アンリアル~Unreal~【りさ】02


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   ◇   ◇

 とおるくんと会ってからどれくらい経っただろう。彼のことを気にしつつ、なにか行動にうつすまでもなく、いつもと変わらない日々を“無気力で投げやり”に送っていた。
 日々の雑務を淡々とこなし、たかゆきとは排卵期に義務的にセックスをこなし、基礎体温を毎朝測り、今月も来てしまった生理に嘆く。
 不妊の原因は様々である。私のように排卵障害で不妊だったり、男性側に問題があったり。不妊という言葉でひとくくりにされるけど、不妊カップルの数だけ原因がある。
 ワイドショーの
「できちゃった婚」
と叩かれている芸能人を見て、羨ましく思う。結婚が先でも後でも順番なんてどうでもよくて、結婚したけどなかなか授からない苦労を考えたら、子どもが先でも構わないと思う。むしろこんな黒い気持ちを持ったまま夫婦生活を営むくらいなら、さっさと作ってから結婚したほうがよほど清々しいとさえ思う。なんでマスコミは子どもができたから結婚することを叩くのだろう。理解に苦しんだ。
 テレビを見ているのが嫌になり、私は消した。テレビを切ると、部屋は必要以上に静かになった。
 その静かな部屋にひとりいるのが辛くなり、家を出た。
 宛てもなくボーッと歩いていた。
 ふと気が付くと、とおるくんが入院している病院の前にいた。
 さすがにあれから日数が経っているから、もういないだろうと思ったら、病院の玄関に見覚えのあるシルエットが見えた。

「あれ、りささん」

 向こうも私に気が付いたようだ。

「とおるくん、まだ退院してなかったの?」

 びっくりしてそう言ったあと、しまったと思った。本人が一番気にしていることではないか。

「あ……ごめんね」
「なんでりささんが謝るの? 俺もいい加減、退院したくてさ」

 そう言ってとおるくんは柔らかく笑う。こんなに柔らかく笑うことができるんだ、ととおるくんに見とれていた。
 とおるくんの後ろから、とおるくんに少し似た雰囲気の女性がやってきた。とおるくんのお母さんかな? 私は目だけで挨拶した。

「ほら、母さん。この間話したりささんだよ」

 やはり、とおるくんのお母さんだったようだ。とおるくんはどう話したのか分からなかったので、軽く会釈をするだけにしておいた。

「良かった。お借りしていたハンカチをお返しできるわ」

 ハンカチ?
 しばらく考えて、思い出した。頬を叩いて赤くなったから冷やそうとして濡らしたハンカチか。すっかり忘れていた。
 とおるくんのお母さんはバッグの中をしばらく探していた。

「あら。持ってくるのを忘れちゃったわ」
「やだなあ、母さん」

 とおるくんとお母さんは顔を見合わせて笑っている。このくらいの年齢の男の子って、母親とこんなに仲がいいもの?
 私は三つ上の兄を思い出した。
 兄はとおるくんと同じくらいの年齢の時、激しく荒れていた。それまでは両親に従順な“いい子”だったから、激しく反抗している現場を見て、……見てはいけないものを見てしまったという激しく後悔に似た気持ちを抱いたものだ。私には優しかったけど、両親には激しく反発していたような気がする。私とは違って、なまじ頭が良かったから、口で親を言いくるめ、体格もよくて力も強かったからやりたい放題だった。
 そんな兄も今ではすっかり落ち着いて、一男二女の三人のパパだ。兄は、結婚も早くて子どもにもすぐに恵まれた。いわゆる『でき婚』だったみたいだけど、奥さんとは今もとても仲がいいみたいだし、家のことにも子育てにも積極的でいいパパみたい。家のことはまったくしないたかゆきとは大違いだ。

