《一》呼ばれても困りますっ05
ファナーヒとはなんだろう、と真珠は半透明で色とりどりのひらひらしたものをぼんやりと眺めていた。
──黒髪の乙女って、美味しいのね!
──ラーツィ・マギエってこれをいつも独り占めしてたの?
──許せない!
──これは私たちのものよ!
「あの……あたし、食べ物じゃないよ……」
ひらひらの会話を聞いて、真珠はつい、反論する。
──黒髪の乙女は甘くて美味しい!
──みんなのものね!
「って、聞いてないし」
髪の毛はまるで嵐に遭ったかのようにばさばさにされるし、むき出しの肌は遠慮なしにぺたぺたと触られている。
「触るの止めてよ」
──やだ。
──美味しいのに。
──無理よね。
ぺたぺた。遠慮がない。
真珠はだんだんと、くらくらしてきた。目の前がぶれてくる。
ひらひらと舞う色とりどりの得体の知れない物体の色が、混じり合って見えてくる。
「精霊がこんなに集まってくるなんて、久しぶりですわ」
アメシストの声に、アレクは渋々といった表情で剣を鞘へと戻した。精霊は剣を嫌う。
「アメシストさま」
アレクはアメシストに向かってひざまづき、頭を垂れた。
「精霊が見えませんのでなんとも言い難いのですが……」
「まあ、見て!」
アメシストの感嘆の声にアレクは顔を上げた。アメシストは眩しそうに見上げている。その視線に誘われて、アレクもそちらを見る。
遥か上に、煌めく天井が見える。透明度の高い様々な形の水晶を組み合わせて作りあげた天井を通して、外の景色が見える。が、アレクの瞳には空の色しか見えない。
「すごいわ! 精霊が次々にやってきている……!」
アメシストの興奮気味の声に、しかし、アレクはまったく見えず、眉間にしわを寄せることしかできない。
「彼女は──わたくしたちの救世主に間違いありません!」
アメシストの声と同時に、カツンという硬質な音が響いた。
──黒髪の乙女がっ!
真珠は眩暈を起こして、倒れてしまったようだ。それを心配して、精霊はわらわらと真珠の身体に群がっている。
「精霊よ。心配なのは分かりますが、少し下がってくれませんか」
──やーよ。いくらアメシストさまのお願いでも、この子は渡さないわ!
──ダメよ。
──あなたにも独り占めさせないわ!
まさか精霊に拒否されるとは思っていなかったアメシストは、悲しみの表情を浮かべた。
「アメシストさま、いかがされましたか?」
「救世主さまを寝台にお運びしたくても、精霊がそれを拒否しているの」
アレクには床に横たわっている真珠しか見えない。
「わたしにお任せくださいませ」
アレクは白い手袋をはめ直し、真珠へと近寄る。すると精霊は驚いたように真珠の身体から離れる。
──やだ、不浄な思考を持っているわ、この人。
──怖い……!
──私たちの物に触らないでよ!
精霊が騒ぎ出す。それを見て、アメシストはますます悲しそうな表情を浮かべた。
「マリはいますか?」
呼びかけと同時に、円蓋から赤い髪を高く結い上げた少女が姿を現した。
「アメシストさま、マリはここに」
「マリ。救世主さまを介抱して差し上げて」
「はい、かしこまりました」
円蓋から一連のことを見ていたマリは、アメシストに特に質問をすることなく、真珠に近寄ろうとしていたアレクに鋭い視線を向けた。
「あとはわたしがやりますから、アレクさまは手を出さないでください」
マリはアレクに牽制をしてから、真珠へと近寄った。
──ちょっとぉ。私たちの物なのにぃ。
マリには精霊の声はなにかのざわめきとしか認識出来ない。少し首をかしげ、しかし、マリは気にすることなく真珠の側に寄った。
細い腕のどこにそんな力があるのだろうか。マリは軽々と真珠の身体を抱えると、円蓋の中へと消えた。
──あー、もうっ!
精霊は悔しそうな声を上げている。
──アメシストさまの意地悪!
「精霊よ。勝手なお願いだと分かっていますが……救世主さまを、守ってください」
──そんなの、当たり前じゃない。
──あなたにだって渡さないわ!
