「あんたなんか、死ねばいいのよ」
夕暮れの中、あたしは校舎の裏で、座り込んでいた。
自分の気持ちが分からなかった。悲しいとか悔しいとかを通り越していて。色んな感情がまぜこぜになって。
……初めて知るその感情の…………。
名前を……あたしは知らなかった。
*
あたしの名前は
顔は……中の……中……くらいかな? 髪は黒、長さは肩に届くか届かないか。身長は一五六センチ。
クラブはバレーボール部。ベンチを暖める役……要するに、万年補欠。
そう、どこにでもいる中学生。……のはずだった、あの日まで。
あの日。なにか歯車が狂ったのだ。小さな小さな砂粒が……歯車を狂わせたのだ。
*
理由はほんと、どうでもいいような些細なこと。クラスではまったく目立たないあたしに、学年で一番もてているという男の子に声をかけられたってだけ。
「小野原さん、落ちてるよ?」
授業中に落とした消しゴムを拾い忘れていたのに気がついた彼……北村くんだったかな? がそう親切にあたしに教えてくれた。たったそれだけのことが……彼の取り巻きは気に入らなかったらしい。
その日の放課後、あたしはお決まりのように校舎の裏に呼び出され。
「生意気なんだよ!」
とかなんとかお決まりのセリフで四、五人に囲まれてなじられ。
「目立たないところをやるんだよ」
と妙になれた指示を出し、お腹や背中を殴られた。
そう、これでおしまいと思っていた。これにさえ耐えれば、彼女たちの気が済むって……あのときのあたしは思っていた。
しかし。それから北村くんはなにかよくわからないけれど、ことあるごとに絡んできて。話かけられる度、あたしはびくっと身体を震わせ、小さくなった。
ああ、この場から消えることができたらいいのに??。そう願ったところで、それは叶うはずもなく。
北村くんが話かけてきた日は必ず、取り巻きはあたしを呼び出し、呼び出しに応じなければ待ち伏せまでして。
「目立たないところ」
そう言って、お腹や背中を殴る。二の腕をつねられた。
「っ!」
「あんたみたいなやつが彼に声をかけられるなんて、百年早いんだよ」
そんな陳腐なセリフを吐く彼女たちに……あたしが黒い気持ちを持つようになっても……仕方がないことかもしれない。抵抗すれば二倍になって返ってくる。
あたしは……いつしかされるままになっていた。
そう……嵐が早く過ぎ去ってくれるように、身を丸めて頭を抱えて。
「あや、最近、学校はどうなの?」
仕事で忙しい母。父親は早くからいない。病死なのか事故死なのか離婚なのか、あたしは知らない。そんな母はたまの休みでもどこかへ出かける。あたしの様子が少しおかしいのに気がついてくれたのか、そう声をかけてくれた。
「うん、ぼちぼちよ」
たしは極力、母に迷惑をかけないように笑って見せた。
「そう? 最近……なんだか下着に土がついて汚れてるから」
「あ、バレー部でたまに外走りさせられてて」
あたしは母を心配させたくなくて、嘘を吐く。
「そうなの? それならそれで……いいんだけど」
母に気がついてほしいけど……忙しい母に自分のことで時間を取らせたくなかった。でも、母はなんとなく、違和感に気がついてくれているらしい。話をするチャンスなのかもしれない。あたしが口を開きかけた時、母の携帯電話が鳴った。
「あら」
着信名を確認して、母は眉をひそめた。母は乱暴に携帯電話をつかみ、リビングから出ていく。
あたしは知っていた。母が休みの日にどこに出かけているかを。そして……今の電話がだれからかも。
*
あたしはため息を吐いて……自室に戻った。
宿題があるからと机に向かうけど、あいつらの笑い声が耳に響いて、手につかない。
あざけ笑う声が、あたしの頭の中に響く。
