『りささん、俺。
りささんに会えてよかった。
俺、りささんのこと……
好きだったよ』
◇ ◇
自分の涙に気がついて、目が覚めた。
……あれ?
自分の瞳に映る見覚えのない天井に、焦った。
え? ここは……どこ!?
「りさ!?」
足元の方で聞き覚えのある声がした。枕元に近寄ってくる気配がして、ようやく顔が見えた。
「たかゆき……?」
「よかった……! このまま起きないんじゃないかってずっと心配だった!」
たかゆき、かなりやつれてる?
「私……?」
「覚えてない?」
覚えてないってなにが? どうして私、こんな見知らぬところにいるの?
「りさ、四十度の熱出してこの一か月もの間ずっと眠りっぱなしだったんだぜ」
一か月……!?
「え……。今日は何日なの?」
たかゆきは私に今日の日付を教えてくれた。
確かにあの日から……一か月は軽く過ぎていた。
「う……そ」
「よかったよ……。気がついて」
たかゆきはそう言って、泣いている。たかゆきの涙なんて……はじめて見た。茫然として、たかゆきを見ていた。
私が起きたという報告を受けた医者が、様子を見に来た。軽く診察され、様子見にあと二、三日入院しましょうと言われた。
「喉が乾いた」
ひどく喉が渇いているのに気がついた。
たかゆきは冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出し、ふたを開けて渡してくれた。
たかゆきの意外な行動に目を丸くした。以前なら絶対してくれないことだ。
この一か月の間にたかゆきにどういう心境の変化があったんだろう。
「ありがとう」
お礼を言って受け取った。
久しぶりに口にする水に恐る恐る口をつけた。遠慮がちに少し口に含み、飲み込む。冷たい水の感触が喉を伝って胃に入っていくのがわかった。それだけで
「生きてる!」
と実感できた。
私は……死ぬために生きていたけど。やっぱり生きている。そして……生きていたい。
もう死ぬために生きているなんて後ろ向きに生きることはやめよう。
私が気がついてから二日後、退院許可が下り、すぐに退院した。
久しぶりに帰る家。散らかっているだろうと覚悟したら、予想以上にきれいでびっくりした。
「りさがいない間、俺なりにがんばって家をきれいにしたよ」
たかゆきははにかんでいた。そのはにかんだ顔が妙にかわいくて、胸がキュンとした。ああ、私はやっぱり……たかゆきのことが好きなんだ。そう思い知らされた。
無理をしない範囲で家事を再開させて、ようやく通常生活に戻ったころ。
ふと、とおるくんのことを思い出した。
あれからまったく連絡を入れていない。
どうしよう、と悩んでいたら、突然電話が鳴った。電話に出て、びっくりした。とおるくんのお母さんからだったのだ。
「お久しぶりです、こんにちは」
努めて明るくそう声にした。電話口のお母さんは変わらない声で、衝撃の事実を伝えてきた。
「え……」
驚きのあまり、受話器を落としそうになった。
『……とおるが死んでしまいました』
頭をハンマーでたたかれたような衝撃を受けた。
え……? とおるくんが……? どうして?
『りささんもなんだか大変だったようで……。でも、どうしてもお伝えしておきたくて』
そのあと、なにを言われたのか思い出せなかった。その日はあまりのショックに……なにも手に付かなかった。
それから何日かして、とおるくんのお母さんからどうしても渡したいものがあるといわれ、以前入ったことのある病院近くの喫茶店で待ち合わせをした。
先に店に入り、あの日と同じようにカフェラテを頼んだ。今日はかわいらしいうさぎの絵が描かれていた。あまりにもかわいくて、私は微笑みながらそのうさぎを見ていた。
からん、と音がしてとおるくんのお母さんが入ってきた。
最後に見たときよりかなりやつれていて……とおるくんがこの世にいないことがよりリアルで。
立ち上がってお母さんに手を振った。お母さんは目を伏せて、挨拶をしてきた。そして時間がないから、とすぐに用件を切り出してきた。
「とおるは……あの手術があった次の日、一度起きてりささんにメールをしてから……ずっと眠ったままでした」
伏せていた瞳をあげて、お母さんを見る。
お母さんはあの日と同じように紅茶をかき混ぜていた。
「それで……亡くなる前の日。急に目を覚ましまして」
日付を聞くと、どうやら私が目を覚ました日と同じだった。
お母さんは白い封筒を差し出してきた。
「とおるが……あなたへと」
「私に?」
「はい」
封筒を受け取ると、厳重に封がしてあった。
「お預かりします」
私が預かったのを見届けると、お母さんは紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「すみません、事務処理などいろいろありますから」
それだけ言うと、つらそうにお母さんは店を出て行った。
受け取った封筒の表には
「りささんへ」
ととおるくんの字だと思われる筆跡で書かれた文字が読み取れた。
カフェラテを飲み、お会計をして店の外に出た。
とぼとぼと家まで歩き、家に入ってそのままソファに直行した。
受け取った封筒をハサミで開けて、中身を取り出す。中には便箋が一枚だけ入っていた。
『りささんへ
今まで、ありがとう。
短い間だったけど、りささんに会えてよかった。
りささんのこと、好きだったよ。
島田 とおる』
書いたり消したりした跡の残る生々しい便箋。
とおるくん……あなたはなんてものを残してこの世から去ったの……! 私は……あなたの想いにこたえることはできないのよ!?
