アンリアル~Unreal~【あや】~理想の世界~


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※ 警告:R15表現を含みます。

 あたしの意識はゆっくりと浮上してきた。

 頭ががんがんする。身体が重たい。
 ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自分の家の天井だった。

「あ……れ……?」

 あたしは確認するように、声を出してみた。
 あたし……車にぶつかった……はず?
 あたしは恐る恐るゆっくりと指を動かし、身体を触り、頭をさわり……なんともないことを確認した。
 あたしは身体を起こし、時計を見た。目覚まし時計が鳴る五分前だった。
 さっきのは……夢?
 あたしはふと、左手を見る。そこには、あれほどしつこくついていた白い札はなくなっていた。
 あたしは疑問に思いつつもベッドから抜けだし、いつものように時間割を確認して、カバンに荷物を詰めて、制服を着る。

「あやー、朝ごはんできてるわよ」

 下から、母の声が聞こえた。あたしが中学に入ってから、母のそんな声を聞いたことがない。どうしたんだろう、と思いつつ、あたしはいつものように玄関にカバンを置き、キッチンへ。

「おはよう、あや。よく眠れた?」

 仕事に行く準備をして、その上からエプロンをしている母。小学生の頃にはよく見ていた母。

「あ、うん。おはよう」

 あたしは戸惑い、挨拶する。母はにこやかに食卓へ朝食を準備する。

「しっかり食べて行ってね」

 あたしはうれしくて、朝ごはんをいっぱい食べた。
 ああ、母のいる食卓はなんといいんだろう。あたしは心が温かくなった。

「いってきます!」

 あたしはうれしくて、元気にあいさつをして学校へ向かった。

「小野原さん、おはよう」

 同じクラスの子がそう声をかけてきてくれた。最近ではまったくなかったのに。

「おはよう」
「予習、やってきた?」
「うん、ちょっとだけ」

 あたしはその子と他愛のない会話をする。最近はいつもあたしを避けてきていた子たちが次々と挨拶していく。あたしはうれしかった。
 いつからか、クラスの子たちはあたしを遠巻きに見るようになっていた。それがなくて……あたしはほっとした。
 なんだか、違う世界にきたみたい。あたしをいじめていた子たちも、いつものように挨拶してくれる。

「おはよう」
「おはよう」

 それだけの会話なのに、あたしはうれしかった。
 あたしは今日、久しぶりに楽しく過ごせた。
 クラブでは少しミスをしたけど、先輩も笑って許してくれて。
 ああ、幸せってこんなに些細なことなんだ。あたしはそう、思った。
 家に帰ると、すでに母は帰っていた。

「おかえりなさい」
「ただいま」

 部屋に荷物を置き、部屋着に着替える。

「先にお風呂に入ってらっしゃい。ご飯、作ってるから」
「はーい」

 あたしはその当たり前の会話がうれしかった。
 お風呂もきちんと湯船にお湯が張ってあった。あたしは少しうれしくて、長風呂してしまった。

「あや、あなたもやっぱり女の子なのねぇ」

 なかなか上がってこないあたしにしびれを切らしたらしい母は、あたしの様子を見に、やってきた。あたしは上機嫌で鼻歌交じりに髪を乾かしていた。

「お風呂が気持ちよくて」

 あたしの言葉に母は笑う。

「髪を乾かしたら、ご飯を食べましょ。今日はお祝いよ」
「え?」

 あたしはびっくりして、母を見る。
 なんのお祝いだろう?
 あたしの視線に気がついた母は、少し照れくさそうないたずらそうな表情で、

「ご飯の後に話すから」

 なんとなくあたしにはわかって、少し表情を曇らせた。
 母はあたしのそんな表情を見てなかったようで、足取り軽やかにキッチンへと向かっていった。
 でも……あたしは母がそれで幸せならいい、と思った。

 夕食後、やはり予想通りの話で。

「母さん、プロポーズされちゃったの。あやがいてもいいって言ってくれて」
「うん、母さんが幸せなら、あたしは反対しないよ」

 心にもないことを言った。
 本当は、嫌だった。
 あたしの本当の父。どうしていないの?