「りささん、今日は?」

 特に目的がなくてここに来てしまったのをどう説明しようか悩んだ。

「え……。ちょっと散歩」

 しどろもどろとそれだけ言い、

「お買い物もあるから」

 と口の中でもぞもぞ言って後にした。とおるくんは私のことを不思議そうに見ていた。
 しばらく歩いて病院から見えない位置まで来て、足を止めた。壁に寄りかかり、深呼吸する。湿度の少ない、爽やかな空気が胸一杯に広がる。私はようやく、息ができた。
 とそこへ、とおるくんのお母さんが走ってきた。疑問の眼差しでとおるくんのお母さんを見ていた。

「追いついた……」

 私のところまで走ってきて、肩で息をして私の顔を見る。

「ハンカチ」
「え?」

 お母さんは息を整えて、

「ハンカチがあったのでお返ししようかと」
「ああ……」

 バッグから見覚えのある柄が出てきた。
 お気に入りのハンカチだった。なのにすっかり忘れていた。

「わざわざすみません」

 ハンカチを受け取った。きれいにアイロンまでかけてあった。

「いえ、こちらこそ。とおるがとても失礼なことを言ったみたいで。すみません」

 お母さんは恐縮したようにそう言ってくれるけど、すでに遠い過去の話でいた。むしろ、話題に出してほしくなかった。ようやく……忘れられていたのに。それ以上この話題を思い出したくなくて、お礼を言って歩き出そうとしたら。

「あの……お茶の一杯でもご馳走させてください」

 と言われた。

「私……」
「とおるのことで」

 そう言ったお母さんの瞳は潤んでいて、喉の奥にあった断りの言葉を飲み込んだ。
   ◇   ◇
 私たちは近くの喫茶店に入った。私はあの日と同じようにカフェラテを頼み、お母さんは紅茶を頼んだ。
 飲み物が運ばれて、しばらくしてからお母さんは口を開いた。

「すみません、お忙しいところ」
「いえ」

 家で暇しているなんて言えない雰囲気。
 お母さんは砂糖もミルクもレモンも入れてないのに、紅茶をかき回している。なにかを考えているようだ。

「まったくの赤の他人のあなたにお話しするのは筋違いなのを承知なのですが」

 と前置きして、

「とおるが事あるごとにあなたの話をしていまして」

 ……え?
 あそこで初めて会って、カフェでちょっとお茶して。たぶん、時間上では一時間も一緒にいなかったはず。

「あの子……もう、先がないんです」

 とおるくんのお母さんの発言に、びっくりしてカフェラテに伸ばした手を止めた。

「今日、検査結果を聞きました……。骨肉腫(こつにくしゅ)、と言われました」

 骨肉腫。
 その聞いたことがあるけど詳しく知らない病名を聞いて、呆然となった。
 いわゆる『骨のがん』といわれるもの。発症する年齢は十代前半が多い、というのはなにかの小説で読んだ私の少ない知識。

「でも、最近のがん治療は……進んでいると」

 慰めにもならないようなことを口にした。
 とおるくんのお母さんは……きっと検査結果を聞いて、こんな見ず知らずの私にでも話さないと、どうにかなりそうだったのかな、と思う。
 とおるくんの正確な年齢は知らないけど、十七・八の今からだと思っている実の息子ががんと知れば、私ならこんなに気丈にいられる自信がない。

「検査入院と言われたとき、覚悟はしていました。でも……!」

 とおるくんのお母さんは紅茶をかき混ぜていたスプーンを離し、顔を手で覆った。さっききれいにアイロンをかけて返してもらったハンカチを差し出した。お母さんは差し出されたハンカチを素直に受け取り、両目にあてていた。

