私は、今月も妊娠検査薬を前にして、深いため息をついた。
今月こそ……妊娠していると思っていたのに。
高温期を順調に推移していたのに……。
「なにが……いけないんだろう」
声に出して、呟いてみた。
答えてくれる人は……だれもいない。
◇ ◇
私の名前は川浦りさ。結婚三年目の三十歳の専業主婦。夫のたかゆきとは学生時代からの付き合いで、途中、別れていた時期もあったけど、五年前に偶然の再会から交際を再スタート。三年前に結婚をした。
たかゆきは私より三つ年上の三十三歳。どこにでもいる、普通の夫婦だ。私は結婚と同時に仕事を辞め、家庭に入った。毎日が……同じ繰り返し。
朝起きて、夫のたかゆきのために朝食を作り、なかなか起きてこないたかゆきを起こして、朝食を食べさせて、遅刻しないように送り出す。
たかゆきを送りだしたら洗濯、掃除をしながらぼーっとテレビを見る。お昼になるころに昼食を作り、食べる。ぼんやりとワイドショーを見つつ、気がついたら寝ていたり。慌てて起きて、買い物に行く。夕方ごろには夕食を作り、お風呂を沸かして……。たかゆきの帰りを待つ。
私は……なにを夢見て結婚したんだろう。
死ぬために生きているような現状に、嫌気がさしていた。
病院での定期検査の日。
結婚してすぐに子作りを解禁したものの、なかなか恵まれず。結婚二年目で不妊外来の門をたたいた。今年ですでに二年通っているけど、進展はまったくない。たかゆきは私のわがままに最初は付き合ってくれていたけど、最近ではうんざりしているようで、
「できないのなら仕方がないじゃないか」
とかなり諦め気味。
……なんだかよくわからないけど、それが悔しくて意地になっていた。
でも、今回のこの外来で無理ならば、もう諦めよう。不妊治療も安くないのだ。むしろ、保険がまったく効かない治療が多く、費用がかさむばかり。
先の見えないこの治療にお金をかけるくらいなら、子どもができないことを受け入れて、私は再度働きに出かけ、お金を貯めて夫婦で仲良く旅行をするといったもう少し人生前向きになるよう努めよう。私は先生にもそう告げた。
「ステップアップという手段もありますが……それにはやはり、費用が莫大にかかりますから」
そうね。私がその先に行った方が、病院は儲かるわよね。その言葉に冷めた瞳で先生を見つめていた。
私は……妊娠になにを求めていたんだろう。心が冷えていくのがわかった。
今月もいつものように注射をしてもらい、ぼんやりと病院の喫煙所でたばこを吸っていた。妊娠を望んでいるのに、タバコを吸うことがどれだけいけないことか、わかっている。だけど……どうしてもここで妊娠のためにと打ってもらった注射の後は吸わないとイライラしてしまう。
普段は吸うことがないタバコ。だけどたまたま、やっぱり今日のように注射をしてもらった日にたかゆきのタバコをいたずらで吸ったら……。すーっと落ち着いた。
それから……いけないとわかりつつも、つい、こうして病院から帰る前に吸っている。
ぼんやりと喫煙所でたばこを吸っていたら、ふと妙に若い子が喫煙所でたばこを吸っているのを見かけた。
私のいる場所の真反対。ベンチから立ち上がり、その子の前に立っていた。
「こら、少年。どうみても未成年だけど、タバコは二十歳になってから!」
少年の吸っていたタバコを取り上げる。
「なにするんだよ、おばさん!」
今、この喫煙所には私と少年しかいない。少年はこの病院に入院しているようだった。パジャマにスリッパ、腕には入院患者がつけているID番号と名前の書かれたリストバンドをしていた。
ちらり、と名前が見えた。
『島田とおる』と書かれた文字が読めた。
少年から取り上げたタバコの銘柄を見て、眉をひそめる。タバコに詳しくないけど、それがかなりきつい種類のものだというのだけはわかった。私はそのまま、灰皿にタバコを押しつける。
「将来のある少年がなにこんなところでたばこ吸ってるのよ。やめなさい」
「うるさいな、おばさん。おばさんこそ、吸うなよ。子どもできないぞ」
その言葉に……頭が真っ白になる。
ぱんっ!