「父さんが……事故で亡くなっちゃって。あなたにはたくさん苦労をかけたから……もっと早くにこうしていれば、あなたはもっと幸せだったのに」

 あたしは首を振った。

「母さんが幸せなら、あたし、幸せだから」

 ウソ。そんなことない。
 あたしは嫌だった。あんな男が……母を。
 写真でしか知らない、父の優しげな顔を思い出し、あたしは余計に嫌悪を感じた。

「あや、明日ね、その新井さんと一緒に、ご飯を食べに行きましょうか?」
「え?」
「明日はクラブをお休みして、早く帰っていらっしゃい。ホテルのディナーに連れて行ってくれるって」

 母は頬を染めて、あたしに言う。あたしは……うなずいた。

「服は母さんが用意しておくから。髪は美容院でしてもらいましょ」

 そう言ってはしゃぐ母に今更嫌とは言えなかった。

     *

 次の日の朝、あたしは少し憂鬱になりながら、学校へ向かった。

「おはよう」

 昨日と同じように、同じクラスの子があいさつしてくれた。

「おはよう」

 昨日ほどではなかったけど、やはりうれしかった。
 昨日の母の言葉が心に引っ掛かっていたけど、学校に行って友だちと話をするのが楽しい。先輩に今日は家庭の事情でクラブを休むと伝えて、重い足取りのまま、家に帰った。

「おかえりなさい」

 あたしが戻るのを今か今かと待っていた母は、あたしが靴を脱ぐのももどかしいようで、カバンを奪い、リビングに案内する。

「これ、着てちょうだい」

 母は浮かれてあたしに服を渡す。

「え……?」

 見たことない服が取り出された。ピンクの淡いワンピース。

「新井さんがね、あやにって買ってくれたのよ」

 高そうなワンピース。
 制服を脱いで、あたしはそのワンピースに袖を通した。

「やっぱり似合うわ」

 母はうれしそうにあたしを見る。

「美容院に予約入れてあるから、いってらっしゃい。時間を見て、迎えに行くから」

 あたしはワンピースとお揃いのかわいらしいピンクのスパンコールがちりばめられたこれまた高そうな小さなバッグを渡された。履きなれないストッキングを渡され、ピンクのきらきら光る少しヒールのある靴が準備されていた。あたしはすべてに戸惑った。
 玄関で母に送り出され、あたしは美容院へ行く。美容院に行き、名前を告げるとすぐに髪をセットしてくれた。そして軽くお化粧をされた。鏡に映る自分が、自分じゃないようだった。
 セットが終わるころ、母が美容院に来て、支払いをしていた。母はあたしを見て、にっこりほほ笑み、

「かわいいわ」

 満足そうな表情で美容院を出た。
 美容院を出るとタクシーが止まっていて、母はそれに乗り込んだ。ホテル名を告げ、タクシーは動き出す。あたしは……あまりのことに、ついていけてなかった。
 ホテルに着くと、そこにはひとりの男性が待っていた。
 あたしが前に見た男のはずなのに……高そうなスーツを着こなし、やさしく微笑んでいた。

「キミがあやちゃん? はじめまして、新井公彦といいます」
「小野原あやです……」

 あたしは気の利いたことが言えず、そこで口を閉じた。

「新井さん、ごめんなさいね。なんか変に緊張してるみたいで」
「はは、僕の存在に戸惑ってるのかな?」

 やさしく笑っているけど、なんとなく瞳の奥に嫌な光が見えて、あたしは気持ち、一歩引く。

「さあ、食事しようか」

 新井さんは当たり前のように母の腕をとり、先に歩きだした。あたしは……後ろを歩いた。

 ホテルの最上階にあるレストラン。
 予約を入れていたらしく、
「予約席」
と書かれた札の立っている窓際の席に案内された。

「ここからの夕焼けがきれいでね。ふたりにぜひとも見せたかったんだ」

 そう言って新井さんはさわやかに笑う。母のうっとりとした表情を見て、あたしはますます気持ちが冷める。
 新井さんは赤ワインをボトルで注文して、あたしにはアルコールの入っていない淡いピンクの少し炭酸がきつめのジュースを注文してくれた。

