『怨人─オニ─』


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六章・前



「あっはっはっは」
 父が帰ってきたため、社務所の番を交代した胡桃はマンションに戻った。エントランスで帰宅してきた淳平と出会い、顔を見るなり爆笑された。しかも、指をさされて。
「なにがおかしいのよ」
 胡桃は不機嫌な表情で淳平を見る。
「自習が嫌で竹刀振り回して停学なんて、初めて聞いた」
 予想通りの反応で、胡桃は大きくため息をつく。
「教室に、あいつが出たのよ」
 胡桃の低い声に淳平は笑うのをやめて、真顔で見る。
「あいつって、朝のあれ?」
「うん。緑色のあいつ。お父さんに話したらあれは『怨人』っていうんだって」
「オニ?」
「怨念を持って死んだ人間の念が固まったものらしいんだけど」
 壮一に説明されたものの、胡桃にはよく分からない。
 剣道の試合で負けたりもう少しで正解だった問題にバツをつけられたら悔しいけど、それは死ぬときにまで持っていくほど強い怨みかというと、それはない。
「淳平は強い恨みを持ったこと、ある?」
 胡桃に真顔でそう聞かれ、淳平はなんとなく調子が狂う。黄昏てきた空を見上げながら悩む。
 今日からしばらくクラブ活動は自粛ということで、授業が終わったらまっすぐ家に帰るように言われていた。授業が終わってすぐ帰ってきたにしては少し遅いくらいの時間。同じ方面の人間とできるだけ固まって帰れと担任から言われたが、淳平が素直にその話を聞くわけがなく、しかし口だけははーい、と素直に話を聞いた振りをして、少し遠回りしてランニングしながら帰ってきた。それでも普段の帰宅時間を考えたら充分に早い。だから胡桃とこうして朝に引き続き、夕方も顔を合わせることになったのだが。
「サッカーの試合に負けて悔しいとか、三年生の先輩というだけでオレよりサッカーが下手なのがレギュラーに選ばれて悔しかったくらいしか思いつかないなぁ」
「だよねぇ。死んでも忘れることのできない怨み、なんて」
 基本、お気楽な二人である。思いつくのはそれくらいらしい。
 エントランスからマンションに入り、エレベーターの前で二人は別れる。胡桃の家は一階、淳平の家は最上階の五階にある。
「ただいま」
 いつもの帰宅時間なら明枝はもう喫茶店を閉めて帰っているのだが、今日は胡桃の方が帰宅が早い。本当は道場に行きたかったのだが、学校では用事がない限りは出歩かないように言われていたし、なによりも胡桃は停学中の身。道場の先生に叱られるのが分かっていたので行くことはやめた。その代わりに素振りでもしようとベランダに出る。
 洗濯物を干すために置かれているサンダルを履き、庭に出た。軽く素振りをして、どうにも足元の安定感が悪いような気がして胡桃は靴下を脱ぎ、はだしで地面に立つ。再度、素振りを始めた。すり足をすると足が痛いような気がしたけど、サンダルを履いてやるよりいいやと素振りを続ける。しかし、素振りを百回ほどして足が痛くなり、やめた。足を見ると、少し足の皮がむけているように見えたけど、気にしないことにした。
 足を洗おうと水道水へ近寄った時、泥棒探知のために塀につけている鈴が鳴った。猫が塀を歩いていてもたまに鳴るから役に立たないよねと思いながら塀を見上げた。
 いた。
 異形の者、壮一が『怨人』と言っていたあの緑色の気持ちの悪い生き物が、塀の上にいた。胡桃はあわてて竹刀を握り威嚇するが、向こうの様子がおかしい。落ち着きなくあたりを見回し、おびえたように飛び跳ねて塀の向こうに消えていった。
 胡桃はあわてて足を洗って中へ入った。
 そのタイミングで明枝は仕事を終え、家に戻ってきた。手には喫茶店で残った野菜などが入った袋があった。
「今日は驚いたわよ」
 明枝は胡桃の顔を見るなり、開口一番、豪快に笑う。
「自習をするのが嫌で竹刀を振り回す、なんてそんなかわいらしいこと、するわけないじゃないと笑ってやったんだけど、逆効果だった?」
 どうやら電話連絡は神社ではなく、明枝のいる喫茶店に行ったようだった。
「お母さん」
「あーら、だって」
 型破りの明枝になにを言っても無駄だと悟った胡桃はお風呂に入ってくる、と叫んでお風呂場に向かった。

     *

「ええ、聞いたわ」
 壮一と明枝と胡桃の三人はいつものように食卓に座って夕食をとっていた。
 食事が終わり、熱いお茶をすすっているところに、壮一が明枝にこんなうわさを聞いたんだが、と話を振った。その話なら今日聞いたわよと明枝。
「吉田さんちの長女の千真ちゃんと、胡桃と同じクラスの佐々木楓実ちゃん」
 胡桃は思い出す。自分の席の前の空いた場所。あれは佐々木楓実の席だった。
「あとは一年生の山崎利華ちゃんか」
 明枝の口から出てきた名前に壮一は手元のメモを見てうなずいている。
「聞いた話と一緒だな」
「出所は同じようなもんでしょ?」
 明枝は世話好きなのと何気にゴシップ好きなのもあり、相談されたりうわさ話を持ちこまれたりとしているようだ。壮一は宮司をしているからか、昔は地域の相談役という立場にあった延長線上で、こちらもよく、相談を受けているようだ。また、明枝のところで手に負えない困りごとなども持ち込まれているらしい。
「千真ちゃんは受験生で、頑張って塾通いしていたらしいじゃない。その帰りに襲われたらしいわよ」
 胡桃は食後のデザートを食べながら聞いていた。ちなみに今日は、喫茶店の残りの明枝の手作りプリンである。プリンは人気商品でめったに残らないので今日は食べられてよかったと幸せをかみしめていた。
「血まみれで道に倒れているところを通行人が見つけて、あわてて救急車を呼んだらしいよ」
 せっかくの美味しいプリンを食べている最中にそんな話をするデリカシーのない壮一を、胡桃は睨みつける。しかし、壮一はその視線に気が付いていない。さらに口を開くと想像したくないようなことを言われそうだったので、大切に食べていたプリンを口に詰め込んだ。本当はもっと味わって食べたかったのだが、話の内容が同じ高校の生徒、ましてや一人はクラスメイトである。プリンよりもそちらの話が大切である。
「運ばれるときに三人とも『緑の小さい人間みたいなのに襲われた』と口にしているらしいんだ」
「お父さん、それって」
「なあに、緑の小さい人間って。オカルト?」
 神社の家に嫁に来ておきながら、明枝はその手の話が大の苦手だ。そのことを知ってから、母はどうして父と結婚したんだろうと胡桃はずっと謎に思っている。
「お父さん、あのね」





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