「…………っ!」
あたしは、声にならない声をあげ、耳を塞ぐ。それでも聞こえてくる。
あたしは嫌になり、ラジオを小さくつけた。ラジオからは、最近の流行りの曲が聞こえてくる。あたしはラジオから流れてくる音に少し、安堵した。音が消えるのが怖くてそのままラジオをつけていた。
「あや」
だれかがあたしの肩を揺さぶっている。気持ちよく寝てるんだか……。
「えっ!?」
あたしはびっくりして、飛び起きた。
「風邪、ひくわよ?」
ラジオからはざーっと言う音しかしない。時計を見ると、深夜一時を過ぎていた。
母からは少し、アルコールの匂いがした。
あの電話のあと、母はそのままどこかへと出掛けてしまった。あたしはいつものことなので、ひとり冷凍食品を温めて夕食を取り、お風呂は軽くシャワーだけにした。
宿題をしながらラジオを聞いて、寝てしまったらしい。
ラジオのスイッチを切る。ノートにはみみずがはったようなえんぴつの跡。ノートと教科書を閉じた。
あたしはアルコール臭い母に少し顔をしかめ、無言でベッドに入った。
母はなにか言いたそうだったが……会話を拒否したあたしに諦め、部屋の電気を消して、出ていった。
*
朝、いつものように目覚ましの音であたしは目が覚めた。気だるい身体を起こし、ベッドから出る。時間割を確認して教科書とノートをカバンに詰める。制服に着替えてカバンを持って部屋を出る。玄関にカバンを置いて、洗面所へ行き、顔を洗う。
キッチンに行っても母はもういない。すでに仕事に出掛けている。
女手ひとつで母はあたしを育ててくれた、文句ひとつ言わず。だからあたしは母に幸せになってほしいとは思っている。
でも……。あたしは心のどこかで引っ掛かっている。
アタシ ノ コトハ……?
あたしは……幸せになっちゃだめなの?あたしの幸せは……どこ?
食パンを一枚取り出して焼き、お湯を沸かしインスタントのスープを作り、焼けたパンにジャムを適当に塗って、食べる。これがあたしのいつもの朝。食器を洗ってかごに入れて、家の戸じまりをして、学校へ。
……学校に行きたくない。行けばまた、あの人に声をかけられて……取り巻きにいじめられるのだ。でも……学校を無断で休んだら、母が心配する。心配してほしいと思う気持ちと……昔、学校に行きたくなくてずる休みをした時の困ったような母の表情を思い出し……あたしは重い足取りで、学校へ行く。
そうやってぼーっと歩いていたからか、取り巻きたちがいたことに気がつかず。
「!」
くすくすくす、と笑い声。
あたしは、学校近くの道路で足をひっかけられ、こけた。両手をついて顔面を地面にぶつけるということは回避されたが、思いきり膝を地面に着き、スカートがまくれ上がり、中身を思いっきり周りに見せる羽目になった。
「恥ずかしい」
「今日はピンクなんだ」
「くすくすくす」
同じように学校に向かっている子たちが遠巻きにあたしを見ている。
あたしはかーっと頬が赤くなるのを感じた。恥ずかしさと怒りがこみあげてくる。涙がこぼれそうになったけど、あたしはぐっと唇を噛んで我慢した。
何事もないかのように立ち上がり、スカートをはたいて、かばんを持つ。あたしは顔をあげて、学校へ向かった。
教室へ行く前に、あたしは外の水道で膝と手を洗った。
「……っ」
水がしみた。
消毒薬はクラブの部室にあったはずだ。ちらりと時計を見た。……部室に寄っている時間はなさそうだった。
仕方がないので、水で丁寧に傷口を洗い流すだけにして、教室へ向かった。
教室へ行くと、なぜかあたしの席に彼が座っていた。あたしを認めると、彼は席から立ち上がり、あたしの耳元に
「小野原さん、ピンクなんだって?」
「!」
こいつら……グルだったのか?