「それでは、乾杯」

 グラスが小気味よい音を立て、触れ合った。
 あたしはジュースを一口飲んで、思っていた以上にのどが渇いていたことに気がついた。ぴりっと炭酸が辛くて、口の中で泡がはじける。
 あたしはぼーっと沈みゆく夕陽を見つめていた。確かにここからの夕焼けは、美しかった。
 海に少しずつ沈んでいく太陽は……今日一日を名残惜しんでいるようで。オレンジ色から赤、紫と色が移り変わり……。自然とあたしの瞳から涙が一粒、零れ落ちていた。
 あたしはその涙をぬぐうことなく、ずっとずっと夕焼けを見つめていた。すっかり夕日は沈んでしまい、それを待っていたかのように街は次々と明かりをともしていく。そのさまもとても美しかった。暗くなっていく空の下、次々と空から宝石がこぼれたような光景。あたしはきっと、この景色を忘れることはないだろう。
 あたしの決心を……この新井という男があたしの父になる、今日という日を。

「どうだい、きれいだろう?」

 運ばれてきた前菜を口にしながら、新井さんは口を開いた。
 見とれていた窓の外の光景から、あたしはテーブルの上の前菜に視線を移した。
 白いお皿に美しく盛られた料理。ソースとの色合いも美しく、あたしは少し、食べるのをためらった。

「あや、美味しいわよ」

 母は少しのアルコールですでに頬をほんのりピンクに染めていた。
 あたしはいざ、食べようとしたが、フォークとナイフがたくさんあって、どれを使えば良いか迷った。

「外から順に使うとよいよ」

 戸惑っているあたしに気が付き、新井さんはそう教えてくれた。
 母と新井さんの手元のフォークとナイフを見ると、確かに外側から使われていた。
 あたしはそれに倣い、一番外側のフォークとナイフを手に取り、見よう見まねで前菜を切り取り、口に運ぶ。
 口に入れると、ふわり、とやさしい味が口の中に広がる。

「……美味しい」

 あたしは思わず、そう口にしていた。

「よかった」

 あたしの言葉に新井さんは安堵したようで、ふわり、と笑った。その笑顔に、あたしは少し、どきっとする。この人……こんな笑い方ができるんだ。瞳の奥に暗い炎を宿した笑いしかできないと思っていたあたしは、意外な顔に戸惑う。
 運ばれてくる料理はどれも美味しく、あたしは感動した。
 新井さんはあたしに気を使ってくれているようで、主には母と会話していたが、あたしにも分かるような話ばかりしていた。母は穏やかに笑っている。こんな母を見るのは、初めてかもしれない。
 父はあたしが物心ついたころには、すでにいなかった。写真の中であたしを抱っこして写っている穏やかで優しい笑みを浮かべた父しか知らなかった。父が生きていたら……こうして三人で食事をすることもあったのだろうか。
 メインディッシュを食べ、デザートが運ばれてきた時点で、新井さんはどこからか小さな箱をふたつ、取り出した。赤いビロードの布で彩られた箱のふたを開け、中のものを取り出し、母の手を取り、

「改めて、プロポーズします。私と……結婚してください」
「……はい」

 うるんだ瞳で母はそう言い、新井さんは左の薬指に優雅にキスをして、先ほど取り出したものをはめた。小さな石が光る、きれいな指輪だった。室内の落ち着いた明かりを受けて、きらきら光る美しい指輪。あたしは少し眩しくて、目を細めた。
 新井さんはそれを見て満足して、もう一つの指輪の入っていた箱より少し大きめの箱を開けて、あたしに渡した。

