アンリアル~Unreal~【りさ】03


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 死ぬために生きていた私。
 そんな私でも必要としてくれている人がいる。
 そう思ったら……今まで生きてきてよかった、と思う。
   ◇   ◇
 とおるくんのお母さんからお願いされた次の日の昼下がり。とおるくんに会いに、病院に行った。受付でお見舞いの手続きをして、病室へ向かう。
 とおるくんは四人部屋の窓際に入口を背にしてベッドの上に座っていた。他の患者は部屋にいないだけなのか、もともととおるくんひとりだけなのか、他に人影が見当たらなかった。開きっぱなしの部屋の扉を軽く叩いて、入室した。とおるくんはノックの音に少しびくっと肩を震わせ、目のあたりをこすって、私の方へ顔を向けた。

「こんにちは」

 にっこり笑って、とおるくんを見た。

「あ……」

 とおるくんは私の顔を見て、少しばつが悪そうな表情をした。目が赤くて……泣いていた?

「あ、ごめんね」

 来てはいけないタイミングだったのを悟り、一歩後ろに下がった。

「……りささん、待って!」

 部屋を出ようとした私を、とおるくんは引き留めた。どうすればいいのか分からなくて、そのままそこにとどまる。

「あの……わざわざ来てくれて、ありがとう」

 そう言ってベッドから降りて、折りたたみの椅子を出してくれた。とおるくんのベッドまで歩いて行き、出してくれた椅子に素直に座った。

「母さんが無理を言ったんでしょ? 忙しいのに、ごめんね」
「あ、いや、いいのよ。私なんて、暇してるんだから。こんな私でもとおるくんの話し相手になるのなら、歓迎よ」

 ここへ来る途中に買ったペットボトルのお茶をバッグから取り出し、窓辺に置いた。

「ごめんね、気の利いたお土産ひとつも持たないで」

 差し入れしていいのかわからなかったので、どうかなと思いつつ、手ぶらで訪れていた。

「お土産なんて、いらないよ。それより母さん、強引だろ?」
「強引じゃなかったよ」

 私の言葉に、とおるくんは口を尖らせる。

「生命保険の外交員してるから、結構、ヒャクセンレンマなんだぜ」

 とおるくんと百戦錬磨という言葉があまりにも似合わなさすぎて、ぷっと吹き出した。

「な、なにがおかしいんだよ!」
「あはは、とおるくんと百戦錬磨という言葉が……あまりにもかけ離れていて」

 失礼だと思ったけど、あまりにもおかしくて、笑いが止まらなかった。

「なんだよー。そんなに笑わなくてもいいじゃないか」

 少しすねたような響きに、ようやく笑いが止まった。

「あの……ごめんね」

 そっぽを向いたとおるくんの顔がよく見えなくて、かなり気分を害したかな、と小さく謝る。

「あ……いや、いいよ。ほんと、俺には似合わないから」

 そうぽつりとつぶやいたきり、私たちの間に沈黙が落ちる。その沈黙が耐えられなくなり、先ほど出したペットボトルのふたを開けて、お茶を飲む。口の中に、思っていた以上の苦い味が広がる。今の気持ちが味に表れているようだ。
 とおるくんの視線が私のペットボトルに移ったのがわかった。

「あ、それ……」

 沈黙を破ったのは、とおるくんだった。

「最近出たやつだろ? ちょっと飲みたかったんだ」

 そう言って、飲みかけていた私の手からひょい、とペットボトルを奪い、そのまま飲む。

「うげ、にがっ!」

 とおるくんはしかめっ面をして、ペットボトルを私に押し返す。
 素直に受け取ったけど……正直、戸惑っていた。
 たかゆきとさえ、こういうこと……要するに飲みかけのものを奪って飲むという行為……はしない。
 戸惑っているのに気がついたとおるくんは、

