ゆっくりと、意識が浮上してきた。
見慣れない天井が、ぼんやりとあたしの瞳に映った。
頭が……がんがんする。喉が……ひりひりと痛い。身体が……重たい。全身が鉛になったようだ。
「あや!」
聞き覚えのある声がした。あたしは声の方を向こうとしたけど、動かない。
「母さんのこと、わかる?」
ぼんやりとしか見えない向こうに、見覚えのあるシルエットが見えた。
あたし……? あたし、どうなってるの?
ガラガラと扉が開いて、人が部屋に入ってくる気配がした。
「先生、あやが……!」
先生と呼ばれた人があたしに近寄ってきたらしい。
あたしの身体をあちこちさわったりあたしに質問したりしているけど、あたしは声を出す方法を忘れてしまったかのように、口も開けなかった。
「あれだけの事故にあっていながら、意識が戻っただけでも、奇跡です」
そう言った医者の言葉に、母は泣いているようだった。
「よかった……!」
ああ、あたしのために泣いている。泣かないで、と言いたかった。
「まだ目覚めたばかりですから、あまり無理をさせないように。もう少し寝かせてあげてください」
「寝てしまったらまた意識が戻らないなんてことは……!」
「大丈夫ですよ」
医者はそう言って、部屋を出て行ったらしい。
あたしの左手に、ぬくもりを感じた。
「あや……あなたまで失うかと思って……」
そう言って、母は泣いている。
思うように動かないあたしの身体。精一杯頑張って、左手を動かそうとした。それでもまったく動かなくて。もどかしい気持ちを抱えつつ、あたしは意識をそのまま手放した。
暗闇の中、公彦さんが笑っている。
『羽深しぐれ……か。面白い……』
暗い闇を瞳に宿し、公彦さんは笑っている。
『あや……なかなか楽しかったよ……』
あたしは……ぞっとして、全身をかきむしった。
『いやだ!』
*
はっと目が覚めた。
先ほどより、だいぶすっきりした。あれほど痛かった頭も、まだ痛いとはいえ、ずいぶん楽になった。ぼんやりとしか見えなかった天井が、ようやくピントがあって見えるようになった。
「あや、目が覚めた?」
母の声がした。
「お水、少し飲みたいでしょう」
そう言って、スプーンで水をすくって、あたしの唇を濡らす程度の水をくれた。水がこれほど甘いとは、思っていなかった。ほんの少しだけど、生き返るようだった。
なにか言いたかったけど、あたしの口は貝のように閉じたまま、開かなかった。
「今は……なにも考えないで、身体の回復だけに専念して。ゆっくり休んで」
あたしは母の言葉を聞き、また瞳を閉じた。
*
暗闇の中、いつか見た黄色くてやさしい光がぼんやり浮かんでいた。その光の中に、あの黒髪の美しい男が立っていた。
「僕のコレクションが、あなたのおかげで増えました。これはなかなか興味深いコレクションです。お礼に、夢の世界での嫌な思い出を……僕がもらいましょう」
そう言って、男はあたしに向かって腕を差し出し、額に右手のひらを置いた。
「この記憶かな……」
男は顔をしかめ、あたしの額をやさしくなでた。あたしは……なんだかすっきりした。
「夢の世界はあなたの肉体は傷つけません……。が、その分、心はいつもより何倍も傷つきます。そんな傷を負ったままでは……あなたに申し訳が立ちません。だから……この記憶、僕がもらいます。あなたには最初から、この記憶はなかったことに……。夢の中での幸せな記憶だけを思い出に、現実を強く生きてください。これは、僕からのお礼ですよ」
男はそう言って、黄色い光とともに、消えた。次に意識が戻った時、あたしはなんだか気持ちも身体も軽かった。
「あや!」
「か……」
ようやくあたしは、どうやってしゃべっていたのか思い出した。
「お水、飲む?」
あたしは目でうなずいた。母は前の時と同じようにスプーンで水をすくって少し、飲ませてくれた。それだけでずいぶんと楽になった。
「母さん、ごめんね」
あたしはそれだけ言うと、今まで我慢していた涙があふれてきた。
「あや……!」
母も泣いている。あたしたちはしばらくそうやって泣いていた。泣いたことで、あたしの心の中に重くのしかかっていた何かがとけたような気がした。母は涙を拭いて、赤い目をしてあたしを見ていた。
あたしの涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て少し笑い、濡れたタオルでやさしく顔を拭いてくれた。
「あなたまで失うんじゃないかって……」
「ごめんね」
ひどい鼻声で、あたしは恥ずかしかった。
「謝らなくてもいいのよ、気がついてあげられなかった、母さんが悪いの」
そう言った母は、また泣きそうだったが、ぐっと我慢しているようだった。
「わたし、自分のことばかりで……。悩んで苦しんでいるあやのこと、ちっとも気がついてあげられなかった」
母はそう言って、目を伏せた。
「あやが事故に遭う前の日、同じ会社の新井さんって人に……プロポーズされたの。あやがいてもいいって言ってくれて」
あたしは、以前見た母と一緒にいた男を思い出した。
「やだ……」
あたしは無意識のうちに、そう口にしていた。
「そうよね。嫌よね。あなたは父さんのこと、大好きだったものね」
母は淋しそうに笑った。
違うの、母さん。あたしは……母さんが幸せなら……。
幸せなら?
