【七章】想い
お風呂からあがると、キリエは無防備に眠っていた。ベッドの上に丸まって眠っているのを見て、もしかして、自分が上がってくるのを待っていてくれたのか、そう思うと申し訳なく、心の奥から湧きあがってくる愛しい思いが胸を占める。
布団を掛け、こめかみの部分に軽く口づけをすると、キリエはうれしそうな表情で身をよじっている。その反応がかわいくてもう一度しようかと思ったが、起こしてしまうかもしれないと思い、我慢した。
隣のベッドで眠っているキリエを意識すると、サンクは眠れなくなった。ベッドに入り、何度となく寝返りを打つ。キリエに背中を向けると背中に気配を感じ、反対をむくと視界にキリエが入る。
サンクは天井を見つめて眠りに就くことに決めた。右側に眠るキリエの気配を感じながら、目を閉じる。
まぶたの裏に映るのは、キリエの笑顔。この笑顔を守るためなら、なんでもしよう。
心に決め、ゆっくりと息を吐く。サンクはようやく、眠りに就くことができた。
「うわあああ!」
サンクは、自分の上げた声で目が覚めた。身体中、大量に汗をかき、飛び起きる。周りを見回し、そこが宿屋のベッドの上だということを確認して、ため息をつく。部屋はほんのり明るくなっていて、朝を迎えたことを知る。
「……ん……」
小さな声に驚き、右側を見る。そこには丸くなって眠るキリエがいた。
ベッドから降りて、軽く汗を流してくることにする。
なにか夢を見ていたような気がしたが、内容がなんだったのか思い出せない。夢見が悪く、身体の芯の疲れが取れていないような気がしたが、今日の移動を考えるといいタイミングで目が覚めた。
身支度をしながら、キリエを起こす。キリエは眠そうに目をこすりながら起き上がり、サンクを見て真っ赤になる。どうして赤くなっているのだろう……と考え、自分の恰好を思い出す。お風呂上がりで下半身は履いていたが、上は暑くてまだなにもつけていない。髪を乾かすための布を首に下げ、それで頭を乾かしているという姿。もしかして、これでそんなに真っ赤になっているのか? あまりにもうぶすぎるキリエに、サンクは意識しすぎて、今度はこちらが真っ赤になる。
サンクはあわてて服を着て、キリエに着替えを促す。キリエはベッドから飛び降り、ぱたぱたとお風呂場に駆け込み……着替えて出てきた。
昨日、この宿に着く前のお店でキリエが一目ぼれした古着だ。深緑色のひざ丈のワンピースで、その下に同じ色のズボンを履けば旅をするのに支障のない服となる。
「この色、サンクの瞳と一緒でしょ。きれいな色で、気に入っちゃった」
着替えてご機嫌のキリエのその一言に、またもやサンクは真っ赤になる。自分はキリエの保護者代わりだから、と心に言い聞かせ、抱きしめたくなる衝動を押さえる。
いつまでもこの調子では身が持たないな、と少し大きく息を吐き、サンクはキリエとともに部屋を後にした。
キリエは歩きながらずっと歌っていた。迷子にならないようにしっかりと手をつなぎ、歩く。キリエの歌声は耳に心地よい。穏やかな道行き。
コンフュタティスとセキュエンティアの国境代わりとなっているホスティア川沿いを歩く。穏やかな道が続き、村が点在しているので旅人が多く行き来している。このままコンフュタティス側の川沿いを歩き、トラクタスへ入ることにする。川沿いに歩くと少し遠回りになるが、道が穏やかで村や町が存在しているのでさまざまなものを調達しやすい。その分、追われている身は見つかりやすいというデメリットがあるが、その時は逃げればいい。
そこまで考えて、サンクはふと、自分はなにから逃げているのかという疑問がよぎった。
魔王討伐の旅の仲間から。グラデュアル国国王から。
ではなぜ、逃げている?
