【お帰りなさい】
こんこん、というよりどんどん、といった激しいノックの音で目が覚めた。その音にわたしはびっくりして目が覚めて、時計を見ると、六時半。
「アキ! 起きて!」
たぶん、じいが起こしにきてくれたんだと思う。起きて自分がなにも着ていないことにびっくりしたけど、それは隣で寝ているアキも一緒だった。
「んー?」
アキはまだ夢の中の住人のようだった。
「秋孝さま! 起きてください!」
どんどん、という叩く音とじいの声にわたしは焦る。周りを見たら昨日アキが脱ぎ捨てたワイシャツしかなくて、とりあえずそれを羽織ってドアに近寄り、開ける。
「じい、おはよう。あの、ごめんね。今、アキを起こすから」
わたしの姿を見て、じいはほっとしつつ、なにがあったのか察してくれたようだった。
「智鶴さま……おはようございます。その、おめでとうございますと申した方がよいですか?」
その一言にカーッと頬が赤くなった。
「いえ、いりません!」
「そうですか。秋孝さまもずいぶんと我慢なさったようで……」
いや、じい、そんなことはどうでもいいから。
「朝食の準備をさせていただきたいのですが、お部屋に入ってもよろしいですか?」
「ああ、じい。おはよう。俺は構わないよ」
アキは布団の中で大きく伸びをしながらそう言っている。
「ちょ、ちょっと待って! 着替えたらそちらにいきます!」
と叫んで焦って自分の部屋へ戻った。
それにしてもじい。なにが「おめでとうございます」だ!
昨日の出来事を思い出して、真っ赤になるのがわかった。じいの、馬鹿!
学校に行っても彼方に昨日なにかあった? と突っ込まれるし。
「なんにも……ないっ!」
と言い張ってみたけど、そう言えば言うほどなにかあったんだな、という顔をされた。
「まあ、本人がなんにもないっていうならいいけどね」
と意味ありげにわたしの首元をちらりと見るから気になって鏡で見た。
「!」
ブラウスの襟元から見えるか見えないかという微妙な位置に赤い印を認め、わたしは真っ赤になる。アキったら、いつの間に?
そういえば、と思いだす。昨日は本当にすべてが初めてで夢中だったけど、今、冷静になって思い返してみるとアキはあちこちにキスマークを付けているようだった。ほんっと、あきれた!
学校では、昨日わたしたちを迎えに来たアキのことを聞きたそうな人たちが遠巻きにわたしと彼方を見ていたけど、わたしと関わるのが怖いのか、はたまた別の理由があるのか、ひそひそと噂話をするくらいで直接聞きにくる人はだれひとりとしていなかった。その方が都合がよかったので、気がつかないふりをして過ごした。
そして、さっそく中間試験の結果が返り始めた。予想通りの結果にほっとした。横の彼方をちらりと見ると、無関心な表情で答案用紙を見ていた。その点数を見て、驚いた。うわー! 彼方、頭がいいとは思っていたけど、どれも軒並みわたしより点数が良くて、この年でアメリカの大学を卒業しているんだよね、というのを実感した。ただ、アメリカ暮らしが長かったせいなのか、ちょっとひねった日本語の書き方が苦手のようで、そういうところで間違っていた。だけど彼方、頭はいいから次からはたぶん、そんなところでは引っかからないだろうな。わたしも負けないように勉強しなきゃ。
学校が終わって彼方と一緒に家に帰って、やっぱり彼方に指摘された。
「智鶴ちゃん、ようやく秋孝と結ばれたんだ」
彼方のその言い方はからかうという言い方ではなくて、本当に心の底から良かった、という響きがあって、驚いて彼方を見た。
「深町、毎日秋孝のことを煽っていたみたいなんだけど一向に動く気配がなくて、昨日、かなり挑発したみたいなんだよね」
と言いながら彼方はわたしに制服で隠れて見えないところをめくって見せる。
「な……っ」
そこはびっくりするくらい赤を通り越して青くなっているところもあったりするんだけど、それはおびただしい数のキスマークで。
「これはほんと、やりすぎでしょ?」
と彼方は言っているけど、それは全然嫌そうじゃなくて……むしろ喜んでいるようで、このふたり、本当にいいカップルなんだな、と心底あきれてしまう。そして、深町はわたしの忠告を一応受け入れてくれているんだ、とは思ったけど……これはさすがにやりすぎのような気がする。
「深町もさすがにこれを見て、反省しているみたいだから。安心して?」
そういう問題なんだろうか?
