『遅かった迎え』
僕は今、十一月の冷たい雨の中、しかもこんな夜中に車を飛ばしてとある場所に向かっていた。
ようやく見つけた……!はやる気持ちをおさえ、ハンドルを握る。
僕の父は、僕が六歳か七歳の頃、家を出た。いわゆる「カケオチ」というやつだ。
父と母は幼なじみでそれでいて昔から親同士が決めた許婚で……と言ってもそれなりにレンアイカンジョーはあったらしいけど……仲良く暮らしていたらしい。
二年前に亡くなった母曰く、
『かっこよくて優しくて頭がよい』
人、だったらしい。
じゃあ、なんでそんな人が僕たちを置いて出て行ったの?という問いに……母は困ったように微笑むだけだった。
僕は父がいなくてもそれなりに満ち足りていた。
それはきっと、秋孝(あきたか)の父が僕の父代わりだったから、というのがあるのだけど……。
そしてつい最近、どうやら僕には八歳差の妹がいる、と知った。
妹……!?
青天の霹靂(へきれき)というのはこのことか! というくらい、僕には衝撃だった。そして……その妹が十六歳になったらカケオチした父を許し、家にもどそうという話もあった、というのを知り……僕は今日という日を心待ちにしていた。
父に恨みがないわけではない。僕と母は捨てられたのだから。それよりも……妹がいる、ということの方が僕には喜びが大きくて。会える日を楽しみにしていたのに。僕は自分のふがいなさに涙が出そうだった。
こんなことなら、こんな悲しい結果が待っているのがわかっていたのなら……すぐにでも会いに来ればよかった。久しぶりに会う父に躊躇していた自分の気持ちが悔しかった。
はやる気持ちを押さえながら、調べたアパートに急いでいた。アパートに近づくにつれ、なぜだか人の気配が増えていく。こんな夜中なのに、である。嫌な予感がした。そんなときの予感というのは……たいてい当たる。外れていてほしい、と思いながら会えるという喜びとは違う何かが僕を焦らせた。
そして……ようやく辿り着いたアパートは……燃えていた。自分の行動の遅さに、嘆いた。ようやく探し当てたのに。
父は、なにかから逃げるように住む場所を転々としていたようだ。カケオチした相手は、「稀代の大女優」とまで言われた人だったらしい。昔の写真を見たけど、ものすごく美しくて……それでいてはかない美人で、父が惚れた理由が分かった。だから、父を恨むことをやめた。
アパートは木造のようで、嫌になるほどよく燃えていた。昨日から降っている雨程度ではその火を消すことも勢いを殺すこともできなくて。十一月の冷たい雨は……僕の心まで冷やしていく。せっかく会えると思っていたのに。僕に勇気がなかったばかりにこんな結果に。さしていた黒い傘をぐっと握った。
どれくらい僕はそうしていたのだろう。憎たらしい炎はすべてを飲み込み、気が済んだようで、ようやくおさまった。消防車が空しく赤いランプをくるくると回していたのが僕には恨めしかった。アパートを茫然と見つめていると、ぼんやりとはるか向こうに人影が見えた。あそこは……このアパートの裏側。
僕はある予感にとらわれて、ぐるりと回ってそこへ行く。
アパートの裏庭で。
その人は。
頭からシーツをかぶって。
冷たい雨の中、茫然とたたずんでいた。
妹だ! 妹の智鶴だ。僕の本能がそう告げていた。
間違いない。あれは、ずっと探していた妹の智鶴だ。間違いない。
信じられなくて、ゆっくりと一歩一歩と近づいた。
ぱきり、と枝が折れる音がした。どうやら僕が踏んだようだ。
その音に智鶴はびくりと身体を揺らし、僕を見た。
はっとした。
暗闇の中。そこだけが光っているかのように見えた。
雨なのか涙なのかに濡れた顔。びっくりして見開かれたきれいな瞳。紅く形の良いぷるんとした唇。そしてなにより、父と母譲りの整った顔。
「遅かった……!」
そこに茫然とたたずんでいる智鶴を見て、智鶴の両親がすでにこの世にいないのがわかり……僕は愕然とした。あの憎らしい炎が、あのふたりを飲み込んでしまった。
僕は傘を投げだし、智鶴のそばに駆け寄った。
「智鶴、ごめん……! 迎えが遅くなった!」
僕の言葉に智鶴はまるで幼子のように小さく首をかしげる。
「濡れますよ?」
鈴を転がしたようなか細いけど心地よい声。見上げる瞳に智鶴だと確信する。
「智鶴」
僕は確かめるように智鶴の名前を呼ぶ。
「本当に、迎えが遅くなって……ごめんなさい。謝ったってもうきみの両親は……戻ってこないけれど……。そして……僕もきみと同時に父を失うことになってしまった」
なにをどう話してよいのかわからず、僕は謝る。そして自分の言葉に父を失ったことを知り、僕はさらに愕然とする。
「智鶴、僕はきみの腹違いの兄の辰己深町(たつみ ふかまち)。きみの十六の誕生日を待って、きみたち家族を迎えに来たんだ」
僕の本来の目的を告げる。本当なら、今頃僕はこんなところではなく温かな場所で智鶴と出会い、父と再会していたはずだった。
「……はい?」
智鶴は僕の言葉の意味がわからないようだった。それもそうだろう。いきなり現れた僕にそんなこと突然言われたら、だれでもそういう反応をするだろう。
「え……腹違いって……。パパの子どもなの?」
僕の言葉に智鶴はなんとなくわかってきたようだった。
「そう。僕と智鶴、兄妹なんだよ」
二年前に他界した母、そして今、父はこの世を去り。でも、僕の目の前には腹違いとは言え、智鶴がいる。僕の大切な、家族。
「迎えに来た。一緒に住もう」