自分は国王の命令通り、魔王を倒したではないか。
どうして逃げている。なにから逃げている。サンクは自分の心に問いかける。
問いかけるが……答えは返ってこなかった。
キリエは歌う。
歌っていないと不安になる。自分が知らない世界。広い広い……どこまでも続く世界。
あまり目にしたことのないほどの広くて青い空。見覚えのない色に戸惑う。
サンクのクロムグリーンの瞳を見ていると、落ち着く。優しい笑みを返してくれる父と母とは違う存在に、キリエは心を開きかけていた。
しかし。サンクの瞳は微妙に自分を見ていないことに気がつく。
気がつくと切ない表情で自分ではない自分の背後に見えるだれか、を見ている。それがだれか分からないが……さみしそうな切なそうなサンクの表情を見ていると、とてもさみしく思う。胸が締め付けられる。わたしを見てほしい。キリエはサンクに向かってそう言いたいが、口にできないでいる。
あの洞窟での出来事も、サンクに聞きたい。しかし、サンクはいつもなにかに耐えるように眉をひそめ、苦しそうな顔をしている。今も手を繋いで歩きながら、サンクの表情は苦しそうだ。キリエは、自分の歌で少しでもサンクのその心を癒すことができれば──そう思うと、歌うことをやめることができなかった。それに、歌うのをやめたら、苦しげな表情のサンクに無遠慮にいろいろ聞いてしまいそうだ。
血の海に沈んでいた二人。血まみれだったサンク。
あそこで、なにがあったのか。
キリエにはまったく分からなかった。
ただ……自分の大切な人たちが、この世から去った。だから自分はここにサンクといる。そのことだけははっきりと分かった。
サンクがいなければ、生きていけない。サンクから離れることはすなわち、死を意味する。だから、お願い。サンクの大切なだれかの身代わりでもいいから、あなたの側にわたしを置いて。
そんな気持ちを込めて、キリエは歌う。
サンクの心が少しでも癒えますように、と。
キリエの気持ちを知らないサンクは、しかし、キリエの歌声に心を癒されているのを知った。
生まれ故郷のグラデュアル国のイエム村にキリエを連れていこう。きっとそこに、彼女の両親がいるはずだ。いないとしても、彼女の血に繋がるだれかはいるはずだ。いなければ、知っている人を探して、キリエとともにその人を探せばいい。
そこまで考えて、自分はそういえば、その国の国王から逃げているのだった、と思い出す。しかしどうして逃げているのか──そう考えて、振り出しに戻る。
イエム村はグラデュアル国の南東に位置し、トラクタスに近い場所にあった。遠回りになるが、とにかくホスティア川を下り、トラクタスに入ろう。入国できたら南に向かい、イエム村に行けばいい。
サンクの中で旅の行程が出来上がり、少し気持ちが上向きになる。
野宿になるかと覚悟していたが、村に立ち寄ることができ、この村で唯一の宿屋……というよりは別の意味で使用することの方が多いと思われる宿泊施設に泊まることができた。そこがどこだろうが、屋根があり、風雨を避けてゆっくりと眠れる場所を確保できたことでサンクはほっとした。しかし、そういう目的で利用されることが多いため、ベッドはひとつのみ。キリエは広いベッドを興味深そうにのぞき、お風呂場をのぞいて歓声を上げていた。
「サンク、ここのお風呂場、広いよ!」
と無邪気に喜んでいるキリエにサンクは苦笑する。それよりも……と落ち着かないのはサンク。
別にそういった目的ではなく、あくまでも寝るためにとったのだが……。前に使った者の匂いがこもっているのか、妙に艶めかしく、サンクは息苦しく感じて窓を開けて空気を入れ替えた。
「ねーねー、サンク、これってなぁに?」
鍵のかかったケースに入っているいわゆる「オトナのおもちゃ」を指さし、キリエは無邪気に聞いてくる。子どもとは違って身体が大きなキリエに聞かれ、サンクは理性崩壊寸前だ。激しく返答に困る。思わずキリエを押し倒して実践で使い方を教えてやろうか、と言ってしまいそうになるのをぐっとこらえ、気分転換に外に出ようとキリエを外に誘う。
部屋にこもっているから悶々として要らぬことを考えてしまうのだ。
いくら屋根があってゆっくり休めると言っても、二度と再び、あの手の宿屋には泊まらない、サンクはそう心に決めた。
キリエは宿に二人になると急に落ち着きをなくすサンクに首をひねる。
疲れているだろうから宿でゆっくりすればいいのに、サンクはすぐに外に出たがる。キリエとしては宿でじっとしているのは嫌いではないが、外に出るのも好きなので、喜んでついていく。
サンクはラクリモサをいつも背負っていた。だからキリエは町角で弾くようにねだった。キリエはサンクの演奏に合わせて歌う。気がつくといつも人だかりができていた。村から村・町へ。移動するごとに観客は増え、いつしか噂が流れるようになった。サンクとキリエの容姿は目立つ。村や町に着くなり、歓待を受けるようになってきた。キリエは戸惑い、サンクは困っていた。しかし、手っ取り早く稼ぐためにはこうするほかなく……サンクとキリエは流されるままに曲を弾き、歌ってきた。
「サンク……」
宿で一番上等の部屋に案内され、キリエはいつも以上の戸惑い顔でサンクを見上げる。
「よくわかんないけど、こんな贅沢……いいのかな」