「え……?」

 あたしはその中身を見て、驚いた。そこには、有名なブランドの細みの腕時計が入っていた。

「これは、あやちゃんに」

 目を細め、少し眩しそうな笑顔で新井さんはあたしに手渡す。

「も、もらえないです、こんな高いもの」

 あたしはどうすればいいのか困惑した。

「正直な話、この先、こんな立派なものをあやちゃんにプレゼントできないかもしれない。でも、今日という大切な日の記念として、受け取ってくれないかな?」

 いたずらそうな表情の新井さんを見て、ますますあたしは困惑した。母を見ると、目がもらっておきなさい、と言っている。あたしは……素直に受け取った。

「ありがとうございます……」

 中学生が身につけるには、かなり分不相応なものだ。あたしは慌ててふたをして、バッグに隠すようにしまった。
 あまりのプレゼントに、デザートの味はわからなかった。

 あたしと母は来たときと同じようにタクシーに乗って帰宅した。母の左薬指には、きらきらと光る指輪がはめられていて、あたしはその輝きを遠い出来事のように見つめていた。
 家に戻り、慣れないヒールのある靴を脱ぎ、セットしてもらった頭からピンなどを外し、ワンピースを脱いでそのままシャワーを浴びた。
 お風呂から出て、脱衣所にある鏡を見ると、いつもの自分が写っていて、ほっとした。
 あの夢のような時間をあたしは忘れたくて……髪を乾かしてすぐにベッドにもぐった。



 あたしは……夢を見ていた。
 どうしてそれが夢かと分かったかというと、あたしが小さかったからだ。三歳か四歳のあたし。写真の中でしか知らない父が、あたしに微笑んでいる。
『行ってきます』
『いってらっしゃい』
 父に抱っこされて、あたしは父の頬にキスをする。
『今日は少し、遅くなるから』
 父はだれかに話をしている。
『夕食は?』
 あたしの後ろから、聞き覚えのある母の声がする。
『帰って食べるよ』
『わかった、いってらっしゃい』
 そう言って、母と父は軽くキスを交わす。あたしは毎朝、それを見るのが好きだった。そう、この先もずっとこの光景を見ることができると信じていた、あの日。
 夕方の夕飯時。穏やかな時間に、一本の電話がかかってきた。それは……不吉な音色を伴っていた。母は忙しく料理を作っていた手を止め、電話に出る。
『はい……』
 電話に出た母は、どんどん青ざめていく。
『ママ?』
 あたしは心配になり、母に近寄る。
『わかりました……。今から行きます』
 母はかなり青ざめていたが気丈に振る舞い、メモ用紙になにか書いていた。
『ありがとうございます』
 母はそれだけ言い、電話を切った。
『ママ、大丈夫?』
 あたしは電話を切って青い顔で座り込んだ母を見て、ただ事ではないと感じた。
『あやちゃん……パパが……』
 そう言って母はあたしを抱きしめた。
『パパが、車にはねられたって』
 あたしにはその意味がわからなくて。ギュッときつく抱きしめられ、あたしは苦しくてもがいた。
『ママ、苦しいよ』
『パパが……いなくなってしまう……』
 あたしは母のその言葉に、ようやく事の重大さがわかり。
『やだ。パパ、帰ってくるよ』
 母をうそつきだと思った。
 そんなことない。今日の朝、少し遅くなるけど帰ってくるって言ったもん。パパは嘘つかない。ママはうそつきだ。
 母は泣きそうな顔をしながら、キッチンを手早く片づけ、あたしを連れて出かけた。
 どんどん暗くなる中、タクシーを捕まえて、どこかへと。
 あたしは怖くて、不安で。母の手をギュッと握っていた。
 母とあたしは病院に着き、母は受付で名前を告げ、沈痛な面持ちの看護婦に案内された先は……。ベッドの上に横たわる、父。顔には白い布がかぶされていて。
『う……う……そ』
 母はそう言うと、崩れおちた。
『パパ』
 あたしはベッドに近寄り、父をゆすった。なにも反応が返ってこなかった。
 いつもなら、
『あやー、パパはまだ眠いんだー』
 と言って、腕を引っ張ってお布団の中に入れてくれるのに。
『パパ』
 あたしはさっきより強くゆすった。それでもやはり、父の身体が揺れるだけで。
『ねえ、パパは?』
 あたしの問いかけに、母は両手で顔を覆って、泣き始めた。
『パパは? ねえ、起きるよね?』
 あたしの問いに、だれも答えてくれない。母は号泣して、看護婦さんは困ったように見つめているだけ。
『パパ、あやと遊ぼうよ!』
 父に近寄ろうとしたら、母に抱きしめられた。さすがのあたしもただ事ではないことに気がついて。子どものように泣きじゃくる母の頭をなでることしかできなかった。

