《二十八》
幸のためにと用意された部屋はゲストルームで、ホテルのような造りの室内だ。
部屋に入ってすぐに目に入るのは、淡いピンク色のカバーの掛かったダブルベッド。その前には少し空間があり、ふかふかのソファが据え置かれ、ローテーブルがセットされていた。
万里と幸は先ほどまでここで食事をしたり、お喋りをしていた。
そして今、幸はローテーブルをひっくり返し、ソファを投げ飛ばし、ベッドの上の布団を引きすり下ろしていた。
幸のどこにこんな力があるのだろう。
万里はどうすればいいのか分からず、唖然と見ていることしか出来ない。
幸はそれだけでは飽きたらず、ベッドに飛び乗り、マットレスをはがしはじめた。
「幸さんっ!」
さすがにこれ以上、物を壊すのはまずいと感じて止めようとしたが、投げつけられたシーツによって遮られた。
幸は反対側に降りてマットレスを持ち上げ、万里がいる側に倒そうとした。しかし、どうやら上手くいかなくて苦戦をしているようだ。
万里は投げつけられたシーツを引き剥がして幸の元へと行こうとしたが、足元はローテーブルに乗っていた食器が無惨にも砕かれ、歩くのも一苦労の状態だ。
「幸さん、落ち着いてください」
「いやあああっ!」
幸の金切り声に、万里の身体は強張った。
「やだやだやだっ!」
腹の底から絞り出すような声に、万里は首を振った。
「幸さん」
幸はマットレスを投げ出すと、棚に近寄った。そこには可愛らしい陶器の人形が飾られている。可愛いですねと幸と話をしたばかりだった。
幸は手短にあった人形を掴むと、壁に投げつけた。凄まじい音がして壁にぶつかり、床に落ちて割れた。万里にはその音が人形の悲鳴に聞こえた。
「幸さん、止めてっ!」
「……みんな、みんな、壊れてしまえばいいんだわっ!」
幸は手当たり次第、人形を手にとっては投げていく。
万里は足元を気をつけながら抜け出し、幸の側へとたどり着いた。
「近寄らないで」
「幸さん、人形が可哀想です、止めて……」
「あたしは可哀想じゃないっていうのっ?」
幸は手に持っていた人形を床に投げつけた。
「お父さまもお母さまも、あたしを置いて行ってしまった。お兄さまだって、お仕事が忙しいって、あたしのこと、全然構ってくれないっ!」
「幸さん……」
幸が淋しがり屋なのは分かっていた。だからこそ帝は万里を雇ったのだろう。その万里を、帝は遠ざけた。
「酷いっ! あたしはっ!」
幸は両腕を振り、棚に飾られた人形を床に叩き落とした。耳が痛くなるほどの音。部屋の外にまで響いていそうだ。
棚の上に物がなくなると、今度は置かれている観葉植物の元へ行き、鉢ごとひっくり返していた。薄紅色の絨毯に土が散乱してしまった。
「幸さん……」
万里は幸を見ているのが辛くなってきた。
この幸を思うがまま、暴れさせておいていいのだろうか。事態を収拾しなくてはいけないと万里はようやくそこに至った。しかし、一人ではこれは無理だ。
誰かに助けを求めよう。
万里は唇をかみしめ、心に一人の男性を思い浮かべた。
拳を握りしめ、意を決して扉へと向かった。
幸はカーテンに手を掛け、引っ張っている。
万里は扉を開けた。
「万里、どこに行くのっ!」
幸は万里が部屋を出て行くと思ったのだろう。カーテンから手を離し、駆け寄ってこようとした。しかし、足下は散乱していて、まっすぐに進めない。
「閏さん、助けてくださいっ!」
万里は廊下に向かい、叫んだ。
この部屋から二人の部屋はそれほど離れてはいないが、声が聞こえるとは思えない。それでも、万里は声のあらん限り、叫んだ。
「閏さんっ、助けてっ!」
偶然か、万里の願いが届いたのか。
部屋の扉が開き、閏が出てきた。
「閏さんっ」
無視されてしまうかもしれない。それでも万里は必死に叫んだ。
「助けてっ」
万里の必死の形相を見て、閏はなにかがあったと気がついたようだ。すぐに駆け寄ってきた。
「どうした」
閏が来てくれたことで万里はほっとして、身体から力が抜けそうになった。しかし、ここで気を抜くわけにはいかない。
万里は後退して閏に部屋の中を見せた。
「……これは」
部屋の中の惨状を見て、閏の顔色が変わった。
「どうした、なんでこんなことに」
「その……」
「万里、行かないで!」
幸は散乱した部屋の真ん中で、叫んでいた。
服も髪も乱れ、手には引き裂いたカーテンが握られている。
それを見て、閏はすべてを悟ったようだ。閏は万里をまっすぐに見つめた。
「分かった。常駐している医師を連れてくる。キミはそれまで、がんばれるか?」
「……はい」
また幸と二人になるのは不安だったが、しっかりと万里に向き合ってくれている閏を見て、うなずいた。
万里が伸ばした助けの手を、閏が取ってくれた。
それだけでもう少し、がんばれるような気がした。
「すぐに戻る。それまで耐えるんだ」
閏はそれだけ告げると、部屋を離れた。
「幸さん、落ち着いてください。私はここにいますから」
「嘘よ! だって万里は、あたしよりもあの人を取ったじゃない!」
幸の言葉に万里はなにも言い返せない。
幸のためと言いながら、万里は閏を取った。
幸のためを思うのなら、万里は幸の側を離れるべきではなかったのだ。
「みんな、みんな、嘘つきよ! 万里も、あの人も、お兄さまも! お父さまも、お母さまも! みんな、嫌いッ! 大っ嫌い!」
おさまったと思っていた幸の激情が、再燃したようだ。
手に持っているカーテンを振り回し始めた。
万里と幸の間はそれなりに距離はあるため、万里には被害は及んでいないが、幸の心情を思うと、心が痛む。
「あたしのためにって! あたしを言い訳に使わないで!」
幸はカーテンの切れ端を地面に叩きつけている。
万里は動くことが出来ず、ただ扉の前で佇んでいることしか出来なかった。
閏が医師を呼んでくると言って、どれだけ経っただろうか。
幸は相変わらず、カーテンを振り回している。万里は見守っているだけだ。
扉がノックされ、少し開いた。万里がそちらに視線を向けると、閏とともに白衣を着た女性が立っていた。
「幸さまの場合、女性がいいと思って、彼女を連れて来た」
「こんばんは。あら、大変なことになってるわね」
部屋の様子を見て、女性は苦笑している。
「こんばんは」
女性は扉越しに幸に対して挨拶をしていた。幸は気がつき、暴れることを止めて、万里たちへ視線を向けてきた。
「少しお話をさせていただいても、いいかしら?」
人懐っこい笑みを浮かべ、女性は幸に語りかけた。
しかし、幸は首を振り、手短にあった破片を投げつけてきた。それはまっすぐに万里へと向かって来た。万里は驚き、腕を上げて顔をかばった。
空気が動く気配がして、だれかに覆い被さられたのが分かった。
鈍い音がしたが、万里には痛みがない。不思議に思いながら顔を上げると、目の前に閏の胸元が見えた。
「おまえは大切な人を傷つける気なのか」
閏の低い声に幸はひいっと悲鳴を上げ、手に持っていたカーテンを投げ出し、その場に崩れ落ちた。
「幸さん!」
万里は幸へと駆け寄ろうとしたが、閏に阻止された。見上げると、閏は予想以上に険しい表情をして、幸を睨んでいた。