『怨人─オニ─』


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二章・前



 授業とホームルームが終わった教室内はざわめきに満ちていた。蓬郷とまごう地区と呼ばれるこの場所に唯一ある、公立蓬莱野ほうらいや高校の放課後。掃除当番の者、クラブへ向かう者、帰宅する者。それぞれが好き勝手にさざめいていた。
 新入生を迎え入れ、学年も変わってクラス替えも終わってようやく落ち着いてきた四月半ば。
「くーるみっ!」
 二年二組の教室。少しクセのある黒髪をポニーテールにした少女は机の横にかけていたかばんを手に取り、帰宅しようとしていたところだった。そこへ、クラスメイトが声をかけてきた。
「なに?」
「胡桃は今日も道場?」
「いつも通り、道場に通ってから家に帰る予定でいるんだけど」
「胡桃、ごめん! 今日、急に彼とデートになっちゃって。できたら代わってほしいなぁ」
 胡桃はため息をつく。今日こそは掃除当番を交代しなくていいと思っていたところだった。
「……分かったわよ」
 胡桃は諦めたかのように了承の言葉を口にして、かばんを元の場所へと戻した。
 新学期が始まってからずっと、掃除当番をだれかに頼まれて代わってしまっている胡桃。われながらノーと言えない典型的日本人だな、と嫌になる。
「ありがとっ! 明日、なにかおごるから!」
 両手を合わせてごめんと叫び、彼女はあわただしく教室を出て行った。
 胡桃としては、早いところあこがれの先輩・犬伏朔也より先に道場に行って準備をしたかったのだが、頼まれたので仕方なく掃除に取り掛かる。
「モモ、今日もおまえ、当番かよ」
 クラスの男子はほうきを持って掃き始めた胡桃を見て、声をかけてくる。
「そうよ」
「おまえも人がよすぎだよなぁ。利用されているのくらい、気がつけよ」
「知ってるよ」
 胡桃の返事に、周りの男子たちは呆れている。
「おまえ、男だったらよかったなぁ。きっと、女子にもてもてだぞ」
「えー。やだよ。あんたたちみたいにむさい男。あたしは女に産まれてよかったと思ってるよ」
 小さい頃は女に産まれたことを恨んだが、今では逆に、女でよかったと思っている。
「とりあえず、無駄口を叩く暇があるならとっとと掃除して帰ろう」
 教室の中に掃除当番で残っているのは胡桃以外、全員男だ。
「掃除当番は結局、いつものメンツなんだ。あたしもあんたたちも馬鹿だ、ということだね」
「それを言うな」
 いつものメンバーで勝手知ったるなんとやら。教室掃除はあっという間に終わる。ごみ捨てをまかせ、胡桃は掃除が終わった教室を見回して、お先にと教室を飛び出す。靴箱に向かい、履き替えてランニングがてら道場へと向かう。
 胡桃の通う高校はマンションから歩いて十分ほどの距離にある。朝は家からそのまま高校へと向かう。学校が終わると、胡桃は帰宅せずに剣道の道場へと直接、通っている。道場は家の方向と同じだが、線路を越えた場所にある。家から道場へは歩いて五分、高校から道場までは十五分ほどの距離だ。
 胡桃は手に学生かばんを持ち、防具の入った袋を竹刀にひっかけ、肩にかけて準備運動も兼ねて駆け足で向かう。胡桃の駆け足で高校から道場までは信号にひっかからなければ十分ほどで到着する。走っていると、後ろから声をかけられた。
「お、モモ」
 胡桃の心臓は跳ねあがる。あこがれの先輩・犬伏朔也だ。胡桃は頬が赤くなるのを自覚した。朔也は胡桃の横に走ってきて、並走する。
「モモも今から道場?」
 隣を走る朔也を見ると、胡桃と同じように竹刀に防具袋を提げて肩にかけた恰好で走っている。胡桃と同じ色のブレザーの制服は三つのボタンすべて閉められているが、三年生を示す緑色のネクタイは少し緩められていた。
「はい。友だちに頼まれて掃除当番を代わっていましたから」
「はは。モモは優しいんだな。毎日だれかと代わっているじゃないか」
「優しいわけじゃないですよ」
