【六章】罪悪感
逃避行のような目的があるようでない二人旅は、キリエの歌声のお陰で暗いものではなかった。さすがに歩きながらラクリモサを演奏できないのでサンクもたまにキリエの歌声に声を乗せる。
サンクの少し低めの歌声は耳に心地よく、キリエはよくサンクに歌をねだった。しかし、サンクは照れてあまり歌ってくれない。
「サンク、歌ってよ」
「キリエが歌ってくれれば歌うよ」
キリエが歌うとサンクはその音に重ねる。キリエはたまに急に歌をやめてサンクの歌声に耳を傾ける。
「キリエ、ほら歌って」
「やーだ」
二人はじゃれあいながら道を歩く。
村から町に移動中の道。途中までは馬車のワダチでなんとなくの道ができていたが、町に近づくにつれ、道が整備されてきた。それにつれ、人が増えてくる。キリエは歌うことをやめて、物珍しそうに行き交う人々を視線で追う。
「キリエ、そんなにきょろきょろしないで」
「でも……」
サンクにたしめられ、キリエは唇を尖らせる。その顔があまりにもかわいくて、サンクは思わずキリエのおでこに口づける。そのすぐ後、サンクは自分の思わぬ行動に真っ赤になる。キリエはそんなサンクを見て、首をかしげる。
「サンク?」
「あ、いや……すまない、その」
サンクは激しく動揺して視線が定まらない。キリエはしばらく考えて……サンクにされたことが分かり、負けず劣らず真っ赤になる。
「やっ、やっ、さっ、サンクっ!?」
欲望のままにキリエのおでこに口づけたことに対してサンクは謝る。キリエといるとどうにも調子が狂う。自分の中のそういった感情は枯れ果てたと思っていたのに。
十年ほど前、ようやく余裕ができてきたサンクは、女を「買った」。裏道・その日暮らししかできないサンクにはきちんとした伴侶を持って家庭を築くということはできないと思っていたし、そんなものがほしいとも思わなかった。しかし、サンクも男だ。興味がなかったわけではない。今までは生きることに必死だったが余裕が出てきた。自分で稼いだお金だ。
初めて「買った」女は、サンクが思っていた以上に親切だった。サンクが正直に「初めて」と伝えたのもあるからかもしれない。女に手ほどきを受け、その後、数度ほど抱いた。
しかし、その女はまた別の街に行くといい、それきりとなった。今となっては名前も顔も思い出せないが、初めての女。
「サンク!」
過去に思いをはせていたサンクは、キリエの声に現実へ戻ってきた。
「ねね、あれなになに?」
キリエはサンクの袖をひっぱり、少し遠くにある屋台を指さしている。
「あれは」
普通に暮らしていれば、それほど珍しくもないもの。
「じゃあ、あれは?」
「こっちのは?」
キリエははしゃいでサンクに聞く。サンクはそんなキリエを見て戸惑う。
サンクはキリエをいさめ、宿に入る。一部屋にベッドが二つある部屋。別々にしようとしたが、キリエの町での様子を見ると一人きりにするのが不安になったので一部屋にした。
サンクは自分に言い聞かせる。キリエを無理矢理抱くとかするな、と。そう自分に言い聞かせておかないと危険なような気がした。
部屋に入ってすぐに予想通り、キリエはベッドに乗ってはしゃいだ。それを見て、サンクは大きなため息をつく。
「キリエ、今から言うことは必ず守ってほしい」
キリエにベッドに座るように言い聞かせ、自分は反対側のベッドに腰をかける。サンクは小さい子に言い聞かせるようにキリエの顔をまっすぐに見て口を開く。
「キミが今までどうやって来たのかは知らない。だけど」
サンクはキリエに「マチ」で過ごしていく心得を簡単に説明した。キリエは神妙な表情でサンクの言葉を聞いている。
「……分かった。そうしないとサンクが困るのよね?」
しょんぼりとした表情でそんなことを言われ、サンクは激しく動揺する。もう少し強く言うと今にも泣きそうで……。しかし、ここは心を鬼にして言わないと、困るのは自分とキリエ。
「オレもキリエも困るから」
「うん。慣れないけど、がんばるから」
そうやって力なく微笑むキリエを抱き寄せて慰めたい衝動に激しく駆られる。
今までそんなことを思ったことなど一度もなかったのに。どうしてそう思ってしまうのだろう。同じ部屋にして、自分は大丈夫なのだろうか。
どうにか気を逸らそうとするが、意識すればするほど、ちょっとした動作にぴくりと反応してしまう。
部屋に二人きり、という状況が良くないのだと気がつき、どうにかして外に出る口実を作ろうと考える。