 そのあと、あたしはどうしていたのか覚えていない。
 線香のにおいだけ、妙に覚えている。そして……あたしの中から父の存在は消えた。
 小さかったあたしには父がいなくなったことが辛くて、忘れることで壊れそうな気持ちを回避したんだと思う。
 そう、今の今まで忘れていた。
『あやね、パパのお嫁さんになるの!』
『パパはあやのパパだから、それはできないよ』
 そう言って、恥ずかしそうに笑う父が好きだった。ずっとずっとそんな幸せが続くと思っていた。あんな形で終わりが来るなんて、思ってもいなかった。
 母はそれから、あたしをひとりで育ててくれた。父がいないことを淋しく思ったけど。一生懸命な母を見ていると、そんなことは言えなかった。
 あのいじめがあるまで……あたしは……父がいない淋しさ以外は、幸せだった。
 そう、本当に些細な理由で始まったいじめ。あたしは……あまりのつらさに死を考えた。だけど……一生懸命な母を思うと、そんなこと、できなかった。母をひとり残して逝くことなど、できない。母は自分を犠牲にして、あたしをここまで育ててくれた。死を選ぶことなど、できるわけない。だから……母が幸せになってくれるのなら……。
 それに、今はあのいじめがなかったかのようにみんな前のように戻っているし。
 あたしに父ができる。
 あたしは……幸せだった。

 そう、幸せのはずだった。

     *

 新井さんは……新しいあたしの父になった。あたしのことを考えて、新井さんは小野原姓を名乗ることにしたらしい。

「パパでもお父さんでもなんでもいいけど、呼びにくいよね。私のことは好きに呼んで」

母は新井さんのことを『キミくん』と呼んでいた。

「公彦さんでいい?」

 あたしの言葉に新井さん……公彦さんははにかんだ笑みを浮かべ、

「ありがとう、あやちゃん」

 その笑顔が素敵で、あたしは少しドキッとした。
 公彦さんは母より五つも年下で、同じ会社の人で、将来有望視されているらしい。
 母がいないところで一度、公彦さんに母のどこが良かったのか聞いてみた。

「何事も一生懸命で、大変な仕事なのに嫌な顔ひとつしないで。困っている私を助けてくれてね」

 入ったばかりの頃に困っていたところを母に助けてもらったらしい。それからずっと気になっていたって。大人になると、そういう恋もあるのかなぁ。あたしには……さっぱりわからなかった。