あの洞窟では、確かに上質の物ばかりに囲まれていた。しかし、決して贅沢ではなかった。キリエは両親から物を大切に扱うことを教えられてきた。なのでこの贅沢な状況に戸惑う。
「ねぇ、サンク」
サンク自身も戸惑っている。
あまりにも穏やか過ぎる旅で忘れそうになるが……自分はたぶん、追われている。追ってきている気配はないが、自分のした仕打ちを考えると、旅の仲間たちは追いかけて来ている。噂が流れ始め、こんな状況になってきて……自分ではどうすることができなくなってきて、キリエにそう聞かれ。
「キリエ……」
サンクはソファに腰掛け、入口にたたずんだままのキリエを見上げる。
「キリエ、こっちに来て」
キリエは素直にサンクの前に立つ。
「オレは、グラデュアル国国王からある使命を負って旅をしてきた」
サンクの口から初めて語られる話。キリエは向かい側のソファに腰掛ける。
「旅の目的は果たされた……。しかし──」
サンクの手は膝の上で両手が合わされていた。だが、震えていた。キリエはソファから立ち上がり、サンクの前まで歩いていく。そしてそこで座り、サンクの握りしめている手の上からそっと手を乗せる。
「サンク、大丈夫だから」
彼が毎晩、うなされて飛び起きているのをキリエは知っていた。自分の叫び声に目を覚まし、キリエのことを起こしていないかとそっとうかがうサンクにキリエは寝た振りをしていた。なにか辛いことがあり、彼の夢にまで出て来て脅かしている。キリエはしかし、サンクにそれを聞くことができないでいた。いつもつらそうな表情をしているけど、キリエが歌っている時、ラクリモサを演奏している時、その時だけは穏やかな顔をしている。話を聞いて思い出させるより、歌って心を慰める方がいい──キリエはそう思い、サンクの側で歌い続けた。
サンクが自分を通して自分ではないだれかを見ている。それでも、サンクの側にいられる。
そう、それ以上、望んではいけない。
だから……。
「サンク、わたし……あなたに今までたくさんのことをしてもらった。だけどわたしはあなたに歌ってあげることしかできないの。それでもいいのなら──ずっと、あなたの側に置いてほしいの」
初めて口にする、思い。
「しかし、キリエ──」
「サンク。わたしの両親は死んでしまったわ。わたしには兄弟がいなかったの。父も母も身寄りがなく、わたしたちは三人でひっそりと暮らしていたわ。サンクしかいないの。あなたに捨てられたら──わたし」
キリエの身の上話を初めて聞き、サンクは言葉を失った。
キリエの両親はイエム村にいる。もしかしたら、もういないかもしれない。それなら、血縁者のだれかが……と思っていたが。それさえもいないらしい。
「だれかの代わりでもいいの。わたしはサンクの側にいたい。わたしを置いてどこかに行かないで」
キリエの泣きそうな瞳に、そしてその告白に──サンクは目を見開いた。
「キリエ……?」
サンクは戸惑う。キリエはなにを言っているのだろう。代わり? だれの?
言われて初めて、サンクはキリエを通してミサを見ていたことに気がついた。初恋の女(ひと)・ミサ。自分の手であの世へ送った女性。
キリエに言われ、自分はなんとひどいことをしていたのだろうと初めて気がつく。言われてみれば……確かにキリエにミサの面影を求めていた。
「キリエ、すまない……!」
サンクの言葉にキリエは首を振る。
「オレは……キリエを通して……初恋の人を見ていた。言われて初めて気がついた。すまない……!」
切ないプラム色の瞳で見つめるキリエ。その瞳を見て何度、壊したいという衝動に駆られたことか。その切ない瞳を快楽の色に染めたい。サンクは妄想の中でキリエの服を脱がし、何度も組み敷いた。
キリエにそんな瞳をさせていたのが自分だったなんて。それならば……。
サンクは握ったこぶしに重ねているキリエの手をつかみ、腕を引く。キリエは驚いて立ち上がり、そのままサンクの腕の中におさまった。
「サンク……?」
サンクの予想以上に熱い腕の中におさまり、近い顔に戸惑う。
「キリエ……ずっと側にいてくれる?」
剣を握り、ラクリモサを演奏してきた大きくてごつごつした手がキリエの頬を包む。クロムグリーンの瞳には甘やかな光が宿り、キリエを見つめている。キリエはサンクの上に乗りかかるような状態で腕の中にいた。プラム色の瞳でサンクを見つめ、
「サンクの側にずっといたい」
キリエの返事に、サンクは信じられないものでもみたかのように驚いた顔をした。
「オレはひどい奴だよ?」
「どうひどいの? 今まで一緒にここまで来たけど、サンクは優しいよ」
それにね、とキリエは続ける。
「本当にひどい人に……あんな優しい音は出せないよ」
キリエはサンクの手に自分の手をあてる。
「この手があんな素敵な演奏を奏でるんだね」
キリエの笑みに押し倒したい衝動にかられる。しかし……。
あまりにもキリエが無垢で純真すぎて、サンクにはそれ以上、手を出すことができない。重ねられた手を取り、その指先に口づける。
キリエは指先にサンクの唇の感触を感じる。ぞくぞくするものが込み上げてきた。身体の奥から感じるなにかを初めて感じ、恥ずかしくなる。触れてはいけない、禁断の扉。キリエはサンクの腕の中で身をよじる。
「キリエ……ずっと側にいて」
サンクのかすれるような声に、キリエはこくんとうなずいた。