「あなたには小さい頃から苦労をかけたから、新しいお父さんが必要かなって思っていたの。だけどね……母さん、お断りしたの」
「え……?」
あたしは目を見張った。
「新井さん、いい人なんだけど……。あまりよくない噂もたまたま聞いちゃって。あや、年ごろでしょ? 父親と言っても、赤の他人だものね。多感な時期に、嫌だろうと思って、断ったわ。これからも母と子だけど、頑張ろうって思った矢先に……」
母の瞳は、うるんでいた。
「でも、よかった。こうしてまた……あやと話すことができて」
ああ、あたしの選択は、間違ってなかった。
……選択? あたしはなにを選択したというのだろう?
なんとなく、心の奥に幸せな記憶があって。あたしは戸惑った。とてつもなく幸福で、手離してしまった後悔を感じた。
でも……母が今、こうして喜んでくれている。それであたしは、いいのだ。
「学校の先生がね、この間、謝りに来たの」
あたしは、ドキッとした。
「母さんに素直に話してくれれば……ううん、あなたを責めても仕方がないのよね……気がつかなった母さんが悪かったのよね」
なにを謝りに来たのだろう。
「最初、あなたがふらふらとあやまって道路に出た、って聞いたの。でも……それは違うって、勇気を持ってだれかが先生に真実を伝えたみたいなの」
なぜか黒髪の美しい男の人が浮かんだ。あれは……だれ?
「学校であなたはいじめられていて……あの事故も、押されて道路に出たって聞いて……」
あたしは青ざめた。
「大丈夫よ。あなたが心配することは、なにもないから」
そう言って、母はやさしく微笑む。
「あや、早く治しましょう。そして、やり直しましょう。学校、変わったから」
「え……」
「お友だちをまた新しく作らないといけないかもしれないけど……。あなたにはそれが必要だと思ったから」
母は俯いたまま、微笑んでいた。
「それとね、母さん、会社を変えたの。前の会社より条件がよくてね。またあなたに迷惑をかけるかもしれないけど……」
あたしは……どう答えれば良いのか分からなかった。
「この三か月、ずっとずっと……母さん、自分を責めたの」
「母さん……」
「勝手なことだと思ってるけど……。これもけじめだと思って。ごめんね」
あたしのために……貴重な時間を割いて、いろいろやってくれたのかと思ったら、また涙が出そうだった。
「母さんもあやも、リセットが必要だったのよ」
母の柔らかい微笑みを見て、あたしは……笑った。
三か月間、あたしはずっと寝たままだったらしい。
だんだん身体を動かせるようになって、厳しいリハビリが待っていて。泣きそうになったけど、あたしは頑張った。もともとバレーボールをやってそれなりに身体を鍛えていたのと、若いってこともあって、回復は順調だった。
母は前よりも忙しくなったみたいだけど、面会時間にほぼ毎日、顔を見せに来てくれた。
「忙しいんだから、無理してこなくていいよ」
というあたしの言葉に母は、
「子どもなんだから、そんな遠慮しないの」
顔を見せるだけですぐ帰ることが多かったけど、あたしはそれだけでもうれしかった。前は、一週間二週間と顔を見ない日が続いたこともあったから。
母の期待に早くこたえなくては、と思い、辛くてきついリハビリもがんばって、ようやく退院となった。
新しい学校は……素晴らしくて、あたしはすぐに、慣れた。途中からの編入で、しかも交通事故でしばらく入院していたという事情を知っているにも関わらず、そんなことは関係ないとばかりにクラスのみんなは普通に接してくれて。あたしは、うれしかった。
幸せの記憶を手離したことを後悔したけど……。それを手離してあたしはよかったって思う。だって、今の方がもっともっと、幸せだもの。
「あや、帰ろう!」
「あたし、今からクラブ!」
こんな風に笑える日が来るなんて、あの時は思っていなかった。
ありがとう、黒い髪の美しい人。……あれ、それってだれだっけ?
あたしは心に浮かんだだれかに……そっと微笑みかけて、カバンを持って、教室を出た。
【「あや」おわり】