その音に、はっとする。
殴られた少年も、私の顔を驚いた眼で見ている。……反射的に、少年を平手打ちしていた。
「ご、ごめんなさい!」
自分の行動にびっくりして、少年に謝る。少年はなにが起こったのか分からないまま、私を見ている。私が叩いたと思われる少年の頬が、真っ赤にはれてきてしまった。びっくりして喫煙所を出て、ハンカチを濡らして喫煙所に戻る。
少年は呆然とベンチに座っていた。
「あの、これ……」
恐る恐る、少年に濡らしたハンカチを渡した。少年は受け取らない。少年の赤くはれた頬に濡れたハンカチを当てた。びっくりした少年は目を丸くして、私を見上げた。
「あの……ごめんなさい」
小さく謝った。
私は今、ベンチに座っている少年を見下ろすように側に立っている。少年はゆっくりと私に視線を向けた。
少年の顔をよく見て、びっくりした。少年は、端正な顔立ちをしていた。きりっとした眉に切れ長の目。少し薄めの唇。顔色が悪いけど、それはきっと、私が頬をたたいたからだ。
見た感じ高校生っぽいけど、きっと高校ではさぞかしもてるんだろうな。スポーツでもしているのか、さっぱりと髪も短めでさわやかな感じ。
「あの……オレの方こそ、その、ごめん」
さっきまでのとがった雰囲気がすっかりなりをひそめて、少年本来の空気を感じた。ふんわりと周りの人たちを包むような、不思議な空気。年齢の割に大人びたその空気に……驚いて少年を見た。
「オレ、島田とおる。検査でここに入院してるんだけど、退屈でさ。検査も結構つらくって」
少年の横に座った。ここからは喫煙所の外がよく見える。ガラス張りの喫煙所は、中から外を歩いている人たちが見える。たまに不思議そうな顔をした人が私たちを見ていくけど、だれも中に入ってこようとしない。それもそうだろう。そろそろ病院の外来受付も終わる時間だ。
「なんでたばこ、吸ってたの?」
少年の手つきがあまり慣れていないことに気が付いていた。たぶん、好奇心で吸ってみたのだろう。しかし、なにもこんな病院の喫煙所で吸わなくても。
「オレ、先が長くないんだよ。医者も家族も言わないけど、オレにはわかる」
「ちょっと、なに言ってるのよ?」
初対面の見ず知らずのこんなおばさんに、そんな話をしてもいいの?
ああ……逆にまったく面識がないから、話せるのかも。
そう考えをめぐらせ、ちらっと腕時計に目をやった。
大丈夫、今日はたかゆきは遅くなると言っていたから。少年の話、聞いてあげましょう。
「いいわ、おばさん、話を聞いてあげる。だけどここ、ヤニくさいから、移動しない?」
ベンチから立ち上がった。少年はびっくりした顔で、私を見ている。年相応の表情に、自然と顔がゆるむのを感じた。
少年は赤くなった頬を濡れたハンカチで押えながら、
「そうだな。このビンタのお詫びをしてもらわなきゃ」
にやり、と笑って少年は立ち上がった。
少年の背の高さに、びっくりした。
私の身長は百六十五cmで女にしてはそれなりの身長。少年はざっと見て、百八十五cmはありそうな感じ。背が高くて顔のいい男なんて、学校ではモテモテだろうなぁ。そんなどうでもいいことを思った。
◇ ◇
私と少年は、病院内のカフェに来ていた。
私はカフェラテを頼み、少年はかわいらしくオレンジジュースを注文していた。
「私、川浦りさ。今日は不妊外来でここに来てたの」
少年にこの病院に来ていた目的を話した。この話をすることで、私がどうして少年を平手打ちしたかわかってもらおうと思って。
「あ……」
少年は自分の言った言葉を思い出し、真っ青になった。
「オレ……すっげーひどいこと、言った……。ごめんなさい!」
少年は泣きそうな顔をして、土下座しそうな勢いで頭を下げて、謝った。
「あああ、気にしないで?」
とはいうものの、一番気にしていることを言われたから、初対面の少年相手に平手打ちなんてしてしまったのだ。
「ううん、もうね……諦めたの」
運ばれてきたカフェラテをもてあそびながら、つぶやいた。
なにも子どもにこだわらなくてもいいじゃない。
私には、たかゆきがいる。
周りからの
「子どもはまだなの?」
という言葉が痛いかもしれないけど、授からないものは、仕方がないじゃない。
「でも……!」
少年は、泣きそうな表情でオレンジジュースの入ったグラスを見つめている。
「私のもとにはコウノトリはこないみたいなの。だから、諦めた」
笑おうとしたけど、自分の顔がひきつっているのが分かった。
口では簡単に
「諦めた」
と言えるけど……。本当は諦めたくない。諦めたくない……!