「あやちゃんは、学校で気になる男の子、いないの?」

 そう言われて、あたしは首を振った。

「男の子は……汚いから嫌い」

 あたしの言葉に、公彦さんは少し傷ついたような表情で微笑んだ。

「そうか。あやちゃんはそういう多感な時期なんだよね、ごめんね、私なんかがそんな大切な時期にキミのパパなんかになって」

 あたしは驚いて公彦さんの顔を見た。最初見たときのあの少し黒い光が瞳の奥に見えたような気がしたけど、あたしはどこか公彦さんに引かれていたんだと思う。

「公彦さんは、違うよ!」

 あたしはそう言うのが精いっぱいだった。公彦さんはあたしの頭をぽんぽん、と軽くたたいて、

「あやちゃんもそのうち、素敵な恋ができるよ」

 そう言って笑うけど。あたしが恋をしているのは……そうやって笑う、あなたなのよ。そう言えたら、どれだけよかっただろう。
 公彦さんは、母のもの。あたしのものには絶対ならない。あたしはパパへの恋しさを……公彦さんに投影しているだけ。
 あたしは自分にそう、言い聞かせていた。





 その気持ちだけが苦しくて。

 それ以外はすべてが幸せだった。

     *

 雨の日曜日。あたしたち家族は、家にいた。母は午後から美容院に行くといい、お昼を食べてすぐに出かけて行った。
 あたしは珍しくクラブが休みで、部屋でラジオを聞きながら、ぼんやりと勉強していた。
 こんこん、とノックの音がして、

「あやちゃん、いいかな?」

 あたしは慌ててラジオを切り、部屋のドアを開けた。そこには、公彦さんが立っていた。

「なんでしょうか?」

 あの、嫌な光を瞳の奥に宿して、公彦さんは立っていた。ぞくり、と肌が粟立った。
 公彦さんは無言で部屋に一歩、踏み入れた。あたしは反射的に後ろに下がった。また一歩、入ってきた。そして、後ろ手でドアを閉め、カチリ、と鍵をかけた。

「!」
「あやちゃん」

 にやり、と口角の上がった公彦さんの口元を見て、あたしは悟った。あたしはとっさに後ろに下がろうとしたけど、公彦さんの方が早くて、腕をつかまれる。

「チャンスを待っていたんだ……」

 母と一緒にいたときの嫌な顔を思い出した。下ごころ見え見えのにやけた表情で母の肩を抱いていたその手。大きくてごつごつした、手。

「やめて……」

 あたしは力いっぱい抵抗した。全然びくともしない。

「あんなおばさんより、俺は若い君を抱きたいんだ」

 瞳の奥の黒い光が前面に出てきた。腕を引っ張られ、ぐいっと無理やり抱きしめられる。タバコとお酒の匂いに……あたしはくらくらする。

「やめて……」

 あたしは怖くて、かすれた声しか出なかった。
 公彦さんはあたしの髪に顔をうずめて、

「いいにおいがする……。若い子の……」

 あたしはぞくっとした。

「俺のことがほしいんだろう?」

 公彦さんはあたしの耳元にそう囁く。

「いつもそんな目で俺を見ていただろう」
「違う……!」
「違わないさ。俺には分かるんだよ」

 あたしは必死で抵抗した。
 公彦さんは見た目以上に力強くて、あたしが少し抵抗したくらいではびくともしない。片手であたしを抱きしめ、反対の手であたしの顎をつかみ、キスをしてきた。

「!」

 あたしの想像していたキスとは全く違い、タバコとお酒の匂いの混じった、嫌悪感しかいだけない気持ちの悪いキス。舌で無理やり口を割って、公彦さんの舌があたしの口に侵入してきた。あたしは気持ち悪くて、吐きそうになった。公彦さんはそんなのお構いなしであたしの口を貪る。

「やっ!」

 口を離された瞬間にあたしは拒否の言葉を吐いたが、公彦さんはそんな言葉は聞こえてないようで、あたしの口を蹂躙する。
公彦さんは乱暴にあたしをベッドに押し倒し、両手を左手でまとめて頭上に押さえて、慣れた手つきで右手であたしの服をはがしていく。

「嫌だ」

 あたしの拒否の言葉は、無視される。
 足で公彦さんをキックしたけど、布団で押さえ込まれて、動けなくされてしまった。
 今日は家の中で過ごすからと思い、ブラジャーをしていなかったのがあだとあった。部屋着の下は、素肌。公彦さんは目を輝かせ、あたしを見る。そのごつごつした手で、あたしの胸を触る。