「あ、ごめん。いつもの癖で勝手に取って飲んじゃった」

 困ったように頭をかいているとおるくんに、微笑んだ。

「気にしないで。私のまわり、こういうことする人がいないから、ちょっとびっくりしただけ」

 なんでもないとアピールするように、お茶を一口飲んで見せた。さっきはものすごく苦かったのに……不思議と甘く感じた。

「ふた口目は思ったより苦くないかも」

 私はそう感想を漏らした。とおるくんは少し躊躇したものの、好奇心に負けたのか、私の手からまたペットボトルを取って、ごくり、とお茶を飲む。

「あ、うん。ほんとだ」

 不思議そうに手に持ったペットボトルを見つめ、再度私の手に返してきた。返ってきたペットボトルを見つめ、もう一度お茶を口にして、ふたをした。

「で、さっき、泣いてたの?」

 思い切って聞いてみた。とおるくんは気まずい表情をして、

「……泣いてた」

 と素直に答えた。あまりの素直さにくすり、と笑った。

「違うよ! って突っぱねられるかと思った」
「だって、りささんに嘘ついたって仕方がないし」

 少し赤くなって、俯き加減でとおるくんはつぶやく。
どうしたの?」

 とおるくんは床の模様をじっと見つめていたが、意を決したように顔をあげて、私の目を射るようにして見る。
 その強い瞳に……どきっとする。心の奥をのぞかれているようで……それでもその瞳から目をそらすことができずにいた。

「午前中に……母さんと俺、医者に呼ばれて」

 ああ、病名を告げられたんだろうか。

「骨肉腫、と言われた」

 聞いたのか。
 下手に隠すより、正直に話をした方が治療の結果がよくなることもあるということを、聞いたことがある。
 昨日、帰ってから気になって、インターネットで骨肉腫について調べてみた。最近は昔と比べて治療法が確立されて、ぐんと生存率があがっているらしい。骨にできる腫瘍で、悪性と良性とあり、十代前半に一番発症する人が多い病気で、原因は不明。手術をして、患部を摘出したうえで化学療法……要するに抗がん剤治療をすることで、七十%近くの人が生存するという。
 がんのなにが怖いって、やはり転移が一番怖い。骨肉腫は肺に転移しやすいものらしい。

「やっぱりオレ、がんだったんだよ」

 とおるくんは暗い目をして、私を見据える。

「うん、そうだったんだね。……とおるくんを疑って、ごめんね」

 素直に謝った。

「でもさ、がんも昔と違って、生存率は上がってるんだから。本人の気持ち次第だと思うけどな」

 とおるくんの瞳が揺れる。

「オレ……将来の夢、サッカー選手になる、だったんだ」

 とおるくんの言葉に、はっとする。
 サッカー選手は……特に足が命だ。それなのに、とおるくんは……足の手術をしなくてはならないのだ。それは、選手生命の終わりを告げることになる。

「とおるくんは、まだ未来があるじゃない。サッカー選手だけが選択肢じゃないと思うんだけど」

 ひどい慰めの言葉だ。こんな言葉をかけるくらいなら、無言の方がよいのだろうと思いながら……そう言うしかなかった。

「あんたに……なにがわかるって言うんだよ」

 とおるくんの怒りを押し殺したような声に、やっぱり、と思う。

「怒りたいなら、怒ればいいじゃない。悔しかったら、がんを治しなさいよ!」

 言わなければいいのに、と思いながら、なぜか怒るように言葉にしていた。とおるくんに生きることを諦めてほしくなかったんだと思う。私とは違って、きらきらと輝く未来がとおるくんには見えたから。私のように……死ぬために生きることはしてほしくなくて。それがたとえ……余命半年と宣告されていたとしても。もしかしたら……それはとおるくんの気持ち次第で、伸びるかもしれないのだ。
 そう思ったら、ただ純粋に生きてほしい、と思った。最後まで苦しい思いをするかもしれないけど、生きてほしい、と。
 ただの私のわがままでエゴだと思ったけれど。そして……どうしてそこまでとおるくんに望むのか、理由はわからなかったけれど……。
 それでも、とおるくんは今、私の目の前にいて、息をして、私の言葉に怒っている。
 そう、生きているのだから。

「死んだらなにもできないのよ!? 生きていたら、かなしくて苦しくて悔しいこと、たぶん今以上にいっぱいあるよ、でもね、それ以上に……楽しいこと、うれしいことがあるの。それを……とおるくんにはもっと知ってほしいの」