どうすることができなくて、それでも捨てることができなくて。
受け取ったときと同じようにきれいに便箋を折りたたみ、封筒の中に入れてタンスの奥底にしまった。
せっかく、生きようと思っていたのに。
自分の中でのけじめをつけるために勇気を振り絞り、とおるくんのお母さんに電話をした。
『え……?』
申し出にお母さんは戸惑っていた。
たぶんお母さんはとおるくんの想いを知っているのだ。だから余計に戸惑っている。でも、それは私の中でのけじめなのであって。日時と場所を確認して、電話を切った。
◇ ◇
私は今、とおるくんの家に来ている。
私の中での気持ちに区切りをつけるために、焼香させてほしいとお願いしたのだ。久しぶりに出したブラックスーツに窮屈さを感じつつ、焼香する。
悲しみが充満した家の中。
お母さんに元気になってほしかった。
「私も……とおるくんのこと、好きでした」
とおるくんの写真が飾られている仏壇の前で、お母さんにそう告白する。
「え……」
「好きってもちろん、恋愛感情の好きですよ」
その言葉に、お母さんの表情は青くなる。
「素直でまっすぐなとおるくんに、私はとても惹かれたんです。たかゆきという伴侶がありながら」
浮気だとか不倫ってどこが境目なんだろう。気持ちが向いただけでもうアウトなのか。身体の関係があったらだめなのか。もしも気持ちが向いただけでだめならば……。
私はたかゆきを裏切ったことになる。
たかゆきは私さえも気がつかなかった気持ちを敏感に察知して……あんなに荒れたのだ。
「たかゆきに……怒られました。私でさえ気が付いていなかったこの気持ちに……彼はいち早く気がつきました」
私の告白をお母さんは黙って聞いてくれている。
「私は……一番大切なたかゆきを、傷つけました。そして……この気持ちにこたえられないとおるくんをも……傷つけました」
お母さんは涙を流す。
「そんなこと、ないんです……! あの子、最期に……言ってました。『りささんに迷惑かけた。ありがとう』って」
最期の言葉、私に気をかけるなんて……! なんてバカな子なんだろう!
「最期、笑っていました。あの子は……あれでも幸せだったんだと思います」
最期で最後のわがまま、だったんだろうな、とうっすら思った。
焼香を済ませて、
お母さんに気持ちを告白したことで
私はようやく
解放されたような気がした。
◇ ◇
その日の夜、なんだかものすごく人肌恋しくて。
たかゆきのことを自分から初めて求めた。たかゆきは最初、びっくりしていたけど、私の様子をなんとなく感じとってくれたらしく、受け入れてくれた。
何度も重ねた身体なのに、初めてのようで。気がついたら、泣いていた。
たかゆきはなにも聞かないで私の涙をぬぐってくれた。そして、やさしくキスをしてくれる。
もしも気持ちが少しでも違う人に向いたことが浮気なら。私は浮気をしたことになるのだろう。
そこには……どんなにきれいごとを言ったって、恋愛感情の好き、という気持ちがあったのだから。
でも、これから先は、こんな気持ちにはならないだろう。
私の気持ちは今の涙で……とおるくんと一緒に空に昇っていったのだから。
◇ ◇
それから数か月。
自分の身体に戸惑いを覚えた。毎朝測っている基礎体温が一向に下がらないのだ。あり得ない、と思いこんでいた。まだ体調不良が続いているって。たかゆきも心配してくれる。
それから数週間たっても一向に下がらない体温、来ない生理。もうあり得ないと思っていたけど残っていた妊娠検査薬を使用すると。
「え……」
焦ってたかゆきに持っていく。
「え……?」
たかゆきも驚いて私の顔を見る。
そこにはくっきりと
「陽性」
である青い線が浮かんでいた。
病院に行き、検査をするとやはり妊娠していて。私はあまりのことに戸惑う。
望んでいた妊娠がこんなにもあっさりと。しかも……本当にあきらめた頃にやってくるなんて。
「私ね、生まれてくる子が男でも女でも……“とおる”ってつけようと思うんだけど」
私の提案にたかゆきはほほ笑んでくれた。
「うん、りさがいいっていうのなら、いいと思うよ」
女の子でとおるちゃんはちょっとかわいそうかな、と思ったけど。生まれてくるのは男の子って断言できるから。
きっと、とおるくんが生まれ変わって私のところにやってくる。そう、私は信じた。
【りさ おわり】