《三十一》(完)
閏は万里を見つめ、髪を撫でる。その手が気持ち良くて、万里は自然に笑みを浮かべていた。
そこへ血相を変えた帝と大和が駆け寄ってきた。
「幸っ、待ちなさい!」
その声に万里と閏は幸へと視線を向けた。
幸は涙を浮かべて玄関に駆け寄り、外へ飛び出そうとしていた。
万里は慌てて閏の腕の中から抜け出し、幸を追いかけ、肩を掴まえた。
「幸さん、待ってくださいっ」
「嫌よっ! 万里まであの人と同じように、あたしを捨てるのねっ!」
幸は激しく抗い、万里はその勢いで飛ばされてしまった。
よろけて倒れそうになったところを、力強い腕に包み込まれた。ふと見ると、閏だった。
幸は万里を振り払い、体当たりするように玄関の扉にぶつかったが開かなかったため、何度も体当たりをはじめてしまった。
そこに大和が近づき、荒れ狂う幸の身体を抱きしめていた。
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閏と万里は今、大和の部屋に二人でいた。
暴れる幸は大和がどうにか押さえ、今は別室で帝がなだめているところだ。
大和は幸に思いっきり引っかかれて顔を傷だらけにしていたが、なぜか幸せそうだった。
「これから頑張って、お嬢さま猫を手懐けるよ」
万里が用意した濡れタオルで顔を押さえながら、大和はそんなことを言っている。万里と閏は顔を合わせて苦笑した。
「しかし、ようやくか」
大和の部屋は閏と万里の部屋よりもさらに広く、バルコニーまでついているようだ。しかも中庭を見ながら風呂に入ることも出来るらしい。
万里は物珍しく部屋を見回しながら、大和に視線を向けた。
大和は机に近寄り、引き出しから封筒を取り出して閏に渡した。
「……なんですか?」
「開けてみろ」
閏は封筒を開け、中から出て来た用紙を見て、大和に視線を向けた。
「おまえたちが勘違いしているのは、最初から分かっていた。でも、お互いに想い合っているのは、だれが見ても明らかだったからな。特に万里ちゃんは分かりやすかったな」
指摘され、万里は恥ずかしさのあまりに耳まで真っ赤になった。
「問題は閏、おまえだったよ」
「俺、ですか?」
大和は口角をあげ、楽しそうに口を開いた。
「好きな子に対して意地悪しまくるおまえはほんと、素直じゃないよなあ。昔の自分を見ているみたいで、正直、恥ずかしかったぞ」
大和の指摘に閏はあたふたと落ち着きをなくした。
今まで見てきた冷静沈着な閏とは思えない反応に、万里は目を丸くした。
「俺は、そんな……!」
大和はにやにやとした笑みを浮かべて、閏を見ている。
「万里ちゃんは健気に尽くしてるのに、閏はつっけんどんだし、こんな調子ではさすがの万里ちゃんでも愛想を尽かしそうだなと思っていたら……とうとう日比谷に戻ると言われて、オレは閏を恨んだぞ」
大和は大きくため息を吐き、それから閏と万里に視線を向けた。
「幸との見合いの日、オレは仕事で到着が遅れた。幸を待たせるのは悪いと思ったから、閏を先に行かせたんだが……その場に居合わせた者たちの話を聞き、これは使えるな、と」
万里は眉根を寄せ、大和を見た。
「幸は万里ちゃんに懐いているという。遠回りだが、万里ちゃんをこちらに取り込めば幸もついてくるかなあと思ってだな……」
万里と閏は思わす、顔を見合わす。
……もしかしなくても、利用された?
