『怨人─オニ─』


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二章・後



 胡桃は防具を再度、地面に置き、母が縫ってくれたえんじ色の袋から竹刀を取り出す。異形の者相手に構えた。
「くっ、来るのなら来なさいっ!」
 袋小路の暗がりの中から出てこない異形の者相手に、胡桃は少し腰が引き気味になりながら竹刀を構えている。向こうはじっと赤い目でこちらを見ているだけで動こうとしない。
「先輩、このまま路地から出て道場まで全速力で走れば大丈夫そうじゃ、ひゃっ」
 胡桃の言葉の途中でその異形の者は笑い、突然飛び上がって胡桃と朔也の頭を軽々と越え、路地の入口をふさいだ。地面に着地した時、妙に湿った音が路地に響いた。
「こいつ、言葉が分かるの?」
 胡桃は振り返り、異形の者と対峙する。朔也は胡桃に代わって竹刀を握って立ち向かおうという気持ちは大いにあるのだが、ひどい臭いに吐き気を我慢するのが精いっぱいだ。
「くくくく来るのなら、きっ、来なさいよっ」
 胡桃は泣きそうになっていた。こんな変な生き物はなにかおまじないでも唱えれば消えるのではないかとそんなことを思った。父の壮一は神社で宮司をやっているが、胡桃に神社を継がせようと思っていないのか、特になにかを教わってきたということはない。休みになると巫女装束を着てアルバイト、といえば聞こえはいいが、安い人件費で手伝わされているくらいだ。社務所でお守りを売ったりといったことならできるが、祝詞のひとつでも上げられるかと言われると、無理である。こんな場面に遭遇することがあるのなら、少しでも壮一に教えてもらっておけばよかったと、祝詞が効くかどうかはともかくとして、今更ながら後悔した。
 なにか自分に持たされているものでこの変な生き物に効きそうなものはないかと胡桃は必死に考えるが、なにひとつ思い当たらない。
 三月に十六になったばかりの胡桃だが、今まで生きて来て、神社の娘とは言え、こんな変な物に出遭ったことはなかった。神社の宝物庫にある巻物に書かれていた鬼に似ていなくもないが、まさかこんなものが現実にいるとは胡桃は思っていなかった。
「どどどどどうしよう」
 胡桃は吐き気を我慢している朔也を背にかばいながら、異形の者を睨みつける。目をそらしたらその時点で負けになるような気がして、負けず嫌いの胡桃は必死に足を踏ん張り、目をそらさないようにする。
「きききぃ」
 異形の者は奇声をあげ、威嚇してくる。細くて長い手の先には鋭い爪が光っている。あれだけ鋭ければ、竹でできているこの竹刀など、ひとたまりもないような気がしてきた。異形の者はひと際高い奇声を上げると、鋭い爪を振り上げ、飛び跳ねて胡桃の目の前までやってきた。胡桃はとっさに異形の者相手に突きを入れる。胡桃の突きは宙を切った。異形の者はワンテンポ早くその場から軽やかに飛び、少し右にずれていた。胡桃は返す竹刀で異形の者を叩こうとするが、向こうの方が動きが素早く、胡桃の竹刀はまったく当たらない。胡桃はそれなりに剣道の腕に覚えがあったので、まったく当たることのないことにいらだちを覚える。
「モモ、もっと素早く右じゃなくて左! 上、下、右だ」
 朔也は相変わらずものすごい嫌な臭いに吐きそうだったが、それでも幾分か慣れてきた。胡桃の動きを見て、異形の者の動きを予測して胡桃に指示を出すのだが、思っている以上に素早い動きに胡桃はおろか、朔也も目が追いついていない。
 胡桃はやみくもに竹刀を振りまわしていたため、さすがに息が上がってきた。竹刀を構え直し、息を整える。異形の者は息ひとつ乱していないようで、小馬鹿にしたように奇声をあげている。胡桃はそれを見て、頭に血がのぼる。