「優しいよ。嫌と言ったらその子が困るのが分かっているから、モモはそう言えないんだろう? 俺だったら、嫌な時は嫌と断わるから。相手が困っていてもね」
 胡桃は朔也でも断わることがあるんだと、意外な一面を垣間見た。
 朔也は大げさだが、全校生徒の憧れでもあった。高校二年、三年と生徒会長をこなし、勉強も運動も常にトップクラスで、見た目もさわやかだ。胡桃の道場通いが続いているのは朔也が通っているからという不純な動機も大いにあったりする。
 早く行ってあこがれの犬伏先輩と話をしようと思っていたが、思わぬところで出会うことができて、胡桃はテンションが上がり気味だった。掃除当番、代わってよかったと思っている。
「モモ、ちょっと待って」
 道場に向かって走っていた朔也はいきなり足を止め、胡桃に止まるように促してきた。胡桃は止まろうとしたが勢いがついていてかなり進んだところでようやく止まり、そのままバックして朔也のいる場所まで戻る。
「今、変な臭いがしたんだ」
「臭い?」
 胡桃は臭いをかぐが、別段、変わった臭いはしない。どこかで夕食の準備をしているらしい美味しそうな匂いはしてきたが。
「別になにも」
「こっちからやっぱり臭う」
 朔也は路地に入っていく。胡桃も朔也の後ろについて行く。胡桃は絶え間なく鼻を動かしているが、特に変わった臭いはしない。一方の朔也は顔をしかめ、ハンカチを取り出して鼻のあたりを覆っている。額には脂汗まで浮いている。
「先輩、大丈夫ですか?」
 胡桃はこんな朔也を見たことがなくて、心配になり声をかける。
「大丈夫じゃない。うっ、なんだこの臭い」
 朔也は路地の壁に手をつく。胡桃は心配になり、肩から担いでいた防具を地面に置いて朔也の顔を覗き込む。
「先輩っ」
 朔也の顔は、真っ青になっていた。さらに異常なほど、額に脂汗をかいている。
「モモ、悪い」
 朔也は胡桃の肩にもたれかかる。朔也の髪が胡桃の頬をくすぐる。こんなに近づいたことがなく、胡桃の動悸は激しくなった。
「モモは大丈夫なのか?」
 こんな状況なのに、朔也は胡桃のことを気にかける。胡桃はそういうところがやっぱりあこがれの先輩だと思う。
「あたしは大丈夫ですよ。だって、別に」
 胡桃は言葉の途中で、自分の目を疑った。路地の先、袋小路になった暗がりに、それはいた。
「せっ、先輩……。に、逃げましょう!」
 胡桃は袋小路にいるなにか分からない見てはならない物から目を離せず、しかしゆっくりと後ずさりながら、朔也の腕をつかんで逃げようとする。しかし、暗がりにいる物は二人に気がついてしまったようだ。
「ききぃ」
 奇妙な声をあげ、なにかをむさぼっていた物は顔をあげた。胡桃とソレは視線が合った。胡桃は喉の奥で悲鳴を上げ、逃げようとするが恐怖で身体が動かない。
 朔也は吐き気を我慢しながら、胡桃の視線をたどって後ろを振り返る。
 暗がりに、異形の者がいた。影の中にいるせいか、顔などはよく見えないが、小さい人間のような形をしている。一見して、それは人間ではないと分かる。身長は二・三歳の子どもくらいの大きさ。しかし手足は妙に細く長く、肉はほとんどなく皮が骨に張り付いているような見た目。肌の色が有り得ない濃い緑色をしている。髪は濡れているのか、海藻が頭にべったりとついたかのようだ。その異形の者は先ほどまでなにかを食べていたようで、大きく裂けた口元はぬらぬらと濡れている。胡桃は異形の者の足元にある物を見て悲鳴をあげそうになった。そこには茶色い毛が散乱していた。ほとんど食べつくした後だったようだが、残骸が転がっていて、それは猫か犬の足のように見えた。
「モモ、逃げろ!」
 朔也は叫び、胡桃を背中にかばう。胡桃は地面に置いていた竹刀と防具を握りしめ、
「先輩も一緒に!」
「俺がこいつの気を引いているから、モモは気にせずに逃げろ!」
「だだだだ、駄目です、先輩!」
 胡桃は朔也を置き去りにして逃げるなんてできなかった。一人で逃げるのが怖かったのもある。





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