「しっかし、あそこまで幸が頑固だとは思わなかった! 帝が手を焼いているのがよく分かったよ。その幸を手懐けた万里ちゃんに、極意を教わりたいくらいだ」
でも、と大和は続ける。
「万里ちゃんのお陰で幸には会えたし、これから時間をかけて、口説いていくよ」
大和は濡れタオルをローテーブルの上に投げ出し、二人に向き合った。
「ということで、オレは自分のためにおまえたちを利用した。日比谷と鹿鳴館の絆うんぬんはまあ、おまえたちをくっつけるための方便だ」
大和は閏が握っている紙を指さした。
「それは式の前に書いてもらった婚姻届だ」
大和が提出しておくから預かると言っていたものが、なぜかまだ手元にあった。
「思いっきり私情で二人を巻き込んだのは申し訳ない。二人が誤解しているのは分かっていたんだが、どうすることも出来ないくらいに修復不可能になったとき、後腐れなく別れられるようにと思って、提出は控えていた」
閏は渡された婚姻届に視線を落とした。
「誤解が解けた今、それをどうするのか、二人で決めるといい」
閏と万里は複雑な気分で大和の部屋を辞して、隣の二人の部屋へと戻った。
数時間前、悲しい気持ちで出て行ったはずなのに、今は外の柔らかな日差しのおかげなのか、それとも閏と気持ちが通じ合ったからなのか、とてもすがすがしい気持ちになっていた。
「万里、今までのことを許してほしい」
「……今までのこと、ですか?」
万里は首を傾げ、申し訳なさそうな表情をしている閏を見上げた。
「俺は万里が大和さまのことを好きで、利用されていると思い込んでしまって、冷たく当たっていた。この屋敷の人たちの万里への扱いを知っていながら、好きな相手が側にいるのに届かないのならいっそ、早く日比谷の屋敷に戻って欲しいと思って……荷担していた」
閏はため息を吐き、首を振った。
「俺は本当に、愚かだった。真実を知って自分が傷つくのを恐れ、傷つけられる前に傷つけてしまえと」
閏の告白に、万里は笑みを浮かべた。
「私は閏さんの側にいられるだけで、幸せでしたから。ただ、私が側にいることで閏さんが苦痛を感じているのなら、それは申し訳ないなと。側にいることで好きな人が苦しむのなら、それならば私が必要だと言ってくれている幸さんのところに戻り、遠くから想っている方が迷惑にならないかと思いまして、昨日、お別れを言いました」
閏は恐る恐るといった様子で万里に近寄り、じっと万里を見つめた。万里も視線を上げ、閏を見つめる。
「万里、好きだ。……こんな俺だが、許してくれるか?」
「許すもなにも、私はまた側にいても、いいのですか」
「当たり前だろう。俺たちは夫婦なんだろう?」
閏は手を伸ばし、万里を抱き寄せた。万里は閏の身体に腕を回して、ずっと欲しかったぬくもりを逃さないようにしがみついた。
「今から婚姻届を出しに行って、やり直すとしようか」
万里はくすくすと笑い、閏の言葉を訂正した。
「やり直すもなにも、始まってもいませんよ。偽りのない素の私たちで始めましょうか」
万里が顔を上げると、閏は困ったような表情で万里を熱い視線で見つめていた。
「俺は偽った覚えはないが」
「私もありません」
二人は見つめ合い、それから笑い合った。
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閏と万里は二人で婚姻届を提出して、これで名実ともに晴れて夫婦となった。
鹿鳴館の二人の部屋に戻り、ひと息ついていた。万里は紅茶を飲み干し、意を決したように口を開いた。
「あの……大変申しあげにくいのですが」
閏は机に座り、書類の整理をしているようだった。万里の声に手を止め、視線を向ける。
「やはり幸さんをあのまま日比谷家に戻すわけにはいきませんから……その」
「ついていく、と言っているのか?」
「……はい。わがままを、許してくださいますか?」
閏は口角をあげ、射貫くような視線を万里に向けた。万里の心臓はどきりと跳ねた。
「許さない、と言ったら、どうする?」
閏は立ち上がり、ソファに座っている万里の前に移動した。万里は立ち上がろうとしたが、閏に肩を押さえられて、動けない。
「閏さん……?」
「大和さまが万里との結婚を急がせた理由、知っているか?」
鹿鳴館側の都合でとは聞いていたが、具体的な理由を知らない万里は、首を振った。
「俺の名前の由来、知っているか?」
「……いえ」
「今年は閏年だろう? 俺の本当の誕生日は二月二十九日なんだよ。だから閏と付けられた」
「え……あ、そうなんですかっ? それでは、数日で誕生……んんっ」
万里が言葉を最後まで口にする前に、閏は唇をふさいだ。
「ということで、万里。誕生日プレゼントをもらうぞ」
「え……あの、そのっ?」
閏は万里をソファから立ち上がらせ、抱きしめた。万里はそのぬくもりに安堵して、身体の力を抜いた途端、ふわりと宙に浮かび上がった。
「えっ?」
「続きはベッドで聞こうか」
「どっ、どういうっ」
閏は無言で万里を抱え、寝室へと消えた。
【終わり】