それから夕食の時までいつものように勉強を教えてもらう。
テストで間違ったところもどうして間違ったのか反省もしてみた。
夕食の時間になったのでわたしたちは食堂に行き、ふたりの帰りを待っていた。
「お帰りなさい」
ふたりが帰ってきたのでわたしはそう出迎えた。アキは驚いたように目を丸くして、次にわたしをギュッと抱きしめた。そのぬくもりが気持ちよくて、ああ、幸せだなと実感した。
夕食はいつも以上に和やかで、だけどたまに見せる深町の意地悪な視線に少し居心地が悪くて。
帰る間際、深町とふたりになったときに深町に、
「智鶴、秋孝に飽きたら僕のところにおいで。僕はいつでもいいからね」
と揺さぶりをかけてきた。
「深町っ!」
「僕は秋孝より智鶴のこと、気持ちよくさせてあげられますから」
そう言った深町の表情は、ますます真理さんに似てきて、わたしはぞっとした。だけど……きっと、その深町の表情を受け止めているわたしも同じ表情をしているのだ。深町の表情でわかる。
「絶対にあんたんところなんか行かない! 抱けるものなら今すぐここで抱いてみなさいよ!」
深町はわたしの言葉に身体を抱き寄せ、いきなり舌を入れたキスをしてくる。深町から逃れようともがくけど、深町はまったく腕の力を緩めない。深町の舌を噛んでやったけど、少し痛そうな表情をしたものの、それに構わず舌を絡めてくる。深町のキスは不快感しかなかった。それもわざとそういうキスの仕方を深町がしているのがわかって、単に嫌がらせをしているんだ、と思ったらもう一度、深町の舌をかんでやった。さっきはまだ遠慮していたけど、今度はまったく遠慮せず、思いっきり噛んでやった。
「っ!」
さすがの深町も顔をしかめてわたしから離れた。
「さすが、僕の妹ですね。それくらい強気じゃなければ、秋孝とは付き合えませんよ」
口の端の血の混じった唾液をぬぐいながら深町はわたしを見ている。わたしは口をぬぐうことなく、深町をにらむ。
「僕はもう、かなり狂ってます。実の妹にこんな気持ちを持っているのはおかしい、時間が解決してくれる……そう思っていた時期もありました。だけど……それは間違いだったようです」
わたしは深町から目をそらさず、見つめている。
「彼方を想うのと同じくらい、僕は智鶴のことが好きです」
そんな告白、くそくらえ! だ。こんなの、深町の作戦だ。わたしの心をかき乱して、楽しんでいるだけだ。
「わたしは……深町が嫌い。そんなこという深町なんて、大っ嫌い」
わたしの言葉に少し傷ついたような光が瞳に見えたけど、それはほんの一瞬で、見間違いかな、と思えるほどだった。
「ふ……。僕も嫌われたものですね。少し真理の気持ちがわかりました」
嗜虐的な光の宿った瞳で深町はわたしを見ている。
「もう一度言います、僕は智鶴を今すぐにでも抱けますよ。だから……待ってます」
「待たなくてもいいわよ! そんな日、一生こないから!」
わたしは前の時と同じように深町を押して、部屋に戻ろうとした。深町の横を抜けたところで、深町に腕を掴まれた。
「離してよ」
深町は無言でわたしの腕を引っ張り、わたしの身体はすっぽりと深町の胸の中におさまった。その腕は……昔の優しく包み込んでくれるような優しい腕で、わたしはすぐに抜け出せなかった。なんで……? もう、忘れていたと思ったのに。なんでそんな優しい腕でわたしを抱くの?
深町を見ると、悲しそうな、昔と同じ優しさのこもった瞳をしていて、わたしは余計に戸惑う。
なんなの?
そして、さっきの嫌がらせのようなキスとは全く違う、優しさがたっぷりこもった甘いキスを、わたしの唇にそっと落とす。そのキスには予想外に切なさも加わっていた。
どうして……! どうしてそんな、気持ちのこもったキスをするの?
深町はわたしの唇からゆっくり離れ、文字通り突き放すようにわたしを突き飛ばし、振り返りもしないで帰っていった。なんなの!? わたしは深町の背中を怒りのこもった瞳で見つめていた。
部屋に戻ると、アキはお風呂のようで、すぐに顔を合わせたくなかったから、わたしには好都合でほっとする。お風呂に入る準備をして、アキが上がってくるのを待っていた。
「ちぃ、戻ってたのか」
タオルで髪の毛を拭きながらアキは部屋に戻ってきた。そして、わたしの顔を見て少し苦痛そうに顔をゆがめたけど、それ以上はなにも言わなかった。なにも言われない方が返ってつらいということを、わたしは初めて知った。
ヒノキの湯船にひとり、肩までゆっくりつかる。
深町の気持ちがまったくわからなかった。確かに最初、深町を兄と知りながら恋心を抱いていた時期もあった。だけど恋心だと思ったそれは……憧れだったのだ。深町があんな奴だと知っていたら、わたしはきっとそんな気持ちを欠片も持たなかっただろう。恋心を抱いた自分を恥じた。
お風呂からあがると、アキは艶消しのシルバーフレームの眼鏡をかけて、書類に目を通していた。
「あ、お仕事?」
「うん。おいで」
お仕事なのになんで呼ばれたのかわからなかったけど、わたしは素直にアキのところへ行った。
「あのCMが始まってからの報告書」
「見ていいの?」
「ちぃのことだろ?」
わたしはアキの顔を見て、それからアキが持っている書類を見た。アキはわたしに書類を手渡すと、眼鏡をはずして伸びをしていた。書類は、奈津美さんが作ったもののようだった。CMが始まってからの問い合わせ件数と内容、対応の仕方と挙式予約件数、そしてテレビ局から報告のあった視聴者からの問い合わせ件数と内容などといったものがまとめられていた。
「すごいだろう?」
いろんな意味ですごすぎて、わたしは報告書をじっと見つめた。
「奈津美さんって、すごいんだね」
「ああ。あれだけの激務の中でこんな資料をきちんと作って報告してくるんだもんな」
アキはものすごく楽しそうに笑っている。
「それでな、ちぃ。相談なんだが」
わたしに相談とは、なんだろう?
「ちぃは俺の仕事、手伝ってみる気はないか?」
「……はい?」
言われている意味と意図がわからなくて、とても間抜けな返答しかできなかった。
「奈津美も俺と一緒に働きたいと言ってるし、俺もこの書類を見て、その気持ちはますます募るばかりだ。深町のあほと蓮もいるし、そしてなによりも俺はTAKAYAグループの次期総帥候補。夢は夢で終わらない場所にいるんだよな」
まあ、おっしゃる通りで。
「深町にはきっついお仕置きが必要みたいだし?」
そういってちらり、とわたしを見る。
「ちぃも知ってるけど、俺、あんまり人ごみが得意じゃなくてな。ちょっと表だってなにかするのに腰が引けてたんだけど……。ちぃが手伝ってくれるっていうのなら、できると思うんだ」