夢の世界は……心地よいの?
◇ ◇
今日も一日、昨日と変わらない日が来た。
たかゆきを昨日と同じように送り出した。あれからたかゆきは口を開かない。
最近では別々の部屋で寝るようになってしまった私たちには……確かに話をするタイミングがなかった。時間はあったのだから、努力さえすれば話し合えたのだが……私もたかゆきもその努力をしなかった。今日も昨日と変わらない日が来ると信じて疑わなかったから。昨日と違う日が来るなんて、疑ってもいなかった。
ただ、左手の白い札だけが昨日のあの不思議な空間にいたという事実を突き付けてきた。
昼下がり、とおるくんのもとへ行った。
「りささん」
少し青い顔をしたとおるくんがいた。
「体調、大丈夫?」
とおるくんは少し顔をこわばらせた。でも次の瞬間には、見間違えたかな、と思うくらいの明るい表情で、
「りささん、ケータイの打ち方も知らないの?」
と少し馬鹿にしたような口調で私を見る。
「あまり必要ないからね」
「ケータイ、貸して」
素直にとおるくんに携帯電話を渡す。
「小さい『ゃ・ゅ・ょ』の出し方はね」
とおるくんは器用に携帯電話を操作して、教えてくれる。私も熱心にその言葉に耳を傾ける。
「へー、はじめて知った!」
『、』や『。』、改行の仕方も知らなかった私には、ものすごく新鮮だった。とおる先生の講義も分かりやすくて、ものすごく楽しかった。こんなに楽しい授業、大学の好きな科目以来かもしれない。
「とおるくん、教えるの上手だね。先生にでもなったら?」
とおるくんは驚いて目を見開いた。
「でも……」
「なに? そんなに死にたいの?」
とおるくんは首を横に振る。
「じゃあ、がんばって治療して?」
とおるくんの瞳に影がさす。
「昨日、先生と治療方針を話し合ったんだ」
今までの楽しい雰囲気が一気に暗くなる。それでも……これは聞いてあげないといけないことなのだ。
「うん」
続きを促すようにそううなずいた。
「明日、手術することになったんだ」
「え? 明日? ずいぶんと急な話ね」
とおるくんが口を開きかけた時、
こんこん、と部屋の入口を遠慮がちにたたく音がした。
私ととおるくんは同時に音のした方向に視線を向けた。そこには白衣を着た男が立っていた。茶色い髪に赤い唇。茶色の瞳の奥に……嫌な光が見えて、少しぞっとした。
「新井先生」
とおるくんは見知った顔なのか、少しほっとした表情でそう呼んだ。
「お話しているところ、失礼します」
そう言ってとおるくんのところへ歩いてきた。
「体調はどうですか?」
さっきの嫌な光はすっかりなりを潜め、とおるくんが
「新井先生」
と呼んだ男は心配そうな表情でとおるくんを見ている。さっきのあの光は……見間違いだったのだろうか?
「朝起きた時は少ししんどかったけど、今は大丈夫です」
とおるくんは少し無理をして笑う。
そんなに無理をしないで、と言いたかったけど……ぐっとこらえる。
新井先生は私を一瞥したけど、特になにも言われなかった。でも、瞳になにか言いたそうな色を浮かべて、
「また夕方頃、顔を見に来ますね」
それだけ言うと、新井先生は部屋を出て行った。新井先生の気配が完全に消えるまで、私たちは無言だった。
「新井先生、すごくまめに俺の様子を見に来てくれるんだ」
その表情は、少し尊敬の念が混じっていた。
「とおるくんの担当医なの?」
「違うよ。研修医らしいんだけどね」
病院のそのあたりのシステムがわからなくて、ふーん、と曖昧にうなずくことしかできなかった。
「明日、何時から手術なの?」
「九時からだったかな」
とおるくんはごそごそとなにかを探しだし、私に渡す。
「見ていいの?」
紙をちらりと見たら、医者が作ったらしいスケジュール表だった。
「うん」
その紙に視線を落とした。
そこには、入院してから手術前と後、その後のスケジュールが書かれたものだった。手術の部分を見ると、明日の九時からと書かれていた。
「あの……りささん」
とおるくんはか細い声で私に呼び掛けた。紙から視線を上げて、とおるくんを見る。
「明日の手術にきてもらっていい?」
「え?」
とおるくんの予想外の言葉に、驚いた。
「母さんひとりだと……心細いと思って。オレに付き添うというより、母さんに付き添っていてくれると……うれしいんだけど」
私は悩んだ。
明日は土曜日。たぶんそのスケジュールにしたのは、とおるくんのお母さんの仕事の都合もあるのだろう。ということは、たかゆきも明日は休み、ということになるはずだ。
「あ……明日、土曜日か。ごめん、今のは聞かなかったことにして」
とおるくんは明日が土曜日ということを思い出したらしく、前言を撤回しようとしていた。
「あ、いや。たかゆきに話してみる」
「たかゆき……?」
とおるくんは初めて聞く名前に疑問の視線を私に送ってくる。
「ああ。私の夫。小学校の先生してるのよ。明日はお休みのはずだから」
とおるくんは両手を振って、あわてる。
「じゃ、じゃあ、駄目だよ! りささん、来ちゃだめだ。さっきのはほんと、聞かなかったことにして」
顔を真っ赤にしてそういうとおるくんがかわいくて、クスッと思わず笑みをこぼす。
