夢の世界に逃げたところで……。
現実は変わらない。
◇ ◇
たかゆきは小学校の先生をしている。
念願だった小学校の教師として赴任したころ、先生という仕事の大変さをよく愚痴っていたけど、さすがに十年も先生をやっているとようやく慣れてきたのか、最近はあまり愚痴を言うことがなくなった。
たかゆきの好きなハンバーグを用意して、帰りを待っていた。
待っても待っても帰ってこない。
たかゆきが心配になって、携帯電話を取り出し、メールを作成しはじめた。よほどのことがない限り、私からたかゆきに電話をかけることはない。
たかゆきは車で通勤していたし、会議もちょくちょく入ることがあるのでいつでも返事ができるメールが都合がよいと言われたので、急ぎでない限りはメールにしている。
なれないメールを一生懸命打っていたら、ぽん、と頭を軽く叩かれた。びっくりして椅子から立ち上がり、後ろを振り返った。
「ただいま」
そこには、たかゆきが立っていた。
「お……お帰りなさい」
心臓が飛び出すかと思った……!
「呼んでも聞こえないほど熱心に、なにしてたんだ?」
たかゆきは目を細めて、私を見る。ああ、この冷たい目だ。最近よく見る、さげすむような目。
「たかゆきの帰りが遅いから、メールしようとして」
作成途中のメール画面を閉じた。
「ごはん、食べるでしょ?」
「食べてきた」
「…………!」
たかゆきのその言葉に、私は止まる。今まで、外食するときは事前に連絡を入れてきてくれていた。それが今日は連絡もなく……悪びれた様子もない。
「せっかくたかゆきが好きなハンバーグにしたのに。食べて帰るのなら教えてよ」
ため息とともに、それだけ告げた。
たかゆきは聞いているのかどうかわからないけど、その言葉に対してなにひとつ反応を示すことなく、風呂場へと向かっていた。
……なんだろう。
冷えた料理を温めなおし、ひとりで夕食を食べた。
◇ ◇
いつもと変わらぬ時間に起きて、寝起きの悪いたかゆきを苦労して起こす。
コーヒーを入れて、新聞も用意して。朝ご飯を食べさせて。いつもの時間に送り出す。
「今日は?」
私はいつも聞かないたかゆきの予定を聞いた。聞かれると思っていなかったらしいたかゆきは驚いて私の顔を見て、
「今日はいつも通りの予定」
それだけ告げて、振り向きもしないで学校へ向かう。
がちゃん、と冷たい音をたてて閉まった玄関を見て、小さくため息をつく。
いつものこととはいえ……。たかゆきは私のことをどう思っているのだろう。
最近ちらりとそんな考えが思い浮かぶ。
たかゆきは私のことを便利なお手伝いさん程度にしか思っていないのだろうな。
考えても仕方がないことなので、リビングに戻って洗濯が終わるのを待つ。
昨日、病院の帰りに買ってきたアルバイト情報誌を取り出し、ぱらぱらとめくる。気分転換にパートにでも出ようかと思って買ってきたものの、特にやりたいと思わせるような求人広告がなくて、がっかりした。ぱらぱらぱら、と適当にめくっていたら。
「……ん?」
視界の隅に、なんだか変なものが目に映った。めくっていた手を止めて、前のページに戻る。
「夢の世界へご招待。時雨堂(しぐれどう)。……なに、これ?」
左ページの一番下に書かれていた文字を読み上げた。
書かれているのはそれだけ。あとはなにもない。他のページにもこういう文字が入っているのかな、と思ってめくってみたけれど、どうやらそのページだけのようだった。
なんだろ、これ?
気になってその文字をもう一度目で追ってみた。そこからはそれだけの情報しか得ることができなかった。
その文字に思いをはせていたら、洗濯機が洗濯を終えたという音をさせた。椅子から立ち上がり、洗濯機のもとへ行き、洗濯ものを干した。
午前中の仕事はこれで終わった。
今日、どうしようかと悩んだ。
今日もとおるくんのところに行くのは……さすがにまずいかなあ、と思いつつも、とりあえずメールをしてみようと思い、なれないメールを作成する。
『おはようりさですきようもおじやましてもよい』
という文章を打つだけでたぶん、二十分近くかかっている。
しかも、『ょ』や『ゃ』の出し方がいまだによくわからなくて、なんだが電報みたいになってしまった。とおるくん、これを見たらまた私のことを『おばさんだな』って笑うかな?
