【二十一章】甘い夜
その日のキリエの舞台は、当たり前のようにサンクがラクリモサで伴奏した。
一瞬だけお互い戸惑ったが、特に練習もせずにすぐに息が合い始めたのはそれまで二人で演奏生活をしてきたたまものでもあったのだろう。
拍手はいつも以上になりやまなかった。
「キリエと……」
「サンク」
ミルエラは顔を真っ赤にして涙をためたままキリエとサンクが舞台から戻ってくるのを待っていた。ミルエラにサンクを紹介していなかったのを思い出し、キリエは名前の後に紹介しようとしたが、ミルエラが止めた。
「あんたの演奏もいいとは思っていたけど、サンク、あんたは最高だね! キリエがだれの演奏もよしとしなかったのが分かるよ!」
興奮してミルエラはキリエとサンクの肩をばんばんと叩いている。キリエとサンクは顔を見合わせて苦笑する。
「今後もよろしく、と言いたいところだけど……」
ミルエラは急にトーンを落としてさみしそうにつぶやく。
「行くんだろう?」
キリエとサンクは再度、顔を見合わせる。
「あのね、ミルエラ……」
キリエは口を開く。
「もう少し、ここ『ルシス・ルナ』でお世話になっても……その、迷惑じゃ、ない、かな?」
キリエの言葉にミルエラは目を見開く。
「迷惑なわけないじゃないか! むしろ、大歓迎だよ!」
想定外のキリエの言葉にミルエラは大喜びだ。キリエはしかし、さらに口を開く。
「あの……ずっとはいられないけど……もう数日ほど、ここにいさせてもらって、いい?」
「やっぱり……行くのかい?」
ミルエラの問いにキリエは逡巡して、うなずく。
「確かな約束はできないけど! これからサンクとやらないといけないことがあって。それが終わったらまた、ここでお世話に」
キリエが言い終わらないうちにミルエラはキリエを抱きしめ、力強く背中を叩く。
「いつでも帰っておいで! ここはあんたの家だよ」
ミルエラのその一言に、キリエの瞳に涙があふれる。
「あんたもだよ。二人とも、根なし草なんだろう? ここを家と思ってもらっていい。むしろ、そう思ってくれるのはあたしの誇りだよ」
「ミルエラ、ありがとう!」
キリエはうれしくて、涙を浮かべてミルエラの胸に顔をうずめる。前もこうやってミルエラは元気づけてくれた。魔王の娘、と告白したのに、最初は戸惑いを見せたものの、今までと変わらず接してくれている。
「あんたはあたしの娘だよ。あたしの誇りだよ!」
ミルエラのその一言がうれしくて、キリエはミルエラの胸で号泣した。
その二人のやりとりをサンクは後ろから離れて見ていた。
キリエはいい人に見つけてもらってよかった。自分が幼い頃に遭って来たような大変なことになっていなければいいが、と気がかりだった。
「ほら、あんたもだよ! 死んでしまったあたしの息子の代わりで申し訳ないけど。その大切な用事が済んだら、キリエとまた、ここに戻ってくるんだよ。馬鹿息子はだんなとともに約束を果たしてくれなかったけど、あんたはキリエと一緒に戻ってくること! これは大切な娘のキリエをあんたに託す時の約束だ」
「……ああ、分かった。約束するよ」
サンクは少し苦笑しつつ、ミルエラにそう約束する。自分の母もこれくらい強ければよかったのに。ベッドの上で苦しそうな表情で死んでいた母を思い出し、サンクの気持ちは少し沈んだ。
サンクはようやく泣きやんだキリエを連れ、部屋へと戻る。泣きはらしたまぶたに口づけを落とす。キリエはくすぐったくて身をよじった。それを見たサンクの理性の糸はぷつりと切れそうになる。
「ん……はぁ……サンク」
キリエの甘い吐息にサンクのタガが外れかける。
キリエはサンクの行為に自分がおかしくなりそうで怖かった。
「サンク……怖い」
今まで感じたことのない感覚が身体の奥から湧きあがってくる。ぞくりと身を震わせるそれにキリエは恐怖を感じる。
「怖い? 大丈夫、オレに身をゆだねて」
