『月をナイフに』


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《七》月をナイフに03



┿─────────────┿

 そうなのだ。
 真珠はあの決定的瞬間を目撃しているのだ。
 アレクがアメシストの身体を足で転がし、真珠の髪を切り裂いたあの剣で額の水晶を割ろうとしたところを。

「アレクは、隙あらばわたくしを葬り去ろうとしていたのです」
「そ……んな」

 真珠はまた、頭を強く振った。
 髪の色を隠すために巻いていた布が、はらりと落ちる。
 ひらひらと精霊ファナーヒが真珠の回りに集まってきた。

「アレクとシトリンがわたくしを葬り去ろうとした時。シトリンにはかなりの損傷を与えられましたが、アレクは核を少し欠けさせただけでした」
「な……んでそんなことをっ!」

 どうしてそんなことになったのか、真珠には分からない。アメシストが言うように、シトリンとアレクがアメシストを葬り去ろうとしていたのなら、自己防衛だろう。
 しかし、真珠がこの世界に喚ばれたとき。
 真珠の目には、アメシストとアレクは信頼している仲にしか見えなかった。
 だから、アレクのあの行動は真珠には意外に思えたし、未だに見間違いだったのではないかとさえ、思っている。

「だからわたくしは眠りに就き、アレクとシトリンの隙が生まれるのを待っていたのです」

 真珠がこの世界に喚ばれたのは、世界を救うためだったのでは?
 これでは救うどころか、混乱に陥れているとしか……。

「さすがは救世主さま。わたくしたちを救ってくれました。この世界はますます発展するでしょう」
「ま……って」

 真珠は混乱していた。

「穏やかな世界など、だれも望んでいないのです。隣の人より有利でありたい、もっと上の生活をしたい──。欲望に忠実であればこそ、生きていると実感できるのです」
「違うっ!」

 真珠は強く否定の言葉を口にした。
 真珠が今まで見聞きしてきたことを総合すると、この世界こそが楽園パラディッサであり、理想郷。
 それなのに、アメシストはそれを壊そうとしている。

「水晶族の女の犠牲の上でしか平穏がない世界など、楽園パラディッサなものですかっ!」

 初めて、アメシストが激昂しているのを見たかもしれない。真珠は思わず、アメシストを凝視した。

「わたくしだって、自由に恋をしたい──」

 アメシストの願いは、それ、なのだろうか。

「だれか……好きな人が、いる、の?」

 真珠の頭に浮かんだのは、アレクだった。
 もしかして……。
 アメシストは、アレクのことが──?
 真珠の質問に、アメシストはおかしそうにくすくすと笑い声を上げた。

「好きな人? ええ、いるわ。どう望んでも、手に入らないけれど。……それとも、救世主さまがあの人をわたくしのものにしてくださいますの?」

 美しく結い上げていた金に輝く髪は乱れ、アメシストの頬にかかっている。紫色の瞳には、諦めの色が浮かんでいた。

「あの人は、わたくしのことを見てくださらない」

 もしも、アメシストの乱心が好きな人に振り返ってもらうためのものだったとしたら?
としたら。

「──信じられないっ!」

 真珠はぐっと手を握りしめ、アメシストを睨み付けた。

「そんなの、子どもの癇癪じゃないか!」

 幼子が母に振り向いてもらいたくて、大声を上げて泣くような。
 アメシストの行為はそれとよく似ている。

「なにが犠牲だよ! 犠牲になっているのは、この世界の人たちじゃないか! あんたはっ! 好きな人に、好きだと伝えたこと、あるのっ? あたしは! あたしなんてっ! 何度も何度も、何百回も……ううん、何千回、何万回も琥珀に好きだって伝えたのに、応えてくれないんだよ! それでも、あたしは琥珀のことが大好きだし、琥珀が嫌だって言っても、離れる気なんてない! それなのに、あんたはっ! ずっと側にいてくれているのに、好きだって伝えていないのに! 振り向いてくれないなんて!」