「たかゆきが仕事でも休みでも私には関係ないから。それより、お母さんの方が私は心配よ。心配しないで。私、明日来るから」
「いや、だって。悪いよそんなの!」
「だって、とおるくん、大切な手術でしょ? たかゆきを一日放置したからって、大丈夫よ」
冷え切っている夫婦だし、休みだからとどこかに出かけるわけでもない。休みの日、たかゆきは自室にこもっているか、それかどこかへひとりでふらっと出かけるかのどちらかだ。私がいてもいなくても、そんなのは関係ないらしい。
ちらり、と腕時計を見た。
「わ、こんな時間! 私、帰るね。明日は9時前にここに来る、でいいのかしら?」
「あ……ほんと、いいよ」
「とおるくんはいいかもしれないけど、お母さんが心配よ」
とおるくんは黙る。とおるくんはほんと、優しい。
「じゃあ、明日また来るね」
椅子から立ち上がり、椅子を片付ける。とおるくんはベッドから降りてスリッパをはき、当たり前のように私の後ろについてくる。
「見送りならいいよ」
と言っても、とおるくんは首を振る。
「飲み物も買いたいし」
それはたぶん、いいわけ。
前に来た時のように、エレベーターを一緒に待ってくれる。ちんっ、とやっぱり笑えるほどかわいい音がして、エレベーターが開く。
「あ……れ。とおる!」
中から、ふわふわの髪のかわいらしい女の子が降りてきて、とおるくんを認めるとうれしそうな声を上げる。
「かおり……」
とおるくんは間が悪いといった表情で、私を見る。私は小さく手を振って、エレベーターに乗り込んだ。
「とおるー、ひさしぶりー!」
甘ったるい声でとおるくんに近寄り、腕に絡みつく。とおるくんは照れくさそうに絡んできた腕を許す。それを見て……ずきん、となぜか私の心が疼いた。
……なんで? どうして……?
エレベーターが閉まる間際に見た、とおるくんの今まで見たことのない表情が網膜に焼きついたんじゃないかってくらいずっと離れないでいる。
買い物をしていても、夕食の支度をしていても。
なんで私……こんなに気にしているんだろう。
私と違って、ふわふわとしたかわいい女の子。ふたり、とても似合っていた。絡んだ腕に上気した顔。なんで私は……こんな黒い気持ちを抱いているのだろう。
がちゃ、と戸が開く音がした。
「お帰りなさい」
いつものように玄関までたかゆきを迎えに行く。たかゆきは無言のまま靴を脱ぎ、私を見ることなく自室へこもろうとする。
「ねえ」
その後ろ姿に声をかける。
「明日の予定は?」
私の質問に、たかゆきは
「ない」
と二語発し、そのままやはり私を見ることなく、部屋に入る。
そっとため息をつき、食卓にご飯を並べる。準備が済んでも出てこない。たかゆきの部屋に行き、ノックをする。
「たかゆき、ご飯だよ」
中からくぐもった声で
「食べてきた。いらない」
さすがに腹を立てる。
「ふざけないでよ! 食べてくるのなら来るって連絡ちょうだいよ!」
ドアを開けようとドアノブに手をかけて回そうとしたが、鍵がかかっているらしく、開かない。
「たかゆき!」
完全に拒否されて、絶望的な気分になる。
なに、この思春期の子どもみたいな反応は!?
どんどん、と扉を何度かたたくが、たかゆきからはなんの反応もない。
「ねえ、なに怒ってるのよ!?」
私の問いかけにも答えない。
「明日、朝から出かけるからね!」
もうなにを言ってもらちが明かないのがわかり、自分の用件だけをさっさと伝えて、リビングに戻る。
少しさめてしまったご飯を目の前に、義務感だけで食事をする。
たかゆきの分はラップをかけて冷蔵庫へしまっておく。明日の朝、食べればいいか……。
どうにか胃に食事を詰め込み、食器を片づけてお風呂に入る。
お風呂から上がり、そういえばとおるくんのお母さんの連絡先を聞いていたな、とちらりと時計を見ると、二十一時を過ぎていた。失礼かな、と思いつつも明日のことを前もって伝えておいたほうがよいような気がして、電話をかける。
しばらくコール音が鳴り、がちゃり、とつながる音がした。
『はい、島田でございます』
何日か前に聞いた落ち着いた声に少し安堵する。
「あの、川浦です。夜分に申し訳ないです」
『ああ、りささん。こんばんは、ちょうどよかった。わたし、今帰ってきたところで。今日、とおるのところに行ってくださったみたいで。ありがとうございます』
「いえいえ。それで……明日の手術、お母さん、不安でしょう? 私、ご一緒しますよ」
私の申し出に、とおるくんのお母さんは激しく恐縮しているようだった。
「いえ、話を聞いてしまったので……。家で待っているのも落ち着かないので、ご迷惑でなければご一緒させていただいてもいいですか?」
そう切り出せば断られないとわかっていながら、そう言っていた。ものすごく恐縮しつつ、それでしたら、と了承の言葉を聞き、安堵する。明日、病院に行く時間を確認して、電話を切った。
ほぉ、とため息をついて、リビングの電気を消し、自分の部屋に戻る。
服を入れるタンス以外なにもない部屋。押入れから布団を出し、敷く。
少し眠るには早い時間だったけど、とおるくんとあの女の子の姿が焼き付いていて。それを忘れたくて、布団にもぐりこんだ。