キリエは部屋に入って妙に落ち着きをなくしたサンクに疑問に思いつつ、サンクに言われたことを反芻していた。
ずっとあの洞窟で過ごしていた。
見た目は気持ちの悪いモンスターと両親しかいなかったけど、楽しかった。
薄暗いけど、あの天井がない広間は空から光が注ぎ……雨の日は雨が降り注ぎ、それを見るのが好きだった。雨音に合わせて歌うのも楽しかった。
あそこから出たい、なんて思わなかった。自分はあの洞窟で一生を過ごすと思っていた。
初めて出た外の世界は、広すぎて、聞いたことのない音にあふれていた。
人ごみの真ん中で立ち止まり、周りの音に耳を澄ます。
雑踏の音、話声、布ずれ、風の音。
なにもかもが音を奏でて自分を主張している。キリエはその音の洪水に流されそうになった。流されて自分の知らない、分からないところに連れて行かれそうになったところ、おでこに一瞬、温かなものが触れた。なんだったのか分からず、しかし、音の洪水はとまった。
視線を上げると、そこには頬を赤く染め、視線が定まらないサンク。動揺しているサンクにようやくキリエはなにをされたのか気がついた。
小さい頃、父に同じことをよくされていた。少し強面の顔で怖かったけど、笑うと本当にうれしそうで、キリエは笑顔の父が大好きだった。おでこや頬に親愛のキスをしてくれた。それが妙にくすぐったくて、だけど大好きで、小さい頃はよくおねだりしてしてもらっていた。
久しぶりのそのくすぐったい感触。だけど、父にされたものとは違い、触れられた場所がとても熱く感じる。周りを取り巻いていた音がすべて消え……サンクの音と自分の心臓の音しか聞こえない。
「あ、いや……すまない、その」
その言葉に、周りのざわめきが復活した。
「キリエ?」
ぼんやりと先ほどの出来事を思い出していたキリエは、サンクの呼び掛けに文字通り飛び上がり、ベッドから転げ落ちる。
「ご飯……食べに行こうか」
床の上にぺたりと座りこみ、キリエはサンクを見上げる。ご飯、と言われて……キリエのお腹はぐーっと鳴る。
「あ……」
キリエはお腹を押さえて真っ赤になる。それを見て、サンクは微笑む。
「あまりいい物は食べさせてあげられないけど」
サンクはそう言ってキリエを連れて出た。
薄汚れていて、飲食店としては少し清潔感に欠ける場所に連れてこられ、キリエは眉をひそめる。内部は薄暗く、客はいるものの気配を感じさせない。
「ねぇ、サンク」
不安になってキリエはサンクの服の袖を少し強めに引っ張る。
「味は保証するよ」
サンクはそのまま店に入り、定食二つと頼んでいる。奥の方からけだるそうな返事が返ってきたのを確認してから、奥の空いている席にキリエを連れていき、座らせる。それほど待つことなく、料理は出てきた。
ほわほわと白い湯気が立ち、美味しそうな料理。サンクは料理を持ってきた人に定食代を払っていた。サンクはすぐに食べ始めた。しかし、キリエは警戒して料理をじっと見つめている。
「どうした、食べないのか?」
サンクの問いかけにキリエは戸惑った表情を見せる。
「これは……なに?」
予想外の返答に、サンクは料理を口に運ぶ手が止まる。
「食べ物だけど……」
キリエはサンクを見よう見まねで恐る恐る料理に手を出し、口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼して、
「……美味しい!」
キリエのその笑顔で、辛気臭い店内が急に華やかなものになる。サンクはキリエと食べることでいつもより料理が美味しく感じられた。
「ねぇ、歌いたくなっちゃった」
食事を終え、店を出た後にキリエはサンクの手にまとわりつき、無邪気に歌いたいと告げてきた。お店に入る前は夕暮れ時で少しさみしさを感じさせる道行きであったが、帰りは明かりが灯り、なんだかいい雰囲気だ。サンクは街灯の下にキリエを連れていき、背負っていたラクリモサを取りだす。調弦して、演奏を始める。キリエは最初、その曲は? という表情をしていたが、すぐに分かったのか、あの花が開いたかのような華やかな笑顔をサンクに見せ、歌い始める。
人通りはそれほど多くない道。しかし、家路に急いでいると思われる人々は足を止め、集まってくる。キリエは歌うことに夢中で周りに気が付いていない。
あまりにも気持ちよさそうに歌っているので、サンクは演奏を途切れさせることなく三曲ほど続けた。
