《三十》
幸はすぐに帝に連絡を取った。
幸は上機嫌に万里が日比谷の屋敷に戻るということを伝えていたが、受話器の向こうの声は聞こえないが、帝が混乱して動揺しているのが手に取るように分かった。
電話ではダメだと思ったらしい帝はすぐにそちらに向かうとだけ告げて、電話は切れた。
「もう、お兄さまったら心配性なんだからっ」
ふてくされたような、だけどどこか嬉しさがにじみ出る声で幸は文句を言っている。
「万里、また一緒にお買い物に行きましょうね?」
「……そうですね」
幸は万里の腕に絡みつき、ニコニコと笑っている。
なんだか妙な感覚を抱きながら、万里は普段と変わりなく、幸と色々と話をした。
そうしている間に帝が到着して、大和と話し合いがなされたようだ。
お昼少し前に帝が大和とともに幸の部屋へと訪れた。
「お兄さま!」
幸は帝を見て、うれしそうに笑みを向けていた。
「帝さま、お久しぶりです」
久しぶりに見る帝は、気のせいかやつれているように見えた。
「ああ、万里。幸が迷惑を掛けて、すまなかったね」
力ない笑みを向けられ、万里は無言で首を振った。口を開くと涙がこぼれそうだったのだ。
「万里ちゃん、少し話がある」
部屋の入口にいた大和に声を掛けられ、万里は幸をちらりと見た。幸は帝と話をすることに夢中のようだ。
「すぐに終わる」
「……はい」
万里は大和に促され、部屋の外へと出た。
部屋の扉を閉め、大和は万里と向き合う。
「日比谷に戻るのか?」
大和の質問に、万里はうつむき、返事をした。
「……はい」
「困ったな……」
大和は大きなため息をつき、腕を組んで思案しているようだった。
「ところで、閏は?」
「閏さん……ですか?」
土日の閏の起床時間はかなり遅めだ。昨日は珍しく早起きだったが、今日はもしかしたらまだ眠っているのかもしれない。
万里は大和が口を開くのを待っていたのだが、扉が開き、幸が顔を出してきた。
「あ、万里ったら、こんなところにいたのねっ!」
幸は万里を見つけて、満面の笑みを浮かべた。しかし、隣に立つ大和を見て、いぶかしげな表情を浮かべたあと、いきなり叫んだ。
「あー! あなた、あの時のストーカー!」
大和は幸の言葉に苦笑を浮かべ、万里にまた後でとだけ言うと、去って行った。
「ねえ、万里ッ! あのストーカーと知り合いなのっ?」
幸の質問に、万里も大和と同じ苦笑を浮かべてしまった。
「幸さん、あの方が大和さまですよ」
万里は幸を部屋に戻しながら、説明をした。
すると幸の顔はみるみるうちに真っ赤になり、怒りだした。
「お兄さまの嘘つきっ! なにが『大和はいい男になっている』よっ! 小さい頃と全然、変わってないじゃない! ううん、大きくなっている分、もっと質が悪いじゃない!」
訳が分からない万里と帝は顔を見合わせ、首を傾げた。
「あたし、あんな最低な男とは絶対お断りよ! 万里、すぐに日比谷の屋敷に帰るわよ! こんなところにもう、いたくないわっ!」
「え、しかしっ。幸さんっ」
「お兄さま、帰る!」
「え、あの、幸……?」
幸は万里の腕を痛いくらいの強さで掴み、歩き始めた。
「幸さんっ!」
「大切な万里をこんなところに置いておけないわ! あんな男と同じ空気を吸っているなんて考えただけで、虫酸が走るわ!」
万里は引きずられるようにして部屋を出て、幸は鼻息荒くどこかへ向かっている。
「幸さん、どちらに……?」
「帰るに決まってるでしょ!」
「あの……そちらは反対です」
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万里も帝も幸を止めることが出来ず、正面玄関に来ていた。
普段は裏口から出入りしているためにあまりなじみがなく、なんとなく居心地が悪い。
幸に引っ張られ万里はここまで来てしまったため、荷物はなにも持っていない。
部屋に置いたままの荷物は、幸が学校に行っている間に取りにくるしかなさそうだと諦めた。