耳を打つ熱いサンクの吐息にキリエはぞくぞくする。今日、サンクと舞台に立ち、たまに感じたなんとも言えない感覚。ぞくりと肌を粟立たせる。それが不快ではなく心地よく、気持ちがいいとキリエは感じていた。もっと感じたくて、だけどなんだか触れてはいけないものに触ってしまったような錯覚に陥り、怖くなる。でも、サンクは大丈夫と言ってくれた。サンクにゆっくりと身をゆだねる。
サンクはしかし、戸惑っていた。
心も身体もキリエを求めている。しかし、このまま欲望のままにキリエを抱いてしまってよいのだろうか。安心しきって身体を預けているキリエを見て、サンクは悩む。
「サンク……」
少し戸惑いを見せるキリエにサンクは少しだけブレーキを掛ける。身体は疼いているが、そのままキリエを抱きしめる。
「キリエ……」
あまりにも愛しすぎて、それ以上、先に進むことができない。サンクは気持ちを散らしてキリエに先ほどより少しだけ深く口づける。キリエはやはり苦しそうにサンクの腕を握りしめてくる。右腕の傷口を握りしめられ、そこからじわりと甘い痛みが全身へと広がっていく。それでサンクは少し、冷静になれた。
そっと身体を離され、キリエは不満そうにサンクを見上げる。
「疲れているだろう?」
その一言にキリエは首を振りそうになり、止める。自分はそれほど疲れていなかったが、サンクはここまでずっと、旅をしてきたのだ。疲れているに決まっている。
「気がつかなくて、ごめんね」
キリエはあわてて離れてサンクを見る。名残惜しそうなキリエにサンクは笑みをこぼす。
「一緒のベッドで寝ようか」
キリエは真っ赤になってサンクを見る。同じ部屋に寝る、というのは初めてではない。しかし、同じベッドに眠ったことはない。しかも、今はあの頃と違って心が通じ合ったので、激しく恥ずかしく感じる。
「あ……」
部屋の中を見て、キリエは気がつく。
「サッ、サンクの寝る場所がないのよね? わたしは床に眠るから!」
「一緒に寝よう?」
後ろから抱きしめられ、耳元で囁かれたらキリエは抗うことができなくなった。真っ赤になりながらも気がついたらうなずいていた。
一人で寝るには充分だが、二人で寝るには狭すぎるベッドに二人して入る。キリエはどうすればいいのか分からなくて、壁際にべったりと張り付く。
「そんなに奥に行かなくても」
少し苦笑したサンクの声が明かりを消した部屋に響く。気のせいか妙に艶を帯びた声音で、キリエはドキドキと胸が高鳴る。
「だっ、だって、サンク……。その、狭いでしょ? ごめんね。ミルエラにお願い……きゃ」
サンクはキリエに身体を寄せ、唇をふさぐ。手首をつかんでそちらにも口づける。キリエはあまりの出来事に頭がついていかず、ぼんやりとサンクを見つめている。
「キリエ」
サンクの低い声がキリエの耳朶を打つ。
「おやすみ、キリエ」
それは、今まで一緒に旅をしてきた時と同じ声音で、キリエは妙に懐かしさを感じる。
「あ……うん。サンク、おやすみ」
キリエのおやすみの挨拶を聞くなり、サンクはクロムグリーンの瞳を閉じて眠ってしまった。寝付きの良さにキリエは少し笑う。キリエはサンクの頬に手を当て、少しなでた。別れる前より少し痩せたかもしれない。
「ごめんね、サンク。──ありがとう」
キリエはつぶやき、瞳を閉じた。
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朝。キリエは息苦しさに目を覚ました。目を開けると、サンクの顔が目の前にあり、唇をふさがれていた。息苦しさの原因はこれか、とキリエは苦しいというのをサンクの頬を軽く叩いて訴える。
「ああ、ごめん。寝顔がかわいくてつい」
蕩けるような笑顔を向けてくるが、キリエはふと疑問に思う。サンクってこんなに甘かった? なんだかねじが緩んだというか壊れているというか……。
キリエが起きてきたのを確認したサンクは、もう一度キリエに口づけ、舌で唇を割り、口腔内に侵入する。キリエはぬるりとした感触に驚いて目を見開く。割って入ってきたサンクの舌は思ったよりも甘く、キリエは素直に受け入れた。