 とおるくんは視線をそらし、また床を見つめる。

「……して」
「?」
「りささん、どうして赤の他人の俺に……そんなこと言うんだよ」

 私はとおるくんの言葉に、悩んだ。
 そう。今日だって、わざわざこの病室に足を運ぶ義務はなかったのだ。専業主婦と言っても、いろいろと理由をつけて断ることができるのは、わかりきっている。それでも……私は今日、こうやってとおるくんのところにやってきた。お節介で野次馬根性、と言われたら……否定できないのは確かだ。だけど、それだけではないなにか……が私の奥深くに眠っているのに……昨日、気がついてしまった。
 今ならその“なにか”に気がつかなかったふりをすることができるのを、知っていた。
 だけど……好奇心でその“なにか”に触れてしまった。それは……遠い遠い昔に何度か出合ったことのある、気持ち。その感情の名前を知っていたけど、知らないふりをするしかなかった。触れてしまった気持ちを無視することも、片付けることも、開けることもできないまま、戸惑いつつもこの病室に来てしまった。
 そんな私の気持ちを知っているのか、とおるくんは床から視線を上げて、ゆっくりと私の瞳にその目を移動させる。とおるくんの茶色の瞳が、私の目を再度射抜く。

「そうね……。とおるくんに……生きてほしいから」

 ゆっくりとほほ笑んで、とおるくんの瞳を見た。その言葉に……とおるくんは目を見開く。

「死ぬために生きている私が言うのもおかしいけど。とおるくんに会って、生きてることもまんざら悪くないな、と思えたの」

 とおるくんに出会わなかったらきっと、私の今日は昨日と変わらない色と形だっただろう。毎日が違うはずなのに、同じ色と形が続いている。同じ色と形の日なんてありもしないのに。

「だから、そう思わせてくれたとおるくんに……生きてほしいと思ったのは……私のわがままかな?」

 とおるくんの瞳から……涙があふれた。

「え……。ちょ、ちょっと!?」

 とおるくんの予想外の反応に、私は焦る。バッグを漁って、あせってとおるくんにハンカチを渡す。とおるくんは前と同じように、ハンカチを受け取らない。やさしく、あふれ出てくる涙を拭いてあげる。
 男の涙が……こんなにきれいだなんて、この時まで知らなかった。
 とおるくんはぬぐうことなく、はらはらと涙を流す。
 そんな彼を抱きしめてあげたかったけど……それは、私にはいきすぎた行為だということはさすがにわかり、ハンカチで涙をふくことだけに専念した。
 しばらくそうして思うままに泣いていたとおるくんは、急に頬を赤くして、俯いた。そして、私の手からハンカチを奪うようにして取り、乱暴にごしごしと目をこすった。

「あ、そんなに強くこすったら、まぶたがはれるよ」

 とおるくんはこする手を緩め、ハンカチで目をぱんぱん、と叩くようにして涙を拭き取り、俯いた。

「私、今日はとおるくんにお礼を言いに来たの」

 とおるくんは涙にまだ濡れている瞳で私を見る。

「結婚して仕事を辞めて。私の生活は家の中が中心で……。社会から切り離されて。私の周りは変わらないで、毎日の繰り返し。なんのためにどうして生きているのかだんだんわからなくなってきてた」

 子どももいくら望んでもできない。
 見知った顔は、たかゆきのみ。近所のスーパーにお買い物には行くけど、レジの人たちと会話することもなくて。変わらない、日常。私だけここに取り残されて。世界は私を忘れている。そんな孤独感にさいなまされ。

「でもね、そんな私でも……必要としてくれる人がいるって知って……。うれしかったの」

 私は今の気持ちを表情に表現した。にっこりととおるくんに微笑む。

「ありがとう」

 とおるくんはなぜか思いっきり赤面する。
 …………? あれ? なんか私、おかしいこと言った?

「りささんっ! 反則だよ、そんなの……!」

 とおるくんは真っ赤になって私から視線をそらし、うつむいている。

「私、なにか変なこと、言った?」

 とおるくんはふるふると首を横に振るけど、じゃあどうしてそんなに真っ赤になって私から視線をそらすの?
 私たちの間に、再び沈黙が落ちる。
 でもその沈黙は、さっきとは違って……なんとなく心地よかった。
 窓から入るさわやかな風が……私の髪を揺らす。その風がとても気持ちよくて、目を閉じて、うつむく。なんだかだれかにやさしくなでてもらっているようで。こうやって風を感じるのも……いつ以来なんだろう。
 私は本当に……自分が今までただ
「生きているだけ」
だったのを知った。日々の小さな変化さえ気がつかず、昨日と一緒と嘆いていた昨日までの自分に言ってあげたい。昨日と今日は、こんなにも違うじゃないの、と。なにを見ていたの、と昨日までの私を叱りたい。
 私の生活自体は変わってないけど……こうも気持ちの持ち方で同じものでも違って見えるのか、と驚く。
 病は気から、とも言うし。やっぱり気持ちの問題だったのだ。少し、鬱っぽかったのかもしれない。
 そうだ、今日はたかゆきの好きなハンバーグを作ろう。ちょっとしたお祝いだ。もらった赤ワインも開けよう。
 そう思いを馳せていたら、近くでごそごそ、と動く気配がした。目を開けて、音のした方向を見た。
 とおるくんがベッドから降りて、冷蔵庫を開けていた。