 真珠は今までの鬱憤を晴らすかのようにアメシストに向かって思いの丈をぶちまけた。
 アメシストの想い人がアレクという前提だが、たぶん、間違っていない。

「好きなら好きだって、伝えてからにしなよ! なんで『振り向いてくれない』ってうじうじ悩んで、その挙げ句、自分はこの世界の犠牲になっているからって暴れるのっ? そんなの、おかしいよ、絶対におかしい!」

 真珠は興奮しすぎて、肩で息をしながらアメシストを見た。

「好きだと伝えてない、ですって?」

 ゆらり、とアメシストから紫色のモヤが立ち上った。

「伝えられるわけ、ないでしょう? わたくしは水晶族の女。あの人は……」
「んなの、知らないよ。気持ちを伝えないで、察しろってのは無理だから! あたしが好きだって口で伝えても、琥珀は『そう?』で終わりだよっ! 伝わるまで何度だってあたしは琥珀に好きだって言い続ける!」

 そのためにはそう、こんな馬鹿げた騒ぎをさっさと終わらせて、地球に帰りたいのだ。

「種族が違うだとか、立場が……って、そんな難しいこと、あたしには分からない。でも、こんな癇癪を起こして世界をぐちゃぐちゃにする前に、やることがあるでしょう。それをしないで、世界に八つ当たりするのは、間違ってる!」

 真珠の指摘に、アメシストはさらに紫色のモヤを濃くした。

「もう、止まらないの。わたくしはあの人を──この手で」

 アメシストの言葉に、真珠は目を見開いた。

「え……嘘」

 そういえば、アメシストは紫水晶の中に閉じ込められた? 閉じこもっていたはずなのに、今は出てきている。
 自分を守るために水晶になったという話だったが、どうして出てきた?

「もう、遅いの。わたくしは……ああああっ!」

 アメシストの身体は、まばゆい紫色に光った。

┿─────────────┿

 少し時間は戻り、神様の屋根サンブフィアラ周辺。
 アレクは水晶と化したアメシストがいる天蓋の中へといた。
 アメシストのことを考えると、胸の奥がキュッと痛みを覚える。
 シトリンには感じたことのないこの感情は、なんだと言うのだろう。
 罪悪感……だろうか。
 そうかもしれない。これはその感情を抱いた時の痛みとよく似ている。
 アレクは白い手袋をした手をぎゅっと胸の前で握りしめた。
 アメシストは、気がついているのかもしれない。
 シトリンとアレクが二人で共謀したことを。
 しかし、あの時はこうするしかなかったのだ。
 あのままいけば、アレクは大切なシトリンを失っていた。それに、シトリンを失えば……この世界は、どうなる?
 それだけは避けなければならなかった。
 だからあの時、シトリンとアレクが取った選択は最良だったのだ。
 間違いはなかった。だが……。
 結局それは、下手に延命させただけだった……のかもしれない。
 その証拠に、この世界はこんなにも壊れてしまったではないか。
 ただ、あの時、シトリンを失ってしまった時よりは緩やかな世界の『死』が訪れた──だけ。

──ぱきん……──

 物思いに耽っていたアレクの耳に、耳慣れない音が聞こえて来た。
 いや、この音はどこかで聞いた覚えがある。
 過去の出来事の中にすっかり浸り込んでいたアレクは、すぐに思い出せずにいた。そのせいで……。
 アレクの視界の先にある白い布が、風もないのにはらりと落ちた。紫色の美しい水晶が露わになった。
 それと同時に。
 水晶は硬質な音を立てて、割れた。

「あ……あぁぁ」

 まさかアメシストの目覚めがこんなに早いとは思っていなかったアレクは、呻き声を上げることしか出来なかった。
 割れた水晶は粉々に粉砕され……その真ん中には、あの日と変わらないアメシストが立っていた。

「ごきげんよう、アレク。ふふふ、見つかったわ」

 いつもと変わらぬ笑みを浮かべているというのに、どうして背筋が凍るのだろう。

「待っていて、アレク。次は……あなたの番よ」

 アメシストはそれだけ告げて、アレクの目の前から、消えた。







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