『月をナイフに』


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《一》呼ばれても困りますっ03



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 午後の授業はとりあえずのところ、滞りなく行われた。
 ホームルームも終わり、ようやく解放された真珠は大きく伸びをした。

「よぉし、図書館に本を返しに行って……うふふ」

 気持ちが悪い笑みを浮かべながらそう独りごち、真珠はかばんと本を持つと、まずは図書館へと向かった。
 図書館は体育館の裏手にある、この学校で一番古い建物だ。近々、ここを取り壊して建て直すという話だが、その間、図書館の本はどこにやっておくのだろうかというのが本の虫である真珠が一番、気にするところだ。建て替えている間、図書館を利用できないとなれば、それはかなりの苦痛だ。今度、司書に聞いてみようと思いながら、真珠は図書館へと足を踏み入れた。
 ここはいつ来ても、落ち着く。
 真珠は入室するなり深呼吸をして、室内を見回した。相変わらず、だれもいない。いや、カウンターに人はいるのだ、めんどくさそうな表情をした図書委員が。真珠が入室してきても、視線さえ向けない。
 司書はいつも裏で蔵書の整理をしているようで、滅多に姿を見せない。
 カウンター横に置かれた返却台に本を乗せたところ、ようやく今日の当番である図書委員が顔をあげ、真珠を見た。

「ああ……あなた。返却台じゃなくて、元あった場所に戻しておいて」

 それだけ告げると、読んでいた文庫本に視線を戻した。
 真珠はいつものことなので、カウンターの外側からバーコードをスキャンする機械を手を伸ばして取り、返却のための処理を施す。そして、借りていた本を抱えて、所定の場所に戻した。
 今日はなにを借りようと思いながら、真珠は何気なく本棚に視線を向けた。

「だれよ、こんなところに本を置いてるのはっ」

 小説の置いてある棚なのに、なぜか整然と並んだ本の上に横にして、図鑑らしき本が置かれている。真珠はそれを手に取った。
 表紙はかなり分厚く、立派な装丁が施されている。ベルベットを丁寧に巻いた表紙で、深緑の手触りのよさに、真珠はつい、表面を撫で回す。本のサイズはA5だ。
 真珠はカバンを床に置き、両手で持った。
 表紙には『宝石図鑑』と箔押されている。いつもの癖で本を開き、中表紙を見る。


「──世界は優しくて、厳しく、美しくて、醜い。
そして──儚くとも、強い……?」


 思わず、書かれている文章を口に出して読み上げた。そのとたん。

『助けて……』

 夢の中で聞いた声が、本の中から聞こえてきた。

「うひゃ?」

 真珠は本を凝視し、閉じて表紙を見たり、ひっくり返したりしてみるのだが、どうみても普通の本にしか見えない。

「どうも今日は幻聴をよく聞くなあ、あはは」

 と一人ごちた瞬間。
『助けてください』
 今度ははっきりと、聞こえた。
 それと同時に……。

「うをっ?」

 真珠の身体が突如、傾いだ。

「ななな、なにっ?」

 慌ててバランスを取ろうとしたが、足元から沈み込んでいる。

「えええっ?」

 さっきまで立っていた場所が、なぜか底なし沼のように真珠の身体を飲み込み始めた。

「うわああ、だれかっ、助けてっ!」

 さっき、あの正体不明な声に『助けてください』と言われたが、その前に真珠は自分を助けてと叫びたかったが……。
 沈み込む速さが増し、助けを呼ぶ前にあっという間に飲み込まれてしまった。

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 上を向いているのか、下を向いているのか分からない。目を開いても、閉じても、暗くてなにも見えない。
 右手に『宝石図鑑』を持っているのは、手触りで分かった。
 足が地面に着いているような感覚もなく、宙に浮いているわけでもなく、水に漂っているわけでもないようだ。
 快も不快もない。
 言ってしまえば、
「なにもない」
状態。
 油断したら、
「香椎真珠」
という意識をそのまま失ってしまいそうな……。
 そのことに気がつき、真珠は言いしれぬ恐怖を感じた。
 自分が自分でなくなる。
 意識がなくなったら、その先、どうなるのか分からない。
 そう思っていたら、脳みそに直接、手を入れて握られたかのような妙な感覚が襲ってきた。
 怖い……!
 叫びたいのに、声が出ない。今まで、どうやって声を出していたのか分からない。
 意識を追い出されそうな、閉ざされてしまうような感じ。抗っても、それは容赦なく真珠から意識を奪っていく。
──嫌だっ!
 真珠は激しく抵抗する。だが、その抵抗をあざ笑うかのように、真珠の意識は段々と弱くなっていく。
──こんなの、やだっ! あたし、琥珀との約束があるのに!
 真珠の脳裏に、はっきりと琥珀の姿が映る。
 茶色い少し癖のある髪の毛。冷ややかな茶色の瞳。大きくて節くれだった手。耳に気持ちのいい、声。背が高いから、見上げないと顔が見えない。抱きつくと筋肉がしっかりついていて、それでいて、いつだって清潔な爽やかな香りがするのを、真珠は知っている。
──琥珀に会えないまま、消えてしまうなんて……。

「じょーだんじゃ、ないっ!」

 真珠はようやく、声を出すことが出来た。喉になにかが覆っていたのか、ようやく出た声はかなり小さく、掠れていた。
 真珠を覆っていた闇はしかし、それでもまだ、真珠の意識を奪おうとしている。

「琥珀に会うまではっ!」

 さっきまで身体も動かせなかったのだが、声を発することが出来たおかげで、動くようになった。
 真珠は左右に身体を動かし、戒めから抜け出そうとする。

「琥珀に会ったら、まず、手をつかんで頬ずりして……そしたら、琥珀に『気持ちが悪い』と罵られるでしょ、そこでデコピンなんてもらえたら、さいっこー! で、じっと睨みつけられて、説教タイム! あたしと琥珀の二人の世界の出来上がりっ! ああ、考えただけで、ぞくぞくする!」

 真珠は自分を奮い立たせるために口にしたのだが、その感情に闇が震えたような気がした。







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