「やめて!」

 胸を手で蔽い隠し、そしてゆっくりと愛撫し始める。あたしは全身に鳥肌が立った。涙が出そうになったけど、泣いたら負けだと思い、あたしは我慢した。公彦さんは泣くのを我慢しているあたしを見て、感じているとでも思ったのか、

「気持ちがいいのなら声を出せよ」

 と言ってくる。あたしは嫌悪しか感じられず、涙をぐっと我慢する。
 公彦さんはそのまま自分のペースであたしの身体をもてあそぶ。
 あたしは……抵抗することを諦めた。気持ち悪さを我慢すれば、こんなのすぐに終わる。
 あたしが抵抗しないことをいいことに、公彦さんはあたしの履いていたズボンとパンツを脱がし、下半身に顔をうずめている。
 こんなことであたしは処女を失ってしまうのか……。
 あたしはもうどうでもよくて、ぼーっと見なれた天井をぼんやり眺めていた。
 さすがにいざ入れられたら、かなり痛くて暴れた。
 公彦さんはあたしのおなかの上に欲望の液体をまき散らした。そして、そのままなにも言わないで、部屋を出て行った。
 あたしは……悔しくて一粒だけ涙をこぼした。

 しびれる下半身をがまんしてあたしは起き上がり、ティッシュで拭き取り、部屋着を着て、シャワーを浴びに行った。頭からシャワーを浴びて、あたしは忘れることにした。あちこちに公彦さんが指を這わせた感触が残り……あたしは気持ち悪くて仕方がなかった。下半身を触ったら、血が出ていて驚いた。下半身がジンジンする。シャワーから上がり、あたしはナプキンをあてた。
 ほどなくして、さっぱりときれいになった母が帰ってきた。

「お帰りなさい」

 あたしは極力、何事もなかったかのように振る舞った。公彦さんも母の帰りに気が付き、玄関まで来た。

「お帰り。きれいになったね」

 いつもと変わらない、表情に声。
 あたしはその声に、ぞっとした。
 それから公彦さんは事あるごとにあたしを無理やり抱いた。拒否しても力ずくで無理やり抱く。あたしは……抵抗することをやめた。
 それ以外は……あたしは……幸せ?
 母は、まったく気がつかない。
 あたしは……死を意識した。
 母は、公彦さんがいて、幸せだ。あたしがいなくなっても……大丈夫。
 あたしは……月夜のきれいな晩に、家を抜け出した。
 机の上に母にあてた

「ごめんなさい」

 の手紙だけ。
 ふらふらとあたしは外灯の消えた道を、歩く。
 遠くにライトが見える。すごい勢いでトラックが走ってくるのが見えた。あたしは迫りくるライトを見つめながら、トラックの前にふらふら……。

     *

 ぶつかる、と思った瞬間、力強い腕にあたしは引っ張られた。
 トラックはそのまま、走っていった。
 びっくりして、あたしは腕の持ち主を見る。そこには、いつか見たことのある男の顔が、無表情に立っていた。

「やれやれ」

 あたしの無事を確認して、男はほーっと深く息を吐いた。

「まったく、こっちの世界でも車にひかれないでください」

 気がついたら、前に見た店の中にいた。

「迎えに来るのが遅くなって、すみません」

 男……羽深しぐれ、と名乗っていたような気がする……は、そう言って謝った。

「迎え?」

 あたしは疑問を口にした。男はあたしにテーブルに座るように指示した。あたしは素直にその指示に従い、椅子に座った。そして、あたしのためにいい香りのする紅茶をいれてくれ、テーブルに置いた。