気がつくとものすごい人の山になっている。サンクはあわてて演奏を終える。音が止まったことに不満に思ったキリエはサンクに視線を投げるが、割れんばかりの拍手に拾いきれないほどのお金を投げられ、ようやく周りの状況に気がついたキリエはあわててサンクの後ろに隠れる。サンクはそれを見て、苦笑しながら投げられたお金を拾う。
観客たちはもっと聞きたいと言ってくるが、サンクはほぼ回収できたお金を懐に入れ、キリエを連れて走りだす。その後ろをついてくる者がいたが、サンクはうまくまいて、宿へと戻った。
「はー、びっくりした!」
キリエは楽しそうな顔をしてベッドに倒れこむ。
「キリエ、お風呂に入っておいで。次の村までまた距離があるから、明日はもしかしたら野宿の可能性が高い」
サンクに言われ、キリエはあわてて起き上がり、お風呂へと向かう。サンクは先ほど拾ったお金を懐から取り出し、数える。
予想以上の収入にほっとする。このくらいの宿にならあと二日ほど泊まれるほどの金額だ。キリエの歌声のおかげかもしれない。
サンクは今後の旅の予定を考え直した。
今ある所持金はそれほど多くない。旅をしながら今日のように道の端で演奏をして、少しは稼ぐつもりでいた。しかし、今日の様子だともっと大きな街にいけば、さらに収入が見込めるような気がしてきた。
それなら……少し大きめの町と街を転々として稼ぎ、まとまったお金ができたらトラクタスに行こう。今まで自分が暮らしていたグラデュアル国より少し貧しいが、今いるコンフュタティスやセキュエンティアよりはましだ。
現在、サンクとキリエのいるのは「コンフュタティス」といい、リベラ大陸の真ん中にそびえるコミュニオ山脈に沿うように存在する横に長い国だ。山脈から吹き下ろす風が冷たく、農作物の育ちも悪く、やせた土地を抱え、国全体が貧困だ。そんな国の一角にあるこの町で少し歌っただけでこれだけの収入になった……ということは。
しかし、そこまで考えて、サンクはかぶりを振った。明らかに取らぬ狸の皮算用だ。流れ者の自分には、それでもこれしか生活の糧を得るために必要なお金を手に入れる手段がなかった。
キリエがお風呂から戻ってきたのを見て、サンクは立ち上がる。キリエからはお風呂上がりの清潔な温かな匂いが漂ってくる。抱き寄せてそのまま欲望のままにむさぼりたい衝動にかられるが、その気持ちを心の奥に押し込めてそっけない顔をしてお風呂場へ向かう。
ぬるい湯を頭からかぶりながら、サンクは自分の奥から湧きあがってくる欲望と戦っていた。
純粋無垢な瞳と心を持ったキリエ。
今まで出会ったどの女たちとも違う、大切に育てられたと思われる娘。
それなのに……どうして彼女はあの洞窟にいたのだろう。
魔王にさらわれてきた、とサンクは思いこんでいたが、しばらく一緒にいて、なにか違和感を覚えた。
ミサと同じ色の珍しい髪の色。夕焼け空の濃い空の色のようなプラム色の瞳。
そこになぜかミサと魔王の最期の姿が重なる。
驚愕に開かれた魔王の瞳。その色は……。
そこまで思い出し、ぶるり、と震える。
サンクは今まで、生きるためにたくさんの人を斬ってきた。自分の命を守るためなら、他人を傷つけてもいい──そう思って生きてきた。
だが、ミサと魔王を刺した時、これは生きるための殺傷なのか。その疑問がわき上がり……サンクの中にむしばんでいた。
初恋のミサを刺し、その命の幕を下ろした。
ほんの少しの間だったが、サンクには分かった。あの二人は心から愛し合い、あそこで静かに暮らしていた。国王の言っていたような脅威はまったくない、と言いきれた。それなのに、自分の命を脅かしているわけでもない相手を、刺した。
国王から渡された聖剣は、あの洞窟の壁に刺さったままだ。あの剣は「聖」剣といいながら、血を欲していた。もっともっと、と柄を握りしめていたサンクに伝えて来ていた。
しかし、あれはあの剣だけのせいなのか?
自分もいつからか、生きるため、と言い訳をしながら、無意味な殺傷を繰り返していなかったか。
二人の血を見た時、美しいと……思わなかったか。
血に飢えた獣に──なっていなかったか。
自分はとんでもなく取り返しのつかないことを──やってしまったのではないか。
そこでようやくサンクは、ミサと魔王を刺殺したことに対して、罪悪感を抱いた。それは他の人に比べればとても小さなものだったかもしれないが、今まで、そういう気持ちを抱かないようにしていたサンクの中にそんな気持ちが産まれた。それは小さな気持ちでも、サンクには大きなものであった。