「あー、飲み物ないや」

 その言葉に、ふと腕時計に視線を落とした。この病室に入って思ったより時間が経っていた。あまり長居しても悪いと思って立ち上がり、ペットボトルをバッグにしまってから椅子をたたんだ。

「りささん、帰るの?」

 とおるくんの少しさみしそうな声。

「こう見えても私、主婦だからね。買い物して帰って、今日の夕飯を作らないと。洗濯ものも外に干したままだし」

 窓から外を見た。雲ひとつない青空が見えて、雨の心配はないけどそろそろ部屋に入れないといけない時間が迫っていた。

「淋しいの?」

 とおるくんはまた顔を赤くした。いやー、反応がかわいいなぁ。そんな思いでとおるくんを見た。

「さ、淋しくなんかないよ!」

 それは精一杯の強がりなのを知って、私は冷蔵庫の中を見ようとしゃがんでいたとおるくんの頭をくしゃくしゃ、となでた。とおるくんは私のその行為を首をすくめて無言で受けた。
 私の手が離れたのを知ると、とおるくんは冷蔵庫の扉を閉めて、立ち上がる。とおるくんが立ち上がると、私の視線は自然と上に向く。
 背、高いな……。
 私はたかゆきと比べていた。
 たかゆきは百七十五cmくらいだったから……並んで歩くと目線は気持ち高いくらい。
 そういえば、とふと思う。最近、たかゆきとどこか一緒に出かけた記憶がない。いつが最後だったかな……。少し考えて、思い出せないことに愕然とする。
 私とたかゆきは……こんなにすれ違っていたのか。
 月に一度、義務のように肌を重ねることはあっても……手をつないで一緒に出かけることもない。そんな状態で……子どもができればなにかが変わるとでも、思っていたのだろうか。私は……子どもに関係の修復を求めていたのかもしれない、と思ったら、急に子どもがほしい、という気持ちが薄れた。まだ見ぬ子どもに……なにを期待していたというのだ。
 死ぬために生きていた私でも……期待する思いはあったのか、と思ったらちょっとだけ昨日までの自分が愛しく思えた。
 昨日までの自分を否定するのは簡単だ。でも、否定しても……それまでの私を変えることはできない。

「りささん?」

 ぼうっとしていたようで、とおるくんの呼びかけにはっとした。

「あ、私、帰るね?」

 語尾を上げて、とおるくんにそう言う。それはまるで……帰ることに許しを乞うような響きになってしまった。

「うん……」

 やっぱり淋しそうな視線を私に向ける。淋しいし、心細いよね。

「あ、そうだ」

 バッグから携帯電話を取り出して、

「携帯電話の番号とメールアドレス、交換しようか」

 私の申し出に、とおるくんは目を丸く開く。

「あ、携帯電話、持ってない?」

 とおるくんは焦るように枕の横にある冷蔵庫の上をあさる。

「あ、あるよ!」

 携帯電話をかちっと音をさせて開き、プロフィール画面を開いて番号を読み上げようとした。

「あー、ちょっと待って!」

 とおるくんの制止の言葉に、軽く首をかしげた。

「なんでそんな面倒なことするんだよ」

 とおるくんは私から携帯電話を奪うように取り、なにかかちかちと操作していた。成り行きをただ見守っていた。

「りささん、おばさんだなー」

 とおるくんははい、と私に携帯電話を返してきた。画面を見ると、とおるくんの電話番号とメールアドレスが表示されていた。

「え……? なに、どうやったの?」

 なにかを打ち込んでいたようには見えなかったけど?