「熱いですが、少し飲んでください。落ち着きますよ」

 男はそう言い、あたしの向かいの椅子を引いて、紅茶の入ったカップをテーブルに置き、座った。そしてふうふうと息を吹きかけ少し冷まして、紅茶を口にした。

「うん、今日もなかなか上手に入りました」

 上機嫌ににっこり笑った。その笑顔に……あたしはほっとした。あたしも同じように紅茶を冷まし、少し口にした。ほんのり甘くてかぐわしい香りに、あたしはもっとほっとした。

「僕としたことが、失敗でした」

 男はものすごく申し訳なさそうに、あたしに頭を下げた。

「え?」

 あたしはわけがわからなくて、疑問の声を上げた。

「まさか事故に遭うとは思っていなくて……。正直、ものすごい焦りました」

 男の声に焦りの色が読み取れ、あたしは混乱した。

「どういう……」
「あなたにわかりやすいように、説明します」

 男はそう言い、紅茶を口に含んで香りを楽しんだ後、

「あなたにお渡しした白い札ですが……。あれは、あなたの理想の世界……まあ、簡単に説明すれば夢の世界ですね、に誘うアイテムだったんです」

 最初、そんなことを言われたような気がする。

「あの白い札は、あなたの現実世界での負の気持ちをたくさん吸い取って……僕のところに戻ってくる予定だったんです」

 男はそう言って、目を伏せた。

「夢の世界であなたは幸せに暮らし……ていけるはずだったんです」
「夢の世界……?」

 あたしはふと疑問に思う。ここは、夢の世界?

「そうです、ここはあなたの夢の世界」

 あたしの考えは読まれているようだった。

「え……。じゃあ、現実のあたしは?」
「さあ?」

 男は、楽しそうに目を細めてあたしを見る。

「それは、あなた次第ですよ、小野原あやさん」

 男はフルネームで呼び、楽しそうに笑う。

「この世界が気に入れば、ずっとここに生きればいい。現実の世界は、つらいことばかりですからね」

 そう言って、くすくす笑う。

「たいていのお客さまは、夢の世界で生を全うされますけどね」

 びっくりして、男を見た。

「それだけ、この世界は本来は甘美で……すてきなものなんですよ」

 心を落ち着けようと、紅茶を飲んだ。

「この世界は、本当はあなたを傷つけないはずなんです。ですが……あなたは交通事故に遭い、生死をさまようほどの怪我を負った……」
「え?」

 男の言葉に、あたしは固まった。
 事故?
 激しいクラクション、耳をつんざくようなブレーキ音。そして……今まで感じたことのない衝撃。思い出して、怖くなって自分の身体を抱きしめた。

「思い出しましたか?」

 こくんとうなずいた。

「本来、あのお札は、自分の意志で使用するものなのです。が、あなたは強制的に……あの白い札を使わされることになったのです」

 かつて張りついていた左手を見た。そこには、やはり札はなく、見慣れた左手のひらがあった。

「そして、なにより……あの札を渡した日。いつもより闇が濃くて……。あなたの夢に……闇が少し、混じってしまったようで」

 男は再度、申し訳なさそうに、頭を下げた。

「闇が濃くて、あなたの元になかなかたどりつけなくて、迎えが遅くなってしまいました」
「迎え?」

 少し長めの黒い髪、長いまつげに彩られた切れ長の瞳。

「あなたは……死神なの?」
「死神?」

 男はあたしの言葉に、くすりと笑った。

「僕は死神ではないですよ。むしろ、幸せを運ぶ男。でもまあ……やっぱり人によっては死神かもしれませんね。愛しい人を……夢の世界にいざないますから」

 あたしは、とっさに母の顔を思い浮かべた。母は……泣いているだろうか。父を交通事故で亡くし、一人娘のあたしも……事故で生死の境をさまよっているというのだから。

「さて、あなたはどうしたいですか? 現実の世界に戻りますか? それとも……この世界を再度リセットして、本来の幸せな世界で……生を全うしてみますか?」

 あたしは、母の笑顔を思い出していた。

「あたしは…………」