「でも……」

 なんと声をかけていいのか分からず、そう言ったきり、カフェラテに視線を落とした。
 カフェラテには、かわいいハートマークが描かれていた。カフェラテアート、初めて見たなーとその場にそぐわないことが頭をかすめた。そのハートを崩すのがもったいないな、と思いつつ、カフェラテに手を伸ばし、一口含んだ。コーヒーとミルクのやさしい味が、口の中に広がった。
 なんとなく入ったお店だったけど、なかなかに美味しい。
 ふと脇に立ててあったこのお店の名刺が目に入り、一枚それを取り出した。
 また来よう。今度は……そうだ、とおるくんを連れてきてあげよう。
 そう考えて……そうだ、彼はがんなのだ、そう簡単に外出許可が下りるとは思えない。自分の馬鹿な考えに……現実を思い知らされた。
 手にしていたお店の名刺を、私は握り締めた。名刺の角が手のひらに刺さって、痛かった。でも……とおるくんのことを思ったら、こんな痛み、なんてことはない。私は……あの初めて会った日、彼を傷つける言葉しか結局、吐けなかったのだ。

「私……とおるくんにひどいことばかり言いました」

 とおるくんのお母さんは顔を上げた。まぶたがはれ、赤い目をしていた。

「いいえ、そんなことないです。あの子、とてもうれしそうでしたよ」

 うれしそうだった?

「とおるは……あまりにもいい子過ぎて、小さい頃からあの子を怒ったことがほとんどないんです」

 自分の兄とオーバーラップした。兄も……とてもおとなしくていい子だった。なにがきっかけだったのか分からないが、ある日を境に突然、狂暴になったのだ。

「初めて本気で自分のことを怒ってくれた、って……」

 とおるくん……マゾ?

「反抗期なのに反抗しなくて……わたし、すごく心配していたんです」

 反抗しすぎるのも困りものだけど、反抗しないのも……困りものなのはわかる。
 兄を見ていたのでそれほどひどい反抗期ではなかったとは思うけど、私にもそれなりにはあったと思う。

「ほんと、ごめんなさいね。あなたにお話するような内容じゃないのに」

 とおるくんのお母さんは赤い目をして、私のハンカチで目じりの涙をぬぐった。

「あら、やだ。私までハンカチをお借りしちゃって」

 手に持っているハンカチを見て、おかあさんは笑った。その笑い方が……さっき見たとおるくんのやさしい笑い方をほうふつとさせて……ずきん、となぜか心が痛んだ。
 なんだろう……この痛み。懐かしくもせつないこの痛みに覚えがあった。でも……思い出したくないのか、思い出せなかった。

「洗ってお返ししますから、連絡先を教えていただいていいですか?」
「あ、いえ……いいですよ。そのままいただいて帰ります」

 慌てて、ハンカチを取ろうとした。
 とおるくんのお母さんはすぐにハンカチをバッグにしまいこみ、代わりに手帳とボールペンを取り出して渡された。

「こんなお話をしたうえで……大変申し訳ないのですが……」

 激しく戸惑った。
 確かにあのハンカチ、お気に入りだけど……。そのことをすっかり忘れていた。
 最近、ものに対する執着が昔より薄れているような気がする。執着、と言ってもそんなに激しいものではない。このハンカチだって、前なら人に絶対貸したりしなかった。
 たとえ貸したとしても、すぐに返してもらっているはずだ。ましてや、今日の今日まで貸したことを忘れている、なんてありえなかった。
 ああ、私は本当に……死ぬために生きているんだな、と思ったら、なんだか自分のことなんてどうでもよくなった。

「とおるの、話し相手になってくれませんか」
「……はい?」

 渡された手帳の白い紙を見つめたまま思案していたので、突然の申し出に言われた意味がわからなかった。
 意図がわからず、お母さんを見た。困ったような表情で私を見て、

「あの子、昔からあまりものに執着しない子で……。だから、あなたのことをうれしそうに話していて……ああ、気に入っているんだな、と思いまして。今日、こうしてお話をして……あの子の気持ちがなんとなくわかりました」

 なに? 私、なんにもしてないし。むしろ、黙って聞いていただけなんだけど……。

「わがままで強引で勝手な申し出だとは思っているんです。せめて……あの子が穏やかに過ごせるように……たまにでいいんです、話し相手になってあげてくれませんか?」

 あー……っと。

「若いから、進行が早くて……半年もない、と言われたんです」

 お母さんの言葉に、愕然とした。
 だって。
 あの日、とおるくんは……私の目の前に、確かにいた。少し顔色が悪かったけど。それは明かりのせいで。

「見ず知らずのあなたに、死にゆくとおるを看取れ、とは言いません。それは……これからまだ生のあるあなたには酷な話ですから。でも……あの子が生きていたあかしを……少しでも多くの人に覚えていてほしくて。……親のエゴなのはわかっています。わかっているのですが……」