あたしの目の前は白くなった。
それから、どうしたのか覚えていない。たぶん、普段通りに授業を受けた……と思う。ノートを見ると、板書されたことをいつものようにきちんと書きとっていたから。
お昼をどうしたのとか、放課後のクラブをどうしたのか、というのがまったくわからない。気がついたら、帰路についていた。腕時計を確認すると、十九時を過ぎていた。いつもならとっくに家にいる時間。
あたしは……うろたえた。朝、目の前が白くなってから今まで、どこでなにをしていたのか……思い出せない。
あたしは道の端により、塀に寄り掛かった。すっかり暗くなった夜道を、人々は無言で歩いていく。こちらをちらり、と見ていく人もいるけど、かかわり合いたくないみたいで、それ以上は干渉してこない。あたしもその方がよかった。
ああ、こんなに遅くなってしまった。母が……心配……していないかもしれない。今日もきっと、あの男のところに行っているのだ。あたしが多少遅く帰っても、母は知らないのだ。
急に今までの自分がばからしくなった。
くくっと自嘲気味に笑って……歩き始めた。
家に帰るわけでもなく、だからと言って特に目的があるでもなく。気が向くままに歩みを進めた。
初めて見る路地。なんとなくそこへ足を踏み入れた。そこは……外灯がまったくなく、真っ暗闇であたしは目がくらんだ。しばらく目を閉じてじっとしていると、あたしは急に怖くなった。
帰ろう。あたしは目を開き、後ろを振り返った。
「!」
さっき入ってきた道が、なぜかなくなって……後ろは壁になっていた。あたしは焦って周りを見た。先ほどまで真っ暗闇だと思っていた場所は、うすぼんやりと黄色い光が漂っていた。あたしは……呆然とその空間を見つめた。
ちりん……
急に鈴の音がした。
あたしはその音のしたところに目を向けると、周りの光に溶け込むようなそれでいて妙な存在感がある扉が目に入ってきた。後ろは壁。ここから出るには、その扉を通らないといけないようだった。あたしは意を決して、扉に向かい、ノブに手をかけた。
きぃ……
と軽い音を立てて、扉は開いた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。小野原あやさん」
「!」
中から、聞いたことのない男の声がした。どうしてあたしの名前を……知っているの? それに、待っていたって。
「だれ」
あたしは思ったよりかすれた声で声に問った。
「怪しいものではありません。……と言っても信じてもらえないですよね。僕の名前は羽深(はぶか)しぐれ。この店の……店主です」
「お店?」
あたしは男の声に扉の周りを見回した。扉をよく見ると、木のプレートが付いていて、なにか書かれていたが……プレートが古いからか、読めなかった。
「店先で話をするのはなんなので……入っていただけますか? 開けておくと……闇が店内に入って、僕が後から困ります」
あたしは男の言葉に慌てて中に入り、扉を閉めた。
「今日は、一段と闇が深いようで」
闇が深い?
あたしはここまでの道を思い出した。うすぼんやりと光る黄色い明かりならあったけれど……。
「あなたが闇を連れてきたようですね」
こつこつと足音を立てて、店の奥からだれかが現れた。あたしははっと息をのんだ。
少し長めの黒い髪、長いまつげに彩られた切れ長の瞳は茶色く、黒ぶち眼鏡が知的に見せている。少し神経質そうな細くて長い指で、顔にかかった髪をかきあげた。今まで見た、どの人よりも美しかった。そう、美しい、という形容詞がぴったりな人。
「改めて、いらっしゃいませ」
テノールの声が、あたしの耳を心地よく打つ。
「ここは現実世界に嫌気がさした人にしか来ることができない場所」
現実世界? 嫌気?
「あなたは……すべてを忘れて夢の世界で……自分の思い通りになる理想の世界で……生きてみたいと思いませんか?」
な……に……? この人は……なにを言っているの?
「いきなり言われても、わかりませんよね」
男は微笑み、懐から四角くて白いものを取り出した。ふと気がつくと、男はあたしの目の前に立っていた。
「これを、あなたに差し上げましょう。お代は要りません。今、生きていることがつらくなったら……この白い札を枕の下に忍ばせて眠れば……」
そして男は楽しそうにくつくつくつ、と笑う。男はあたしの左手をつかみ、無理やりその白い札をつかませた。
「さあ、現実に戻りなさい。僕がそこまで送ってあげますよ」
男はそう言い、あたしの肩を抱いて、扉をくぐった。
あたしは口を開こうとした。そうしたら急に……眩しい光に瞳を照らされ、あたしはあまりの眩しさに目を閉じた。
*
さっきまで歩いていた道に、あたしは立っていた。
なにがなにやらわからないまま……あたしは腕時計を見た。時間は……十九時。
先ほどからまったく時間が経っていなかった。あたしは不思議に思いつつ、腕時計の先の手を見た。
「!」
あたしの左手には、先ほど男に無理矢理握らされた白い札があった。
あれは……夢じゃなかった?