精霊の声に、アメシストは悲しみをたたえた瞳をそっとアレクへと向けた。
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真珠はぼんやりと乳白色の空間を見つめていた。見たことのない風景。今まで感じたことがないくらい、ふわふわの感触。意識がぼんやりとする。あまりの気持ちよさに、再びまどろみに意識をゆだねようとしたのだが……。
鋭い光を思い出し、急激に意識がはっきりとした。
「あっ、あたしっ!」
真珠は飛び起き、しかし、くらりと眩暈を感じて、再びふわふわな上へと舞い戻った。
その音に気がついたマリは、真珠へと視線を向けた。
真珠はきつく目を閉じて、眩暈をやり過ごす。
「気がつかれましたか?」
その声に、真珠はそっと瞳を開き、視線を向けた。真っ赤な髪はまっすぐで長く、結い上げている。心配そうな光を宿した赤い瞳。白くて質素な上着に、裾の長い下履き。赤と白の対比が真珠の目を引いた。
「今、アメシストさまを呼んできます」
そう言うと、マリは円蓋を覆っている布を割り、外へと出て行った。
真珠はゆっくりと身体を起こし、周りを見回した。
どうやらここは、アメシストが出てきた円蓋の中のようだ。外から見た感じでは狭そうに見えたのに、意外に中は広い。
ぐるりと幾重にも襞を持った布が空間を作り出しており、床には白い柔らかそうな絨毯が敷き詰められている。
真珠はこの空間の端にある寝台に横たわっていた。真っ白な布団はまるで雲の上に寝転がっているかのような感覚だ。真珠が布団の表面を撫でると、柔らかな感触を返してきた。
円蓋を仕切っている布が動き、金色と赤い光が中へと入ってきた。
「救世主さま、ご気分はいかがでございますか?」
心配そうな声音のアメシストに、真珠はしかし、なんと返せばいいのか分からない。救世主と呼ばれても、困る。
「あのぉ……」
真珠はずり落ちていた眼鏡を直し、おずおずと声を上げた。
「あたしは『香椎真珠』で、救世主なんて名前ではないんですけど……」
「カッシー・マジュ?」
アメシストの耳にはそう聞こえたようだ。
「マジュさま」
アメシストは真珠へと近寄り、ひざまずくと頭を下げられた。
「え……あのっ」
慌てるのは真珠だ。いきなり頭を下げられても、ものすごく困る。
「わたくしたちを……救ってください」
「すっ、救うって!」
真珠は戸惑いの表情を浮かべ、アメシストの後ろに立つマリへと視線を向けた。しかし、彼女もアメシストに倣ってひざまずき、頭を深々と下げている。
「あっ、あたしは一介の高校生であって、なんの力もないですっ」
真珠は立ち上がり、アメシストへと近寄った。
「そもそも、ここはどこなのですか?」
ようやく真珠は自分の置かれている状況を冷静に見ることが出来るようになったようだ。
見たことのない場所、知らない人間。しかも、訳が分からないまま剣を突きつけられ、大切な髪の毛を切られてしまったのだ。
「それに……あたしの髪の毛……」
すっかり短くなってしまった髪の毛に手を当てると、自然に涙があふれて来た。
ぽろり……と瞳から一粒、涙が落ちた。それは床に落ち、水滴になるはずだったのだが……。コロン……と硬質な音を立てた。
それを合図に真珠の瞳からは次々と涙がこぼれるのだが、頬を伝う感触は水分のそれではなく、固くて冷たいものだった。
「ああ、それは……」
アメシストは真珠の瞳からこぼれ落ちる粒を見て、驚きの声を上げた。
「月のしずく、ですわ」
真珠の足下には、コロコロと白色の玉が転がっている。それはあたかも真珠のようで、真珠は自分の目を疑った。
「……え、なに、これ?」
真珠は目尻にたまっている涙を指でぬぐうと、それはあっという間に白色の粒へと変わる。驚き、涙が止まった。
「この世に危機が迫ったとき、真珠の力を持つ者が現れるという伝承は……本当だったのですね」
アメシストは立ち上がり、真珠の側に歩み寄り、足下に転がっている粒を拾い上げた。
「……月のしずくと言われるだけあり、美しいですわ」
アメシストの手のひらの中には、小さな白色の粒が十個ほどあった。アメシストは真珠の手を取ると、拾った粒を手のひらに乗せてきた。
「わたくしたちは、身体の内から宝石を生み出すことができるのです」
「……ほっ、宝石を生み出すっ?」
アメシストはうなずき、笑みを浮かべた。
「わたくしたちは、身体のどこかに『核』と呼ばれるものを持ち、それが力の源となり、宝石を生み出すことができるようになっています」
アメシストはそういうと、額を指さした。
「わたくしの『核』はここにあります」
アメシストはそして、マリへと視線を向けた。
「この子はわたくしの世話をしてくれている、マリ。彼女の『核』は胸元にあります」
アメシストの言葉に、マリは着ている上着の襟元を少しはだけさせて、真珠へと見えるようにしてくれた。胸の谷間が見えて、真珠はどきりとする。その間に、赤く輝く石が見えた。
「マリ、真珠さまのお世話を頼みますわ」
「……かしこまりました」
マリはアメシストにお辞儀をして、真珠へと視線を向けた。
「それでは、マジュさま。こちらへ」
マリは柔らかな白い絨毯を踏みしめ、円蓋の外へと真珠を導く。真珠は大人しく、マリに従った。