それほど時間がかからず、とおるくんから返信が来た。
『おはよ。今日は検査と先生から治療方針があるらしくて時間がわからない。明日は予定がないはず。りささん、やっぱりおばさんだな。明日、俺がケータイの使い方、教えてあげるよ』
とおるくんからのメールを見て、予想通りの『おばさん』という文字にムッとする。
『がんばつてねおばさんより』
今度は短かったから、十分くらいで返信することができた。少し待ってもとおるくんからはメールの返事がこなかった。
時計をちらりと見ると、十時過ぎ。検査に入ったのだろうと思い、ぱたんと携帯電話を閉じて、今日のこれからの予定を考える。
買い物も昨日、済ませたし。
こうしてみると、主婦というのは気楽なんだなと思う。
子どもがいたらまた話は別なんだろうけど、夫の帰りを家で待つだけというのは……改めて考えると、暇だ。
今までどうやって過ごしていたのか思い出せなくて、私は戸惑った。
◇ ◇
パソコンの電源を入れ、ぼんやりとインターネットでニュースなどを見ていた。それにも飽きて、パソコンの電源を切り、テレビをつける。
いろんなチャンネルを見たが……どれを見ても面白くなくて、テレビの電源も切る。
私は……たかゆきが帰ってくるまで、なにしていればいいんだろう。帰ってきたところで、なにか変わるわけではないのも分かっているけど。
ふと携帯電話に視線を落とした時、メール着信を知らせた。少しびくっと身体を揺らし、携帯電話を見た。たかゆきからだった。
『今日、急に会議が入ったから遅くなる』
遅くなるのはいいけど、ご飯はどうするのよ!?
なれない携帯電話を一生懸命操作して、返信する。
『ごはんはどうするの』
それだけの文字なのに、五分くらいかかったと思う。
たかゆきからすぐに返事が返ってきた。
『いらない』
その四文字を見て、私のこともいらないんじゃないかと思わずうがった見方をしてしまう。
涙が出るほど私はたかゆきに対して熱い想いは持っていない。
部屋にひとりでいることが耐えられなくて、外に出た。
私の心とは裏腹に、空は嫌味なくらい、晴れていた。雲ひとつない青空に恨みの視線を向けたところで、なにひとつも変わるわけはない。
あてもなく歩いた。ぼんやりと歩いていたら、見覚えのない路地になぜかいた。青空の下とは思えないほど闇をまとったその路地に、急に不安になる。
帰ろうと思って振り返ったら、なぜか壁がそそり立っていた。
私……ここから歩いて入ったんだよね?
確認するように壁を触ってみたけど、私の手のひらにはコンクリートの冷たい感触しか返ってこなかった。
ため息をひとつついて、振り返った。
「え……?」
びっくりした。さっきまでの暗がりの路地は、淡い黄色い光を浮かべていたのだ。実物を見たことがないけど、その淡い黄色い光は蛍がふわふわ飛んでいるような美しい光景で、目を細めた。
そしてその先に、一軒の家が建っていた。どちらにしても、この路地から出るにはあの家を通らないと出られないようだった。そんな場所にどうやって入り込んだんだろう。疑問に思いつつも、先に見える家に足を向けた。
路地の先に建っている家は、どこにでもあるような普通の家だった。木の扉にはプレートが張り付けてあり、最初から読めない字で書かれていたのか、経年変化で読めなくなったのかわからない文字が書かれていた。
この扉に手をかけてあけるべきなのか悩んでいたら
きぃ……
と音がして、勝手に扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
扉が開いたと同時に中から若い男の声が聞こえ、びくっと身体を揺らした。
「まだ開店準備中ですが、どうぞ中へ」
心地よいテノールの声。
「ようこそ、時雨堂へ」
しぐれどう……?
つい最近、どこかでその文字を見たな、とぼんやり考え、思い出した。あの求人誌の端に書かれていた文字。
『夢の世界へご招待。時雨堂』
「店先に突っ立っていられると困るので、入ってもらえませんか?」
中から困った声色の男の声に、私は意を決して内へ足を踏み入れた。
「おや、こんな昼間なのに闇を連れてこられて、困りましたね」
店の奥から声がして、男は姿を現した。
少し長めの黒い髪、長いまつげに彩られた切れ長の瞳。黒色の眼鏡のフレームの奥に見える茶色の瞳が少し困ったように見ていた。
男はふぅ、と息を吐いて私の横に立ち、細くて神経質そうな指で私の肩を払い、後ろの扉を少し開いてなにかを外に投げた。
横に立った男を少しだけ見上げた。
とおるくんよりは低め。たかゆきより気持ち背が高いくらい?端正な顔立ちで……美しい、という形容が一番合いそう。
「あなたには僕の店の商品、まったく必要になさそうですけどね。川浦りささん」
男のその言葉に、驚く。初対面……のはずよね? なんで私の名前、知っているの?