大和と閏に挨拶をしておきたかったが、この様子では出来そうにない。隙を見つけて改めて挨拶にうかがおう。
幸に引っ張られるがままに万里は歩き、玄関へと向かった。
鹿鳴館の屋敷にいたのは、一か月と少し。ようやく馴染むことが出来たかなと思っていた矢先に、戻ることはないと出てきた日比谷家にこんな短期間で舞い戻るとは予想外だった。
それでも、閏の側からは離れがたい。
そんなことを思っていたからだろうか。万里は聞こえるはずのない声を聞いたような気がした。
「万里!」
聞きたいと思っていた声が、万里の名を呼んでいる。願望がついに幻聴になってしまったのだろうか。万里の足は自然に止まった。
「……万里?」
突然止まった万里をいぶかしそうな表情で幸は見上げている。
「万里、待て!」
先ほどより近くで聞きたかった声がする。それは間違いなく、閏のものだ。
しかし、今まで一度も名前を呼ばれたこともなかった。それに昨日、寝る前に閏にはお別れの挨拶をした。閏はなにも言わなかったということは、受け入れられたと思っていた。
幸が強く引っ張るが、万里は動けなかった。
「万里っ! 行きましょうよ」
幸にさらに強く引っ張られ、バランスが崩れた。よろめき、つんのめったところを後ろから強く引き寄せられた。
視界が反転して、身体をぎゅっときつく抱きしめられ、息が止まる。
ずっと欲していたぬくもりに、万里は戸惑う。
「万里、行くな」
今まで聞いたことがない、熱を帯びた声。
閏のぬくもりに万里は安堵を覚え、閏の身体に腕を回した。ずっと欲しかった、ぬくもり。
閏は少し身体を離すと熱い視線を万里に向け、頬を撫で、あごに触れた。
万里はじっと閏を見つめた。
閏の顔が近づき、唇に柔らかな感触。
万里の視界には、銀縁眼鏡の奥にまぶたが見えた。万里は目を閉じることを忘れ、閏のまつげをずっと見ていた。
どれくらいの間、唇を重ねていたのだろう。閏の顔が遠ざかり、ようやく万里は閏になにをされたのか分かり、真っ赤になった。
「万里、好きだ。さようならなんて言わないでほしい」
閏の言葉が信じられなくて、万里は閏の腕の中で首を振る。
「だって……閏さんは私のことを」
「違うんだ! 初めて会った時から、好きだったんだ。どうしようもなく惹かれて……」
閏の告白に、万里は瞬きをした。
「だけど、大和さまの婚約者かと思っていて、必死に忘れよう、諦めようと思っていた」
万里とまったく同じ心情だったと知り、ジッと閏を見つめた。
「大和さまから話が来たとき、なにかの間違いではないかと思った。式当日、やってきたのはやはりあの時の女性で……俺は激しく混乱した」
心臓が凍り付きそうな視線を思い出し、万里は閏のジャケットを握りしめた。
「キミは大和さま目当てで、俺は利用されているんだと……」
万里は無言で首を振り、閏を見上げた。
「閏さんに初めて会ったとき、大和さまだと勘違いをしてしまいました」
「よく言われるよ」
閏は苦笑していた。
「帝さまから話をいただいて、少しでも側にいられるならと思い、話を受けました」
「俺の側に?」
閏は首を傾げ、万里をじっと見つめている。万里はその視線を真っ直ぐに受け止め、返事をした。
「はい。閏さんのことを大和さまと思いこんでいた私は、少しでも側に行きたくて……」
閏は困った表情で万里を見た。
「それならば、最初にそう言ってくれれば」
閏は今までのことを思い出したのか、バツが悪そうな笑みを浮かべ、万里を見つめた。
「大和さまの命令で、仕方がなくと思っていましたから」
「話を貰ったときは確かにそうだった。でも写真を見て、なにかの間違いだと……」
「私たち、お互いにひどい勘違いをしていたんですね」
「そうだな。ボタンのかけ間違い、か」
顔を見合わせ、お互いに苦笑の笑みを浮かべた。
「私も初めてお会いした時から、好きでした」
耳まで真っ赤になりながら、ようやく万里は自分の気持ちを口に出来た。