《二十九》
ようやく事態が収拾したのは、土曜日から日曜日に日付が変わった頃だった。
幸は女性医師の手によって押さえられ、今は別室で寝ているところだ。
万里はその医師を捕まえ、こっそりと判定薬がないかと聞き、手に入れた。もしかしたら万里が使うと思われたかもしれないが、そう誤解してもらっておいた方がいいのでだれが使うとまでは言わないでおいた。
そして今は、幸の部屋の隣で大和と閏と万里の三人でぐったりと椅子に座り、お茶を飲んでいた。
「幸は相当、不安定になってるみたいだな」
「……はい」
万里は唇をかみしめ、俯いた。
万里が日比谷家からいなくなってから、幸はおかしくなったらしい。
「帝に懇願されたよ。万里ちゃんに戻ってきて欲しいって」
「え……あのっ」
万里は顔を上げ、大和と閏を見た。閏はいつも通りの表情を崩すことなく、お茶を口に含んでいた。大和は困ったように眉間にしわを寄せている。
「……困った、ね」
それきり、だれも口を開かない。お茶を飲み終わったのを見計らって、大和が立ち上がった。
「さて。もう遅いことだし、部屋に戻って寝るとしよう」
大和の一言に、万里はあくびをかみ殺せなかった。
「万里ちゃんが一番、疲れているよね」
「いえっ、すみませんっ」
「本当に色々と申し訳ない」
大和は頭を下げてきた。万里はそれを見て、慌てた。
「大和さまっ、やめてください!」
万里は大和に頭を下げられる覚えはない。むしろ、万里は責められる側だと思っている。
大和はゆっくりと頭を上げ、万里を見た。
「万里ちゃんは、どうしたい?」
大和は穏やかな表情で万里に質問をしてきた。
「私、ですか?」
「そう。オレは命令できる立場にいる。このまま残れといえば万里ちゃんはきっと、心にわだかまりを残しながらも従うだろう? でもそれは、万里ちゃんにとってよい選択とは言えない」
万里は大和の肩口を見つめて、言われた言葉を反芻した。
自分がどうしたいのか。大和はチャンスを与えてくれている。
万里はずっと、受け身だったような気がする。もちろん自分で考えて行動しなくてはならない場面が多かったのは確かだが、果たしてそれは、本当に自分で考えた結果、だったのだろうか。
「オレは万里ちゃんが考えた末に出した結果なら、なにも言わないよ」
このまま閏の側にいたい。
でも、あんな幸を見てしまった今、あのままで帰せない。幸が壊れてしまった責任を万里は感じていた。捨てないでと言われたのに、置いていってしまった。
万里は頭を軽く振り、顔をあげた。
「大和さま、また明日、幸さんと話をします」
「それでどうするんだ?」
「幸さんと今後のことを、話し合って決めます」
万里はまっすぐと大和を見て、口にした。
「……分かった」
大和はなにを思ったのだろう。悲しそうな笑みを浮かべ、うなずいただけだった。
万里と閏は無言で寝室に入り、いつものように両端に横になった。
万里は目を閉じて寝ようとするのだが、寝付けない。それは閏も同じようで、何度も寝返りを打っているようだ。
「閏さん」
万里は寝返りを打ち、閏に身体を向けた。閏は万里に背中を向けている。閏からは返事はないが、こちらに意識を向けている気配を感じたので続けた。
「先ほどはありがとうございました」
万里が助けを求めたとき、閏は助けてくれた。それに、幸が物を投げてきたとき、かばってくれた。今の万里には、それだけで充分だった。
冷たい態度を取っていながらも、閏は助けてくれた。
やはり側にいたい。そんな想いを強くしたのだが、しかし。
「幸さんのあんな姿を見たら、このまま一人で日比谷の家に戻すわけにはいかないと思うのです。ですから……その」
閏は相変わらず無言だが、万里は続けた。
「私も一緒に、日比谷の家に帰ろうかと思います」
「…………」
閏からはなにも返事がない。
万里のことを気に掛けてくれたり、気を利かせてコートを掛けたりしてくれたが、閏は万里のことをなんとも思っていないのだろう。そればかりか、もしかしたらいなくなって清々するとでも思われているのかもしれない。
万里はどうすればいいのか分からず、決めかねていた。
閏が大和のように引き止めの言葉を口にしてくれるとは思っていない。だが、万が一にも言ってくれるかもしれない。
もしも閏が引き止めてくれたら、ここに残ろう。
期待を胸に抱いて口にしたのだが、そんな甘い考えは閏にはお見通しなのだろう。予想通り、閏は無言だ。