「僕の名前は羽深(はぶか)しぐれ。この時雨堂の……一応店主です」
そういってふんわりほほ笑むけど、その笑みに得体の知れなさを感じて、一歩後ろに引く。
「あ。心配しないでくださいね。僕はあなたに指一本も触れることができませんから」
そういえば、さっきも肩を払ったけど……触れられていない。
「お茶をお出ししますから、そちらに座ってお待ちください」
男はそう言って、体重がないのではないかと思われるほどふわりと軽く振りかえり、店の奥へと姿を消した。男の指示通りに椅子を引いて座った。
そしてきょろきょろと室内を見渡す。広いのかせまいのかわからない室内。ぼんやりと薄暗い心落ち着く黄色い光が部屋に充満していた。それでもこの部屋の壁を見ることができない。
男が消えた奥から、コーヒーのいいにおいがしてきた。
それほど時間が経たないうちに男はお盆を両手に持って戻ってきた。
「あなたはカフェラテがお好きなんですよね」
男は私の前にカフェラテが入ったカップを置く。なんで……私の好みを知っているんだろう。
お盆の上にもう一つカップが乗っていて、細い指でつまむように持ち、私の向かいに置く。そしてお盆をテーブルの端に置き、椅子に座る。
「改めて時雨堂にようこそ。……といっても、本来はあなたは招かざる客、なんですけどね」
男はップの中のお茶の香りを楽しむようにして口に含む。
「うん、上手に入れられました」
マイペースな発言に、どうすればいいのか戸惑う。
「どうも最近はなにかいけませんね」
ぶつぶつと独り言を言っている。
「ま、僕も暇してましたので、少しお茶の相手をしてくれませんか?」
男は私にカフェラテをすすめる。恐る恐る手を伸ばし、口に含む。コーヒーの味とミルクの味が同時に口の中に広がる。……おいしくてほっとする。
男は私の表情を見て、瞳を優しく細める。昨日見たたかゆきの表情とは正反対だ。
「あの」
私はおずおずと口を開いた。
「『夢の世界にご招待』とはどういう意味ですか?」
男は細めていた瞳をもとにもどす。
「どうしてそれを……?」
「アルバイト雑誌で見たんです。『夢の世界にご招待。時雨堂』という文字を」
男はまた目を細める。
その瞳は……先ほどの優しさはまったく感じられず、私の背中につーっと冷たいものが伝った。
「なるほど。わかりました。招かざる客のあなたがここに来た理由が……わかりました」
まったく意味がわからなくて、男を見た。
「あなたは、逃避したいほどひどい現実に直面したことがありますか?」
まったくないわけではない。けど……逃避することができないのはわかりきっていた。
「本来、ここは……現実世界に嫌気がさした人にしか来ることができない場所なんですよ」
ああ、そういう意味では……現実世界に嫌気がさしてはいる。しかし、そこから逃げたいと思ったことはない。
「ああ……なるほど」
男は私の瞳を見つめたまま、にこりと笑った。
「わかりました。あなたではなく……その少年が必要としている、というわけですね」
「少年?」
男の言っている意味がわからなくて、首をかしげた。
「まー……。本来は……本人のみの使用しか認めてないのですが……。必要としている少年がここに来ることができないのならねぇ……。例外を認めてもいいですよね?」
男のその声に、どこかでちりん、と涼しい鈴の音がした。そして男は懐に手を入れて、なにかを取り出した。ふと見ると、男はいつの間にか私の横に立っていた。
「りささん、これをあなたにお渡しします。でもこれは……その少年……とおるくんですか? にしか使用することができません」
黒縁の眼鏡の奥の瞳がきらり、と光ったような気がした。
「齢十八にして……死の宣告。それは……現実から逃げたくなりますよねぇ」
男は楽しそうにくつくつくつ、と笑う。なにが楽しいのかわからず、男を見上げて睨んだ。
「いいですか、りささん。とおるくんにこれを、渡してください。この白い札を枕の下に忍ばせて眠れば……」
再度、のどの奥で楽しそうに笑う。テーブルの上に無造作に置いていた左手のひらに男は右手を滑り込ませ、なにかを無理やり握らされた。
「な、なに!?」
「僕はあなたに触れることができませんからね」
そう言って、にこやかな笑顔のまま、私の正面の席に戻ってお茶を飲む。
「いいですか、その白い札は……必ずとおるくんに渡してくださいよ?」