「赤外線通信も知らないのかよ」

 赤外線?
 反対側に首をかしげた。

「わかった。りささんがおばさんなことだけはわかった」

 おばさんと連呼され、むっとした。

「おばさんで悪かったわね」

 非難をこめた響きを含ませて、口にした。

「でもまあ、俺よりばりばりにケータイ使いこなしていても、ちょっと引くかな」

 とおるくんはにやりと笑って、携帯電話をパジャマのポケットに押し込み、カードを手に歩き出した。

「俺、飲み物買いに行くついでにそこまで送るよ」

 送るのが当たり前、という顔をしてとおるくんは入口で私を待っている。たかゆきには……こんなやさしさ、ない。
 結婚する前、たかゆきは一人暮らしで、私は実家から仕事に行っていた。たまにたかゆきの家を訪問して掃除に洗濯、料理としていたけど。
『じゃあ私、帰るね』
 たかゆきはいつもソファの上からめんどくさそうに、
『ああ、またな』
 玄関先まで見送りにも来てくれなかった。それを淋しいとは思わなかった。

「りささん、早く!」

 なかなか動きださない私にしびれを切らしたとおるくんは、そう声をかけてきた。

「あ、ごめんね」

 慌てて歩き出す。
 病院の廊下を並んで歩く。私の歩調に合わせて歩いてくれる。その優しさに、少し涙が出そうになった。
 たかゆきにも……ほんの少しでいいからこの優しさを分けてほしい。
 私たちはエレベーターの前まで来た。下ボタンを押し、エレベーターを待った。とおるくんは当たり前のように一緒に待ってくれる。

「私なら大丈夫だから。とおるくん、のど渇いてるんでしょ?」

 とおるくんは笑う。

「そんなでもないよ。下まで見送らせてよ」

 その言葉に驚く。

「いや、いいよ! ここまでで」

 普段されたことのないことなので、慌てふためく。
 ああそれでこの間、玄関先でとおるくんとお母さんを見かけたのか。

「そう?」

 不服そうな顔をしたとおるくんにびっくりする。
 なんだろう。なんてこの子はやさしいのだろう。神様がいるとしたら、なんて意地悪なんだろう。この子の命が……余命半年だなんて。交換できるのなら、私の命と交換してあげたい。
 私が死んだら、たかゆきは泣くだろうか。たかゆきの泣き顔が想像できなくて、少し気分が暗くなった。
 ちんっ、とかわいらしい音を立てて、エレベーターが到着した。

「今日はありがとう」

 とおるくんははにかんだようにお礼を言ってきた。エレベーターを乗り込んでびっくりしてとおるくんの顔を見た。

「こ、こちらこそ、ありがとう。ひどいこと言って、ごめんね」

 エレベーターの開ボタンを押しながらとおるくんを見た。そして軽く手を振って、ボタンから手を離した。扉がゆっくりと閉まり、私の目の前からとおるくんが消えた。
 行き先階を押すのを忘れていて、あわててロビーのある一階を押す。ゆっくりとエレベーターが下に向けて動き出す。
 びっくりした。あんな笑顔を向けられたのは、初めてだ。
 はにかんだ表情を思い出し、私は急に頬に熱を感じた。
 な、なんで私がここで照れる!?
 バッグを持っていない手で頬をぱちっと叩く。
 途中の階で止まり、私とあまり変わらないくらいの女の人がどやどやと乗ってきた。私は頬が赤くなっているのを見られたくなくて、端に寄ってうつむく。
 どうやら今乗ってきた団体は、出産見舞いの人たちのようだった。

「赤ちゃん、かわいかったねー」

 そんな会話が聞こえる。
 ……さっき薄れた子どもがほしい、という気持ちが再度心の奥から湧きあがってきて……その言葉に、心が冷える。
 諦めた……はずだったのに。いくらそう思っても、やっぱりどこかであきらめられない。諦めの悪い私の気持ちに、心の中で苦笑する。
『できないのなら仕方がないじゃないか』
 たかゆきの言った言葉が、胸をえぐる。
 たかゆきが子ども好きなのを、知っている。そして、私よりたかゆきの方が子どもを望んでいるということを。
 いつまで経っても妊娠できない私のことを……たかゆきはきっと、心のどこかで軽蔑しているのだろう。最近、たまに見せる冷たい視線を思い出す。
 こんな思いをしてまで……私たちは結婚生活を続けなくてはいけないのだろうか。ふとそんな思いが頭によぎる。
 でも。
 そう思っても私にはやっぱりたかゆきが必要で、どんなに冷えた関係になってもたぶんずっと側にいる。好きだとか嫌いだとかという感情以上のものを、たかゆきに対して抱いている。
 私がたかゆきに嫌われていても……。
 ううん、嫌ってほしくない。
 今も……好きでいてほしい。