胸が痛んだし、涙がこぼれそうになったが、万里は拳を握りしめ、口を開いた。
「今まで色々と、ありがとうございました。……さようなら」
万里はそれだけ言うと閏に背中を向けて、布団の中に潜り込んだ。そうしないと嗚咽が漏れてしまいそうだった。
万里は布団の中で唇をかみしめ、泣き声が洩れないように静かに泣いた。
閏の側にいると、辛いこともたくさんあった。それでもたまにもらえる優しさに支えられてきた。
少しずつだが歩み寄れてきたと思っていたのに、それは気のせいだったようだ。
出来ることなら閏の側にいたい。どんなに冷たい態度を取られても、万里は閏のことが好きだ。
そう、どんなに冷たくされても、閏のことが好きなのだ。
万里は改めて自分の気持ちを自覚した。
閏のことが、好き。離れたくない。
だが、閏はどうやら違うようなのだ。閏は万里の事を必要としてくれていない。好きな相手に嫌われてまで側にいたいと思えるほどの精神を、万里は持ち合わせていなかった。
それならば、必要としてくれている幸の側で、閏のことを想っていよう。
万里は心に決め、涙を拭った。
油断したらまた泣いてしまいそうだったので、瞳をきつく閉じた。
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いつも通りの朝が来て、万里は閏を起こさないようにこっそりとベッドから抜け出し、着替えてから幸のいる部屋へと向かった。
扉をノックすると、昨日の出来事が嘘だったかのようににこやかな笑みを浮かべた幸が出てきた。
「万里、おはようっ」
「おはようございます、幸さん」
万里ははれぼったい顔を気にしながら、幸に引かれるまま、部屋へと入った。
「今日は朝食を食べずに来ましたから、一緒に食べましょう」
「ほんとっ? うれしいわ」
にこにこと笑っている幸を見て、万里はほっとするものの、この均衡がまた崩れたらと思うといたたまれない。
楽しく朝食を食べ、落ち着いた頃、万里は意を決して話題を出すことにした。
「幸さん、確認しましょう」
「……なにを?」
万里は隠し持っていた検査薬を取りだし、幸の手にそっと置いた。幸はそれを見て、不思議そうに首を傾げている。
「……これは、なに?」
「使い方を読んで、試してみましょう」
万里の有無を言わせぬ態度に幸は不思議に思いながら、言われるがままに説明を読み、手洗いへと向かっていた。
万里はどきどきと幸が出てくるのを待っていた。
しかし、なかなか戻って来ない。手洗いの中で倒れているのかもしれないと心配して、ドアをノックした。
「う……そ」
中から幸のつぶやきが聞こえる。
「幸さんっ?」
戸惑いの声に万里は不安になり、扉を強く叩いた。
「だって……うそよっ! おかしいわっ」
「幸さん、開けてくださいっ!」
万里の声に扉が開き、幸が複雑な表情をして出てきた。手には検査薬が持たれている。
「幸さん……?」
幸は無言で万里に見せてきた。
陽性の場合、そこに青いラインが浮かぶはずなのだが、白いままだ。
「…………?」
万里は首を傾げ、もう一度見るのだが、やはり白のままだ。
「壊れてるのかな?」
検査結果が本当ならば、今のこの状況でなら喜ばしいのだが、なぜか幸は半信半疑だ。
「説明書に時期が早いと反応が出ない場合もあると書いてありましたから」
と万里は思わず、変なフォローをしてしまった。
「そ……うね」
いやここは、陰性で良かったですねと言うべきところだったのではないかと万里は思ったのだが、今更取り繕っても遅い。ので、万里は幸から一式を受け取り、片付けた。
「ところで幸さん。私、日比谷に戻ろうかと思うのですが」
まだ大和に言っていなかったが、寝る前の閏の態度を見て、万里はもう決めていた。
帝になんと言われようともやはり、幸の側から離れるべきではなかったと。
それに、万里はここにいるのが辛かった。普段は仕事で鹿鳴館の屋敷にいる時間は短いが、やはり風当たりがきついのは変わりがない。閏との関係もこれ以上、進展することがなさそうだ。むしろ、昨日のあのやりとりでもうダメだということがはっきりと分かった。
「だって、だんなさまはどうするの?」
「…………」
万里は視線を床に向け、すぐに幸を見た。
「大丈夫、です」
「そう? 万里が戻ってきてくれるのなら、歓迎だわっ」
幸はうれしそうにはしゃぎ、万里に飛びついた。
「早速、お兄さまに連絡しないとっ」
幸の喜ぶ顔を見て、万里はこれでいいのだと言い聞かせた。