男の細められた瞳はなにかをたくらんでいるような光を含んでいたけれど……。右手でその渡された白いお札を取ろうとした。
が。なぜだかその白いお札に触ることができない。
「ちょっと! なによこれ!?」
「あなたには触れることができないですよ。僕があなたを触れることができないように」
左手を振ってみた。それでもとれない。
「諦めて、おとなしくお茶を飲みなさい。そうしたら僕はあなたを元の場所に送り届けますから」
その言葉を聞かず、手を振ったり右手ではがそうとしたりした。なにがどうなっているのかわからないけど、その白い札は私の手のひらからまったく離れようとしない。あきらめて……カフェラテを一気に飲み干した。
「ごちそうさま!」
この場にいるのが不快になり、がたがたと音を立てて椅子から立ち上がった。
「乱暴ですね」
男は私の様子を見て、楽しそうに見つめる。
「もう少し待っていただけますか? あなたの世界との接点にうまくつなげられないんですよ」
あの闇には……困りましたね、と小さくつぶやく。意味がわからなくて聞き返したけど、男は答えない。
男はカップに残ったお茶を飲み干し、ようやく立ち上がった。
「思ったより時間がかかってしまいました。現実世界はちょっと時間が経っていると思いますが……平気ですよね?」
平気かといわれても、困る。
「まあ、あなたもいい大人のようですから……。たまにはたかゆきさんを困らせていいと思いますよ、優等生なりささん」
男の言葉に、私は目を見開く。
「さあ、どうぞ」
来たときに入った木の扉が開かれる。すると眩しい光が部屋に入ってきて……あまりの眩しさに、目を閉じた。
どれくらいそうやって目を閉じて立っていただろう。光が感じられなくて、むしろ、夜の闇を感じて、驚いて目を開けた。そこは、見慣れた……夜のマンションの前だった。ふと空を見上げたら、昼間の青空を彷彿とさせる、雲ひとつない夜空に星がきらきらと瞬いていた。いつの間にここに戻ってきたんだろう。
時間を知りたくて、腕時計を見た。時計は……二十一時過ぎを指示していた。
しまった! と私は焦る。
いくら遅くなるといっても、たかゆきはさすがに帰ってきているだろう。あわててマンションのエントランスに走る。すると、中から見覚えのあるシルエットが焦って出てきた。それがたかゆきと認めて、足を止める。向こうは私に気がつかない。
帰ってきたばかりなのか、朝出て行った時のスーツ姿のまま、血相を変えて自動扉が開くのも待ちきれないといった切羽詰まった表情で走って出てくる。
「たかゆき……」
私の声にたかゆきはびっくりして、足を止める。
「……りさ!」
私の姿を見て、たかゆきはものすごい形相をして大股で歩いてくる。そして私の腕をつかみ、強引に引っ張って中に連れ込まれた。エレベーターの中でも無言。玄関に来て乱暴に鍵を開けて、私を投げるように中に入れる。
その後ろからたかゆきは入ってきて、扉を閉めると同時に私の腕をぐいっとつかみ上げる。
「痛いっ!」
抗議の声を上げたが、たかゆきはお構いなしのようだ。
「今までどこに行っていたんだ!」
怒鳴るたかゆきに答えられなくて、
「ごめんなさい」
としか言えなかった。
「オレが仕事の間に、おまえはオレに言えない場所に行っていたのか!?」
たかゆきの瞳に怒りの色が見えて、驚く。
さっきまで見ていたことを正直に話しても……たかゆきは信じるどころかよけいに疑いを持つに決まっている。
それよりも……。あんなに私に無関心なたかゆきが、怒っている。そのことに激しく戸惑った。
ねえ、たかゆき。私のこと……どう、思って、いる、の?
聞きたいけれど……たかゆきの気持ちを知ることが怖くて。
「ごめんなさい……」
かたくなに話すことを拒む私に、たかゆきは深いため息をつく。
つかんでいた腕を離し、激昂したことにばつが悪そうな表情をして、私に背を向け、部屋に入っていった。
私は……妙なさみしさを覚えた。
たかゆきにどうしてほしかったんだろう。
抱きしめてもらう?
ううん。そんなもの、望んでいない。
たぶん……私への関心がすぐに薄れてしまったことに対する、さみしさ。
今日の朝、ふと思ったことが頭をよぎる。……私は都合のいいお手伝いさんでしかないのだ。だから『いらない』のだ。
この結婚生活に空しさを覚えた。