 私は、死にゆくために生きている。
 とおるくんには……将来がありながら、その将来を……手にすることがないかもしれない。
 私は、決断した。

「わかりました。私なんかでよければ」

 こわばる頬をできるだけ持ち上げ、にこやかに笑うように努力した。その笑顔が成功したのかどうかわからないけど……とおるくんのお母さんは私の顔を見て、少しほっとした。
 手渡された手帳に自分の住所と携帯電話の番号とメールアドレスを書いて、お母さんに返した。

「私、専業主婦で家で暇してますから、いつでも空いてます」

 微笑みながら、そう伝えた。さっきより上手に笑えたかな。
 私は……心のどこかで芽生えた淡い淡い……いだいてはいけない“恋心”に気がついていなかった。たかゆきという存在がありながら……私は……とおるくんに対して、そんな気持ちをひそやかに持ってしまっていた。
 私ととおるくんのお母さんはそのあとすぐ、喫茶店を後にした。

「りささん、もしよければいつでもいいのでとおるに会いにいっていただけますか? わたしも仕事を持っていて、なかなか会いに行けなくて」

 ああ、共働きなのか。

「夫を早くに亡くして、女手ひとつで育ててきたので」

 それでとおるくんは……お母さんにあんなにやさしいのか。そりゃあ……反抗したくても、できないよなぁ……。一回くらい顔を出しておしまいにしようと思っていた考えを見透かされたようだった。

「分かりました。私がお母さんの代わりに顔を出しますね」

 そう。私はとおるくんのお母さん代わり。子どもがいないからよくわからないけど、少しは代わりになると思う。

「初対面の相手に……すみません、本当。でも、りささんには話しやすくて」

 お母さんは淡く笑っている。
 そういえば……と思い出していた。
『なんかよくわかんないけど、りさ相手だと、隠し事できないんだよねー』
 学生の頃、よくそんなことを言われていた。
『カウンセラーの仕事でもやってみたら?』
 と言われたけど、そんな大変な仕事、つとめられるとは思えない。
 でも、その『私相手だと隠し事ができない』というのが災いして……。一度、たかゆきと別れることになった。
 原因は、たかゆきの浮気。浮気と言っても、若いころのちょっとした火遊びだったらしい。それくらいならと気にしてなかったし、たかゆきが言わなければ気がつかないくらいのほんの出来心から来た、一夜限りの関係だったらしい。
『おまえのそのまっすぐな瞳で、オレを見るな!』
 そう言って、たかゆきは私をたたいた。たかゆきに初めて振るわれた暴力。叩かれたのは、それっきり。その時の心の痛みを思い出して……少し気持ちが沈んだ。
 たかゆきは、馬鹿正直過ぎたのだ。そんなものに罪悪感を感じる必要があったのだろうか。
 五年前に偶然だけど街中で会った。でもその出会いは、たかゆきによって仕組まれていたと知ったのは、結婚式の次の日。
『別れたけど、おまえのことが忘れられなくて……』
 私のことを待ち伏せして、偶然を装って近づいてきたらしい。
 たかゆきと別れて、私もたかゆきもそれなりにつきあった相手はいた。だけど、心のどこかでたかゆきのことが忘れられなかった。偶然でも仕組まれていたものでもよかった。たかゆきも同じように私のことを想っていてくれた……それだけで充分だった。
 なのに……今は心がすれ違っている。どこでずれてしまったんだろう。
 私の中に、なんだかよくわからない気持ちが生まれた。
 今まで、そうやって私を必要としてくれた人は、あまりいない。頼られる、ということを、私は初めて知った。