【お飾りはいらない】
「ちぃ、おはよ」
耳元でそう囁かれて、ぞくっとしてびっくりして目を覚ました。
「な、なに?」
目の前にアキの顔があって、もっとびっくりする。
「ちぃの寝顔をいつまでも見ていたかったんだけど、朝ご飯一緒に食べる方がいいなって思って起こした」
アキの顔を避けるようにして起き上り、時計を見た。朝の六時を過ぎていた。
昨日、帳簿のチェックを終えてすぐに布団に入ったんだけど、なれないことをしたせいか、ずいぶんと疲れていたようだった。
「昨日はちぃが手伝ってくれたから、久しぶりにゆっくり眠れたよ。ありがとう」
アキは満面の笑みを浮かべて、わたしを見ている。その笑顔がまぶしくて、目を細める。
「着替えておいで。朝ご飯にしよう」
アキはわたしの頭をなでて、立ち上がって隣の部屋に戻って行った。あわてて顔を洗って着替えて髪を整えてからアキの部屋に行く。そこには昨日と同じように朝食が用意されていて、わたしたちはふたりでおいしくご飯を食べた。
「彼方によろしくな」
昨日はそんなことを言わなかったのに、アキはそれだけ言って出かけて行った。どういう意味なんだろう……?
疑問に思いつつも、彼方が来て、アキが「よろしく」と言っていたと伝えたら、彼方はあからさまに嫌な顔をした。
「あいつ……。ったく、わかった」
なにがどうなのかわからなくて、アキと彼方の間に入れなくて、ちょっとムッとする。アキに対してどうとも思っていないのなら、ムッとする必要もないのに。自分の心に疑問を持たなかった。
昨日と同じように勉強を教えてもらった。
アキと深町は今日は時間通りに帰ってきた。
「智鶴、秋孝から聞きました。ありがとうございます」
深町はわたしの顔を見るなり、ギュッと抱きしめて優しく髪をなでながらそう言ってくれた。なんだかわからないけど、深町が喜んでくれているのがうれしかった。
「彼方、今日もありがとうな」
「おまえのためにやってるんじゃない。智鶴ちゃんのためだ」
アキの言葉に彼方はぶっきらぼうにそう答える。
「ところで彼方、簿記・会計の知識はあるか?」
「まあ、どこまで求めているのかわからないが、一通りなら」
「簿記は何級だ?」
「三級程度だな」
彼方の言葉にアキは少し考え込んでいた。
「とりあえず今までの勉強プラス簿記会計、おまえの知識すべてを智鶴に教え込め」
「は?」
「簿記のテストが近々あると思うんだが、それの三級に合格させろ。それが俺からの命令だ」
彼方はアキの言葉にムッとする。
「命令だって? 命令なら断る。アタシは智鶴ちゃんがやりたいってのなら三級だろうが二級だろうが合格するように教える」
「ちぃ、彼方はそう言ってるんだが、どうする?」
いきなりのことできょとんとしてアキを見る。
「その勉強をすることで、なにかわたしでも役立つの?」
「役立つどころではない。そうしてくれると俺も深町も助かる」
アキはともかく、深町が助かるのなら、勉強しようと思う。
「深町が助かるのなら、わたしやるよ?」
「わかった。今度の簿記試験の日にちは?」
アキは日にちを彼方に告げた。
「う……ん。智鶴ちゃんがどこまで知識があるのかで三級を目指すのか二級を目指すのか変わってくるんだけど……」
「とりあえず三級を目指せ。最終的には一級を取ってもらう」
「は? 一級取らせてどうするつもりだ?」
彼方の言葉はもっともだ。
「俺の仕事を手伝ってもらう」
びっくりしてアキを見た。
「俺はお飾りだけの嫁なんかいらないんだ。きれいなだけならそこらへんにごろごろしている。智鶴、おまえは俺が困るくらい、魅力のある女になれ」
急に真顔で智鶴なんてアキに言われたから、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受ける。
「まあ、今でも充分に俺はおまえに惚れてるんだがな」
ぼそっと聞こえるか聞こえないかくらいの言葉をつぶやき、ひとりでカーッと真っ赤になっている。
彼方はそんなアキを見て、はん、と鼻で笑って、
「いいだろう、その勝負、受けてたつよ」
なにをどうやったら勝負話に聞こえたのかわからないけど、彼方は不敵に笑ってアキを見ている。
「ふん、泣きごとを言うなよ?」
「おまえの前で絶対泣きごとなんて言わない! なんならアタシも一級取ってやってもいいぜ?」
「とれるものなら取ってみやがれ」
これを“売り言葉に買い言葉”っていうんだろうか。アキと彼方の間は火花が見えそうなくらいばちばちと熱い視線が交わされている。
「とりあえず、夕食にしましょうか。せっかくの料理が冷めますよ?」
深町の言葉にわたしたちは席に着き、夕食を美味しく頂いた。
普段の勉強プラスに簿記の勉強。初めて聞く言葉ばかりでわたしの頭はパンクしそうだった。だけど、彼方の教え方がうまいようで、試験一週間前くらいにはずいぶんとわかるようになっていた。
「後は過去の問題を数こなすだけだな」
彼方は満足そうにつぶやき、
「試験の日までアタシ、ちょっとこれなくなるけど、いい?」
と聞いてくる。
「え?」
急な申し出にわたしは戸惑う。
「あいつに一級受かるって言った手前、意地でも受からないといけないから、ちょっと身を入れて勉強したいんだ」
「うん。ごめんね、彼方。大変なのにわたしにつきっきりにさせちゃって」
「いや。アタシもおさらいと基礎をしっかり覚えられたから大丈夫」
彼方は最近睡眠不足なのか、少し目の下にクマができていた。
「彼方、しっかり寝ないと頭回らなくなるよ」
「大丈夫。アタシの脳みそはそんなにやわじゃないよ」
にやりと笑う彼方は頼もしかった。
そして、試験当日。
さすがに試験は指定された場所で受けないといけないので、久しぶりの外出となったんだけど……。
「深町はともかく、なんでアキまで?」
「護衛は多いに越したことないだろ?」
なぜかアキまでついてくると言っている。
「それに俺も簿記、受けるし」
「は?」
「僕も受けますよ」
そんなの、聞いてないし!
会場は近くの高校のようで、懐かしくて少し涙が出そうだった。
そしてわたしたちは、席に辿りつくまでにざわざわと注目を浴びた。指差してびっくりしている人たちまでいて、これだけいい男ふたり連れていたらそうなるよねぇ……とため息をついた。
さらにアキはここでもわたしにべったりで、正直うっとうしくて仕方がなかった。
指定された席に着くと、前にアキ、後ろに深町に挟まれた。教室にいて、机に座っているアキと深町の姿がなんだか妙に浮いていて、わたしはくすりと笑った。
テストは、順調に終わった。
「結果は二か月後か。楽しみだなー」
このふたり、いつ勉強していたんだろう……。