その白い札が気持ち悪くなったけど、その札は手に吸いついたように離れず……あたしは怖くなって、逃げるように家に帰った。
家に帰ると、やはりだれもいなかった。真っ暗な家に入り、玄関の電気をつける。
無言で靴を脱ぎ、部屋へ戻る。制服を脱いで、部屋着になる。
その間、ずっとあたしの左手には白い札がついていた。
これ……なに?
はがそうとしてみたけど、離れる気配がまったくない。
諦めて、キッチンへ向かう。昨日と同じように冷凍食品を冷凍庫から取り出し、レンジで温めて食べた。
今日も軽くシャワーだけにして……昨日と違うのは、今日の朝こけてできた擦り傷が痛んだくらいで……ラジオをつけて、ぼんやりと勉強をする。
今日、自分が板書を書きうつしたノートを見る。どう見ても自分の字なのに、まったく覚えがない。ノートを見ても、授業内容を思い出せない。
あまり気にしないように気にしないようにしているが……左手に張り付いたような白い札が……気になる。シャーペンの先でツンツンしてみたり、ひっぱったり左手をギュッと強く握ったりしても……不思議なくらい、その白い札はなにも起きない。
紙ならば折り曲げたら折り跡がつくはずなのに、そんな様子もない。でも、紙のように曲がる。布かというと、触った感じはやはり紙っぽい。なんだろう、これ。
あたしは勉強そっちのけで、その白い札に夢中になった。
手のひらに張り付いてるようで、離れているようで、引っ張っても手のひらは痛くない。白い札をシャーペンの先でつついてもあたしの手のひらは痛くなくて、あたしの手のひらにすっぽりとおさまるサイズ。手の甲から見ると、指の間から白い札が見える。指の間から右指で白い札をつついてみる。そこにはやはりなにかあって、シャーペンでなにかかけるかと思ってでたらめに書いてみるけど、なにも書けない。
「変なの」
あたしはそう声に出して、少し笑った。……久しぶりに笑ったような気がした。
なんだかすべてがバカらしくなって、あたしはラジオを切って、ノートと教科書を閉じて、部屋の電気を消して、ベッドにもぐった。今日は……ゆっくりと眠ることができそうだった。
*
目覚まし時計の音に、あたしは目が覚めた。カーテンの隙間から、日がさしている。
今日もいい天気のようだ。あたしはベッドの上に起き上がり、抜け出そうとした。
「!?」
左手に違和感を感じて、ふと見る。そしてあたしはぎょっとする。あの白い札……まだ張りついている。
「え……やだ……」
あたしは焦って左手をぶんぶん振ってみる。それでもそんなに簡単に取れるはずもなく。
どうすればいいか、思案する。
目覚まし時計がもう一度鳴る。きちんと止めてなかったのを思い出し、乱暴に目覚まし時計を止めた。そして朝からため息をついて、ベッドを抜け出す。左手をやっぱり振ってみたけど、取れる様子はまったくない。
諦めて、いつものように時間割を確認してカバンに荷物を詰めて、制服に着替えて玄関にカバンを置く。キッチンに行くと、昨日のままだった。母はどうやら、昨日は帰らなかったようだ。朝帰りさえもしない母。あたしは母に捨てられたのかもしれない。ふとそんな思いがよぎる。
母はあたしではなく、あんな男を取ったのだ。
あたしは一度、母と男が一緒にいるところを見た。母は年甲斐もなく甘えたように男にもたれかかり、男は下ごころ見え見えのにやけた表情で母の肩を抱き、キスをした。
あたしは……激しく汚いものを見たような、いたたまれない気持ちになった。
母が、あの男に汚されている。あたしは……母のようには絶対にならない。気持ち悪くて、吐きそうになった。
きっと母は、あの男の部屋にいるのだ。あたしは朝から吐きそうになった。
食欲がなくて、顔を洗って髪を整えて、あたしは家を出た。
*
学校へ向かいながら、やっぱり左手の白い札が気になる。
握ったり開いたり。左手に気を取られていたら、後ろからだれかにぶつかられた。あたしはバランスを崩して、歩行者用通路の線からはみ出した。
激しいクラクションの後、耳をつんざくようなブレーキ音。
あたしは今まで感じたことのない衝撃を身体に受け……そのまま意識がなくなった。