緒に出た。廊下にはお母さんがいて、うっすらと涙を浮かべていた。
 手術室に移動して、私たちはその前にある控室で隣り合わせで座っていた。さすがに土曜日と言うだけあって、控室には他の家族もいた。みな一様に、暗い表情をしていた。私たちはしゃべることもなく、なにかに耐えるようにその場にじっと座っていた。
 一家族、二家族……と次々と呼ばれて部屋の中の人たちはどんどん減っていった。
 時計を見ると、すでにお昼を過ぎていた。予定時間は二時間と言われていたのに、まだ終わらないらしい。
 とおるくんが消えていった手術室の赤いランプを見つめ、嫌な予感をかき消すように口を開いた。

「私……」

 とおるくんのお母さんはびくっと身体を揺らし、私に視線を向けたのがわかった。なにか話したいことがあったわけではなかったので、その次の言葉を探していたら、

「りささん、すみませんね」

 とおるくんのお母さんが風が吹いたらかき消されそうなくらい小さな声でつぶやいた。

「今日の朝、とおるから聞きました。だんなさんを置いて、わざわざとおるのために来てくださったとか」
「あ……いえ。あの……お恥ずかしい話、ちょっと今、夫とは冷戦状態でして」

 とおるくんのお母さんは身体を私のほうへ向きなおす。

「なら! ますますこんなところにいたら……!」
「いいんです。とおるくんの痛みに比べれば……こんなこと、どうにでもなるんです」

 拒絶された心の痛みを今更ながら、感じた。
 なんて私は……にぶいんだろう。私の心はこんなに悲鳴をあげているのに。今になって……初めて気がついた。

「りささん……?」

 とおるくんのお母さんにそう声をかけられて、私はようやく頬になにかを感じた。どうやら、泣いているらしい。

「あ……すみません」

 あわててハンカチを取り出そうとしたら、お母さんが見覚えのある柄のハンカチを渡してくれた。

「この間お借りしていたハンカチでごめんなさい」

 私は素直に受け取り、涙をぬぐった。
 しかし。
 涙は後から後からあふれ出して、止まることを知らないようだった。なにもこんな時に涙が出なくても、と自分に言い聞かせたけれど、止まるどころかせきを切ったかのようにあふれてくる。

「泣きたいときは素直に泣いたほうがいいみたいですよ」

 お母さんは私の背中を優しくなでてくれる。その手が温かくて、涙が止まらなかった。
 どれくらい泣いたのかわからないけれど、ようやく涙が止まり、ふと手術室の入口を見ると、ランプが消えるのと同時に、扉が開き、中から執刀したと思われる医者と昨日病室で見た新井先生が出てきた。
 ふたりは控室に入ってきて、

「大変お待たせしました」

 疲れ切った顔はしたものの、達成感に満ち溢れた表情の先生に私たちはほっと顔を見合わせた。

「思った以上に大変で……こんなにお待たせしまして、申し訳ないです。ただ、腫瘍はほぼすべて取りきったと思われます」

 先生は私たちに詳しく説明してくれた。
 このまま聞いていていいのかな、とお母さんに視線を送ったけど、お母さんは聞いていてください、という表情で私の手をつかんでいた。指先が冷たくて……その手を握り返した。
 腫瘍はとったものの、あれだけ範囲が広かったから転移している可能性が高いということ、これから化学療法でその心配を極力減らしていきましょうということ、治療はかなり苦しいもので見守るこちらもつらいですが覚悟してください、ということ。
 それでも……とおるくんが生きている、ということだけで……ひどく安心した。
 ただ。先生の横でじっと座って話を聞いている新井先生の視線が……ひどく不快で。なんだろう、この視線。
 気にしないように先生の話に集中した。
 再度手術室の扉が開き、中からようやくとおるくんが出てきた。先生は私たちに立つように促し、先にたって部屋を出る。私たちもその後ろに続いて部屋を出た。

「島田さん、起きてください」

 ベッドの上で眠っているとおるくんを看護師さんが起こしている。

「島田さん、島田さん」

 頬を軽く叩いて、起こそうとしている。起こさないでもいいじゃない、と思っている私を知ってか知らないか、新井先生は口を開く。

「麻酔が効きすぎてそのまま起きないなんてことがあったら困りますからね。ここできちんと意識を取り戻してもらうんですよ」

 冷やかな声にぞっとする。言われている内容はもっともなんだけど……その声音はものすごく冷たい。
 ちらり、と新井先生を見る。名札には
「研修医 新井公彦」
と書かれていた。

「島田さん」

 看護師さんは必死にとおるくんを起こしている。その甲斐あってか、ようやくうーんととおるくんの口から言葉が漏れてきた。

「とおるくん」

 私も呼びかけてみた。私の声が聞こえたのか、長いまつげに彩られた瞳がゆっくりと開かれる。

「とおる」

 お母さんも声をかけている。

「あ……」

 ぼんやりとした表情だったけど、目が覚めたらしい。看護師さんはとおるくんの意識が戻ったのを確認すると、

「お部屋を移動しますね」

 と事務的に言い、移動をはじめた。
 私とお母さんはベッドに寄り添うように移動する。元いた部屋に戻り、看護師さんは点滴の状態を確認して、部屋を出て行った。
 まだぼんやりとしているらしく、とおるくんは天井を見つめている。私はとおるくんの横に立った。

「椅子に座ってください」

 お母さんはそう言って椅子を出してくれたけど、私は遠慮した。この病室は相変わらず人がいないのか、四人部屋なのにとおるくんのベッドしか埋まっていない。この病院は大丈夫なのか、と関係ないことを心配してしまう。
 お母さんは別のベッドのところから椅子を持ってきて、そちらに座った。なので私は出してくれた椅子にありがたく座る。

「無事に終わって、よかった。とおるくん、よくがんばったね」

 とおるくんはぼんやりと顔を向ける。

「疲れてるでしょ? 寝たほうがいいんじゃないの?」

 とおるくんは瞼を閉じる。しばらくその顔を見ていたら、すーすーと規則正しい呼吸が聞こえてきて、寝たのがわかった。

「りささん、お昼食べてないでしょう。いってきてください」
「いえ……。中途半端な時間ですし、お腹すいてないので……。夕食の時間まで我慢します」
「それでしたら……ちょっとわたし、連絡しないといけないところがあるので、ここをお願いしていてもよいですか?」

 私はうなずいた。お母さんは椅子をそのままにして、部屋を出て行った。