悪あがきだと分かっている。
でも。感情では制御できない、この気持ち。人間の本能からくる、思い。
人間もしょせん、動物なのだと思い知らされる。知識があるから、考えることができるから。でも……犬や猫が下等なのかと言うと、それはないはずだ。
「命」
があるのだから……同じはずだ。犬や猫が下等だと思うのは、人間の思い上がりだ。
「えっと……。りささんって呼んでいい?」
少年の……とおるくんの声で現実に戻された。
「あ、うん」
とおるくんはストローでオレンジジュースの氷をつつきながら、
「母さんも医者も俺にはなにも言わないけど、俺、もう先が長くないんだ」
私はカフェラテを口に含んだ。
「なんでそんなこと、思うの?」
根拠のない、少年時代特有の将来への不安からくる考えだとその時思っていた。だって、とおるくんは私の目の前にいたから。顔色が悪いのは、ここの明かりのせいだと……。
「俺、がんなんだよ」
「はい?」
自分の耳を疑った。
「膝が痛くて……病院に来たのに。いきなり検査入院だなんて、おかしいだろ?」
私は笑った。
「とおるくん、考えすぎだよ」
「なんでそう言えるんだよ」
泣きそうな顔で、私を見ている。
「だって、なにを根拠にがんだって言ってるの?」
「…………」
とおるくんは私の質問に答えない。
「ほら。とおるくんは考えすぎだよ。あなたの未来は輝いているっ!」
私は立ち上がり、とおるくんに力説した。
「大切な日々を無気力で投げやりに生きていたら、おばさんみたいなつまらない大人になるよ」
中学の時の担任に言われた言葉をちょっとアレンジしてとおるくんに言ってみた。
『君たちの未来は空白だ。大人になったらなんでもできると思うな。今日の積み重ねが明日に繋がる。いいか、無気力で投げやりに生きていたら、明日はないぞ』
熱血教師と揶揄されていた若い担任だった。その当時、その若さをうっとうしく思っていた。でも、今なら彼の言葉が分かる。
今の私は、死ぬために生きているから。
明日に未来はない。明日が来ても、今日と変わらない。明日は今日の繰り返し。
「りささんには、未来がないの?」
私には、未来がない。たぶん、この瞬間に命が尽きても、後悔することはなにもない。
「残念ながらね」
それだけ言うと椅子に座り直し、すっかりぬるくなったカフェラテを一気に飲み干した。
そして腕時計をちらりとみやり、席を立った。
「いい? おばさんみたいな人間にだけはならないのよ? 検査が辛いのは分かる。でも、検査が終われば、また学校に通うんでしょ?」
とおるくんは小さくうなずく。
「オレ、サッカー部のキャプテンしてるんだ」
とおるくんは自信にあふれた顔で私を見る。その瞳はきらきらと輝いていて、すさんだ私にはまぶしいくらい。
「キャプテン、みんなが帰りを待ってるよっ!」
とおるくんの頭をくしゃくしゃと撫でて、
「その調子で検査を切り抜けるんだよ!」
手をひらひらと振って、カフェを後にした。
後日、事実を知ってこの時の話を後悔することになるとは知らないで。