「馬鹿にしやがって!」
「モモ、冷静になれ。相手の動きが読めないぞ」
 朔也にアドバイスを受けるが、すぐに頭を切り替えられるほど胡桃は本来、冷静沈着な性格ではない。大きく息を吸い、呼吸を整えるのがせいぜいだ。
 道場で先生に指摘され続けていることを朔也にも言われ、落ち込む。しかし、今はそんな状況ではないことに気が付き、大きく息を吸い込んで構え直す。
「ちょろちょろ動きまわって、少しは止まれっ」
 相手も素直に止まるわけがない。胡桃を馬鹿にしたように小さい身体を生かして動く異形の者に、胡桃はさらに頭に血が上ってきた。
「ああああっ!」
 胡桃はとうとう切れて、構えていた竹刀の片手を離した。勢いで近くにあった胡桃の防具入れに当たる。防具入れにつけていたお守りについている小さな鈴が鳴った。その音に、異形の者の動きが止まった。
「モモ、今だ!」
 朔也の叫びに胡桃は竹刀を握り直し、異形の者に向き合う。異形の者の顔を見ると、額になにか浮かんでいるのが見えた。胡桃は本能的にそこが弱点だと気がつき、めがけて突きを入れる。異形の者に当たった水っぽい感触と身体が熱くなるような感覚が走り抜ける。さらに一歩足を踏み出すと、異形の者の額に竹刀の先がさらにめり込む。
「負けるものか、こんちきしょうっ」
 胡桃は叫び、竹刀をさらに強く握り、また一歩足を踏み出す。
 異形の者は物悲しい断末魔をあげ、音を立ててはじけた。
「うわっ!」
 後ろで見ていた朔也はそのはじけた光に驚き、顔を伏せる。胡桃はなにが起こったのか分からず竹刀の先をじっと見る。手に今まで感じたことのないしびれ。ふたりは呆然としていた。
 先に気がついたのは、朔也だった。あれほど漂っていた嫌な臭いが異形の者が消えた途端に止まったのに気がついたからだ。
「モモ?」
 胡桃は突きの恰好のまま、固まっていた。朔也の呼び掛けに気がつき、見ているこちらまで驚くほど身体を揺らして振りかえる。
「せせせせ、先輩っ! 今の、なんですか、あれっ!」
「それは俺も聞きたい」
 胡桃は握っていた竹刀を離して竹刀袋に戻そうとしたが、緊張と動揺していたのもあり、握っていた手が開かない。手のひらはいつも以上に汗をかき、柄革にしみ込んでいる。それに先ほどのことを思い出して、急に身体が震えだした。
 朔也は胡桃が泣きそうな表情をしていることに気がついた。朔也でさえ、先ほどのあの変な生き物……異形の者に対して身体が震えるほどの恐怖を覚えていたのだから、胡桃の反応がこうなっても当たり前だろう。むしろ、正常な反応と言える。
 胡桃は自分の身の安全を確保したことに対しての安堵感と同時に激しい脱力感を覚える。その場に座り込みたい衝動にかられながら、張り付いている指をゆっくりと開き、手から竹刀を離すことができた。大きく息を吐き、袋に竹刀を納めた。
「先輩、遅れたけど道場に行きましょうか」
 胡桃はこの場にいたくなくて、震える声で朔也に道場に行くように促した。
「モモは大丈夫か?」
「大丈夫、じゃないですけど。道場に行って練習して、さっきのこと、忘れたいです」
 朔也は胡桃の言葉に笑う。あんな怖い目に遭い泣きそうな表情をしていたのに、忘れたいから練習に励みたいとは。朔也にもその気持ちはよくわかったので胡桃の肩を軽く叩いた。
 胡桃は朔也に触れられたことに恥ずかしく思いつつも照れを隠すために大きく返事をして、朔也の後を追いかけた。





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